1-5 アフター・ツーデイズ
「とりあえず、お前の代わりが今後この病棟で務める事になったから、もう来なくていいぞ、エス。」
私エスは、三年間従事した病院から更迭された。
「な...何で!?いきなり意味が分からないんだけど!」
「俺が知るか。昨日当院宛にメッセージが来てたんだ。エスを廃してあいつを加えろってな」
ぶっきらぼうな態度で応対するハゼの後ろに、小柄だが佇まいから端厳さを感じられる壮年の男性が立っていた。
「こんにちは。長きに渡る間お勤めご苦労様でした」
「何言ってるんですか...まだ未熟な所はあるけれど、辞めたいだなんて気持ちはない、ないかなぁ」
「アダムを見たんでしょう?」
唇の先が冷える感覚。仄かな薬液の芳香を含んだ冷たい空気が、ゆっくりと時間を掛けて呼気に変換される。
「あ?アダム?」
「こちらの話です、ハゼさん」
何か言葉を紡がなくては。という考えも虚しく、私は何も言えずに突っ立っていた。
結果的には、問答を続けなくて良かったのかもしれない。アダムなる人物に深入りすることで、やもしれぬ危険が降り掛かっていた可能性があった。
メガスロットのライムと共に秘密の地下室に立ち入った二日後。
私は命題を失い、この区で誰からも必要とされなくなった。
****
地に足を付けて十六時間後、満身創痍の身で、俺はそいつに出会った。
「...どけ。俺にはやるべき事がある。」
「アハハハハ!やっぱ吐いたの?千鳥足でズタボロじゃん!」
俺より一回り小柄な女だった。桜色の外套に身を包み、袖の隙間から華奢な手足を覗かせている。レモン色のスカートや水色のニットなど、明るい色の服で身を包んでいる。調和に手を込んでいるのか、明るい色が重なっているのに目が痛くならない。
きっと先進国の豊かな人間はこのような格好に嗜好を凝らすのだろう。マゼンタの靴先から胸元までを見て思ったのはそのような感慨だった。
俺に警戒心を抱かせたのは首から上を一瞥してからだ。頬から上が、薄墨色の下地に色とりどりの花火に似た模様が描写された包帯で巻かれている。頭頂まで続いているかは、ツバがない黒い帽子で分からない。淡いクリーム色ががったブロンドは、肩の辺りで切りそろえられている。
この世界の生活水準はわからないが、美装ゆえの異質感があった。白と黒が成す世界では色鮮やかな格好はあまりにも浮きすぎていた。
「ねぇ、キミあっちじゃ有名人なんでしょ?...ちょっとそんな怖い目しないでよ。ゾクゾクしてくるじゃん」
包帯に巻かれた眼窩からは感情を読み取ることが出来ない。血色が良い唇は薄ら笑いを作り、白い犬歯を覗かせていたが。
「俺の事を知っている人間は滅多にいないと聞き及んでいる。協力でもしてくれるのか」
半分皮肉混じりに放った言葉だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「ん、いーよ。なんか面白そうな事してるし」
「...冗談だ」
俺は苦虫を噛み潰したような顔で相手を推し量る。だが、相手はこちらの警戒も意に介さず吹き出した。
「ぷはっ!何それっ、鬼気迫る顔で冗談ゆうなっつーの」
そう言うと、何かをひょいと放り投げてきた。
「あげるよそれ。ここではきっと役に立つと思うよ」
受け取ったそれは、古びたアンティーク味のある杖だった。
「何だ、これは」
「使えばわかるよ」
そう言うと、女は踵を返し去っていくポーズを取った。
「お前は何なんだ」
「キミの味方、って言えば信じてくれる?」
「俺に味方などいない」
そう言うと、女は左半身だけ振り返り、どこか憂い気な表情をした気がする。そう思ったつかの間、姿勢を戻し歩みを進める。
「私はミクリって言うの。せっかく教えて上げたんだから忘れないでよね」
その会話を最後に女───ミクリは去っていった。
「名前か」
本名をできるだけ使いたくない。異邦の地とはいえ、誰が聞いているか分からないからだ。
「...ディエゴ。いいな」
昔見た映画に出演していた俳優の名前だ。その俳優は劇中で正義を成し悪を挫く、まさにヒロイズムの化身であった。
「くだらない」
そう吐き捨て、見知らぬ土地を進む。
俺は悪を成すためにここに来たのだ。思い浮かべるシナリオは映画のような逆転だが、演じるのは悪のヴィランだ。
鮮花のような悪意が世界を救うと信じて、磨り減った靴を地面に触れさせた。
****
時間は二日ほど巻き戻る。私エスが地下室から手に入れたメモ用紙は、慮外にも自分の事が書かれていた。
脳にメガスロットを移植された女児というのは間違いなく私だ。少なくともこの街で、自分以外にそんな人間は見たことがない。
「何、これ。使い続けるとよくない影響が出るってこと?アダム氏って誰?これって私が見ていいものなの?」
疑問符が次々と浮かんだ。私の命を今もつなぎ止めている脳内の機械は、他者の思惑という皿の上に載せられているのだろうか?メガスロットはもう自分の一部だ。それを誰かの意思で引き剥がされると考えると、ふいに頭の神経が引き絞られるような感覚を覚えた。
「気持ち悪いよ、こんなの。まるで私に移植したのはアダムって人のためだったみたいじゃん」
私は声が上擦っているのに気がついていなかった。
アダムという人物の事はもちろん知らない。このメモ用紙に書かれている当該人物は、余りある得体の知れなさがある。
だが、私は直感的にアダムが誰であるか把捉してしまった。
今さっき地下室で見てしまった、氷漬けの人間。彼は人の形を保っている部分と、そこから壁に向かって樹状に伸びる、形容しがたい器官を持っていた。原始的な本能が警鐘を鳴らすその氷像がアダムだ。
「九十九パーセントそうだ。あの人は凍ってるだけで、今も生きている」
地下室の床面には、推定アダムに向かって幾本かのチューブが伸びていた。不凍液というのだろうか、そのチューブには黄土色の液体が流れていた。
中の様子を見るに、人が入った形跡もない。文字通りあの部屋は今日まで封印されていたのだ。
「とんでもないものを見つけちゃったのかな、はは...」
苦笑いが精一杯だった。知りたいことは山ほどあるが、そのアダムが私の生命を脅かす存在なのか。問題のイエス・ノーを明らかにしたかった。
「もういっそ、こんなの見なかったことにすれば..!」
メモ用紙の真ん中を対角線に、両手の親指と人差し指でつまむ。この状態で力をかければメモは破ける。
ビリビリに引き裂いて、無かったことにしたかった。しかし、幾ばくかの重巡ののち、メモにかかっている指圧を緩めた。
「意気地無しだよなぁ、私って」
用紙の内容から目を外し、私は帰路に着く。
いつも通りの風景であるはずなのに、地下室の方向から感じられるアダムの存在が意識の裡から外せなかった。
翌日は従事している病院から「来るな」との連絡があった。
緊急で呼び出されることは過去数度あったが、その逆は珍しい事であった。
昨日は衝撃的な事実を知り、ゆっくりしていたいという気分であったため、正直渡りに船であった。
理由も考えず快諾し、毛布にくるまる。改めてメモの内容を考察する。アダムという人間以外にも、何か書かれていたはずだ。
「心身変調...?そんなことはないなぁ」
おそらくメガスロットの移植による危険性がメモには述べられていたが、今のところ私にはそんな様子はない。移植して五年だか六年だか経っているのだ。それだけ経てばさすがに大丈夫だろう。
「ま、可能性の話だしね」
問題は次だ。私が現行で私物化、言うならば「私身化」しているメガスロットの処遇である。
内容によると、8割の人間が私からメガスロットを引き抜くことに賛成している。後の文より替えもないことから、私が死んでもアダムに譲渡するべきだと思っているらしい。
「困るよ、それは」
この内容を見て感じたのは、恐怖であった。
私はおろか、他の誰も知りえない職権を持つグループ。その大多数が、私が死んでも構わないと思っているのだ。それを見て平然と在れという方が難しいだろう。
だが、別に私は誰かに招集されることも、命を狙われる事も今まで無かった。人と関わりがなさすぎて、これといった友人関係も築けていないのは蛇足だろう。
「いや、あったね...」
そういえば数日前に殺されると思ったばかりだ。
ディエゴ。満身創痍の彼と遭遇し首を締められたのだ。
しかし、それも違う気もする。なんやかんやで柱から落ちている時は助けてくれたし、彼の暴力性は私だけに向けられているものではなかった。
「そうだといいよね、うん」
このメモがいつ書かれたかは不明だが、今も私は無事に生きている。まあ、数年後には死んでしまうのだが。
「んんっ、他には...ええと?」
軽く咳払いをし、他の項目に目を通す。
以降は正直、よく理解できない。
「ドメイン、魚類、なんのこと?」
分からない単語を除いてみるが、そうしたら文章としての原形が崩れてしまう。私はメモ用紙とにらめっこしていたが、不毛だと分かり早々に諦めた。
「結局、アダムがなんなのってことかぁ。凍ってるうちは意識とかないよね、たぶん」
半眼を作りながら呟く。私の来訪を彼が認知していたのなら、果たして友好的な態度を取ってくれるだろうか。
「ライムだってそうだよ。ライフの回復とか言って結局どっか行っちゃうし。ワケわかんねー、ってやつだよ」
元はと言えば私が専有するメガスロット───レオルと言うらしい、のライフ回復が目的であった。曰く、人に会えばライフが回復出来るという言い分であったが、目処の人物であるアダムは意思疎通ができない状態であった。
仮にアダムが健在であったならどうなっていたのだろうか。
メモにもあった通り、アダムは私のメガスロットを欲している。ならば引き渡せとでも要求してきたのであろうか。
「もうあの部屋には二度と行くもんか」
アダムが見た目通りの怪物であれば、あの部屋が私の血と脳漿で凄惨な現場になっていた可能性もある。
虫食いの情報を想像で埋めるしかないのだが、関わらないようにすべきなのは瞭然であった。
毛布を引こうとして、抵抗の無さから切れ目が入っていることが分かった。いつの間にか破いてしまったのだろうか。
「せっかくだし歩くかなぁ。気晴らし気晴らし」
キュービットによる運送でここに持ってくることもできたが、あえて実地で貰いに行く事にした。身体を起こし、窓の桟に足をかける。
頬を撫でる風は、鉄の匂いがした。普段と変わらない光景を眼下に収める。
すとん、と音を立て着地すると、私は一歩一歩地面を踏みしめるように歩き出した。
その後のことはよく覚えていない。新しい毛布を貰って、それが思いのほか大きく持ち帰るのに苦労して、自室で薄味のイートバーを食べた。それ以降は掘り下げるような事もなかったはずだ。
だが、外出してからだろうか。私に向けて、生ぬるい視線が浴びせられている感覚があった。誰が、というのは定かではなく、もしかしたら私の思い過ごしかもしれない。
だが、外気温度で私のうなじを焼かれ続ける感覚は、眠りにつくまで消えなかった。
そして翌日、いつも通り病院に向かうと、まるで私など最初からいなかったように追い出されたというわけだ。
「......」
何となく、病院から姿が見えない位置まで移動し、立ち止まる。
怒りも、不満も湧いてこなかった。ただ、この現状を受け入れるべきという結論が脳内で出ていた。
「何にも縛られないってのもいいよね、うん」
私は無理やり自分を納得させ、どことない場所へと向かった。
それでも、胸の裡には焦燥感がめらめらと燃えているのは無視できなかった。
それから三時間後。
ヒナゲシ区全体に向けて、私を捕縛し管理課に連れてくるようにとのアナウンスが出された。
数日前に私たちが倒した''脱出の柱''の倒伏によって、犠牲者が出たという内訳だ。