第4話 悪名令嬢の素顔
帝国の首都は、思っていたよりもずっと明るかった。
軍船が港に入るころには、空は淡いオレンジ色に染まっていた。
高い城壁と、ぎっしり並んだ屋根。
石畳の道には人があふれていて、船が近づくと同時に、一斉にこちらを見上げる。
「帝国だ……」
思わず小さくつぶやくと、隣に立っていたライナルトがちらりとこちらを見た。
「怖いですか」
「少しだけ」
「それは当然です。
けれど、少なくともこの港には、あなたを処刑しようとする者はいません」
当たり前のことを言われたはずなのに、胸の奥が少し軽くなる。
港に立つ兵士たちは規律正しく整列し、人々はその後ろからこちらを眺めていた。
「ねえ、あれが」
「噂の……」
「処刑台から連れ去られた令嬢だって」
ひそひそとした声が、風に乗って届く。
分かるはずのない距離なのに、耳だけが妙に敏感になっている。
「陛下が膝をつかれたって、本当かしら」
「そんな話、聞いたことないぞ」
「本当だったら、どれほどの方なんだろう」
わたしのことを、好奇心と不安とで見ている。
王都で向けられてきた視線と、どこか似ているけれど、どこか違う。
そこへ、赤い外套が視界の端に入った。
「行くぞ」
レオンハルトが短く言う。
港に降りた彼は、当然のように先頭に立ち、その斜め後ろにわたしが続き、さらに周囲を近衛たちが囲んだ。
港から城へ続く大通りは、すでに通行が制限されているらしい。
人々は道の両側に下がり、その代わりに視線だけが行き交っていた。
「陛下が女の人を連れて歩いている」
「婚約者らしいわよ」
「でも、あの人、悪名令嬢なんでしょう。くだらない噂じゃなければいいけど」
悪名令嬢。
知らない街で、知らない人たちからそう呼ばれるのは、不思議な感覚だった。
王都でその言葉を聞いたときは、足元を突き崩されるような恐怖しかなかったのに。
「顔を上げろ」
すぐそばから、小さな声がした。
レオンハルトだ。
誰にも聞こえないような声量。
それでも、はっきりと届いた。
「うつむいてばかりだと、噂だけが先に歩く」
「噂だけが、先に」
「そうだ。
君自身を見てもらう機会を、自分で捨てることになる」
わたしは、ぐっと顎を上げた。
無理やりではなく、少しだけ自然に。
街並みが視界に入る。
石造りの家々、店先に並ぶパンや花、行き交う人々の服装。
思っていたよりも色とりどりで、賑やかで、あたたかい。
こんな場所を、わたしはただの「敵国」だと思っていたのだ。
「でも、歩き方を間違えると、余計に目立つぞ」
レオンハルトが、わずかに口元を緩める。
からかっているわけではなく、軽く息を抜かせるための一言なのだと分かった。
「気をつけます」
小さく返事をして、いつも通りの歩き方を心がけた。
伯爵家で何度も叩き込まれた、「上流階級の娘としての歩き方」。
背筋を伸ばし、歩幅は小さすぎず大きすぎず。
視線は少し先に、顔はこわばらせず、かといって笑いすぎず。
皮肉な話だ。
あの家で身につけさせられた作法が、今ここで役に立っている。
帝都の視線は、好奇心だけではなかった。
中には、露骨に警戒する目もある。
だが、その一方で、はっとしたように目を丸くする人もいた。
「噂と違う」
「あの方、本当に悪名令嬢なのかしら」
風に乗って届いた言葉に、胸がじん、と熱くなる。
やがて大通りの先に、白い城壁が見えてきた。
帝国皇城。
青い屋根と高い塔がいくつも並び、晴れた空を背景に立っている。
門が開き、わたしたちの一行は城内に入る。
中庭には花が咲き、小さな噴水が水音を立てていた。
王城とは違う。
豪奢さよりも、どこか落ち着きと機能美を重んじた造り。
「ようこそ、帝都へ」
城門をくぐると、数人の侍女と執事らしき人々が待っていた。
その中から、一人の女性が前に出る。
「陛下の侍女長を務めております、カティア・アルノーと申します」
四十代くらいだろうか。
髪をきっちりとまとめ、濃紺のドレスをきちんと着こなしている。
目元に皺はあるが、その瞳は鋭くよく動いていた。
「遠路のご移動、お疲れでしょう。
アリア様のお部屋の準備は整っております」
様、と呼ばれて、思わずうろたえる。
「わ、わたしは、その、罪人で……」
「いいえ」
カティアが、ほんの少しだけ微笑んだ。
きれいに整えられた笑みではなく、目の奥が柔らかくなる笑顔だった。
「陛下のご婚約者として、お迎えするよう仰せつかっております。
どうか、そのようなことはおっしゃらないでくださいませ」
婚約者。
胸がまた勝手にざわつく。
「アリア」
レオンハルトが、そっとわたしの名を呼んだ。
彼は侍女長へ短く指示を出す。
「彼女を、俺の居室に近い離れへ。
護衛を常駐させ、衣食住に不自由のないよう手配しろ」
「かしこまりました」
即答する侍女長。
命令を出す側も、受ける側も、迷いがない。
「離れ、ですか」
「城の一角に、客人用の離れがある。
庭と渡り廊下で、俺の居室のすぐ近くにつながっている場所だ」
レオンハルトは、わたしの方へ体を向けた。
「君は正式に、帝国皇帝の婚約者として迎え入れられる。
危険が及ばぬよう、護衛と住まいは最低限整えるつもりだ」
「最低限、ですか」
「足りなければ言え。
増やす」
そう言われて、思わず小さな笑いが漏れた。
「……そういう意味ではありません」
最低限と言いながら、それはきっと、わたしが今まで手にしたことのない環境だ。
伯爵家で与えられた部屋は、客間の奥につくられた小さな部屋だった。
家具は古く、壁紙はところどころ剥がれていた。
それでも、わたしには十分だと思っていた。
「案内いたします、アリア様」
カティアが、柔らかな手つきで一礼する。
「こちらへどうぞ。
荷物は侍女たちが運びますが、貴重品などございましたらご本人に持っていただいた方が」
荷物、と言えるほどのものはない。
今身につけている服も、軍船で支給されたものだ。
ただ一つ、胸元のペンダントだけは、自分の手で握りしめた。
「はい。よろしくお願いします」
頭を下げると、カティアの目がふっと細くなった。
観察するような目ではなく、少しだけ安心したような目。
「丁寧な方でいらっしゃいますね」
「そんな、ことは」
「最初に頭を下げられる方は、あまり多くありません。
陛下が、どういう方をお連れになったのか、何となく分かった気がいたします」
後ろで控えていた侍女たちから、ひそやかなざわめきが起きた。
「あれが悪名令嬢……」
「思っていたのと違う」
「もっとわがままそうな方かと」
その中で、一人だけ、ぱっと顔を輝かせた少女がいた。
「ミーナ。控えなさい」
カティアがたしなめると、少女は慌てて背筋を伸ばし、それでも目をきらきらさせていた。
「すみません、カティア様。
でも、その……」
わたしと目が合うと、彼女は嬉しそうに頭を下げた。
「初めまして、アリア様。
侍女のミーナと申します。
これから、身の回りのお世話をさせていただきます」
ひときわ明るい瞳と、栗色の三つ編み。
年齢は、わたしより少し下だろうか。
「初めまして。
こちらこそ、よろしくお願いします」
自然と微笑みがこぼれる。
そうすると、ミーナの笑顔が一段と明るくなった。
「わ、本当に陛下がおっしゃっていた通りの方です」
「ミーナ?」
「いえ、何でもありません。
さあアリア様、お部屋、とっても素敵なんですよ」
彼女は先頭に立って歩き出す。
カティアが小さくため息をついたが、その横顔はどこか楽しそうだった。
渡り廊下を抜け、庭を横切る。
城内の庭は、思っていたよりも素朴で、季節の花が控えめに咲いていた。
「陛下は、派手な花壇よりも、風通しの良さを大事になさるのですよ」
ミーナが、こっそり教えてくれた。
「風が通ると、人の気持ちも少し楽になりますからって。
だから、庭師さんも、あまり背の高い木は植えないようにしているんです」
そんな話を聞くと、噂だけでは見えなかった皇帝の姿が、少しだけ形になる。
血も涙もない征服王。
そのくせ、民の暮らしや風通しを気にかける人。
離れの建物は、城本体よりも少しだけ小ぶりだった。
それでも十分すぎるほど立派で、扉や窓には繊細な模様が彫り込まれている。
「こちらが、アリア様のお部屋でございます」
案内された一室に入ると、思わず息を呑んだ。
明るい。
大きな窓から庭が見渡せて、柔らかな光が床に落ちている。
白い壁に、淡い生成り色のカーテン。
家具は必要なものだけだが、一つ一つが丁寧に磨かれていた。
ふかふかそうなベッド、手触りのよさそうなソファ、小さな書き物机。
部屋の隅には、仕切りのついた化粧台まである。
「お気に召しましたか」
「……はい。
こんなに広い部屋は、初めてです」
正直すぎる言葉が、口から滑り出た。
取り繕う時間もないほどに、心が揺れてしまったからだ。
「そうなんですか?」
ミーナが目を丸くする。
「伯爵家のご令嬢と伺っていたので、てっきりもっと立派なお部屋にお住まいだったのかと」
「立派なのは、家族の部屋だけです。
わたしの部屋は、物置の隣でしたから」
言ってしまってから、「しまった」と思った。
こういうことを口に出すのは、よくないことだと教えられてきたのに。
けれど、ミーナは顔を曇らせるでも、哀れむでもなく、真剣な表情でうなずいた。
「そうでしたか」
その一言に、責める響きも、過剰な同情もない。
ただ、事実として受け止めてくれている。
「でしたら、ここで少しでもくつろいでいただかないと。
お茶をお持ちしてもいいですか。甘いものも、少し」
「そんな、悪いです」
「悪くありません。
お客様にお茶をお出しするのは、侍女の大事なお仕事です」
そう言って笑うミーナを見ていると、クララを思い出した。
年齢は全然違うのに、困ったように笑いながら優しくしてくれるところが、どこか似ていた。
「では、お願いできますか」
「はい。すぐに戻ってきますね」
ミーナは軽やかに一礼して、部屋を出ていった。
カティアも、そのあとを静かに追う。
扉が閉まり、部屋にはわたし一人が残された。
窓から差し込む光が、床に長く伸びる。
さっきまでの喧騒が嘘のように、静かだ。
わたしはゆっくりとベッドの縁に腰かけた。
柔らかさに、体が少し沈む。
手袋を外し、手首に視線を落とす。
包帯の下には、鎖の痕と古い傷がある。
それだけではない。
袖を少しまくると、前腕にも、肩にも、細かい痕がいくつも見えた。
火傷の痕だと、医師に言われた。
幼いころのものだろう、と。
けれど、わたしにはその記憶がない。
いつ、どこで、どんなふうに火に巻かれたのか。
覚えているのは、母の温かさと、冷たい大理石の床の感触だけ。
その間にあるはずの時間は、煙みたいに曖昧だ。
「十年前から探していた」
レオンハルトの声が、頭の中でよみがえる。
炎の中で泣く少女の夢を、何度も見てきたと。
十年前。
火傷。
母を失った年。
「どうして、わたしのことを知っているみたいに話すんだろう」
ぽつりと、独り言が漏れた。
広場で名前を呼ばれたときも。
処刑台の上で抱きしめられたときも。
軍船で婚約者の話をされたときも。
彼の言葉には、いつも「初対面の相手」には向けないような、確信めいたものがあった。
わたしが何もしていないことを知っている。
わたしがどう断られるかを知っている。
わたしの手の感触を、どこかで知っている。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
胸元のペンダントを握る。
銀の飾りの冷たさが、少しだけ気持ちを落ち着かせた。
母の形見。
幼いころからずっと身につけてきた、唯一の宝物。
レオンハルトは、それを一目見て「間違いない」と言った。
何を、間違いないと。
わたしは誰の娘で、どこで生まれて、何を失ってきたのか。
本当に知っていることは、驚くほど少ない。
「ここで、少しずつでも分かるのだろうか」
帝都の空は、いつの間にか夕暮れに変わっていた。
窓の外で、空の色がオレンジから群青へとゆっくり移ろっていく。
遠くから、かすかに鐘の音が聞こえた。
王都の鐘とは違う響き。
それなのに、なぜか心が少しだけ落ち着いた。
「お母様」
小さく呼びかける。
「わたしは、ここにいてもいいのでしょうか」
答えは返ってこない。
代わりに、扉の向こうから甘い香りがして、ミーナの声がした。
「アリア様。お茶をお持ちしました」
扉の向こうの日常の気配が、今は少し嬉しかった。
重たい過去と、よく分からない未来の間に挟まれた、ほんのひとときの温度。
わたしはペンダントから手を離し、立ち上がる。
悪名令嬢と呼ばれてきた自分とは少し違う、素顔の自分として、扉の向こうの日々と向き合うために。




