自演Tuber
放課後の高校の校舎、男子トイレの前には「清掃中」と書かれた黄色いサインボードが立てられている。
「や、やめてよ! 日垣くん……」
ホースから冷水を浴び、小柄な痩せた少年が股間を押さえている。下半身は素っ裸で、ずぶ濡れのトランクスとズボンが床に落ちている
「おい、顔のガードが空いてっぞー」
強い水流が少年の顔を直撃し、口に水が入り、ぶぼぼぼっと奇声が洩れ、見ていた四人の少年たちが笑い声をあげる。
「日垣! チ×ポのガードが下がってる!」
仲間の一人、上杉が叫び、日垣が水流をすかさず下げる。
「チ×ポもらい!」
ホースの水が股間を襲い、少年が腰をくの字に曲げる。
日垣が蛇口を締めて水を止めると、ずぶ濡れの少年に近づいていく。床のトランクスとズボンを拾い、トイレの窓を開けて放り投げた。
「ダッシュで取ってこい」
少年が股間を押さえたまま、トイレの外に飛び出していく。廊下に女子生徒たちのキャーという悲鳴が響いた。
◇
放課後、クラス委員長の葉月倫は、吹奏楽部の部活を終え、忘れ物を取りに教室に戻ってきていた。
ガラガラと出入り口の戸が開き、痩せた小柄な少年が教室に入ってきた。プール上がりのように頭髪が濡れ、手で絞ったのか服はシワだらけだった。
窓際の自分の席にとぼとぼと歩いて行く。机にはマジックで「氏ね」「キモい」「臭い」と書かれ、彫刻刀で女性器のマークが彫られていた。
「……ちゃんと先生に言った方がいいよ」
倫がそう言うと、須藤隆史が暗い目で見返してくる。いじめのストレスか、頬は落ちくぼみ、目の下に黒いクマがにじんでいる。
「僕にかかわらない方がいいよ……君もいじめられるよ」
「私からも先生に言ってあげる。こういうのって良くないよ」
「……どうせ何もしてくれないよ」
あきらめたように隆史がつぶやく。
「そんなことない。ちゃんと状況を伝えたら、先生だって対応してくれるよ」
倫は真剣に訴えた。別にこの少年と個人的な交流があったわけではないが、クラス委員長として、いじめに遭っている生徒を放っておけなかった。
◇
校舎内の面談室、隆史がテーブルで女教師と向かい合っていた。女教師は三十代半ばでやや険のある顔つき。白ブラウスにカーディガンを羽織り、紺スカートを穿いている。
「葉月さんから聞いたわ。いじめに遭ってるって?」
少年がこくりとうなずく。
「相手は誰?」
「日垣君たちです……」
「あなたたち友達じゃなかったの? よく昼休みにゲームの話とかしてたじゃない」
「別に友達じゃありません……」
放課後、中古のゲームショップに行き、無理やりゲームを買わされ、それを一方的に奪われていた。購入金額はすでに10万を超えていた。
「きっかけはなんだったの?」
「日垣君に好きな女の子がいて……僕がそのコと親しく話していたからって……彼女とは小学校が同じで、たまたま話してただけなんです……」
「だったらそう言えばいいじゃない」
「言いましたけど……」
ボソボソとしゃべる少年に、女教師が不快そうに眉根を寄せた。
「あなたのはっきりしない態度も良くないんじゃないの? もう少し相手に伝える努力をしてみたら? 学校って社会に出る前に、コミュニケーションや共同生活を学ぶ場でもあるのよ」
「…………」
「あのね、あんまり言いたくないけど、こんなことで私の手を患わせないでほしいの。今、期末テストの準備ですごく忙しいのよ」
「すいません……」
「この前の合唱大会も入賞したし、あなたさえ問題を起こさなければ、クラスは今とてもいい雰囲気なの。少しぐらい我慢できない?」
その後も、女教師は愚痴を吐くように仕事の多忙さを語り、「なんで、あなたみたいな生徒がウチのクラスに来ちゃったのかしら……」とつぶやき、この話はこれで終わりとばかりに面談室を出ていった。
◇
放課後の校舎、男子トイレの前には「清掃中」と書かれた黄色いサインボードが立てられている。
「おまえ、高畑に俺らのことチクったんだって?」
トイレの壁際に立たされた隆史に、日垣がダーツを投げる。腰のあたりに矢が刺さり、小柄な少年がうっと背中を丸めた。
「おい動くな。アソコに刺さっちまうだろ」
体を縮こまらせ、隆史は矢が刺さる場所を少しでも減らそうとする。
「俺さぁ、俺はおまえのことを友達だと思ってたから、裏切られた気分なんだよ」
日垣が再びダーツの矢を投げ、右の肩に刺さった。少年がうっとうめき、ズルズルと床に座り込んだ。
「許して……お願い……もう矢は投げないで……」
いじめ少年の一人、上杉がトイレの用具扉を開き、中からホースの束を取り出した。
「日垣――これで自殺の予行演習でもやらせようぜ」
仲間の意図を察した日垣がニヤリと笑った。
「そいつを連れてこい」
他の少年たちが隆史を引きずってくると、日垣がホースを少年の首に巻き付け、反対を個室ドアの鴨居に渡し、グイッと引っ張った。ホースのゴム管が首に食い込み、少年がつま先立ちになる。
「おい、バケツを持ってこい」
隆史の足下にバケツを置き、その上に少年を立たせる。
「本当に死んだら笑えるよな」
日垣がバケツを蹴り飛ばす。ホースが首に食い込み、隆史が首に食い込んだホースを掴み、空中で体をバタバタさせる。
「おー、茹でダコみたいに顔が真っ赤だぜ」
ホースを引っ張りながら、日垣が残酷そうに目を細める。
「お、おい……本当に死ぬぞ」
上杉が心配そうに言ったとき、体重を支えられずにホースが千切れ、少年の体がドスンと床に落ちた。
「自分で首を吊るときは、ホースじゃなくてちゃんと縄を買えよな」
日垣がそう言ってトイレを出ていくと、他の少年たちも後に続いた。
◇
「ねえ、キサキサに相談してみたら?」
放課後の教室で葉月倫が提案した。
「キサキサ?……」
少女がスマホを見せる。「告発系XTuberキサキサ」と書かれたXTubeのチャンネルが表示されていた。
「見たことない? 有名な告発系のXTuber。DVに遭ってる女性とか、ブラック企業で働いている人の被害を紹介してるの。いじめの告発もしてるよ。もともとキサキサさんの妹がいじめで自殺したのをきっかけにXTubeを始めたんだって」
少年はスマホに目を落とした。XTubeは世界最大の動画配信サービスだ。死神のアイコンの下に193万人というフォロワー数が見えた。
「声優に枕接待を強要したプロデューサーを実名告発!」「モラハラ、DV常習の芸能人の実名を晒す!」「東証一部上場企業、実はとんでもブラック、内情を暴露します!」……等々、動画は過激なタイトルが目につく。
「……どの動画も100万回以上再生されてるね……」
「でしょ! この人、ネットで影響力がすごいの。キサキサさんのおかげで何人ものいじめ被害者が救われてるんだよ」
隆史が適当な動画を再生すると、オープニング曲が流れ出した。「炎上上等! おまえらの誹謗中傷は俺の燃料♪ 裁判上等! 名誉毀損、受けてやるぜ~♪」
オープニング曲が終わると、頭全体をすっぽりと覆うタイプの、ウサギの仮面を被った男が現れた。自分の部屋で撮影をしているのか、背後には本棚が見える。
『ちーっす、キサキサでっす! フォロワーのみなさん、こんばんわー。いやあ、今日も初っぱなからめちゃくちゃ炎上してますね~。引き続き声優ルナさんの続報をお伝えしたいと思いまーす』
ボイスチェンジャーで変えた声でまくし立てるウサギ男を、少年はうさんくさそうに見た。
「……でもこの人、いろいろ悪い噂がない? ほら、ぼったくりバーの告発動画だって実はヤラせだって……」
店に金銭を渡して撮った自作自演だったらしい。ネット版の「告発スクープ雑誌」と言われる超有名なチャンネルだが、どこか怪しさが付きまとう。
「知ってる……でも、もうこの人ぐらいしか頼れる人がいないんだもん……自殺の真似事までさせられたんでしょ? 先生も何もしてくれないし……このままじゃ須藤君、殺されちゃうよ」
少年が暗い目を倫に向けてくる。
「……なんでそんなに僕の味方になってくれるの? クラス委員長だから?」
少女は少し悩んだ末、ためらいがちに口を開いた。
「小学校のとき、私、すごく仲の良かったコがいたの……ある日、クラスのリーダーみたいな女の子が、そのコを無視しようって言い出して……」
いじめは理由もなく突然、始まった。
「私、すごく嫌だったんだけど、みんなと一緒にそのコを無視したの……いじめる側に回らないと、自分がいじめられるってわかってたから……」
「友達はどうなったの?」
「……転校した。後で私に手紙が届いて……そこに書かれてた……みんなが自分のことをいじめたけど、倫ちゃんだけは私に手加減をしてくれたって……それが嬉しかった……ありがとうって……」
倫の声は鼻声で、目には涙がにじんでいた。
「……私、そのコを助けなかったこと、今でもすごく後悔している……本当にすごく仲がいいコだったんだよ……」
体の脇で拳を握りしめ、倫が悔しそうに唇を噛む。
「クラス委員長に立候補したのもそれが理由。もう誰かがいじめられているのを見て見ぬフリをしたくない。嫌われてもいいから助けてあげたいの」
顔をうつむかせる少女を、隆史はじっと見つめた。
「……こんな方法しか提案できなくてごめん……ホームルームで須藤くんのいじめの問題をみんなで話し合いたいって先生に言ったんだけど……」
「高畑先生に反対されたんでしょ?……」
倫が小さくうなずく。
「……わかったよ。キサキサに連絡をしてみる」
少女が驚いたように顔を持ち上げる。
「僕も勇気を出して行動してみる。それでいい?」
隆史が言うと、倫はうれしそうにうなずいた。
◇
その日、告発系XTuberキサキサの生配信が行なわれていた。タイトルは「現在進行形のいじめ被害者から重大告発!」。
夜、倫は自宅の部屋にいた。生配信をスマホで見ていた。配信は始まったばかりだが、すでに3000人近い視聴者がいた。
ド派手なオープニング曲が流れた後、いつものウサギの被り物をしたキサキサが画面に登場した。
『ういーっす、キサキサでーす。お、いきなりスパチャあざーす。えーと、ゆんさん、10000スパチャあざーす。キサキサさん、いつも援してます。あなたは私のヒーローです。あざーす』
視聴者との簡単なやりとりが終わり、キサキサが本日のお題に入る。
『今日は予告した通り、今まさにいじめの被害にあっている高校生の男の子です。これから彼に電話をしますね』
キサキサがスマホを手にとると、画面が学校のトイレらしき静止画に切り替わる。呼び出し音が鳴った後、はい、という別の声が聞こえた。
『キサキサです。えーと、タカフミくん?』
『はい……そうです……』
聞き慣れた少年の声が聞こえてきた。未成年だからだろう、顔出しはなしだった。ただ、キサキサの声はボイスチェンジャーで変えていたが、隆史は地声のままだ。
事前に隆史と話し合っていた。キサキサのチャンネルでいじめを告発する以上、隆史自身も無傷ではいられないだろうと。個人情報を晒される可能性はあった。
『タカフミくん。今日はどんな相談かな?』
『ずっとクラスの人にいじめられています』
『いじめかー、みんなも知ってると思うけど、俺がこのチャンネルを始めたのって、小学生のときに妹がいじめで自殺したのがきっかけなんだよねー。妹みたいなコを二度と出したくないと思ってさー』
トレードマークである超早口でキサキサがまくし立てる。
『で、今日はタカフミ君から証拠の動画をもらってます。いろいろ問題があるかもしれないけど、これがヤラセや嘘じゃないって証拠のために流します。今は彼を救うことが最優先だから――』
静止画が動き出す。下半身裸でトイレで冷水を浴びている隆史の姿が映る(顔にはボカシが入れられていた)。
スマホを見ながら倫は驚いていた。
(こんな動画があったの?……)
てっきり隆史の口から、言葉でいじめ被害が語られると思っていた。
生々しいいじめ動画の説得力は凄まじく、視聴者数も1万、3万、5万と見るたびに増え、チャット欄はコメントで埋め尽くされていた。
『うわー、これ、ひどいねえ……クラスメイトにやられてるの?』
『はい……そうです……』
『他に何をされたの?』
『この後、ズボンとパンツを窓の外に捨てられて取りに行かされました……』
『下半身が裸のままで? うわー、マジかよー。ひっでえ。みんなこれ、どう思う? これもういじめじゃない。犯罪だよ。タカフミくん、このことは担任の先生に相談したの?』
『しました……これが先生との面談の音声です』
動画が切り替わり、面談室での女教師との会話が流れる。こちらは映像はないが、女教師とのやり取りがはっきり聞こえた。
『げっ、教師までこれかよー。この女、自分の保身しか考えてないじゃん! ひでえな、マジで……』
具体的な学校名や教師の名前を出してはいないが、キサキサは隆史とのやり取りの中で巧妙にヒントを小出しにしていた。実際、視聴者のチャット欄では、すでに具体的な学校名が特定されていた。
『タカフミくん、自殺の予行演習もさせられたって聞いたけど……』
『はい、それが次の動画です』
学校の男子トイレ、首にホースを巻かれた少年の姿が映る。足場代わりのバケツを蹴られると、少年の体が宙でバタバタ揺れた。
『これもう殺人でしょ! こんなキチ×イ野郎を放置しておいていいのかな? 俺、本当はぶち切れてんだけど、ここで実名を出しちゃうとマズいし、タカフミくんもこれ以上は言えないから、この先はフォロワーの皆さんの力に期待したいね』
暗にいじめ加害者の特定を視聴者に委ねる。
『タカフミくん、今日は勇気を出して告発をしてくれてありがとう。君の覚悟は絶対に無駄にしないから。キサキサチャンネルでは、続報も含めて、このいじめ問題を徹底的に追いかけたいと思ってます』
すでに同接の視聴者数は10万人に達していた。1万円はおろか、5万円のスパチャまで飛び交っている。視聴者を熱狂の渦に巻き込んでその日の配信は終わった。
◇
翌日の学校、校舎の内階段にはいじめグループの四人の少年が集まっていた。日垣が青ざめた顔でスマホを見せる。
「どうしてあの動画が出回ってるんだよ!」
ボスに問い詰められ、上杉が首を振る。
「俺たちだってわからねえよ」
「俺の実名も、学校名も住所も、姉貴の名前も大学も、オヤジの会社までぜんぶネットに晒されてるんだぞ!」
「みんな名前を出されてるよ」
上杉が苦々しげにつぶやく。ただ詳細に個人情報が載っているのは日垣だけで、他の少年たちはまだ名前のみ、それも姓だけだった。
「ウチの家の電話が鳴りっぱなしなんだよ! オヤジの会社にもファックスとかメールがすげえ来てるらしいし……ピンポンダッシュで家の呼び鈴を鳴らすやつまでいるんだぞ」
困惑したように少年たちが顔を見合わせる。
「とにかく口裏を合わせるんだ。教師に訊かれたら何も知らないで通せ」
「でも証拠の動画が……」
「友達同士で遊んでいたってことにしろ! 仲間内でただふざけていただけだって」
さすがに無理な話だったが、ボスには逆らえず、少年たちは押し黙った。
その後、日垣たちは教室に戻った。少年たちが入ってくると、他の生徒たちが冷たい目を向け、ヒソヒソと声を交わす。
須藤隆史の席は空っぽだった。キサキサのチャンネルに出演した翌日から学校を休んでいた。
「なに撮ってんだよ!」
日垣がイラついたように叫ぶ。
他のクラスの生徒が教室の出入り口でスマホを構えていた。怒った日垣が近づいていくと、さっと逃げていく。入れ替わるように教務主任の男性教師が教室に入ってきた。
「おい、おまえら――」
日垣たちに険しい目を向ける。
「ちょっと職員室まで来い。警察の人が話を聞きたいそうだ」
強張った顔で少年たちが教室から出て行った。
◇
葉月倫は住宅街にある、二階建ての一軒家を訪ねていた。表札には「須藤」の文字。呼び鈴を押すと、母親と思しき中年の女性が応対に出てきた。
「あの……私、須藤君のクラスメイトで葉月と言います。連絡事項のプリントとか、ノートのコピーをお持ちしたんですが……」
「あらあら、ありがとうね」
お母さんがひとなつっこそうな笑顔で紙袋を受け取る。
「隆史は今、ちょっと外なの。近くのコンビニに行っただけだから、すぐ戻ってくると思うわ。家に上がって待ってて」
「いえ、それを渡しに来ただけですから――」
キサキサチャンネルへの出演以来、学校を休んでいるクラスメイトが心配で様子を見に来た。XTubeへの出演を勧めたのは自分だ。覚悟していたとはいえ、隆史自身も注目を浴びたことに申し訳なさがあった。
「そう言わずに、ね?」
息子に異性の友達が訪ねてきたことがうれしいのか、強引に家に招かれる。しかたなく倫は玄関に入った。リビングに案内され、テーブルに座った。
「今、お茶とお菓子を用意するから」
倫はどこか落ち着きなくリビングを見渡す。
棚の上に小さな仏壇が置かれ、幼い女の子の写真が飾られていた。視線に気づいた母親が言った。
「妹の沙貴よ。小学生のときに事故で亡くなってね」
隆史に亡くなった妹がいることは初めて知った。可愛らしい少女だった。
「はい、どうぞ」
お母さんが倫の前に紅茶のカップとクッキーの入ったお皿を置いた。
「あのコったら、こんな可愛い女の子の友達がいるなんて」
「あ、いえ、ただのクラスメイトですので……」
「ふふ、わかってる。でも、友達でもうれしいの。あのコ、沙貴が亡くなってからしばらく家に引きこもってね……すごく仲のいい兄妹だったから……それからはネットばっかり……学校には行くようになったけど、友達もぜんぜんいないから心配してたのよ」
どこか安堵したように母親が言った。
「ネットで何やってんのか知らないけど、たまに部屋から声が聞こえてくるのよ。普段はあんなボソボソしたしゃべり方のくせに、ネットだとものすごい早口なの。今ってネットで知らない人と会話ができるんでしょ?」
「ボイスチャットをやってる人、多いみたいですね」
倫は苦笑した。ネットで人格が変わる人間はいる。須藤もそのタイプなのだろう。
「うぇーい、とか、いえーい、とかって、あのコがよ、信じられる? とんでもない内弁慶よね。キサキサがどうとかって、わけわからないことを言って」
笑いながら紅茶のカップを口に運ぼうとした倫の手が止まる。
(キサキサ?――)
倫はカップをテーブルに戻した。
「あの……隆史さんの部屋は二階ですか?」
「ええ、そうだけど……」
倫は「ちょっと失礼します」と言って椅子から立ち上がると、リビングを出て二階に続く細い階段を駆け上がった。後ろからお母さんの声が聞こえた気がしたが、倫の耳には入らなかった。
ドアに「TAKAFUMI」という表札がかかり、その下には「録音中、音を立てるな!」という紙が貼られていた。
倫がドアのノブを引いた。
フローリングの六畳ほどの部屋だった。机と本棚があり、壁際にベッドが置いてある。普通の高校生の部屋だった。いや――
机の横にカメラが固定された三脚が置かれ、アーム式のプロが使うようなマイクが伸びていた。そして本棚の上には――ウサギのかぶり物があった。
「クラス委員長って家庭訪問までしてくれるわけ?」
背後で少年の声がして、倫が弾かれたように振り返る。
デニムにグレーのパーカー姿の小柄な痩せた少年――須藤隆史が立っていた。手にコンビニのレジ袋を持っている。
少年はドアを閉めると、部屋に入ってきて机の椅子に座った。袋からプリンのカップを出し、包装を破く。
「妹の沙貴は小学校のとき、いじめに遭って自殺した。いじめたやつを告発するために僕はチャンネルを開設したんだ」
チャンネル名のキサキサは妹の名前からとったという。有名なXTuberになりたいとか、お金を稼ぎたいわけじゃなかった、と隆史は言った。
「沙貴のいじめ告発動画がバズったら、他のいじめの被害者からも、たくさん体験談が届くようになった」
子供だけではなく、大人からも情報が寄せられるようになった。夫からDVを受けている女性、上司からパワハラに遭ってる会社員……
寄せられた情報をもとに動画をアップするうちに、どんどんフォロワー数や再生数が増えていったという。
「……日垣君たちのことは?」
「日垣がいじめの常習犯なのは聞いていたから、僕をいじめられるように仕向けたんだ。日垣が好きな女の子に金を渡して、僕と親しくしているところをアイツにわざと見せた。餌に引っかかって、あいつは僕をいじめるようになった」
倫の眉間が困惑したように寄る。
「トイレの動画は?……」
誰から手に入れたのか。隠しカメラにしてはアングルが良すぎる。
「上杉が撮ったやつだよ。アイツの家は親父が事故で亡くなって、お母さんが一人で家計を支えてたんだけど、体を壊しちゃったんだ。弟や妹もいるし、上杉は金が必要だった。だから僕がアイツを雇ったんだ」
倫の顔が曇る。上杉君はいじめ加害者としてネットに名前を晒されている。
「大丈夫だよ。僕はいずれキサキサのチャンネルで、上杉君はいじめの加害者じゃありません。彼は僕を助けようとしてくれたんです。えん罪です、ってちゃんと証言する」
倫が本棚の上のうさぎの被り物に目を向けた。生配信はどうやったのか。キサキサと隆史が電話で会話をしていたはずだ。
「簡単だよ、一人二役をやっただけさ。キサキサのときはボイスチェンジャーで声を変えて、隆史のときは地声。まあ、けっこう大変だったけどね」
プリンをスプーンで食べながら淡々と少年は語る。
「首吊り自殺も?」
「上杉に自殺ごっこを提案させ、あのホースを持ってくるように伝えてあった。最初からホースには切れ目を入れておいた」
すべてはこの少年の脚本通りだったというわけか。まさに自作自演だ。
「なんで……こんなことを?」
少年はスプーンをくるくると回す。
「別に正義の味方を気取るつもりはないさ。最初はただおもしろかった。今はお金のためかな。いじめって、みんなの関心がすごいんだ。だから日垣みたいなやつは、僕らみたいな告発系のXTuberにとって最高の養分なんだよ」
今回のいじめ告発関連の動画で入ってきた収益はスパチャも含めて500万。上杉君への謝礼など、諸経費を引いても400万は儲かったと、少年は悪びれた風もなく言った。
「日垣のようなクズは退学処分、上杉の家も助かった。これ以上、いじめの被害者も出ない。いいことずくめだろ?」
何かが間違ってる。だが、それが何なのか倫は言葉にできない。
少年が空になったプリンのカップを床のゴミ箱に放り込み、手の甲で口元をぬぐった。
「もういいだろ、委員長? 帰ってくれる? これから生配信を始めるんだ」
倫はのろのろと部屋を出た。ドアを後ろ手に閉め、しばらくその場に立ち尽くす。やがて扉の向こうからチャンネルのオープニングテーマが聞こえてきた。
「炎上上等! おまえらの誹謗中傷は俺の燃料♪ 裁判上等! 名誉毀損、受けてやるぜ~♪」
(完)