第11話 冷酷皇帝の怒りと、過保護な裁き
目を開けたとき、天井の模様はもう見慣れたはずなのに、今日はやけに遠く感じた。
医務室の白い天井。
薬草の匂いと、かすかな消毒のにおい。
さっきまで夢の中にいたはずなのに、体の重さだけがやけに現実的だ。
「……起きられますか、アリア様」
そっとかけられた声に、首を傾ける。
椅子に腰かけていたミーナが、ほっとしたように目を丸くしていた。
「ミーナ……」
「良かった、本当に……。
昨日、一瞬、心臓が止まったかと思いました」
目尻が赤くなっている。
徹夜で看病してくれていたのだと、すぐに分かった。
「そんなに大事には、なっていないんでしょう?」
自分の声が、少し掠れているのが分かる。
「お医者さまは、命の危険はもうないと。
ただ、無理をなさらないようにと仰っていました」
「そう……よかった」
胸の奥で、固まっていた何かがようやく緩む。
けれど、同時にじわりとした不安が押し寄せてきた。
毒を飲まされて倒れた皇帝の婚約者。
その噂は、きっと広がっている。
そして――陛下は、どうしたのだろう。
「陛下は?」
思わず口をついて出た問いに、ミーナは一度だけ迷うように瞬きをした。
「朝から会議室にお籠もりです。
毒の件で、重臣の方々と」
「そう……よね」
皇帝として、当然のことだ。
なのに、胸のどこかがちくりと痛んだのは、きっとわがままなのだろう。
わたしのために時間を割かせてしまっている。
そう考えると、申し訳なさと、別の感情が混じり合って、胸の奥がざわついた。
「アリア様」
ミーナが、少しだけ声を落とした。
「陛下……昨夜、ずっとお怒りでした」
「……そう、でしょうね」
毒事件。
皇帝の婚約者を狙った攻撃。
どれだけ小さな茶会でも、それを見過ごせば、帝国の威信にも関わる。
「でも、その怒りは、アリア様に向けられたものではありません。
ずっと、『守れなかった』と仰っていました」
守れなかった。
その言葉に、心臓がぎゅっと縮む。
守られるべき存在であることに、いまだ慣れない。
「……わたしのせいで、また陛下の評判が」
「評判より、命のほうが大事です」
ミーナはきっぱりと言った。
「それに、陛下の評判は、もともとあまり優しくありませんから」
「それは、慰めになっているのかしら」
思わずこぼれるように笑うと、ミーナも小さく笑った。
「すみません。
でも、本当です。
『血も涙もない征服王』と呼ばれる方ですから」
「……知っています」
わたしは、自分の手を握りしめる。
噂として聞いた冷酷さと、わたしに向けられる眼差しの温度。
その差が、まだ上手に飲み込めない。
「陛下はきっと、怒っておられます。
あなたが傷つけられたことに」
ミーナの言葉が、医務室の静けさにしみ込んでいく。
わたしのために誰かが怒る。
それは、とても心強くて、同時に怖いことでもある。
誰かが怒れば、その矛先に立つ人がいる。
わたしの存在が、また誰かを傷つけるかもしれない。
「……もう少し、寝ていなさい」
ミーナが毛布を掛け直そうとした、そのとき。
医務室の扉が、静かにノックされた。
「陛下がお見えです」
外から、兵士の声。
ミーナが慌てて立ち上がり、わたしの髪をざっと整え始める。
「ひ、ひとこと言ってくだされば……心の準備が……」
「そんな余裕のある陛下ではありませんから」
小さく苦笑して、彼女は扉のほうへ下がった。
扉が開く。
黒い軍装。
見慣れたはずの姿なのに、今日の陛下は少し違って見えた。
レオンハルトは、医師から何か短く話を聞き、軽く頷くと、まっすぐこちらへ歩いてきた。
足音は静かで、表情もいつものように無機質に整っている。
けれど、瞳の奥にあるものだけは、隠しきれていなかった。
燃えるような怒りと、どうしようもない後悔。
「……ごきげんよう、陛下」
わたしは、ぎこちなく微笑む。
寝台の上から礼を尽くそうとして、うまくいかない自分がおかしくて、余計に焦ってしまう。
「無理に起き上がるな」
低く抑えた声。
レオンハルトは寝台の傍らに立ち、しばらくわたしを見下ろしたまま、何も言わなかった。
間近で見ると、その瞳の下には、うっすらとした影が見える。
眠っていないのだと、すぐに分かった。
「体調はどうだ」
「重い荷物を、少し持ちすぎたあとのような感じです。
でも、もう大丈夫です」
「大丈夫ではないから、医務室にいるのだろう」
ぴしゃりと返されて、言葉に詰まる。
呆れたような口調なのに、声の震えは、わたしよりずっと酷かった。
「昨夜、君の顔色を見たとき、私は一瞬、本当に……」
そこで言葉を切り、彼は唇を噛んだ。
あの冷酷な皇帝が、こんな顔をするのだと、胸が痛くなる。
「……申し訳ありません」
条件反射のように謝ってしまう。
「私の不注意で、陛下にご迷惑を」
「なぜ、君が謝る」
即座に返ってきた反論は、鋭いのに、どこか苦しげだった。
「君は、茶をすすめられて、それを飲んだだけだ。
罪があるとすれば、毒を混ぜた者と、それを止められなかった私のほうだ」
「でも、わたしがここに来なければ、誰も巻き込まれずに……」
そこまで言ったところで、レオンハルトの瞳が細くなる。
「カミラがそう言ったのか」
昨日、庭で見た彼女の顔が浮かぶ。
黒装束の兵士に囲まれて連行されていく姿。
あのとき、口の動きだけで読み取った言葉。
あんたが来なければ、こんなことには。
「……わたしは、ただ」
喉が詰まって、うまく言葉にならない。
「わたしの存在が、争いの理由になってしまうのが、怖いんです」
王国でも、伯爵家でも。
妾腹で生まれたわたしは、いつも「問題」の中心にいた。
父の罪をかぶせられ、家の汚点と呼ばれ、最後には処刑台へ。
帝国に来てからも、今度は皇帝の婚約者として、別の憎しみを引き寄せている。
「陛下が怒れば怒るほど、誰かが罰を受けます。
それが全部、わたしに向けられた反動だと思うと……」
言葉がしぼんでいく。
レオンハルトは、わたしをしばらく黙って見つめていた。
「……恐ろしかったか」
ふいに落ちてきた問いは、毒のことではないのだと、すぐに分かった。
彼の怒りのことだ。
会議室で、重臣たちを前にしたときの冷たい眼差し。
徹底的な調査を命じ、容赦なく命令を下す姿。
本当に怖いのは、毒ではなく、彼の「裁き」のほうだと、どこかで思っていた。
「少しだけ」
嘘はつきたくなかった。
レオンハルトの眉が、わずかに引きつる。
「……そうか」
短い言葉のあと、彼は視線を外し、医務室の窓のほうへ目をやった。
「君のことを狙った者を、私は許せない。
それは、皇帝としての判断以前に、ひとりの男としての感情だ」
呟くように言う。
「だが、そのやり方が君を怯えさせるのなら、私のやり方にも改めるべきところがあるのだろう」
「そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「分かっている」
レオンハルトは、ゆっくりとこちらを向いた。
「君は、自分のことで誰かが傷つくことを、何より恐れている。
だから、毒を盛られたあとですら、真っ先に謝った」
その言葉に、胸の奥の柔らかい場所を掴まれたような感覚がする。
どうして、そこまで分かってしまうのだろう。
「……君は、罪なき者だ」
はっきりとした声。
「反逆も、裏切りもしていない。
ただ、生まれた家を間違え、巻き込まれただけだ」
その目には、わたしだけが映っている。
医務室の空気が、少しだけ暖かくなった気がした。
「それでも君が、自分の存在を責めるというのなら」
レオンハルトは、わたしの手を取った。
大きな掌が、指先まで包み込む。
体温が伝わってきて、どきりと心臓が跳ねる。
「私は、君の代わりに怒る」
低く、決意を含んだ声。
「君を傷つける者を、許さない。
それは私の罪であり、私の選択だ」
静かな医務室に、その言葉だけがはっきりと響いた。
「陛下……」
「君が望むなら、私は剣を引く。
だが、君が自分を責めて俯くなら、そのたびに私は怒るだろう」
レオンハルトは、ほんの少しだけ苦笑した。
「たとえ評判を落とそうと、冷酷だと言われようと、それで君が生きていられるなら、安い代償だ」
心臓が、痛いくらいに脈打つ。
何かを言わなければと思うのに、喉がうまく動かない。
ありがとう、と言うには軽すぎる。
やめてください、と言うには、あまりにも心強い。
そのどちらも言えないまま、わたしはただ、握られた手に力を込めた。
それだけで、伝わるものがあると信じたかった。
レオンハルトの目が、わずかに柔らかくなる。
「……怖かったら、そう言え」
「はい」
「怒ってほしくないと思ったら、それも言え」
「……少しだけ、ほどほどにお願いします」
思わずこぼれた本音に、彼は一瞬きょとんとしたあと、ふっと肩の力を抜いた。
「善処しよう」
わずかな笑みが、その口元に浮かぶ。
その笑顔を見ていると、胸の奥で、何かが少しずつほどけていく気がした。
毒も、噂も、これから起こるかもしれない争いも。
全部がすぐに消えるわけじゃない。
それでも――。
わたしのために怒ってくれる人がいる。
その人のやり方を、少し怖いと思いながらも、信じたいと思う自分がいる。
握られた手の温度は、さっきより確かに感じられた。
医務室の扉の向こうでは、ひそやかな気配が二つ、息を潜めていた。
「ねえ、ライナルト。
今の、聞いていた?」
「陛下のお言葉です。
聞かぬふりをするほうが失礼でしょう」
「本当に、分かりづらい人よね、あの方」
リディアのあきれたような声が、かすかに漏れる。
「冷酷皇帝だなんて言われているけれど。
あそこまで自分の評判を投げ捨てて誰かを守ろうとする人、そうそういないわ」
「おかげで、私たち近衛隊は大変ですが」
ライナルトの低い声に、ため息が重なる。
「でも、少なくとも分かったわ。
あの“悪名令嬢”は、陛下にとって、本気で守る価値のある人なのね」
「ええ。
だからこそ、私たちが守らねばならない」
二人のささやきは、扉の隙間から漏れることはなかった。
けれど、そのやりとりはたしかに、帝都の空気を少しだけ変え始めていた。




