第5話 契約婚約と条件
その日、わたしは二度目の呼び出しを受けた。
夕食のあと、くつろぐ間もなく、ミーナが少し緊張した顔で部屋にやって来たのだ。
「アリア様。
陛下がお呼びです。執務室までご案内するようにとのことで」
「執務室……ですか」
「はい。とても大事なお話だと思います」
ミーナはそう言って、心配そうにわたしのドレスの袖を整えてくれた。
制服のようなシンプルなドレスだが、しわ一つないようにと何度もなでてくれる。
「大丈夫ですよ。アリア様はとても綺麗ですから」
「そんなこと」
「本当です。胸を張ってください」
ミーナに背中を押されるようにして、わたしは廊下へ出た。
夕方の光はすでに消えかけていて、代わりに壁のランプが柔らかく灯っている。
昼とは違う静けさが、城の中を満たしていた。
渡り廊下を抜け、本館の奥へ進む。
重厚な扉の前で、近衛兵が二人、直立不動の姿勢で立っていた。
彼らはミーナを見ると、小さくうなずく。
「ご足労をおかけします。陛下がお待ちです」
扉がゆっくりと開いた。
中は、思っていたよりも質素だった。
大きな机と、本棚。
地図の広げられた丸テーブル。
壁にはいくつかの剣と、帝国の紋章が掲げられている。
書類の山を前にして、レオンハルトが椅子に腰かけていた。
机に寄り掛かるようにペンを握り、署名を終えたところらしい。
彼はわたしに気づくと、すぐに立ち上がった。
「遅い時間に呼び出してすまない。
座ってくれ」
机の前に置かれたソファを指し示される。
深く腰かけると、背筋を正したつもりでも、少し心細くなった。
「今日、城の中を歩いてみてどうだった」
「……とても広くて、迷子になりそうでした」
正直な感想を言うと、レオンハルトはわずかに笑った。
「迷子になった時は、近くの兵を捕まえれば案内するよう伝えてある」
「そこまでしていただかなくても」
「婚約者を城の中で迷わせる皇帝がいるとしたら、笑い話にもならない」
落ち着いた声だが、冗談めいた響きもほんの少し混ざっている。
思わず、緊張が和らいだ。
「さて、本題に入ろう」
レオンハルトは机に戻ると、一枚の紙束を手に取った。
厚手の紙に、細かい文字がぎっしりと並んでいる。
あまりの量に、目がくらみそうになった。
「これは、婚約契約書だ」
「……こんなに、たくさん書くことがあるんですね」
「帝国と王国の間で交わされる書類は、どうしても長くなる。
だが、君に関わる部分は、できるだけ分かりやすくしてあるつもりだ」
レオンハルトは、わたしの方へ紙束を差し出した。
受け取ると、ずしりと重さを感じる。
「大まかな内容を説明する」
彼はわたしの斜め前に腰かけ、机の角を軽く指でたたいた。
「表向き、この婚約は『帝国と王国の同盟を象徴する婚約』ということになっている。
処刑寸前だった伯爵令嬢を、帝国皇帝が救い、婚約者として迎え入れたことで、両国の対立を和らげる……という建前だ」
「建前、ですか」
「ああ。
実際には、王国との同盟はとっくに形骸化している。
君を利用してそれを立て直すつもりは、今のところない」
はっきりと言い切る口調だった。
そこには、王国王家への冷ややかな感情が隠しきれないほどににじんでいる。
「では、実際の目的は」
「君の保護と、真相の究明だ」
レオンハルトは、迷いなく続けた。
「君が冤罪であることは、すでに帝国側ではほぼ確定している。
ただ、なぜ君が罪人に仕立て上げられたのか、その裏にある意図まではまだ見えていない」
「それを、調べるために」
「そうだ。
君を守りながら、王国王家と伯爵家の動き、十年前の出来事を洗い直す。
そのための立場として、皇帝の婚約者という身分が、最も都合がいい」
分かりやすい説明だった。
わたしのためだけではない。
帝国としても、真実を知る必要があるのだろう。
「もちろん、君の意志を確認せずに話を進めるつもりはない」
レオンハルトは紙束の数枚をめくり、ある箇所に指を置いた。
「ここに、君に関わる条件が記されている。
読み上げようか」
「自分で、読んでみます」
伯爵家の書庫で、こっそり本を読み漁った日々が役に立っている。
小さな字にも、何とかついていけた。
婚約契約書の内容は、大きく三つに分けられていた。
一つは、帝国とアリア・フォン・リース個人の関係について。
一つは、皇帝の婚約者としての役割と権利について。
最後の一つは、真相究明に関する取り決めだった。
「……わたしは、『帝国皇帝レオンハルトの婚約者』として、この城で暮らすこと。
身の安全は帝国が保障し、その代わり、勝手な外出や王国との直接交渉は許されない」
「最低限の条件だ。
君に害が及ばぬためでもある」
「婚約者としての務めは、公式の場で共に出席し、帝国の顔として恥じない振る舞いをすること。
政に口を出す必要はなく、強制されることもない」
「もし君が望むなら、政に関わることもできるが、今はそこまでは求めない」
淡々としたやりとりの中で、ふと胸の奥が少し軽くなる。
政治に利用するためだけの婚約ではないのだと、少しだけ実感できた。
「真相究明については……」
そこを読み進めたとき、わたしは指を止めた。
「『アリア・フォン・リースおよびその父の罪状について、帝国は独自に調査を行う』。
『王国からの妨害に対しては、必要な防衛措置をとる』。
『真実が明らかになったのち、帝国はその結果をもとに王国に対し裁きを求めることができる』」
裁き。
それは、復讐と似て非なるもの。
けれど、このままでは、どこかで同じ道に繋がりかねない。
「……わたしから、も条件を出してもいいでしょうか」
顔を上げると、レオンハルトが静かにわたしを見ていた。
「聞こう」
「一つは、わたしの父と家の真相を、できる限り明らかにしてほしいこと」
言葉にするだけでも、胸が痛んだ。
伯爵家は、たしかに多くの人から恨まれていた。
父がどれだけのことをしてきたのか、わたしは知らない。
「父が本当に何をしたのか。
わたしがどこまで、それに関わっていたのか。
誰が、何のためにわたしをスケープゴートにしたのか」
それを、はっきり知りたかった。
怖くても、知りたい。
「……分かった。
それは、もともとこちらもやるつもりだったことだ」
レオンハルトはうなずく。
「帝国の諜報網を使って、できる限り正確な情報を集める。
真相を知る権利は、君自身にある」
「もう一つ、あります」
わたしは、胸元のペンダントを指先でつまんだ。
母の形見が、小さく揺れる。
「どれほどひどいことが分かったとしても。
帝国が王国に対して復讐をするための口実として、わたしを使わないでください」
レオンハルトの瞳が、わずかに細くなった。
その奥に、鋭い怒りの色がちらりと見える。
「君は、王国に恨みを持っていないのか」
「持っていると思います」
正直に答えた。
嘘をつける相手ではない。
「王国がわたしを切り捨てたこと。
伯爵家がわたしを罪人に仕立て上げたこと。
許せないと思っています」
それでも、と言葉を重ねる。
「でも、だからといって、この国とあの国が戦うきっかけにされるのは、もっと嫌です。
わたし一人のために、人が大勢死ぬかもしれないなんて、耐えられません」
小さな肩の上に、あまりにも大きなものを乗せられる気がする。
そんな未来を想像するだけで、息が詰まった。
「それは、君が決めることではない」
レオンハルトの声は、先ほどよりも硬かった。
「国の行く末は、皇帝と民が決めるものだ。
一人の少女の感情だけで左右されるべきではない」
「そう、かもしれません」
その通りだと思う。
でも、わたしにも譲れないものがあった。
「それでも、わたしは自分のことで人が死ぬのを望みません」
視線をそらさずに言うと、レオンハルトは腕を組んだ。
しばらく沈黙が落ちる。
執務室の中に、紙の擦れる音と、外を吹く風の音だけが響いた。
やがて、レオンハルトは小さく息を吐いた。
「……分かった」
低い声だった。
「君が望む限り、帝国として『復讐』を掲げることはしない」
「本当ですか」
「俺が皇帝でいるうちは、戦の大義名分に君の名を使わないと約束しよう」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
けれど彼は続ける。
「ただし、勘違いしてはいけない」
「勘違い、ですか」
「罪なき者を処刑台に立たせた者たちを、何もせず見過ごすつもりはない。
それは復讐ではなく、裁きだ」
レオンハルトの瞳が、冷たい光を帯びる。
王国王家に向けた怒りが、そこにはっきりと宿っていた。
「君の父が、本当に反逆者だったのか。
王妃と王太子が、どこまでそれに関わっていたのか。
十年前の炎の夜に、何があったのか」
一つ一つ、ゆっくりと言葉にしていく。
「それらを明らかにした上で、相応の裁きを受けさせる。
それは、君のためだけではなく、この大陸のためでもある」
真っ直ぐな視線に、思わず息を飲んだ。
皇帝としての顔と、一人の人間としての怒りが、そこに重なっている。
「アリア。
君は何を望む」
静かな問いかけ。
復讐ではなく、裁きを。
そう彼は言った。
わたしは、自分の喉が少し震えているのを自覚しながら、言葉を選んだ。
「わたしは」
愛という言葉が、ふと頭をかすめる。
婚約者として迎えられて、ひどく甘美な響きを持つ言葉。
けれど、それを求めるのは、あまりにも早すぎる。
「愛ではなく、真実だけをください」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。
レオンハルトが、わずかに目を見開く。
「もし、いつかここで暮らすうちに、何かが変わることがあったとしても。
今、わたしが必要としているのは、情ではありません」
自分の声が、思ったよりもしっかりと響いた。
「父が何をして。
わたしが何者で。
あなたがどうして、わたしを知っているみたいに話すのか」
胸の奥に溜まっていた疑問を一つ一つ並べる。
「その答えが欲しいんです。
真実だけを、惜しみなく見せてください」
しばらくの間、レオンハルトは何も言わなかった。
やがて彼は、ふっと苦笑する。
「……厳しいな」
「厳しいでしょうか」
「愛を乞われる方が、よほど易しい」
その言葉に、顔が一気に熱くなった。
そんなつもりで言ったわけではなかったのに。
「だが、いい」
レオンハルトは真剣な表情に戻る。
「真実を、君と俺が一緒に見る。
そのための婚約だ」
そう言うと、彼はペンを取り、契約書の余白にさらさらと文字を書き加えた。
わたしは、それを覗き込む。
「……『真実が明らかになったとき、アリア・フォン・リースは、婚約の継続または解消を選ぶ権利を持つ』」
レオンハルトの署名の下に、小さな一文が増えていた。
「これは」
「君の条件への、俺なりの返事だ」
レオンハルトはペンを置く。
「真相を知った時、君が俺を嫌いになる可能性もある。
帝国を、王国以上に憎むことになるかもしれない」
「そんな」
「あり得ない話ではない。
だから、その時は、君が望むなら婚約を解消していい」
あまりにもあっさりと言われて、胸が痛んだ。
「俺は皇帝だ。
君の全てを求める権利も持たないし、押しつけるつもりもない」
彼は、まっすぐにわたしを見る。
「真実を知った上で、なお俺の隣に立つかどうかを決めるのは、君自身だ」
丁寧で、残酷なほど、誠実な言葉。
「そんな条文、入れなくても」
「入れておく」
レオンハルトは微笑んだ。
ほんの少し、寂しそうな色をにじませながら。
「その方が、君は少しだけ安心してここにいられるだろう」
胸がきゅっと締めつけられる。
守られているのだと、嫌でも分かってしまう。
甘さではなく、筋の通った優しさで。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで、それだけは言えた。
「では、署名を」
レオンハルトが、ペンを差し出す。
わたしは深く息を吸い、紙の上に名前を書いた。
アリア・フォン・リース。
震える手で、しかし一画ずつ丁寧に。
ペン先が紙から離れた瞬間、新しい鎖がはまったような感覚と、どこかで枷が外れたような感覚が同時に訪れた。
「これで、契約は成立だ」
レオンハルトの署名が、その隣に添えられる。
皇帝と、悪名令嬢だった女の名。
「ようこそ、俺の婚約者」
落ち着いた声でそう言われ、顔が熱くなる。
「……形式上、ですよね」
「今のところは、な」
穏やかな冗談に、思わず笑ってしまう。
この日、わたしたちは、甘い約束ではなく理性的な契約で結ばれた。
けれど、紙の上の文字以上に、確かなものがたしかに生まれていた。
それが何なのかを知るのは、もう少し先のことになる。




