2-1 エスと僧侶
私、エスは霧の中に佇んでいる。
起こりえない事象であった。何せ、私の住んでいたヒナゲシ区───もとい、キュービットが空間を舞うこの世界では、温度と湿度、ならびに空気の清浄度が管理されている。世界全体が巨大な無菌室であるようなものだ。
雨というものを知っているだろうか。天井から水が発生し、地面に向かって落ちてくるらしい。それも単一ではなく、無数に。数え切れないほど。
私の主治医が教えてくれた現象だ。その主治医いわく、雨は珍しいものでも何でもないらしい。仮にヒナゲシ区で降水があったら、キュービット網のパンクが発生し、大変なことになるだろうとは予想できる。
そして霧も未曾有の事象である。白色のコントラストが形作る世界で、私は濃霧の奥に誰かが立っていることに気がついた。
「わっ!びっくりした...誰?」
返事は無い。代わりに人影は輪郭を崩すように揮発し、手のひら大の長方形へと収縮した。
「わたしのだ、あれ」
意識が漫ろになる。思わず影へと手を伸ばすが、メガスロットはスクリーンの内側に入り込んだように触れることすらできない。
意識が混濁しながらも鮮明な視界の中、伸ばした手は霞のみを掴む。それを嘲笑うようにか、メガスロットは二つに分裂した。
私は目を細める。複製されたメガスロットは二倍から四倍に、四倍から八倍に、倍々に増えていく。十六を超えたところで私は数えるのをやめた。
「わわ、分裂するのは聞いてないってば!」
狼狽する私を余所目に。
色彩が影で塗りつぶされたメガスロット群は飛び去っていった。
「ちょ...」
己が意志を持つように、四方八方に黒色の尾を引いて直進していったメガスロット達は、白色に霧がかった空間を黒で上書きしていった。傷跡のような残痕は、ピントの合わない視界を侵食していき───
****
「はむっ!?」
私エスは夢と現実のうつつから覚醒した。
何だか気持ちが悪い夢を見ていた気がする。僥倖と言うべきか、内容は覚えていない。
「硬い...なんで床で寝たんだろ、私」
キュービットで舗装された床は、ひんやりとした触感を伝えてくる。一切の隙間も許さないその造りは、人が休息するには適していないように思える。
骨の軋みを感じながら、私は辺りを見回してみる。
辺りにはこれといったランドマークはない。高低差がある地形の、低い部分に私は横たわっていたようだった。
「あー不安不安、って言っても気が紛れないよね...」
私は一人ため息をつく。閉鎖的な環境にひとり居たせいか、背後から掛けられた声に過剰な反応を取ってしまった。
「不安とは、あなたの心に迷いがあるのですか?」
「うわーっ!?」
私は慌てて声の方向から飛び退いた。着地でバランスを崩し、二、三歩よろめいてしまうが、なんとか足の裏以外を床に付けずに済んだ。
「ど、ドナタデスカ?」
私は思わずカタコトで応対してしまう。呼びかけられた声の方向に向き直ると、一人の男性が床を見るようにしゃがんでいた。
「心に迷いがあるのはいけないですよ。迷いがあれば隙が生まれる。隙が見えれば付け込まれるのが道理というものです。」
「そ、そうなんですか...」
男の真意を測り兼ねる。しゃがんでいたので気が付かなかったが、身長が高く中々の偉丈夫だ。眉を隠す程まで頭を白いターバンで覆い、茶色の袈裟じみた服を身につけている。背中に背負っているのは大理石だろうか。
この世界において大理石などの資源は貴重だ。鉄や石英などの無機資源は私などでもある程度取り寄せることが出来るが、濫用は厳禁となっている。
次いで有機資源は相応の理由がないと個人での使用は出来ない。ガソリン等の燃料などは顕著だ。
よく見ると、男の足元にはプレート状の大理石が等間隔で並んでいた。大理石には文字が掘られているようだが、見たことがない文字の羅列からは意図が読み取れなかった。
「どうしてこんなところにいるんですか?あなたは一体?」
入眠の記憶がないうえ、一緒に行動していたはずのディエゴとメガスロットのライムも見当たらない。そして目が覚めたら代わりにいたのがこの男という訳だ。状況を整理したかった。
「拙者はペテンの遣い。うぬにはそれだけ知ってもらえば良かろう」
「良くないですってば。私はあなたが何者なのか知りたいんです」
要領を得ない会話につい反論してしまう。男は特に気分を害した様子もなく、すっくと立ち上がった。
「えっと...ペテンさん、でいいんですか?」
男の目がこちらを見据える。身長差から見下ろされる体勢となり、正直威圧感を感じる。ディエゴも体格が良かったが、この男は180cmはあるのではないだろうか。
「否。否である。少女よ。ペテンとは拙者が奉ずる主であり、決して騙ることはできぬ名である。その事を存じて忘れるなかれ」
「はぁ...」
全く奇怪な人物である。言葉の意味がてんで分からない。雰囲気からして悪い人間ではなさそうだが...
「それなら、あなたの名前を教えてくれませんか?」
私の問いかけに、男は腰を降ろし胡座をかく。
「失礼した、拙者はチャン・ザ・リンと申す。此処で失われた命を供養していたのだ」
「む...チャンさん、って呼ばせて貰いますね。チャンさんがここにいる理由を教えて貰えますか?」
少し戸惑ってしまったが、平静を保つ。エスやハゼなど、普通名前は一音節で終わるものだ。告げられた名前の長さは不自然さがあった。
だがそんな疑問は次の男の発言で霧散するのであった。
「惨殺されたのだ。悪意あるものによって多くの人間が。故に拙者は弔わなければならない。魂を痛ましい肉体のくびきから取り払うために」
「ざんっ...!」
チャン氏の言葉を聞いた途端、脳裏にアダムの言葉が甦る。
「ボクは警告したからね!外は危ないってことを!」
私が避けなければいけない要因が、早くも目に入った。私は姿勢を正し、事実を追求しようとする。
「それってどういう...悪意あるものとは?」
「...これを見たまえ」
チャン氏が目配せしたのは、恐らく氏によって並べられた大理石のプレートである。数えてみたら、全部で三十二枚もあった。
「これは死人を弔う墓。悼む気持ちがあるのであれば、祈ってやって欲しい」
「...つまり、三十二人も殺害されたってことですか?」
背中に冷たいものが伝わるのを感じる。墓の実物は見たことがないが、死んでしまった人が出た時に建てられるものだと聞き及んでいる。それが三十二基も。
ヒナゲシ区の一件であったように、人が一人死亡するだけで大わらわになる。それが三十二人も犠牲者が出ているというのだ。三十二という数字はあまりにも非日常的であり、次元が違っていた。
「一体誰がこんな事を...?」
「人が人を殺めるなどあってはならぬと思うか?」
「っ、当たり前ですよ!」
つい熱くなってしまう。異常事態の陰気に当てられているのかもしれない。
「ならその者は、神が許す事はなかろうな...」
「...?」
「多くの命を殺めたのは、きゅーびっとの怪物である。計り知れぬ悪意によって、無辜の平民の頭を叩き割り、あるいは圧壊させ、両の指では足りぬほどの犠牲者を出したのだ。」
「そんなことが...できるわけ...」
私たちが操るキュービットは自由自在に動かすことができる。だが、それによって人間を殺害することはできない。
まず、キュービットの進行方向に人間がいると、自動的に避けるか止まるように設定されているからだ。キュービットは限度はあれど質量の塊を作り出すことが出来る。それにベクトルを付与するとどうなるか?すなわち危険という性質を持つようになる。
キュービットによる事故はゼロにはならないが、故意にぶつけたり挟もうとしたりすればまずストッパーがかかるだろう。無防備でない人間相手を意図的に殺害するなどまず無理だ。
むろん、例外もある。キュービットの移動命令が消えた時だ。そして、実際に私はそれを味わっている。
例えばキュービットが落下したとき。落下中に移動命令が入力されないと、そのまま地面に直撃する。そこに人がいれば、頭部にメガスロットを組み込まないと生活できない人間も出てきてしまう。
...どちらにせよ、不慮の事故はあれど大量の犠牲者を出すことは不可能だ。巨大なキュービットの塊が落下し、その下に三十二人の人間がいたくらいしか、私には思いつかない。
だが、チャン氏はキュービットの怪物がこの被害をもたらしたと言った。そして私は、あろう事かその怪物に心当たりがあった。
「メガスロット...!」
ライムと初めて邂逅した時。メガスロットを中心に怪物の様相を象っていた。その時はディエゴが持つ黒い杖によってあっさりと霧散してしまったが、メガスロットによる攻撃によって犠牲者が出たのだろうか?
「はて、メガスロットとな?」
チャン氏が不思議そうに首を傾げる。ボキっという豪快な音がしたが、どこか骨折した訳ではないようだ。
「メガスロットってのは、キュービットを自分の意思で操ることが出来るって装置です。そしてそのメガスロットでの操作は...」
通常の操作による制限を受けない。
メガスロットについて、私も持ちうる情報は少ない。しかしはっきり分かることは、いわゆる裏技的な方法でメガスロットを動かしている。
通常の操作では、高度上限や人への衝突回避など、セーフティが設定されている。しかし、メガスロットを介した操作では、そのセーフティが取り払われている、いや、常備されていないと言った方がいいか。
私がディエゴの為に高度限界を超えた橋を作ったように、人への加害も出来てしまう。以前確認をし、それは慌てたものだ。
「ふむ...」
ふけこむチャン氏。どうやら、犯人がメガスロットであるという懸念が浮かんだのかもしれない。
「沢山の人が死んでしまったということは、人が居る場所が近くにあるってことですよね?それはどこに?」
「拙者は手が離せぬゆえ、ここから北の方角に向かうことを推奨する。それしか出来ぬがな」
「ううん、あとは私が決めるものですから。ありがとうございます」
早速向かおうとする私に、待てとチャン氏から声を掛けられる。
「どうしたんですか?まだ何か?」
「うぬは、人間以上のはるか高みにいる超存在が居ると信じるか?」
「え?」
超存在とはなんだろうか。うーんと軽く思案してみると、地下室で発見したアダムの姿が思い浮かんだ。
「居てもおかしくはないと思います。まぁ、それに近しい存在とは会ったことがあるので...思ったより怖くは無かったですけど」
一笑に付し、私は踵を返して走り出す。そのためか、目を見開きこちらに据えるチャン氏の顔が確認できなかった。
私はとんとんと跳躍し高低差をものともせず、見知らぬ大地を駆けていった。
****
「...神と、会った事がある?」
三十二基の墓が並べられた空間、そこにはチャンひとりが残されていた。
「この世界にも、神が居るというのか?」
ゆらゆらと陽炎の如く立ち上がり、チャンは天井を見上げる。
「否。否。戯言である。神を騙るのはペテンだけで良い」
そう言うと厳然とした足取りでその場から去っていった。
そしてその空間には、墓のみが残されるのであった。
風化しないであろう墓は、悼まれることがないという事実を示すのであった。