第12話 帝都市井デートと、初めての笑み
外の空気を吸ったのは、何日ぶりだっただろう。
中庭に面した回廊に出た瞬間、ひやりとした風が頬を撫でた。
冬の名残りの冷たさの中に、どこか土と草の匂いが混じっている。
「具合は、もういいのか」
隣を歩く低い声に振り向くと、黒い軍装ではないレオンハルトがいた。
淡いグレーの上着に、質素なシャツ。
帝都の若い商人が着ていそうな服装なのに、どうしてもただの人には見えない。
「医師からは、遠出でなければ、と」
「そうか」
短く頷いたあと、彼はふいに歩みを止めた。
「……アリア」
「はい」
「詫びをしたい」
あまりに唐突な言葉に、思わず瞬きをする。
「詫び、ですか」
「君を、また危険に晒した。
守ると約束したのに、だ」
毒事件のことだと、すぐに分かった。
あれは、陛下のせいではない。
そう言おうとして、喉の奥で言葉がからまる。
レオンハルトは、少しだけ視線を泳がせてから続けた。
「だから……帝都を、案内させてくれ」
「……え?」
今度こそ、間抜けな声が出た。
「帝都を、ですか」
「君は、処刑台と城と医務室しか知らない。
それでは、この国を嫌いになっても仕方がないだろう」
さらりと言われて、苦笑いがこみ上げる。
「嫌ってなんていません。
むしろ、命を繋いでくれた場所です」
「それでもだ」
レオンハルトは、僅かに言いにくそうに視線を逸らした。
「君に、この国の、少しだけ穏やかな顔を見せたい」
その横顔が、ほんの少しだけ照れているように見えて、胸の奥がくすぐったくなる。
「……陛下が、ですか」
「他に誰がいる」
「いえ、その……お忙しいのでは」
「忙しい」
きっぱりと認めたあと、彼はふっと笑った。
「だが、皇帝には日程を決める権限がある」
「ずるい理屈ですね、それ」
「皇帝の特権だ」
こんなふうに冗談めいたやりとりをするのは、もしかしたら初めてかもしれない。
わたしが戸惑っていると、回廊の柱の陰から、ライナルトが顔を出した。
「準備は整っております、陛下」
彼は、両腕に布包みを抱えている。
「変装用だ」
レオンハルトが短く告げる。
「変装……」
「皇帝とその婚約者が、市井を歩くのだ。
何もしないわけにはいかないだろう」
「それは、そうですが」
ライナルトが布包みのひとつを差し出した。
「アリア様には、こちらを。
帝都の職人の娘という設定で」
「設定まであるんですね」
「当然です」
真顔で返されて、思わず笑ってしまう。
与えられた服は、柔らかな生成りのワンピースと、落ち着いた色のケープだった。
上質なのに、装飾が少なくて動きやすい。
「よく似合っている」
着替え終えて戻ると、レオンハルトが一言だけそう言った。
いつもなら社交辞令だと思うところだけれど、彼がそれを言うと、妙に胸の奥が熱くなる。
「ありがとう、ございます」
自分でも分かるくらい声が小さくなってしまい、余計に恥ずかしい。
「行こう」
レオンハルトが歩き出し、ライナルトと数名の近衛が、少し離れてついてくる。
城の裏門を抜け、小さな馬車に乗り込む。
揺れはそれほどひどくないのに、胸の高鳴りだけは収まらなかった。
◇
帝都の大通りは、思っていたよりもずっと賑やかだった。
露店が並び、色とりどりの布や果物が風に揺れている。
焼きたてのパンの匂い。
車輪のきしむ音。
行き交う人々の話し声。
そのどれもが、生きている音だった。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
王都にも市場はあったけれど、わたしが足を踏み入れることは少なかった。
伯爵家の令嬢として、外に出るときはいつも護衛と馬車に囲まれていたから。
「そんなに珍しいか」
「ええ。
……わたし、自分の足で市場を歩くのは、初めてに近いです」
レオンハルトが、少しだけ驚いた顔をした。
「王都の貴族は、皆そうなのか」
「さあ。
でも、少なくとも私は、あまり外へ出してもらえませんでした」
妾腹の娘が、社交の場で目立つのは好ましくない。
義母の口癖だ。
そのことを思い出して、少しだけ胸がざわつく。
けれど、今はその重さを、色とりどりの景色が上塗りしてくれた。
「ほら、アリア様。あの飴、綺麗です」
少し離れたところから、ミーナが目を輝かせて指差す。
近衛のひとりとして同行を許された彼女は、半ば付き添い、半ば観光客の顔をしていた。
「行ってみるか」
レオンハルトの提案に、わたしは頷いた。
飴屋の屋台には、透明な飴玉が並んでいた。
果物の色を閉じ込めたような、赤や緑、琥珀色。
「お嬢ちゃん、ひとつどうだい」
店主の男が、親しげに声をかけてくる。
レオンハルトが懐から硬貨を出そうとした瞬間、わたしは慌てて首を振った。
「あの。自分で払います」
「君は客だ」
「陛……レオンさん」
思わず本名を呼びそうになり、慌てて言い直す。
今のわたしたちは、ただの若い夫婦だ。
そういうことになっている。
「ここは、男の面子というものだ」
レオンハルトは、わずかに得意げな顔で硬貨を差し出した。
店主は笑いながら飴を包んでくれる。
「いい旦那さんじゃないか」
その言葉が、胸の奥にぽちゃんと小石を落としたみたいに波紋を広げた。
いい旦那さん。
まだ契約婚約なのに。
でも、彼はこうして、わたしを外に連れ出してくれる。
「……ありがとうございます」
小さく呟いて飴を受け取ると、レオンハルトが横目でこちらを見た。
「そんなに礼を言われることか」
「わたしにとっては、大事なことです」
飴を舐めると、甘酸っぱい果物の味が口いっぱいに広がる。
舌に残るその味が、不思議と涙腺を刺激した。
こんなささやかな甘さを、いままでどれだけ知らずにきたのだろう。
「次は、あれだ」
レオンハルトが指差した先には、小さな焼き菓子の屋台があった。
表面が砂糖でコーティングされたそれは、見ているだけで幸せな気持ちになる。
「陛……レオンさん、甘いもの、お好きなんですか?」
「嫌いではない」
「意外です」
「どういう意味だ」
「いえ、その……征服王が甘い焼き菓子を買う姿を、誰が想像するでしょう」
「君は想像したらしいが」
「今は、目の前で見ていますから」
口にした自分の言葉がおかしくて、思わず笑ってしまう。
レオンハルトは、一瞬きょとんとしたようにわたしを見てから、小さく息を吐いた。
「……その顔が見たくて、連れ出したのかもしれないな」
「え?」
「さっきから、君はずっと緊張していた。
毒のことも、王国のことも、全部、頭から離れていない顔だった」
静かな声が、胸の奥にまっすぐ届く。
「少しくらい、余計なことを考えずに笑う時間があってもいい。
君には、その権利がある」
焼き菓子をひとつ受け取り、口に運ぶ。
熱さに驚いて指先を跳ねさせると、レオンハルトがくくっと喉の奥で笑った。
その笑い声は、小さくて、でもとても自然だった。
「……今、笑いました?」
「笑ってはいけないのか」
「いえ、そうではなくて……」
いつも冷たい氷のようだと思っていた人が、あっさりと表情を崩す。
その落差に、心臓が忙しく脈打った。
「陛……レオンさんは、こうしていると、普通の人みたいですね」
「私は、普通の人間だ」
「いえ、その……」
征服王と呼ばれる人に、普通の、なんて言っていいのか迷っていると、彼はふっと目を細めた。
「君が思うほど、特別ではない。
ただ、少しばかり背負うものが多いだけだ」
その台詞が、妙に胸に残る。
わたしも、そう言われたことがあるような気がした。
誰に、とは思い出せないけれど。
◇
大通りを抜けると、小さな広場に出た。
中央には噴水があり、その周りで子どもたちが走り回っている。
露店もいくつか並んでいて、その一角で、大道芸人が火を使った芸を始めた。
「火だ!」
「すごーい!」
子どもたちの歓声が上がる。
細長い棒の先に灯された炎が、夕方の空に弧を描いて舞う。
それは、本来なら見惚れるような光景だったはずなのに。
「……っ」
胸の奥が、唐突に締め付けられた。
視界の端がきゅっと狭くなる。
火の揺らめきが、別の景色にすり替わっていく。
燃え落ちる天井。
黒い煙。
誰かの叫び声。
伸ばされた手。
熱い。
苦しい。
怖い。
「アリア」
肩を掴まれる感覚で、現実に引き戻された。
気づけば、膝が崩れかけていたらしい。
レオンハルトの腕が、しっかりとわたしの体を支えている。
「……すみません」
何とか声を絞り出す。
「大丈夫です、少し、目眩が」
「ここでは人目が多い。
来い」
レオンハルトは迷いなくわたしを抱き上げ、近くの路地へと歩き出した。
細い路地に入ると、さっきまでの喧騒が嘘のように遠くなる。
石畳の上にそっと下ろされ、壁に背を預ける。
「息を整えろ」
「……はい」
深く息を吸う。
まだ胸には火の残り香のような痛みがあるけれど、さっきよりはましだった。
レオンハルトが、わたしの額に手を当てる。
ひんやりと冷たいと思っていた彼の手のひらは、意外なほど温かかった。
「熱はないな」
「変なところをお見せしてしまって、申し訳ありません」
「謝るな」
短く切られた言葉に、はっと顔を上げる。
「大道芸の炎を見て、君の顔色が変わった。
十年前の火事の話を聞いたときと、同じ顔だ」
彼は、静かな目でわたしを見つめていた。
「君の記憶が、何かを思い出そうとしているのだろう。
それは、君のせいではない」
……記憶。
炎に包まれた景色。
伸ばされた手。
そこにいるはずの人の顔だけが、どうしても思い出せない。
「楽しい時間だったのに、ごめんなさい」
やっと絞り出せた言葉も、やっぱり謝罪だった。
「私は、君が笑ってくれればそれでいい。
途中で泣きそうになっても構わない」
レオンハルトは、壁に手をついてわたしと目線を合わせる。
「君の過去は、簡単に片付けられるようなものではない。
それを忘れろとは、決して言わない」
低い声が、静かな路地に溶けていく。
「だが、君がその重さを一人で抱え込む必要もない。
こうして、少しずつ外に出していけばいい」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んだ。
「……陛下は、そんなふうに物事を考える方でしたか」
「どういう意味だ」
「いつもは、もっと剣と戦略で全部を片付ける人だと思っていました」
わざと少し意地悪な言い方をすると、彼はわずかに肩をすくめた。
「戦場では、そうだろうな」
短く認めたあと、続ける。
「だが、君に剣を向けるつもりはない」
当たり前のように言われて、胸が温かくなる。
路地の隅に、小さな花が咲いているのが目に入った。
石畳の隙間から顔を出す、その白い花は、踏まれそうになりながらも真っ直ぐ空を向いていた。
「あの花……」
思わず、そちらに手を伸ばす。
「王国にも、似た花がありました。
もっと茎が細くて、花びらも少し尖っていて」
「君の故郷か」
「ええ。
庭の隅に、いつもひっそりと咲いていて。
誰も気に留めていないのに、毎年ちゃんと花をつけるんです」
義母の植えた華やかな薔薇の陰で、こっそりと。
それでも、春になれば必ず咲いた。
「好きだったのか」
「はい。
わたしみたいだと思って」
言ってから、自分で照れてしまう。
「目立たなくて、誰にも褒められなくて、それでも勝手に咲くところが」
レオンハルトが、静かにその花を摘んだ。
「勝手に、ではない」
「え?」
「水がなければ枯れる。
光がなければ、咲かない」
彼は、わたしの目の前に花を掲げた。
「君がここで咲いているのは、君自身の強さのせいでもあり、運命のせいでもある。
そして、これからは――」
花を、そっとわたしの髪に挿す。
耳の後ろで、小さな重みが生まれた。
「帝都にも、君の居場所はある」
真っ直ぐな声だった。
胸がいっぱいになって、何か言おうとしたのに、出てきたのは全く別のものだった。
「……似合ってますか」
自分で言っておきながら、顔が熱くなる。
レオンハルトは、一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「ああ」
その笑みは、さっきよりもずっと柔らかかった。
「とても」
その一言が、耳の奥まで熱くする。
恥ずかしさをごまかすように、思わず吹き出す。
「どうした」
「いえ……なんだか、変な感じで」
「変か」
「ええ。
処刑台に立っていたはずの人間が、今、路地で花を髪に挿してもらっているなんて」
あまりにも場違いで、不釣り合いで。
でも、とても幸せな瞬間で。
笑いながら、気づく。
こんなふうに声をあげて笑ったのは、いつ以来だろう。
レオンハルトも、つられるように小さく笑った。
「それくらいで、ちょうどいい」
「ちょうどいい、ですか」
「君には、これくらいの不釣り合いが似合う」
「褒めているようで、褒めていませんよね、それ」
「褒めている」
即答されて、またおかしくなる。
◇
路地を出て、再び広場に戻ると、さっきの大道芸は終わっていた。
代わりに、近くの孤児院の子どもたちが、噴水の周りで遊んでいる。
その中の一人が、こちらに気づいて駆け寄ってきた。
「ねえねえ」
まだ幼い男の子が、わたしたちを見上げる。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、恋人なの?」
「っ……」
息が止まりかけた。
子ども特有の、容赦のない直球。
言葉を失って固まるわたしをよそに、レオンハルトはほんの一瞬だけ目を細めた。
「そうだ」
当たり前のように、肯定する。
「……っ!」
顔から火が出そうだった。
「れ、レオンさん!?」
「違うのか」
「ち、違わない……わけでは……」
契約婚約。
形式上の婚約者。
でも、子どもにそれを説明するのはあまりにも野暮で。
男の子は満足そうに笑い、噴水のほうへ走り戻っていく。
「やっぱりー! 恋人だってー!」
その声を聞きながら、わたしは両手で顔を覆った。
「……否定しなかったのですね」
「否定したほうが良かったか」
「そういう問題では……」
ぱたぱたと手を振るわたしを見て、レオンハルトは小さく笑った。
「少なくとも、今の私には、君は大切な婚約者だ」
さらりと言われて、胸の奥がじんとする。
「君はどうだ」
「わたし、ですか」
「私は、君にとって何だ」
問いかけられて、言葉に詰まる。
命の恩人。
契約上の婚約者。
冷酷な征服王。
そして――。
わたしが、少しだけ笑えるようになった理由。
「……難しい質問ですね」
逃げるように言うと、彼は肩をすくめた。
「では、いつか答えが出たときに教えてくれ」
「いつか、ですか」
「ああ。
急かすつもりはない」
そう言ってくれることが、何よりの救いだった。
焦らなくていい。
今はただ、こうして歩いていればいい。
帰り道、空は少しだけ赤く染まり始めていた。
横を歩く彼の影と、自分の影が、石畳の上で並んで伸びていく。
重い過去も、不穏な未来も、きっとまだ消えない。
それでも、この一日のことを思い出せば、少しだけ前を向ける気がした。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
胸のどこかに、小さな灯がともった気がした。
簡単には消えないように、そっと両手で包み込むような気持ちで、わたしは城への道を歩いた。




