第2話 血も涙もない皇帝
真紅の軍装の男は、馬から軽やかに降りた。
黒い外套の裾が、砂埃と一緒にふわりと揺れる。
広場の空気が、そこでぴたりと止まった気がした。
誰もが息を飲み、誰もがその姿から目を離せなくなる。
彼の背後には、黒馬に乗った騎士たちが列をなしていた。
甲冑に刻まれている紋章は、わたしでも知っているものだ。
北の帝国。
血も涙もない征服王が統べる国の、軍旗の印。
「なぜ……帝国軍が」
警備隊長が、乾いた声を漏らした。
さっきまでの威圧的な響きが、まるで別人のものみたいに頼りない。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
陽の光を受けて、その瞳が深い瑠璃色にきらめく。
整った顔立ちだった。
彫刻のように整いすぎていて、現実感が薄くなるほどに。
その目だけが、冷えた湖面みたいに表情を見せない。
「この処刑は、今すぐ中止してもらおう」
彼は静かにそう言った。
怒鳴り声ではないのに、広場の隅々まで届く声だった。
「な、何を……。ここは王国の処刑場ですぞ。帝国陛下といえど、他国の司法に口出しをなさるおつもりですか」
警備隊長が、絞り出すように言葉を返す。
口調は反発しているはずなのに、額にははっきりと汗が滲んでいた。
帝国陛下。
その呼び方を聞いた瞬間、わたしの背筋に冷たいものが走る。
(この人が、皇帝……)
血も涙もない征服王。
そう呼ばれる男が、なぜわざわざ王国の処刑場などに。
わたしとは、何の縁もないはずなのに。
「他国の司法に、だと?」
皇帝は口元だけで笑った。
笑みと言うには冷たく、しかしあまりにも自信に満ちている。
「王命に反するのならともかく、その罪人とやらは、もう王国の所有物ではない」
「は?」
「アリア・フォン・リースは、今この瞬間から帝国の保護下にある。
王国の勝手な処刑は、帝国への敵対行為と見なす」
わたしの名前が、彼の口から、何の迷いもなく発音された。
胸の内側を指でなぞられたみたいに、心臓が跳ねる。
(どうして、わたしの名前を知っているの)
問いかけようとしても声が出ない。
喉がからからに乾いて、唇だけがかすかに震えた。
「勝手なことを……。そのような話、聞いておりません。第一、その女は反逆者の娘であり、陛下の国にとっても害でしか」
「害かどうか、判断するのは俺だ」
皇帝の声が、すっと冷える。
周囲の温度まで一緒に下がったように感じた。
「王命とやらを口にするなら、王を連れて来い。ここで直に話をしよう。
それが出来ぬうちは、せめて黙っていた方が身のためだ」
短く言い放つと、彼はそれ以上隊長に興味を示さなかった。
視線が、まっすぐこちらへ向く。
凍った湖面のようだった瞳に、何かが灯るのが見えた。
驚き、安堵、信じられないものを見たような揺らぎ。
それらが一瞬のうちに浮かんでは消えていく。
皇帝は、群衆の中へ迷いなく足を踏み入れた。
人々の方が勝手に道を開ける。
誰も体をぶつけようとしない。
その存在だけで、ここが彼の領域になっていくようだった。
やがて、彼は処刑台の前に立つ。
見下ろすのではなく、まっすぐ見上げてきた。
瑠璃色の瞳と、わたしの目が合う。
「アリア・フォン・リースだな」
問いかける形だったのに、口調は確信そのものだった。
わたしは、かすかに首を動かすことでしか答えられない。
「……はい」
掠れた声が、自分のものとは思えなかった。
息を吸っただけで胸が痛い。
鎖がきしんで、枷が手首に食い込む。
皇帝の視線が、ふとわたしの胸元へ落ちた。
ペンダントに気づいたのだと、すぐに分かる。
形見の銀のペンダント。
母が最後に握らせてくれた、ただ一つのもの。
瑠璃色の瞳が、そこで止まった。
さっきまで冷たい湖面だった瞳の奥に、激しい何かが燃え上がる。
「そのペンダントを、見せろ」
静かな声だったが、逆らえる気がしなかった。
鎖で自由の利かない両手を、少しだけ前に出す。
兵士が慌ててはしごをかけ、皇帝はためらいもなく処刑台に上ってきた。
手を伸ばされる。
ペンダントの丸い飾りが、彼の大きな指に包まれた。
近くで見ると、その顔立ちはさらに整っていた。
長い睫毛の影、通った鼻筋、薄く引かれた唇。
どれも絵画の中から抜け出してきたように美しいのに、目の奥だけが疲れている。
「間違いない」
彼は低く呟いた。
その声は、わたしに向けられたものというより、自分自身に刻みつける宣言のようだった。
「今度こそ、誰にも奪わせない」
意味の分からない言葉。
ただ、その一言に込められた重さだけが、息苦しいほど伝わってきた。
「な、何を勝手に」
貴賓席から、甲高い声が響く。
王太子セドリック殿下の声だ。
彼は立ち上がり、手すりに身を乗り出して皇帝を睨みつけていた。
金色の髪を乱し、顔色を真っ青にしている。
「ここは我が王家の領域だ。そのような真似は許さぬ。
帝国ごときが、勝手に罪人を連れ去ることなど」
「王太子殿下、口を慎め」
傍らの王妃が、小さな声で制した。
しかし、その指先もわずかに震えている。
セドリック殿下は、視線を皇帝へ戻した。
その目は怒りに燃えているはずなのに、奥底に恐怖の色があった。
「……レオンハルト帝」
やっとの思いで名を呼んだ、そんな声音。
苛立ちと怯えが混ざり合っている。
レオンハルト。
それが、目の前の男の名だ。
噂だけは、何度も耳にしていた。
鉄の規律で帝国をまとめ上げた冷酷な征服王。
叛逆者と見なした相手は、一族郎党容赦なく処断する無慈悲な男。
その彼が、わたしのペンダントを握りしめたまま顔を上げる。
瑠璃色の瞳に、再び冷たい光が戻っていた。
「殿下。
その女は、もはや王家の玩具ではない」
「玩具などと呼ぶな。あれは反逆者の娘だ。
我が国を裏切った伯爵の血を引く、卑しい女だ」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
何度も聞かされてきた評価だ。
妾腹の娘。卑しい女。
反論する術も、資格も、わたしには与えられてこなかった。
けれど、皇帝はわずかに眉をひそめた。
「卑しい、か」
彼はペンダントから指を離し、代わりに鎖を握る。
ごつごつした手のひらが、鉄の輪を掴んだ。
「どう見ても、卑しいのはそちらの方だ」
一息で鎖を引きちぎった。
鉄が軋み、枷を通っていた輪が派手な音を立てて床に落ちる。
何人もの兵士が驚いて動いたが、黒い軍装の騎士たちがすでに周囲を固めていた。
王国の兵たちは剣に手をかけたまま、動けずにいる。
「鎖を外せと言ったはずだが。
命令が聞こえなかったか」
レオンハルトは、木槌を握った処刑人を見やる。
処刑人は青ざめ、慌てて残りの鎖と枷を外し始めた。
金属が外れていく感触が、妙に生々しく伝わってくる。
手首が急に軽くなり、支えを失った体がふらりと揺れた。
「立てるか」
皇帝が、わたしに手を差し出した。
思わず、その手を見つめる。
ごつごつした掌。
戦場で剣を握り続けた人の手だ。
しかし、差し出された角度は恐ろしいほど自然で、迷いがなかった。
「……どうして」
やっと絞り出した言葉は、それだけだった。
自分でも情けないくらい短い問い。
レオンハルトは、ほんの僅かだけ表情を柔らげる。
「すまない。
本当は、もっと早く見つけるつもりだった」
「え?」
「十年も、遅くなった」
何の話か、分からない。
わたしは彼を知らない。
十年前の記憶をいくらたぐっても、この男の姿は出てこない。
頭の中が真っ白になり、うまく思考の形になってくれない。
そんなわたしをよそに、レオンハルトは膝をついた。
皇帝が、処刑台の上で片膝をつき、罪人とされた女に手を伸ばしている。
広場が、息を呑む音で満たされた。
「アリア・フォン・リース。
ようやく見つけた」
彼はそう言って、そっとわたしの体を引き寄せた。
外套越しに伝わる温もりに、全身がびくりと震える。
「ずっと、君を探していた」
耳元で囁かれた言葉は、呪文みたいだった。
甘いわけでも、優しいわけでもない。
ただ、ひどく真剣で、逃げ場のない響き。
この人は、本気でそれを信じている。
そう思わせる声だった。
「ち、陛下……。ご乱心か」
貴賓席から、誰かのかすれ声が聞こえる。
人々がざわめき、震え、混乱していた。
「帝国皇帝が、あんな女を」
「膝をついたぞ、見たか」
「処刑待ちの悪名令嬢を、抱きしめている……?」
耳に入るざわめきが、遠くなっていく。
辺りがぐらぐらと揺れているように感じるのに、実際に動いているのは自分の足元だけだ。
胸の奥で何かがぎゅっと締めつけられた。
ここまで来て、ようやく泣きたいと思うなんて。
「私は……何も、していません」
自分でも驚くほど情けない声で、わたしはそう言った。
処刑台の上で最後に残った、たった一つの言い訳。
レオンハルトは、少しだけ腕に力をこめる。
「知っている」
「知って、いる……?」
「君が何もしていないことも。
何をしたと疑われているのかも。
全部、調べてここに来た」
そんなこと、信じられるはずがない。
でも、信じたいと思ってしまった時点で、もうわたしの負けなのだろう。
胸元のペンダントが、二人の体の間でひやりと触れ合う。
銀の飾りが、心臓の真上で小さく揺れた。
「陛下、ここは危険です。王国軍が動き出す前に」
さっき群衆の中にいたフードの男が、フードを外して近づいてきた。
短く刈られた栗色の髪、鋭い眼差し。
帝国近衛隊長らしい威容だ。
「ライナルト。退路は確保してあるな」
「ええ。城門の外までは我々が。
後は騎士団が予定通り合流します」
「ならば問題ない」
レオンハルトは立ち上がり、わたしの腰に手を回した。
支えるというより、決して放すまいとするような強さで。
「離して……。あの、わたしは、本当に」
「君が何もしていないというなら、それでいい」
こちらの言葉を、彼は簡単に遮った。
わたしの否定も、言い訳も、全部事前に分かっているみたいな顔で。
「もう君は、処刑されない。
少なくとも、俺の目の前では」
その宣言に、どう返せばいいか分からない。
ただ、今まで冷たかった指先が、少しだけ温かくなった気がした。
広場中の視線が、わたしたちに向けられている。
憎しみ、好奇心、恐怖、羨望。
さまざまな感情が混ざり合った視線の雨。
ずっと一人で浴びてきたその雨の中に、今はもう一人分の影が重なっていた。
そのことだけが、不思議と心強い。
「さあ、帰ろう」
レオンハルトがそう言った瞬間、足元の世界がふっと遠のいた。
彼の腕の中で体が傾ぐ。
意識が、暗闇に向かって引きずり込まれていく。
最後に見えたのは、彼の横顔だった。
冷たい征服王と呼ばれる顔が、ひどく苦しそうに歪んでいた。
(どうして、そんな顔を)
問いかける前に、視界が黒く塗りつぶされる。
鐘の音も、ざわめきも、全部が遠くへと離れていった。
わたしの処刑は中止になった。
けれど、そのことを実感するのは、ずっとあとのことになる。




