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処刑待ちの悪名令嬢ですが、冷酷皇帝に「ずっと探していた」と抱きしめられました  作者: しげみちみり


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第6話 皇帝の悪評と真実

 契約書に名前を書いた夜は、あまりよく眠れなかった。


 枕は柔らかくて、シーツもきちんと洗い立ての匂いがしたのに、目を閉じると、あの紙の上に並んだ文字ばかりが浮かんでしまう。


 皇帝の婚約者。


 そう呼ばれる立場になったことも。


 真実が明らかになったら、わたしに婚約の継続か解消かを選ぶ権利があることも。


 どれも現実味が薄くて、夢を見ているみたいだった。


 それでも、朝はちゃんと来る。


 窓から差し込む光で目を覚ますと、ミーナがいつの間にか部屋に入っていて、カーテンを半分開けていた。


「おはようございます、アリア様」


「おはよう、ミーナ」


「昨夜は、よく眠れましたか」


「……まあ、その。普通くらいに」


 曖昧に笑うと、ミーナは「ですよね」と小さく頷いた。


「陛下の執務室に呼ばれたと聞きましたから。

 初日にあれだけ大事なお話が続くと、さすがにお疲れになると思います」


「少し、考えごとをしすぎたかもしれません」


「そういう時は、おいしい朝ご飯に限ります」


 ミーナは明るく言って、テーブルの上に用意された朝食の銀の蓋を一つずつ開けていく。


 焼きたてのパンと、ふわふわの卵。

 ハーブの香りがするスープ。


 伯爵家で食べていたものより、ずっと素朴なのに、何倍もおいしそうに見えた。


「アリア様、今日は午前中は特にご予定がないそうです。

 もしよろしければ、城の中庭を少しお散歩してみませんか」


「散歩」


「はい。城の外はまだ難しいですが、中庭なら警護の者もおりますし、空気もきれいです」


 差し出されたパンをちぎりながら、窓の外に目を向ける。


 昨日の夕方に見た庭が、朝の光の中で一段と鮮やかになっていた。


 低い灌木と、色とりどりの花。

 小さな噴水からは、水しぶきが細かく上がっている。


「……行ってみたいです」


 自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。


 何もかもが変わってしまった日々の中で、少しだけでも外の空気を吸いたかった。


 朝食を終えて外に出ると、空気はひんやりしていて、肺の中まで冷たさが落ちてきた。


 けれど、それが心地いい。


「帝都の朝は、王都より少し冷える気がします」


「海からの風のせいかもしれませんね」


 ミーナはわたしの肩に、薄いストールをかけてくれた。


「でも、その代わり、夏は王都ほど暑くならないんですよ。

 ほら、あそこ。見えますか」


 ミーナが指差した先に、小さな屋根がいくつか並んでいた。

 城の外壁の向こう側、街の一角だろう。


 遠くて細かいところまでは見えないけれど、尖った屋根と低い屋根が混ざっているのが分かる。


「あれは?」


「帝都で一番古い孤児院です。

 陛下がご即位なさる前からある場所ですが、今は陛下が費用の多くを負担しておられます」


「孤児院……」


 聞き慣れた言葉なのに、少し胸がつまる。


「帝国には、孤児院が多いんですか」


「そうですね。他国に比べると、多い方かもしれません。

 陛下は新しい孤児院を建てることに、とても熱心でいらっしゃいますから」


「熱心」


 ミーナはうなずいて、少し歩く速度を落とした。


「よく、『血も涙もない征服王』と噂されているのは、ご存じですよね」


 王都で嫌というほど聞かされてきた二つ名だ。


 わたしは頷く。


「大陸統一戦争で、他国の反逆貴族を徹底的に討ったとか。

 降伏した街でも、反乱の芽があると見なせば容赦なく焼き払ったとか」


 伯爵家の食卓で、義母たちはそう噂話をしていた。


 帝国皇帝は恐ろしい。

 王国が逆らえば、あっという間に滅ぼされる。


「たしかに、戦場での陛下は厳しかったそうです」


 ミーナは、否定しなかった。


「降伏した者を許す時と、許さない時の線引きも、冷酷に見えたと聞きます。

 叛逆者の首を並べた城門を見て、震え上がった兵士も大勢いたって」


 言葉だけ聞けば、王都で聞かされた噂と同じだ。


 けれど、ミーナの口調には、恐怖だけではないものが含まれていた。


「でも」


 彼女はそこで言葉を切り、少しだけ笑った。


「陛下が本当に血も涙もない方なら、きっと、ああはならなかったと思うんです」


「ああ?」


「帝都の税が下がったのは、陛下が即位なさって三年目のことです。

 戦で荒れた地方の税も、順番に減らされていきました」


 ミーナは、花壇の前で足を止める。

 小さな白い花が一面に咲いていた。


「他の国では、戦の後に必ず税が上がったそうです。

 軍費の穴埋めのために、民が苦しむのは仕方ない、と」


 王都でも、そう聞かされていた。

 だからこそ伯爵家では、「帝国の民はもっと苦しんでいる」と言い訳にしていたのだ。


「でも陛下は、『民から搾り取った金で、誰のための国を守るんだ』とおっしゃったそうです」


「……それは」


「戦で傷ついた土地を立て直すには、まずその土地の人たちが立ち上がれるようにしないといけない。

 そう考えておられるからだと思います」


 ミーナは、花を一輪、指でそっと撫でた。


「孤児院も、そのひとつです。

 戦で親を亡くした子どもたちが、行き場をなくさないように」


 孤児院。

 戦で親を亡くした子ども。


 遠い話ではない気がした。


「陛下は、孤児院を建てると聞くと、必ず自分で設計図に目を通されるそうです。

 どこに窓をつけるか、どうやって風を通すか。

 庭にどれくらいの広さをとるかまで」


「そこまで」


「はい。

 正直、周りの方々が止めるくらいには、こだわっていらっしゃいます」


 ミーナは少し困ったように笑った。


「『陛下、もっと他にやるべきことが』って重臣の方が言っても、『子どもの寝る場所を他人任せにはできん』って聞かないそうですよ」


 想像して、少し笑ってしまう。

 血も涙もない征服王が、孤児院の窓の位置に頭を悩ませている姿。


「でも、それを、皆さんは知っているんですか」


「帝都の人たちは、噂という形で少しずつ。

 他国の人たちは、きっと、あまり知らないでしょうね」


 ミーナは肩をすくめる。


「派手な戦の話の方が、人の口に上りやすいですから。

 地味な善政は、わざわざ遠くまで届きません」


 一部だけ切り取られて、広がっている姿。


 自分のことを言われているみたいだった。


「アリア様も、そうではありませんか」


「わたしも?」


「悪名令嬢だとか、処刑待ちの女だとか。

 でも、それを信じていない人も、ちゃんといると思います」


 ミーナは、まっすぐにわたしを見た。


「昨日、港から城までご一緒しましたよね。

 アリア様がきちんと前を向いて歩いていらしたのを見て、噂とは違うと気づいた人も、絶対にいます」


 胸の奥で、小さな灯がともる。

 昨日の街のざわめきが、少し違う響きで思い出された。


「……そうだといいですね」


「そうですよ」


 ミーナは、自信たっぷりに頷いた。


「噂だけを見て判断する人もいれば、自分の目で見て決める人もいます。

 陛下も、たぶん後者なんだと思います」


「陛下が」


「だって、噂だけを信じる人なら、処刑台でアリア様を見つけても、あんなふうには動きません」


 たしかにそうだ。


 血も涙もない征服王なら、わざわざ他国の処刑に介入して、自分の評判を落とすような真似はしないだろう。


 あの時の彼は、評判や政治よりも、別の何かを優先していた。


「……陛下は、帝都の人たちにとっては、どんな方なんですか」


 前から気になっていたことを、口にしてみる。


「怖い存在、ですか」


「怖い、というより。

 近寄りがたい、でしょうか」


 ミーナは少し首をかしげて考え込んだ。


「たしかに、陛下はあまり笑われません。

 それに、やると決めたことは絶対に曲げない方です」


「それは、怖いと言えば怖いですね」


「でも、理不尽なことをしたりはなさいません。

 怒り方も、とても、筋が通っています」


 彼女は、少し小さな声を出した。


「例えば、以前、貴族の一人が孤児院への寄付金を着服していたことがあって」


「寄付金を」


 思わず眉をひそめる。

 子どもたちのためのお金を、自分のために盗むなんて。


「その方は、言い訳ばかりなさっていました。

 『元は自分の家の税から出たものだから、少しくらい戻ってきてもいいだろう』って」


 ミーナは、静かに続ける。


「その時の陛下の言葉が、忘れられません」


「何とおっしゃったんですか」


「『税はお前の金ではない。民が流した汗の形を変えたものだ』って」


 わたしの胸に、その言葉がすとんと落ちてきた。


「『汗を盗み、子どもの口からパンを奪う者を、帝国は貴族とは認めない』って。

 そして、その方を爵位ごと取り上げて、二度と政治に関われないようにしたそうです」


「……厳しいですね」


「でも、そのおかげで、他に似たようなことをする人はいなくなりました」


 ミーナは、花壇から少し離れて歩きながら言う。


「怖いといえば怖いです。

 でも、その怖さは、守られる側にとっては安心でもあります」


 血も涙もない征服王。


 その言葉の裏側に、こういう顔もあるのだと知る。


「陛下が孤児院にこだわる理由は、何かご存じですか」


 ふと、気になって聞いてみた。


 ミーナは、少しだけ言いにくそうに視線をそらした。


「詳しいことは、わたしたち下々には分かりません。

 でも、十年前に、何か大きなことがあったらしい、という話は聞いています」


「十年前」


 また、その数字。


 わたしが伯爵家に引き取られた年。

 母を失った年。


「『あの火』、と皆さん言います」


 ミーナは、声を落とした。


「陛下がまだ皇太子でいらした頃、どこかの国で、大きな火事があったそうです。

 その日を境に、陛下はほとんど笑わなくなったって」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 十年前の火事。

 笑わなくなった皇太子。


「どこの国で、とは聞いていません。

 ただ、『あの火から帰ってきた陛下は、戦い方が変わった』と」


「戦い方が」


「それまでは、武勲を立てることを周りが期待していたそうです。

 でも、その後は、民の被害をできるだけ小さくするように、戦場を選ぶようになられたとか」


 ミーナは、遠くを見るような目で続ける。


「それと同じくらいの時期から、孤児院の建設にこだわるようになられたそうです。

 『二度と、行き場をなくす子どもを出したくない』って」


 その言葉に、足が止まった。


 行き場をなくす子ども。


 わたしも、そうだった。

 母を失い、家を失い、どこにも居場所がないと思っていた。


「……陛下も」


 気がつくと、小さくつぶやいていた。


「陛下も、どこかで、誰かを守れなかったことがあるんでしょうか」


「分かりません」


 ミーナは、首を振る。


「でも、陛下が子どもたちを見る目は、とても優しいんです。

 孤児院を訪れた時の陛下を見たことがある人は、皆さんそう言います」


 優しい目で子どもを見る皇帝。

 その姿を想像すると、王都で聞かされた「血も涙もない征服王」とは、まるで違う輪郭が浮かび上がる。


「アリア様」


「はい」


「よろしければ、少し回り道をしてもいいですか。

 中庭の端の方から、孤児院の紋章がよく見える場所があるんです」


 ミーナの提案に、わたしは頷いた。


 中庭の石畳を斜めに横切って、城壁の近くまで歩いていく。

 そこには、少し高くなった展望台のような場所があった。


「ここです」


 ミーナに促されて、わたしは石の手すりに手を置いた。


 遠くに見える孤児院の屋根。その中央に、小さな旗のようなものが翻っているのが見える。


 薄い色だが、そこにはっきりと紋章が描かれていた。


 円の中に、斜めに走る二本の線と、小さな雫のような模様。


 見慣れた形だった。


 胸のあたりがざわつく。

 思わず、ペンダントを握りしめる。


 服の襟をほんの少しだけ下げて、銀の飾りを指で押し出した。


 そこに刻まれた紋章。


 円の中に、斜めに走る二本の線と、小さな雫。


「……同じ?」


 呟いた声が、風にさらわれる。


 孤児院の屋根に掲げられた紋章と、わたしのペンダントの紋章。

 肉眼で見るには遠すぎるはずなのに、形がきれいに重なって見えた。


「どうかなさいましたか」


「いえ……」


 ペンダントを服の中に戻しながら、なんとか笑ってみせる。


「孤児院の紋章、とても綺麗だなって」


「そうですね。

 『雨上がりの印』と呼ばれているそうです」


「雨上がりの、印」


 ミーナはうなずいた。


「辛いことや悲しいことがあった後でも、いつかは空が晴れるって。

 陛下がその意味を込めて、孤児院に掲げる紋章に選ばれたそうですよ」


 胸元が、じんと熱くなる。


 母の形見のペンダント。

 孤児院の紋章の由来。


 聞けば聞くほど、偶然とは思えなかった。


「雨上がりかどうかは、まだ分かりませんけれど」


 わたしは、空を見上げた。


 帝都の空は、澄んでいた。

 遠くに薄い雲が浮かんでいるけれど、今にも晴れ渡りそうだ。


「少なくとも、わたしは雨の中で立ち尽くしているだけではないのかもしれませんね」


 気がつくと、そんな言葉が口からこぼれていた。


 ミーナは、少し驚いたように目を瞬き、それから明るく笑った。


「はい。

 アリア様は、ちゃんと前を向いて歩いていらっしゃいますから」


 血も涙もない征服王。

 悪名令嬢。


 どちらも、一面から見た呼び名にすぎないのかもしれない。


 人は、見えるところだけを切り取って、都合のいい名前をつける。

 その方が、分かりやすくて安心だから。


 でも、本当は。


 もっと不器用で、もっと傷つきやすくて、もっと優しい部分が、それぞれの中に隠れているのかもしれない。


「陛下のことを、もう少し知りたいと思いました」


 自分でも驚くほど素直に、そう思った。


 わたしを処刑台から救い出した理由だけではなく。

 十年前の炎の夜に、彼が何を見て、何を失ったのか。


 それを知ることが、真実を知る一部になる気がしたからだ。


 わたしと同じように、彼もまた、一部だけを語られている存在なのだとしたら。


 その続きを一緒に見てみたいと思うのは、きっと間違いではない。

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