黄金の癒し手
書き散らし。
息抜きで書き始めて勢いで書き終えたので諸々なんにも保証はありません。
その婚約は彼女が誕生する以前より取り決められたものだった。
ヴィクトリア・ゴールドウェル。
ゴールドウェル侯爵家の娘として生を受けた彼女は、類稀なる魔法の才を有した乙女であることを期待されてきた。
名にゴールドを冠する家に生まれた娘らしく、その髪は黄金色。眸はとろりと溶ける蜂蜜色。見る者の視線を釘付けにする美貌と、知る者の心を縫い付ける魅力を備えている。
ゴールドウェルの黄金姫。期待に応えた彼女にはいつしか、そんな通り名がついた。
『お前の魔力は全て、愛する王子様のために使いなさい』
婚約者との初顔合わせを翌日に控えた六歳の誕生日の夜、ベッドに横たわるヴィクトリアの手を握った父はそう言った。
愛する王子様。ヴィクトリアが、愛すべき王子様。
アルバート・ノックウッド。王家の五男坊である。
幼い頃から体が弱く、激しい運動どころか日々の生活もままならない。息を吸って、吐く。目を覚まし、体を起こす。食事をする。歩く。
常人が当たり前に行う全てのことが、彼にとっては重労働だった。十歳を迎えてなお、彼は生きることだけで精一杯である。ヴィクトリアの婚約者になる人はそういう方だと、説明を受けた。彼を支え守ることが、ヴィクトリアの人生なのだ、と。
『誠心誠意お守りするんだよ』
はい、お父さま。
睡魔に手招かれ重くなる瞼を懸命に持ち上げて、幼いヴィクトリアは頷いた。
『お前は私の自慢の娘で、ゴールドウェルの血を引く者だ。大丈夫。絶対に幸せになれるから。何も心配は要らないよ。お前ならできるさ』
こちらの言葉には返事ができなかった。瞼はすっかり下がりきって、父の唇がそっと額にキスを落としたのを最後に、ヴィクトリアは眠ってしまったからだ。
大丈夫。何も心配要らない。父がそう語るときは絶対にそうなのだと、彼女は知っている。だから大丈夫。ヴィクトリアは大丈夫。わたくしならできる。深い安堵が睡魔の誘惑を許した。
あの夜から十二年、ヴィクトリアは父の言う通りに生きてきた。
あらゆる魔法の知識を吸収し、獲得した魔法の技術はすべてアルバートを護るために捧げ、真心を込めて尽くす。そうすることが幸せでいられることなのだと、疑いもせず今日まで生きてきた。
何一つの心配もなく、できうる限りすべての力を尽くして、幸福を享受してきた。
上手にできたはずなのに。ちゃんとできたはずなのに。
「ヴィクトリア、ぼくらの婚約関係は今この時をもって終了だ。君との婚約は破棄する」
これはなんだろう。この状況は、なんだろう。
招かれた王宮で、その庭園で、今まさに展開されている状況を、ヴィクトリアは理解できない。
約束の時間よりわずかに遅れて登場したアルバートは、隣に女を連れていた。
アニエス・ハント。伯爵家の娘だったと記憶している。魔法を操る者の中でも稀な、癒しの魔力を授かったという。
艶のある黒髪に、同じく黒い眸。透けるように白い肌との対比が美しい娘だ。ヴィクトリアより一つ二つ年上のはずだが、顔立ちのせいか幼く見える。
彼女は、優秀な癒し手という話だ。
傷を癒し、病を癒し、弱った心を慰める。心根の優しい娘だと、夜会で噂する貴族令息たちの声を聞いた。
傷心を癒し、恋の病を癒し、弱った心をわしづかみにする。心根の卑しい娘だと、令息たちの噂話を耳にした令嬢たちが声を潜める様子を見ていた。
男女間でまるで真逆の評価を下される。世渡りが下手なのね、というのがヴィクトリアのアニエスに対する正直な感想だった。
そんな娘が今、ヴィクトリアの前に立っている。当たり前のような顔をして、アルバートの隣に立っている。
アルバートは彼女の手をとり、エスコートしてやってきた。婚約者であるヴィクトリアと過ごすための時間に、別な女を伴ってやってきた。
混乱するな、というのは酷だろう。
「彼女はアニエス。優秀な癒し手だ」
淑やかに口元に弧を描くアニエスを見て、ヴィクトリアは首を傾げた。――頭を下げない。
ヴィクトリアは王子の婚約者で、そして侯爵家の娘である。紹介されたのだから、アニエスのとるべき行動はヴィクトリアに対してカーテシーをとることだ。しかし彼女はそれをしない。
ハント伯爵家は娘に教育をしていないのかしら。不思議でならなかった。
「ヴィクトリア、ぼくは彼女と結婚するつもりだ」
アルバートはアニエスの不動を咎めることなく、話を続けてしまう。ヴィクトリアはすっかり置いてけぼりだ。
「君の魔力量に物を言わせる方法は、ぼくには合わない」
置いて行かれたまま首を傾げていてもしかたないので、ヴィクトリアはアルバートの言葉に意識を集中させることにした。
なるほど、なるほど。アルバートの言葉を噛み砕く。しっかり、ゆっくり、咀嚼する。
ヴィクトリアとの婚約を解消して――……破棄して、アニエスと婚約を結び直す。そしてその原因は、ヴィクトリアの魔法に関する技術が関係している。
アルバートの言い分は理解した。
理解したので、ヴィクトリアはカーテシーで礼を示す。
「こんにちは、アルバート殿下。本日はお招きいただきありがとうございます」
まずは挨拶から。状況がどうあれ、対する相手の態度がどうであれ、ヴィクトリアがそちらに合わせてやる必要はない。
「お天気に恵まれましたわね。殿下の体調も問題ないようで、嬉しゅうございます」
「は……? ぁ、いや、……」
「本日はわたくしとの婚約に関するお話をする、ということでよろしいでしょうか?」
「あ、うん……そ、そうだ。君との婚約は破棄する。そしてぼくはこちらのアニエス嬢と改めて婚約する」
「わたくしの魔法に、何か不都合がございましたか?」
「ん? ああ、魔法……魔法な。そうだ。君の魔法はぼくに合わない」
場の流れをつかみ損ねた。その場の空気を掌握し損ねた。アルバートの様子はまさにそんな感じで、主導していたつもりがあっという間に権を奪われた。ヴィクトリアの言葉にいちいち正面衝突しては、もたもたと体裁を整え返事をする。しかし返事をした先からまたヴィクトリアがすかさず言葉を投げつけるものだから、アルバートはもうたじたじだった。
「合わない、ということですけれど、もう少し具体的にご説明いただいても構いませんか?」
「ぐ、具体的に……?」
「申し訳ありません。わたくしはこれまで、細心の注意を払って殿下のお体をお守りしてきたつもりでおりました。それが今になって不具合を指摘され、少々混乱しております。殿下にお手数をおかけする無礼は承知の上で、それでもお願いいたします。わたくしの魔法の何が、殿下に合わないのでしょうか?」
アルバートは沈黙した。
魔力量に物を言わせるやり方が合わない。用意していた説明はそれだけで、それで十分だと思っていた。ヴィクトリアはこれまでアルバートのあらゆる不調を、不都合を、不具合を、きちんと察して調整してきた。十を告げずとも、多くとも六まで言えば十一まで理解した。だから十を語れと言われても困ってしまう。
ヴィクトリアにもわからないことがあるのだな。素直に面食らった。びっくりした。
驚きのあまり言葉を探すでもなく二の句を継げないアルバートの代わりに、アニエスが口を開いた。彼女はアルバートを庇うように一歩、前へ出る。
「ヴィクトリアさま、アルバートさまのお体は現在あなたの魔力で満ち満ちています。もちろん治療のためなのでしょうが、しかしこれではアルバートさまご自身の治癒力が枯渇してしまいます。魔力量というのは言葉通り、注ぐ魔力の量が多過ぎるのです。いついかなる時もおそばに控えていられるわけではないのですから、注ぐ魔力はあくまでも、殿下ご自身のお体の自然治癒力の補助程度であるべきだと思います」
いついかなる時もそばに控えていられるわけではない。
それは現状のことを皮肉っているのだろうか。わずかに細められたアニエスの目に、ヴィクトリアは不快感を覚えた。扇を取り出し、口元を覆い隠す。
――この娘は、何もわかっていない。
「そ、そうだ。これまで懸命にぼくを支えてきたつもりなのだろうが、君のやり方は間違っていたんだ」
アニエスの言葉を受けて、ヴィクトリアの沈黙を受けて、アルバートが思い出したように口を開いた。
「そもそも君には癒しの魔力への適性がないだろう。どんなに優れた魔法技術があっても、やはり本職には及ばない。今後の治療はアニエスに任せる。彼女は君と違って正式な癒し手だ。正しい治療でぼくを支えてくれるだろう」
「殿下の治療を彼女が引き継ぐ件に関しては理解しました。ですがそのことが、わたくしとの婚約を破棄することと、どう関係してくるのでしょうか?」
「ぇ、だから……」
「癒し手とは本来、教会に所属し治療を必要とするもの全てを平等に癒す者のこと。王子といえども個人のための癒し手など聞いたことがございません」
癒しの魔力を宿す者は希少だ。その力は教会が保護し、管理されるべきものである。
個人が囲い込み力を独占したり、道具のような扱いで酷使し使い潰したり、奴隷として高値で取引したり。そういった負の歴史を経て、王家であっても介入できない癒し手の保護のための国際的な規定がある。もちろん各国の教会には第三者機関による定期的な監査もある。それだけ厳正に取り扱うべき力なのだ。
「癒し手にも婚姻の自由はあるだろう」
「王家と侯爵家の婚約に割り込むことを自由とは申しません」
「ヴィクトリア、君だってぼくの体のことは理解しているだろう。ぼくの不調は一過性のものじゃない。体調を崩すたびに教会から人を派遣してもらっていたのでは間に合わない」
幼い頃から――生まれたときから、アルバートの体は弱々しい。一時的に好転することもあるが、大抵は調子が悪い。
原因療法は存在せず、できるのは対症療法だけである。
そのためのヴィクトリア。そのための婚約であったはずだ。都度、教会から癒し手を呼び寄せるのでは間に合わないから。定期的なメンテナンスさえすれば、永続的に治療のできるゴールドウェルの魔法技術を、それを成し遂げるだけの力量を備えたヴィクトリアを、王家は求めたはずであった。
そうあれと、磨いてきた技術であったはずなのに。
「もちろんアニエスは教会に属する癒し手としてこれからの人生を生きる。けれど同時に、ぼくと添い遂げる人生だって生きられるはずだ」
「もちろん、生きられますとも」
ヴィクトリアの返事に光明を見出したのだろう。アルバートの表情が晴れる。同時に、アニエスの頬も紅潮した。
ヴィクトリアはすかさず言葉を続ける。ですが、と。逆接をもって、二人に差した光を閉ざす。
「殿下と添い遂げる人生は彼女のものではなく、わたくしのものであるはずです」
「いや、だから……」
「わたくしと殿下の婚約は王家とゴールドウェル侯爵家、双方の合意の元わたくしが生まれる以前より取り決められていたもの。それを破棄などと、随分と一方的なおっしゃりようではありませんか」
「そ、それは……」
アルバートは言い淀んだ。婚約が成立して十二年。こんな風にヴィクトリアから詰問されたことは一度もなかった。
凪いだ水面のように穏やかな乙女。ヴィクトリアは常にそうだった。いつだって優しい声音で語りかけ、アルバートの言葉に柔らかく相槌を打つ。
病弱な王子を案じるあまり何もかも取り上げ、がんじがらめに制限する連中とはまるで違う。何を語っても、何をしたいと望んでも、何を食べたいと願っても、ヴィクトリアはいつだって笑って受け止めてくれた。
そういうところが好きで、――そういうところが退屈で。コロコロと変わる表情だったり、鈴を転がすように笑う声だったり、アルバートの無茶に対して新鮮に驚いて大袈裟なくらい心配してくれるアニエスは刺激的で。
十二年の付き合いを一方的に切り捨てる決意をするほどの刺激に、アルバートはコロッと酔ってしまった。
「殿下とわたくしの関係は恋愛ごっこではございません。遊びではないのです。これは王家と侯爵家との、契約なのです」
弟を叱る姉のよう。
アルバートのほうが年上であるのに、立場はまるで逆だった。
「殿下の我儘で軽々しく扱っていいものではありません」
ぴしゃりと叱りつけられ、アルバートはそれだけですっかり萎びてしまった。反論しようという気さえ起こらない。
ヴィクトリアの言っていることは間違っていない。むしろ正しいことしか言っていない。
悪いのはアルバートで、間違っているのはアルバートで、だからもうアルバートは何も言えない。
アニエスのことが好きだ。ヴィクトリアに対して感じるものとは違う、別な好きがある。
鮮烈で、熱烈で、強烈なこれはきっと、――これがきっと、恋というものなのだと思った。
生まれてからずっと、アルバートが自分で何かを決めたことなど一度もない。朝起きる時間も、食事の内容も、着る服も。毎日、自分以外の誰かが決めている。アルバートは従うだけだ。
ヴィクトリアとの婚約もそうだった。決めたのは両親で、アルバートはすべてが決定した後で知らされた。もちろん逆らうことなどできず、彼は従った。
彼女がお前の婚約者で、将来的には妃になる。お前の不調を癒せる人は彼女以外にはありえないから、他の令嬢では替えが利かない。お前の愛情はすべて、彼女を愛するためだけに使いなさい。
はい、陛下。返事はそれ以外には許されない。はい、陛下。そうしてアルバートの人生は誰かの指示で、誰かの意思で溶けていく。
「ヴィクトリアさま、そのおっしゃりようは幾らなんでも、あんまりではありませんか」
アニエスの声にハッとする。
彼女以外にはありえないと言われた。ヴィクトリア以外に、アルバートの不調を癒せる人はいないのだと。
それは正確ではなかった。いたのだ。アニエス・ハント。彼女こそ、ヴィクトリア以外に――彼女以上に、アルバートを癒すことのできる存在だった。
アニエスと過ごす時間はたのしくて、アニエスと一緒にいると心が休まる。アニエスのおかげで毎日が晴れやかに思えて、アニエスはアルバートの心を癒してくれる。それはヴィクトリアでは得られなかったものだ。
このところ体調だって悪くない。剣を振るったり馬に乗ったりすることはまだ難しいが、ダンスを一曲、最後まで踊り切ることができた。その際、そばにいてくれたのはアニエスだった。彼女といれば、すべてがうまくいくような気がする。
「アルバートさまのお心はアルバートさまのものです。契約で縛りつけていいものではありません」
「王家の婚約に心は関係ないのですよ」
「ひどい……。アルバートさまのお気持ちはどうなるのですか?」
「その言葉はわたくしにも該当しますわね。わたくしの気持ちはどうなります? 十二年間、殿下のために捧げた人生でしたのに。一方的に婚約を破棄され、実家に泥を塗られ、それでも殿下のお気持ちのために黙って受け入れろと言うの?」
ヴィクトリアの反論に、アニエスは青褪めた。
「結局はご自分のことなのですか?」
王子よりも自分を優先する。傲慢だとでも言い出しかねない声音だった。
どうあってもヴィクトリアを責める姿勢を貫くらしい。……まあ、当然か。
ヴィクトリアは幼い子どもへ言い聞かせるつもりで言葉を選んだ。
「この婚約は個人間で交わした口約束ではないのです。両家の間で交わされた契約で書面も残っています。双方の合意なしに解消……破棄などできないと言っているのです」
「だからって、……そんなの間違ってます!」
激しい言葉の応酬が止む。ヴィクトリアが返さなかった。沈黙を好機と捉えたか、アニエスは語気を強めてさらに一歩前に出る。
「ヴィクトリアさまがこのままアルバートさまのおそばに控えていても、アルバートさまのお体は好転しません。間違った治療では誰も救えないのです」
私なら、と。自身の胸に手を当て、アニエスが宣言する。
「私ならアルバートさまを救えます。救ってみせます。ですからどうか、身を引いてください」
今ならまだ間に合う。
それがアニエスの主張だった。
誤った治療でアルバートの体を誤魔化してきただけのヴィクトリアでは、彼が本格的に体調を崩した場合に対処できない。最悪を想定し、最善の策を打つ。そのために、常にそばにいられる立場を譲ってほしい。
声高に、アニエスはそう主張した。
「ヴィクトリアさま、お願いします」
言葉が締めくくられるのを待って、耐えて、ヴィクトリアは扇を仕舞った。
「そう、あなたの主張は理解しました」
間違っている。アニエスははっきりそう言った。
ゴールドウェル侯爵家が長い年月をかけて編み出した魔法を否定する。代々受け継いできた魔法技術を踏み躙る。貴族社会の根幹である政略結婚の意義を蔑ろにする。王子の身をゴールドウェル侯爵家に預けた王家の判断を、過ちだと切り捨てる。
アニエスの主張はつまり、そういうことだ。
――話にならない。
付き合っていられない。ヴィクトリアは言葉での説得を諦めることにした。
「あなたは、自分なら殿下のお体を普通の人と同じ状態にできると言うのね」
「はい」
「殿下の体質を根本から改善し、不調の一切を排除できる、と?」
「できます」
「あ、そう」
淡白な言葉だった。
ヴィクトリアはちらりとアルバートのほうを見遣り、そして魔力を練った。
アルバートを包んでいた魔法が霧散する。――途端、彼はその場に崩れ落ちた。
「はっ、ぁ――!」
立っていられない。糸を切られた操り人形のように、ぷつりと体を支える芯が消えてしまった。
呼吸が乱れる。心臓が鼓動するたびに、血管が破れるような感覚に襲われる。
手足は凍りつかんばかりに冷えているのに、胸は焼けつくほど熱い。
それは忘れかけていた感覚だった。幼少期――ヴィクトリアと出会う前まで当たり前にあった、アルバートの日常。命を蝕む死の感覚が、十二年ぶりに彼の全身からあふれ出した。
息を吸って、吐く。目を覚まし、体を起こす。食事をする。歩く。それだけで精一杯だった幼少期。あの頃、常に付き纏われていた全身を這い回る死神の愛撫も、十二年という月日を経てしまっては非日常と化す。アルバートは死の感覚との付き合い方を、すっかり忘却してしまっていた。
助けて。求めたくても声が出ない。出せない。はくはくと開閉する口は酸素を取り込み、吐き出すだけにすべての力を要している。
ハッハッ――、と呼吸を乱すアルバートのそばに立つふたりの女は、救助活動ではなくあろうことか口論をはじめた。
「な、何を――ヴィクトリアさま!」
「殿下にかけていた魔法を解除しただけですよ。さて、自然治癒力、だったかしら? お手並み拝見と致しましょう」
責めるアニエスに対するヴィクトリアの返事は、血も凍るように冷えきっていた。
「なんてことを……ア、アルバートさまが死んでしまいます!」
死。耳をつんざいたアニエスの言葉に、アルバートはびくりと全身を震わせた。
息を吸って、吐き出す。息を吸って、吐き出す。息を、吸って、吸って……。吐き出すたびに命がすり減る気がして、とても恐ろしい。それでも吐いて、また吸わなければ、それこそ本当に死んでしまう。
アルバートは懸命に呼吸を続けた。ハッハッハ……――恐怖でガタガタと震えている彼の頭上へ、ヴィクトリアの柔らかな声が降る。
「心配要りません。殿下は大丈夫です」
大丈夫。本当に……?
わずかに、ほんの少しだけ深く息を吸うことができた。しかしそれも、アニエスがまた金切り声を上げたことで打ち消される。
「大丈夫って……こんなに苦しんでいらっしゃるのに、何を言っているんですか!?」
「あなたが治すのでしょう? さっきそう言っていたじゃない」
「っ……」
そう、そうだ。アニエスは言った。
自分ならアルバートを救える、と。救ってみせる、と。
助けて。助けて、アニエス。
ほとんど力の入らない腕を必死に持ち上げて上体を支え、辛うじて動く眼球をアニエスへ向ける。彼女も気づいたらしく、慌ててアルバートへ両手の平を向けた。
全身が魔力に包まれる。――しかし、同時に全身を裂くような痛みが駆け抜けた。
「がっ、あ――ああああああ!」
辛うじて上体を支えていた腕さえ折れて、地面に倒れ伏す。それでも痛みを逃がすことはできない。のたうつ余力すらなく、アルバートはガタガタと歯を鳴らしながら痛みに耐え、自身の肩をきつく掻き抱いた。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――……。
ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返す。
いつの間にか、わずかに痛みが引いていた。泣き叫ぶほどではない、殺してくれと血迷った思考を呼び起こすほどではない、けれど確かにまだ痛い。そういう痛みにまで落ち着いていた。
「ど、どうして……なんで……」
てっきり慣れたのかと思ったが、どうやらアニエスが治療のために魔力を込めることを中断したためであったらしい。困惑した弱々しい声が降ってくる。
「わ、私は確かに……なんで」
「何をしているのです? 早く殿下を癒してさしあげて?」
声を震わせるアニエスに対して、ヴィクトリアの声にはどこまでも余裕がある。
「あなたは優秀な癒し手なのでしょう? ほら、頑張って」
軽やかな笑い声が鼓膜を叩く。
アニエスは何をやっているのだろう。甲高い声で何事か訴えているようだが、判然としない。アルバートの耳はうまく音を拾えなくなってきていた。
不自然な程、ヴィクトリアの声だけが鮮明に響く。
「わたくしは邪魔などしておりませんよ。なんです? 己の力不足をわたくしの責にしようと言うの? ほらほら、現実から目を背けていてもしかたないでしょう。殿下が助からなくてもよろしいの?」
助からない。妙に耳に残った。
背筋を冷たいものが這い上がる。助からない。――嫌だ。
助けて。助からない。助けて。助けてくれ。早く。
「ほら、殿下が助けを求めていらっしゃるわ。早く助けてさしあげて?」
助けて。
「困りましたわね」
助けて。苦しい。
「殿下、あなた様のおっしゃる『優秀な癒し手』はどうやら、助けてはくれないようです」
助けて。苦しい。痛い。助けて、助けてくれ。
「もしかして、殿下の苦しみがきちんと伝わっていないのかしら。殿下、もっと懸命に助命を乞うたほうがよろしいですわ。どうも彼女からは、本気で治療しようという気概が感じられません」
アルバートは絶句した。
こんなにも苦しいのに。今にも心臓が溶けてしまいそうなのに。
アニエスは、助けてくれないのか……?
「さあさあ、発声のお手伝いをしてさしあげますから、アニエスさんに命を願ってごらんなさいませ」
馴染みのある魔力が肌を撫でた。
ヴィクトリアの魔力。それだけでアルバートの呼吸はうんと楽になった。
「た、……けて」
はくはくと口を動かす。
ようやく声らしい声が出た。
「助けて、くれ……!」
「お上手です、殿下。さあ、その調子」
息を吸って、吐く。そのたびにヴィクトリアの魔力が肺を満たす。
生きている。死が遠のく。
生かされている。死を遠のけてくれる。
思い出した。これがあったから、生きてこられたのだ。息を吸って、吐く。目を覚まし、体を起こす。食事をする。歩く。常人が当たり前に行うすべてのことが、アルバートにとっても当たり前になったのは誰のおかげであったのか。何が自分を生かしていたのか。アルバートは思い出した。
声を張る。命の限り助命を乞う。
「助けてくれ、ヴィクトリア!」
よくできました。
子を褒める母のように、ヴィクトリアが緩やかに口角を持ち上げる様子がかすれた視界に映った。
たちまち――すべての痛みが消失した。
助かった。生きている。
苦痛の合間にこぼれた生理的な涙に紛れて、歓喜のそれがこぼれ落ちる。
助かった!
「な、なんで……」
息を深く吸って、長々と吐く。生の実感を噛みしめるアルバートのそばで、アニエスが声を震わせた。
「これは一体……ヴィクトリアさまはアルバートさまに何を……」
どうして、どうして。
アルバートの復調を受け止められない様子の彼女に、ヴィクトリアが軽やかな声音で告げる。
「殿下の体質を根本から改善する術など、この世のどこにもないのよ」
「は……?」
「竜の血がもたらす不調ですもの。流れる血をそっくり入れ替えるくらいのことをしなければ、根本的な解決にはならないわ」
王家の血を引く者は例外なく、その身に膨大な魔力を宿す。それは始祖であるドラゴンの血が故に避けられず、それこそが王家の証明でもある。しかしその血は、時に人の身に余る。
魔素中毒。
生命エネルギーとして全身を巡る魔素が体内で過剰に生成され、魔力へと変換することもままならず、毒のように人体を蝕む。
アルバートの不調はそれだった。
歴代でも例を見ない速度で、大量に魔素を生成する強靭な魔力器官。幼い頃であれば問題なかった。怪我や病を物ともしない満ち満ちる生命エネルギーは、五男という彼の境遇において大いなる助けとなった。育児放棄も、飢餓も、毒も、怪我も、――命を脅かすあらゆる危機を遠ざけた。
王位争い。
恋多き国王の悪癖が招いた、妾妃たちによる血の闘争。目まぐるしく様相を変化させる後宮に在って、アルバートは襲い来る脅威そのすべてを無限の生命力だけで乗り越えた。
しかしそれも、脅威が過ぎ去るまでの話である。
王位争いは唐突に終幕した。
長子であるエドワードが成人まで無事に生き残り、そのまま立太子したのである。
生き残ったのはエドワードと、アルバートの二人だけ。王太子の予備として、王位継承権の二位へと繰り上がったアルバートを害そうとする人間は誰もいなくなった。
真綿に包まれたような生活、飢えず、毒されず、守られ、――命を脅かすあらゆる危機が排除された。そうして始まった、新たな地獄。
消費する先を失ったアルバートの魔素は、彼の体内を巡って、巡って巡り続けて――……彼自身に牙を剥いた。
あふれて、あふれて、なお生成され続ける魔素はいずれ流れることもできなくなり、体内で結晶化し魔石へと変質してしまう。そうなる前に、体内の魔素を解す。アルバートに必要な治療とは癒すことではなく、魔力操作の補助である。魔素が停滞しないよう、溜まらないよう、常に体内を循環させ適宜魔力へと変換し、そして魔法として放出する。
放出する魔法はなんでもいい。物理的な攻撃を防ぐ盾で身を守っても、精神的な攻撃を防ぐ壁を張り巡らせても、自身の周囲に花弁を舞い散らせても。とにかく魔法として体内から余分な魔素を排出できればよかった。
癒し手ではなく、優秀な魔法使いであることを望まれたヴィクトリアが、病弱な王子の婚約者に選ばれた理由。類稀なる魔法の才――繊細で正確な魔力操作の腕を期待されての婚約であった。
「魔素の量が問題であるのだから、そこへ魔力など注ぎ込んではそれこそ死期を早めてよ」
「そ、そんな……でも、あなただって!」
アルバートの体内を隙間なく埋めてしまうほどの量が注がれていた。
「わたくしの注ぐ魔力はすべて、殿下の体内を巡る余剰な魔素を分解しているのよ」
よどみなく魔素が巡るように。結晶化を防ぐだけでなく、必要な分だけが残るように。
「決して殿下の魔素と交わらない、混ざり合わない、そういう調整をしているのだから害はないわ」
「そんな……そんなこと」
できるわけがない。言いかけて、しかし結局、言葉にすることはできなかった。
アニエスは気づいた。わかってしまった。
常人には不可能なそれを、規格外なその技術を、ヴィクトリアは可能にしたのだ。
できるから、彼女はアルバートの隣にいる。できるから、彼女はアルバートの婚約者であり続けられている。
奇跡ともいえるレベルの魔法操作技術。休むことなく生成され続ける魔素を、休むことなく分解し続ける。そばにいようと、いまいと、継続することができる。
ゴールドウェルの黄金姫。
どれほどの金塊を差し出しても、手に入らない高嶺の花。どれほどの金貨を積んでも、等価にならない至高の魔法。
ヴィクトリア・ゴールドウェルには、それだけの価値がある。
王子の命を、まさにその手に握っている。
彼女がいなければアルバートは生きられない。彼女がいなければアルバートは息もできない。
「じゃあ、これまで私がかけていた魔法は……」
「あなたが殿下に注いだ癒しの魔法もまた、わたくしの魔法によって分解されていたのでしょうね」
今回はそれを解除していたために分解されず、結果としてアルバートに苦痛を与えた。
外から注がれる魔法がなんであっても例外はなく、アルバートにとってはすべてが肉体を害する脅威だ。故に、分解される。
無駄だった。
無意味だった。
アニエスが自信をもって、アルバートを救うのだと確信をもって積み上げてきたものはすべて、無に帰した。膝が折れ、地面に座り込む。
「あらあら、アニエスさんったらどうなさったの?」
へたり込んだアニエスへ、ヴィクトリアはあくまでも軽やかに余裕をもって語りかける。
「残念ながらあなたには殿下を救う技術の持ち合わせはなかったようだけれど、そう悲観するものではありませんよ」
硝子玉のように透き通ったアニエスの双眸が、弱々しくヴィクトリアを捉えた。
「あなたは殿下の愛を獲得したのでしょう? 自信を持ちなさい」
ヴィクトリアは得られなかった。あるいは失ってしまった。それをアニエスは得た。
流れた視線が、今度はアルバートを捉えた。彼はまだ地面に伏したまま、顔だけ上げてヴィクトリアをじっと見つめていた。その表情はおおよそ、命拾いした人間のものではない。
「ヴィクトリア……ヴィクトリア……?」
母に縋る迷子の幼子のよう。アルバートのか細い声にも、ヴィクトリアは調子を変えない。徹底している。淑女の仮面を脱ぐことなく、一貫した態度で言葉を紡ぐ。
「お可哀想な殿下。最愛の乙女がこうも貧弱では、長生きは望めませんわね」
ひゅ、っと。息を呑んだアルバートの顔から血の気が引いた。
「ヴィ、クトリア……?」
「ですが、まあ……国にとってアルバート殿下の命はそれほど重要ではありませんし。エドワード殿下でなかったことを、幸運だと捉えるべきですわね」
唐突に出てきた兄の名に、アルバートは絶句した。
エドワード・ノックウッド。王家の長子であり、アルバートの兄であり、王太子である。丈夫な体、聡明な頭脳、健全な精神、――アルバートが持っていないものをすべて持っている兄。優秀な兄。
ヴィクトリアとも交流があることは知っていた。将来は彼女にとっても兄となる相手だ。不思議なことではない。しかし今、この場で名が挙がるとは思いもしない。
アルバートの命と兄のそれとを比較して、その重さについて言及する。それはアルバートが忌み嫌うことのひとつだ。
丈夫な兄と、脆弱な弟。聡明な兄と、平凡な弟。健全な兄と、不健全な弟。
エドワードの立太子が決まった日からこれまで、幾度となく聞いた、アルバートの王位継承権は不要ではないかと陰で囁く声を、幾度となく聞いてきた。嫌でも理解した。己の命は兄の命よりも軽い。
予備にするには脆すぎる。代替品と考えるには弱すぎる。
「アルバート殿下の命がいつ尽きようとも、国は揺るぎませんもの」
突きつけられた。
「き、君も……そんな風に思っていた、のか……?」
兄に劣る弟だと。兄に追いつけない弟だと。兄がいる限り必要のない弟だと。
「? 何をおっしゃっているのです?」
きょとん、と目を瞬かせたヴィクトリアは語る。
「なればこそ、わたくしは殿下を独り占めできたのではないですか」
「――は?」
「国が殿下を必要としないから、わたくしが目一杯に愛して、甘やかして、力の限り幸せにしてさしあげられたのです」
「……」
そんなふうに、思っていた。
国家にとっての重要度が高ければ高いほど、アルバートの自由は奪われる。見るもの、触れるもの、感じるもの、すべてに神経を研ぎ澄ませる必要が生まれてしまう。
なにより彼が王になってしまっては、アルバートはヴィクトリアのものではなく、国のものになってしまう。王とはそういうもので、その妻もまた同じく国家の歯車だ。だからよかった。エドワードがアルバートを寄せ付けない程、優秀な男でいてくれてよかった。
「ですが、それも今日でお終い。わたくしは用済みですものね」
「ヴィ、ヴィクトリア」
「今掛け直した魔法はそのままにしておきますわね。今後はメンテナンスをする機会もありませんからいずれは綻ぶでしょうが、それまでにはきっとアニエスさんが助けてくれますわ」
だって彼女は――
「優秀な癒し手ですものね」
いっそ清々しい物言いだった。
そんなことは微塵も思っていないだろう。たった今、アニエスの魔法ではアルバートを救えないと証明したばかりだ。ヴィクトリア自ら、証明した。にもかかわらず、アルバートの命運をアニエスに委ねると言う。
もう助けてくれない。ヴィクトリアはアルバートを救わない。彼女の言葉は、遠回しに死を宣告しているようなものだ。
「それでは殿下、わたくしそろそろ失礼いたします。どうぞお元気で」
嘲笑うような、突き放すような、どうでもいいような、ぞんざいな挨拶だった。カーテシーは相変わらず美しい所作で行われたが、そこには敬意の欠片もない。
なによりアルバートはまだ立ち上がることすらできていないのだ。地面に這いつくばる王子を見下ろして、その頭上に言葉を落とす。まるで王家に仕える臣下の態度ではない。
見捨てられた。
先に切り捨てたのは自分であるのに、アルバートの胸を満たしたのは喪失感と、強烈な孤独だった。ヴィクトリアに、捨てられた。
「ま、待ってくれ!」
とっさに伸ばした手がヴィクトリアのドレスの端に触れる。アルバートは迷わず掴んだ。ぎょっとした声をあげたのは誰であったか。誰でもいい。ヴィクトリアではなかったので、どうでもいい。
「待ってくれ、ヴィクトリア……待ってく、れ」
お願いだ。
懇願はゼェゼェと吐き出す荒い息に巻かれて擦り切れた。それでも懸命に言葉を吐き出す。吸い込む酸素をすべて、言葉に変換するつもりで喉を震わせる。
「ぼくが愚かだった。すまない、本当に……すまない」
許してくれ。――許してください。
ドレスをつかむ指先が白んでいる。力を込めすぎて、握り込んだ爪が手のひらに食い込んだ。
息が苦しい。鼓膜を破らんと大きく鼓動する心臓は、ヴィクトリアの魔法が薄れているせいではなかった。息を吸って、吐く。一回の間が永遠に感じられる。
神の審判でも待っている気分だ。
「ヴィ、クト――」
「アルバート殿下」
優しい、優しい声が降ってきた。
「殿下にとって、わたくしはなんでしょう?」
深く息を吸う。
「すべてだ。ヴィクトリア、君がいなければぼくは――息もできない」
彼女はにっこりと笑んで、そして女神の審判は下された。
◇
王宮内の一室にて、数人の男女が丸テーブルを囲って座っている。
ヴィクトリア・ゴールドウェルは背筋を伸ばし、口の形だけで笑んでいる。
アニエス・ハントは青褪めた顔をうつむけ、体を縮めている。
エドワード・ノックウッドはふたりの女を見比べて、薄く笑った。
アルバートは同席していない。あのあとすぐに、駆けつけた兵によって寝室へ運ばれ、今は眠っている。
「さて、と」
口火を切ったのはエドワードだった。
「まずはヴィクトリア嬢、愚弟が迷惑をかけたね。すまなかった」
「いいえ、殿下。それだけアルバート殿下に余裕が生まれたということ。体調への不安が薄れているというのは、素直に喜ばしい状態ですわ」
麗しく口角を上げたヴィクトリアの声には慈悲が感じられたが、細められた蜂蜜色の眸は冷え切っていた。
エドワードは気づいて、それでもあえて無視した。
「今後も弟をよろしく頼むよ、ヴィクトリア嬢」
「はい、お任せください」
表面上は穏やかに、二人は微笑み合った。
「さて、次は君だ。ハント伯爵令嬢」
委縮した肩が大きく跳ねる。アニエスの顔は蒼を通り越して白くなっていた。
「適性のある人材であったことを神に感謝することだ。ただの令嬢であれば、君は今頃ここにいない」
ヒッ、と。わかりやすい脅しをきちんと察したアニエスが悲鳴を漏らす。
立場を利用して婚約者のいる王子に粉をかけた。癒し手という立場がなければ、彼女は人知れず闇に葬られていただろう。そうでなくとも、ヴィクトリアに対する不敬だけで理由としては十分だ。
「君の今後だが、しばらくは教会から出られないと思ってくれ。癒し手としてはもちろん、貴族令嬢としても教育のやり直しだ。知らせを聞いて、大司教は真っ青になっていたよ」
「……」
「そう不安な顔をしなくていい。君ならそうだな、数年もあれば外出許可が下りるだろう。なにせ、君は『優秀』だそうだからね」
皮肉を隠しもしないエドワードの態度に、アニエスは顔を強張らせた。しかし反論はせず、代わりに絞り出すような声で問いを投げた。
「あ、アルバー……殿下は、どうなるのですか?」
「どう、とは?」
この期に及んで。エドワードは浮かんだ感情を飲み込み、詳細を尋ねる。親し気に名を呼んでいた態度を、手遅れながらも改めたアニエスに興味を抱いてのことだった。
「過剰な魔素の分解は殿下に必要な処置です。それは、理解しました。けれどそのすべてをヴィクトリアさまに依存している現状は、殿下のためにならないのではないでしょうか」
「……」
驚いた。
エドワードはヴィクトリアへ視線を投げ、彼女もまた同じ感想を抱いたことを知る。
アニエス・ハント。希少な癒しの魔法への適性を持つ乙女。手厚い保護と尊敬に包まれる生活の中で、自身の価値を見誤った。勘違いした。何をしても許されるかもしれない、と思いあがった。――しかしそれでも、彼女は疑いようなく、癒し手であった。
救いを求める全ての者に、平等に癒しを授ける。
救いを求めるアルバートに、正しい癒しを授けたい。
「原因療法はなくとも、殿下ご自身が対処できるようお手伝いすべきことではありませんか? 今のままでは、ヴィクトリアさまに何か不測の事態があった際どなたも対処できません」
もっともな意見だった。
恋に目が眩んだ状態でなければ、真っ当なことも言えるのか。
エドワードは相手を侮っていたことを、素直に反省した。ヴィクトリアもまた同意見であるのか、「その通りね」と笑った。しかしすぐさま「けれど」と逆接を吐く。
「その点については、アルバート殿下も覚悟していらっしゃるわ」
初めて経験する恋にはしゃいでうっかり失念していたようだが、きっと今回の件で思い出したことだろう。
「か、覚悟……?」
「わたくしがいなければ、息もできないとおっしゃっていたでしょう?」
「それは、でも……」
あの状況が――ヴィクトリアが言わせたことだと言いたいのだろう。アニエスの眉間にしわが寄った。しかし、やはり、ヴィクトリアの返事は揺らがない。
「わたくしの魔法は特殊だけれど、他人ではなく自身の魔素を分解するということであればさほど難しくはないのよ」
「だったら――」
「けれど殿下には、絶対に習得できない」
アルバート・ノックウッドは、魔法が使えない。
強靭な魔力器官を備え、潤沢な魔素を生成し続けるアルバートはしかし、それを制御する術を持たない。
あふれる魔素をそれでも垂れ流したまま放置する理由。そうせざるを得ない、アルバートの苦悩をアニエスは知らない。
王家の五男坊。王位継承権はうんと低い。王位争いの只中にあって、まだ幼かったアルバートは最も狙いやすく、そして最もひ弱な標的だった。それは実の母親である妾妃が、この子では競争に勝てないと早々に見離すほどに。
実の母親に見捨てられ、乳母を取り上げられた王子の扱いは想像に難くない。育児放棄。食事を与える者もいないから彼は常に飢え、たまに与えられる食事には漏れなく毒が盛られた。身に着けるもの、触れるもの、あらゆるものに刃が、針が仕込まれ、怪我が絶えない。
憐れんだ王の慈悲で寄越されたメイドは次々に命を落とし、いつしか命じられても誰も彼に寄りつかなくなった。
幼いながらに一人で生きていくことを余儀なくされたアルバートを護ったのは、彼自身の強靭な魔力器官だった。
飢えてなお、体内を巡る芳醇な魔素は問題なく彼の肉体を生かした。毒を無力化させ、怪我の治りを早め、病を霧散させ、そうして彼は生き残った。次々に数を減らしていく兄妹を尻目に、次々と脱落していく妾妃を横目に、彼は遂にエドワードが立太子するその瞬間まで生き延びた。
もちろん陰ながら手を差し伸べたエドワードの救済が間に合ったことも理由のひとつだろう。事態の収拾のために奔走した貴族たちの粛清が間に合ったことも大きいだろう。しかしそれだけでは無事で済まなかった。
あふれる魔素こそが、彼を生かしたのである。
「死の恐怖と握手してでも、殿下はもう自身の魔力を操作することはできない」
己が内を流れる魔素を、たとえそれが命を脅かす猛毒と理解していても、ほんの少しでも減らすことなどできないのだ。猛毒によって長らえた命。猛毒のおかげで繋いだ命。アルバートはもう、己の命と猛毒を切り離せない。
「そんな……でも、それじゃあ殿下は」
「心配要りませんよ。殿下にはわたくしがついておりますもの」
いついかなる時もそばに控えている。そうでなくとも今回の件で、アルバートはもうヴィクトリアを手離せない。手放せなくなった。
「そ、そんなの……」
「正しさなど、求めていないのよ」
間違っていると、ヴィクトリアは言わせなかった。
正しさだけで人は生きられない。
「わたくしがいなくなったら、という仮定の不安よりも、心に根づいた恐怖のほうが殿下にとっては脅威なの」
「それを癒してさしあげることはできないのですか?」
「……できれば苦労はなくってよ」
初めて、ヴィクトリアの表情が曇った。
「わたくしは殿下の恐怖に蓋をしてさしあげることはできても、恐怖を取り去ってさしあげることはできなかった」
生きている限り、消え去ることのない死の感覚。
ヴィクトリアに求められたのはそれを緩和し、アルバートを健全に近い状態で生かすこと。そのための訓練しか積んでこなかった。
生まれる前から組まれた婚約。生まれて以降ずっと鍛えてきた技術の全てを注ぎ込んで、ヴィクトリアがアルバートに与えることができたのは、依存だった。
生きている。生かされている。生の強烈な安心感は、アルバートから抵抗する気力を奪った。
ヴィクトリアがいれば、彼女がいてくれれば死なない。
「じ、じゃあ殿下はこのままずっと、あのままなんですか?」
震えるアニエスの反応は当然のもので、だからこそヴィクトリアは歯軋りする。できれば苦労しない。もっと早く、知っていればあるいは。今となっては手遅れで、もうどうしようもないことだ。
唇を噛んだヴィクトリアの内心を、エドワードが代弁する。
「アルバートの歯車は最初から狂っていたんだ。掛け違えた釦を直すのとは訳が違うんだよ」
言いながら、彼の顔にも影が差す。
「で、でも……何か、何か方法が……」
「あったとして、それが何か君に関係あるのかい?」
食い下がるアニエスを、エドワードはきっぱりと突き放した。
「それとも弟を救うと豪語しておきながら散々に痛めつけた君が、今度こそ助けてくれるのかい?」
「……」
「我々が手を尽くしていないような、弟を助けないことを選択したような、そういう物言いはやめてくれ」
救えるのならとうに。助けたいに決まっている。
手を尽くし、努力の果てに、今があるのだ。対症療法に甘んじているのは決して、――断じて、諦めたからではない。
今なお何か方法がないか足掻いている。
「なんのために君の接近を許したと思っているんだ?」
希少な癒しの才。可能性があるのなら。アニエスが持つ癒し手としての才能に懸けたのだ。
彼女であれば、あるいは。
可能性があるのなら、多少の無礼は見逃そう。彼女がアルバートの救いになるのなら、少々の不敬には目を瞑ろう。――結果は大外れ。
「アニエス・ハント伯爵令嬢、願わくは君が、評判通りの癒し手に成長してくれることを祈るよ」
すっかり血の気が引いた顔で、それでも懸命に言葉を紡いでいたアニエスの双眸がみるみる透き通り硝子玉のようになった。がっくりとその肩が落ちる。
心が折れてしまった。意識して折った自覚がある。……ヴィクトリアから向けられる視線に気づきながらも、エドワードは無視した。控える兵に指示を出し、アニエスを連れ出させる。
深々と吐き出した溜め息で気持ちを散らす。
「ひどい王子様ですわね、殿下」
扉が閉まり人の気配が完全になくなるまで待って、ヴィクトリアが笑んだ。先程までとは打って変わって、飾り気のない笑顔だった。エドワードも肩の力を抜く。
「あなただけに悪者を演じてもらうのは、気が咎めるからね」
エドワードの軽口に、ヴィクトリアは肩をすくめることで返事の代わりとした。
「アルバートの助けになるかもしれないとはいえ、あなたには辛い役目を負わせた。せめてあの女が婚約破棄を唆す前に手を打つべきだったと、反省しているよ」
よりにもよって婚約破棄だ。解消ではなく、破棄。ヴィクトリアに瑕をつけるために選んだとしか思えない。
「泳がせることにはわたくしも賛成しました。想定よりも大胆だったというだけのこと。済んだ話ですわ」
「しかし教会側にも事情が知られてしまった。手は打つが、人の口に戸は立てられない。心無い噂など流されては、あなたにお詫びのしようもない。ゴールドウェル侯爵にも申し訳が立たないよ」
「ご心配には及びませんわ。アルバート殿下は今回の件でうんと反省なさいました。今後しばらくは社交の場で甲斐甲斐しくわたくしを慈しむ姿をお見せになるでしょう。そうすれば、周囲も口を噤みます」
それよりも、と。
「エドワード殿下に粉がかからなかったことに安堵すべきですわね。あなたは替えが利きませんから」
その替えこそ、アルバートであるはずなのだが。エドワードの口端から失笑が漏れる。
ヴィクトリアは、アルバートが予備であることを認めない。彼女の中ではいつだってアルバートという存在は唯一で、そして彼は自身が独占するのだと、絶対に譲らない。
婚約を結んで以来、揺らぐことのない主張に気が緩んだ。
「私はあの子でもよかったと思うんだけどね」
吐息混じりの発言は口からぽろっとこぼれたものだが、本心だった。アルバートが王になっても、国は安泰だったろう。エドワードは自身と弟に、それほどの差を感じていない。兄弟共に、王位争いの只中で育った。受けた教育の質などたかが知れている。王位を継いでも、優秀な臣下たちの支えがなければ立ち行かない。ならば弟でも構わないだろう。
もちろん王の器を満たすための努力を惜しんだことはない。けれどそれはアルバートにも言えることだ。彼もまた兄の代理たらんと日々励んでいる。
唯一の懸念点である健康面も、今の弟にはヴィクトリアがついている。
しかしヴィクトリアはばっさり切り捨てた。
「ありえませんわ」
その双眸が絶対零度まで冷え込んだことで、エドワードは口元の笑みを引っ込める。
「あの方は陛下の気質を継いでしまわれた」
愛情深い。けれど、恋多い。優しい、優しいこの国の王。
慈悲深いと言えば聞こえはいいが、つまりは誠実性の欠如だ。愛する妻を唯一にしてあげられない。一番を決められない。優先順位をつけられない。
王の悪癖は結果、妾妃たちの間に闘争を生んだ。
夫が決められないのなら、自分たちで順位をつける。彼女たちは血眼になって恋敵の隙を探った。互いを蹴落とす算段ばかりを腹に抱え、己の価値を引き上げる為ならば血を流すことも迷わなかった。
妻として平等だというのなら、母として優劣を競う。
妃らの争いは容易に王位争いへと引火した。
「エドワード殿下が立太子なさるまでに起こったあれらの醜悪な惨劇を、我が国の貴族は忘れません」
分け隔てなく注がれる王の愛では満足できない。自分を一番に愛してほしい。
王は決めるべきだった。嘘でも、出まかせでも、なんでも。お前が一番だと、言うべきだった。
「それとも殿下は国の分断がお望みですか?」
「まさか、ありえないよ」
即答する。
平穏であってほしいという願いは統治の容易さを望むものでなく、民への宣誓である。
「父が失墜させてしまった王家への信頼は、私が拾い集めねば。あなたのような臣下がまだ残ってくれているうちにね」
「エドワード殿下が宣誓を違えぬうちは、全身全霊をもってお仕えいたします。ゴールドウェル侯爵家の忠義はすべて、殿下のものですわ」
「全力を尽くすよ」
背筋を冷たい物が伝う。
ヴィクトリアは自身に対する王家の対応のすべてに憤っている。それは彼女の父ゴールドウェル侯爵と共通する意見であった。
妾妃も御せぬ王を見限り、次代を掌握し政を正常に戻すことを選んだ臣下たち、その筆頭。まだ生まれてもいない娘へ申し込まれた縁談を受けたのは、次代の王に首輪をはめるためだった。エドワードが弟を思いやる兄であったから。大切な弟であるアルバートの命を、侯爵は娘に握らせることで人質としたのだ。
「今回の件は、本当に……もっと早く対処していれば……申し訳ない」
改めて、今度は頭を下げて謝罪する。
王太子が王子の婚約者とはいえ一令嬢に頭を下げて詫びる。異常な光景であるにもかかわらず、ヴィクトリアは受けもしなかった。代わりに文句を垂れる。
「まったく……父親のよそ見が原因で苦しんだというのに、危機管理のなっていない方ですこと」
淑女の仮面はそのままに、言葉への飾りの一切が剥がれ落ちた。
王家に望まれるまま、求められる技術を求められる以上の水準ですべて修めた天才は、相手が誰であれへつらうことをしない。
王家への忠義を語ったその口で、容易く王家をこき下ろす。そうさせたのは王家で、少なくともエドワードはヴィクトリアを責めるつもりはなかった。当然の権利だとさえ、思う。
ゴールドウェル侯爵家に生まれる子が娘だと知って、王は一も二もなく縁談を申し込んだ。子のために必死になれる。周囲はそれを美徳と称した。慈悲深い王だと。
そんなわけあるか。
父のそれは美徳ではなく、悪癖だ。
気まぐれに野良猫に餌を与えるような、そういう善意。その後のことも、そこに至るまでの過程も、あの人は見ない。ヴィクトリアに期待するだけの技量がなかったら。魔法の才を継がなかったら。彼女がそこに至れなかったら。そんな「もしも」には目もくれない。
結果としてヴィクトリアが人生を捧げて尽くしてくれたおかげで、アルバートはよその女に目移りする余裕まで生まれた。しかしもし、そうでなかったら。そうならなかったら。アルバートは今頃この世にいない。
真に慈悲深い王であるならば、そんな父親であったなら。実の母親に見捨てられ、誰にも守られず死にかけながら辛うじて生きていたアルバートの状態を、病弱などと表現することはない。王は我が子が悪意にさらされ、殺意を向けられ、人の手によって殺されようとしていた境遇の責任を、病に押しつけたのだ。
娘が生きていく時代に争いを残さないため、先頭に立って混乱を治めたヴィクトリアの父親やその賛同者たちこそ、真っ当な父親であるだろう。
王はアルバートの身を案じ、その弱さに同情することはあっても、彼を見舞うことはない。ヴィクトリアがついているから大丈夫だと、優先順位を下げている。アニエスのこともそうだ。野放しにしていけないと諫言を呈するエドワードに、王は笑った。友人ができたのは喜ばしいことだ、と。元気になってくれてうれしい、と。楽観が過ぎる。
そんな王であるから、そんな父であるから、エドワードはゴールドウェル侯爵が差し出した首輪を大人しく受け取ったのだ。生き残った、たった一人の弟を守ると約束してくれたから。
「ヴィクトリア嬢、弟のこと……」
これからもどうか、守って、どうか……。
祈りは喉の奥に引っかかってしまった。嘘でも、断られてしまったらと思うと震えて声が出ない。
「殿下、そう思い詰めることはありませんわ」
うつむいたエドワードへ言葉をかけるヴィクトリアの声は、どこまでも軽い。
アルバートを生かすため。アルバートに人並みの人生を歩ませるため。ヴィクトリアは人生における選択肢をすべて奪われた。
見るもの、聞くもの、学ぶこと、生きること。そのすべてがアルバートのためにある。他人のために人生を使い尽くす彼女はしかし、一切の悲嘆を感じさせない。
「心配することなど何もありませんのよ」
だって、とヴィクトリアは艶やかに笑む。
「わたくしとっても幸せですもの」
麗しの乙女が浮かべる笑顔には黄金の価値がある。黄金姫と称される彼女の笑顔であれば、その価値はさらに高まる。
若い貴族たちの間で囁かれる称賛を、エドワードも耳にしたことがある。しかし今、その笑顔を前にエドワードは背筋が凍る思いだ。
おぞましい。あふれんばかりの幸福を彩る表情であるのに。恋する乙女らしい薔薇色に染まった頬であるのに。そこに純真さを見出すことが、どうしてもできない。
歪んでいる。彼女はどこかが、壊れている。
ゴールドウェル侯爵家の熱心な教育がそうさせたのか。あるいは王家からの切迫した重圧に潰されないための防衛機能であったのか。ヴィクトリアは与えられたものだけで自身の人生を幸福にすることを選んだ。
与えられた婚約者を愛し、彼のために身を尽くすこと。望まれる限りの期待に応え、求められる限りの技術を身につけること。それを自身の幸福だと思い込んだ。鳥籠の中で完成する、完結する世界を築き上げた。
正しくない。間違っている。けれど指摘し正す権利を、エドワードは持ち得なかった。
「弟のこと、よろしく頼むよ……」
「お任せください、殿下」
晴れやかに頬を染めるヴィクトリアの顔を、エドワードは直視することができなかった。
◇
人の気配を察して、アルバートは目を覚ました。しかし意識がはっきりするより早く、柔らかな声が逃げ出そうとしていた睡魔を手招いた。
「どうぞ、そのままお休みくださいませ」
ヴィクトリアの指先が、額にかかった髪を払う。いつもと変わらない、まるで庭園での出来事などなかったような彼女の様子に胸が苦しくなった。
「ごめん、ヴィクトリア」
「もういいのです、殿下」
「よくない。君に、ひどいことをした」
ごめん、とまた謝る。
「これからは、君が喜んでくれることだけする。二度と傷つけない。約束する」
「そのお言葉がなにより嬉しいですわ」
「約束する。ぼくは本気だ」
「はい、殿下。もちろん、承知しておりますとも」
微睡みを邪魔しないよう潜められたヴィクトリアの声が心地良くて、アルバートの意識は次第にふわふわと覚束なくなる。
「ごめん、……ヴィクトリア」
大事にする。大事にするから。ごめん、と懸命に繰り返す。どこまできちんと言葉になっているのか、判然としない。
ウトウトと、睡魔を追い払おうと足掻くアルバートの耳朶を、ヴィクトリアの声がそっと撫でていく。
「大丈夫ですわ、殿下」
それは魔法の言葉だ。そう言われると、アルバートはすっかり安心してしまって肩の力が抜けてしまう。
「あなたはわたくしの愛する方で、エドワード殿下の自慢の弟君です。大丈夫。絶対に幸せになれますわ。何も心配することはありません」
睡魔に手招かれ重くなる瞼を懸命に持ち上げるアルバートに、ヴィクトリアは微笑みかける。そのまま眠っておしまいなさい。何も心配することはないのだから。
微睡む声がか細くヴィクトリアを呼んだ。探すように伸ばされた手をとり、頬を寄せればすぐさま安堵の吐息が漏れる。
「あ、りがと……ヴィクト、リア」
辛うじて聞き取れる声でそう言って、あとは穏やかな寝息だけが規則正しく流れた。
「おやすみなさいませ、アルバートさま」
すっかり下がり切った瞼にそっと唇を寄せ、触れるか触れないか、淡い口づけを落とした。
大丈夫。何も心配要らない。ヴィクトリアがそう語るときは絶対にそうなのだと、彼女はアルバートに教え込んだ。だから大丈夫。アルバートは大丈夫。ヴィクトリアは大丈夫。わたくしならできる。
殿下のことを誠心誠意お守りする。今までも、これからも。
アルバートを守ることがヴィクトリアの幸福で、ヴィクトリアに守られることがアルバートの幸福だ。
……間違っている。この関係は間違っている。ヴィクトリアのやり方は絶対に、正しくない。けれど今更、この生き方は変えられない。それで構わないと、ヴィクトリアは全てを呑み込み微笑む。
正しさだけで人は生きられない。
「わたくしの全ては、愛する殿下のために」
生きていくためには間違いだって必要だ。




