9話「ひめゴト」
『お前は感じなかったか? こいつの中に潜む、冷徹無比な一面を。自らの信念を貫くために、他の一切を顧みない異常性を』
「そ、それは……」
『あったんだな』
シロハとネバダは違う。
そう言おうとしていたアリサにとって、龍神の問いかけは些か答えづらいものだった。
シロハが依り代を作る時に見せた、アリサの知らない二面性。それがネバダとの共通点だというのなら、交渉は困難を極めるだろう。
「で、でも! シロハさんは強い人です。どんな艱難辛苦も、きっと乗り越えていきます」
『……ネバダも、そうだった。狂うことができたのなら、苦しむこともなかったのにな』
龍神が目を細める。
半開きの瞳が映すのは、過去か未来か。
『ネバダは他の巫女が虐げられる様を見ていられなかった。大いなる闇に落ちることを恐れなんだ。故に彼女は全てを背負うことにした。罪も、業も、穢れも全て。その身一つに被った』
『ネバダが殺した人数は五桁を優に超える。救えた巫子の数はせいぜい二桁。単純に命の数だけならば、巫子が淘汰された方が安く済んだ。それでもネバダは、巫子の命を選んだ』
『一つの命を救うために百の命を奪う。そんな生き方をして狂わない人間などいない。狂わずに生きられるなら、それこそ異常だからな。そしてネバダは、やはり異常だった』
『狂えなんだんだよ、決して。それだけの人を殺してなお、自我を保つだけの強さがネバダにはあった。それが幸か不幸かは、言わずもがなだろう』
だからこそ、と。
龍神は続ける。
『こやつの息の根はここで止める。それがこやつの為であり、世界の為でもある』
分かるだろう、と。
龍神は言う。
だからアリサはこう返す。
「分かりません」
『お主、話を聞いておったのか』
「聞きました。見て聞いて感じて、やはり納得できません!」
両の手の拳をぎゅっと握り締め、アリサは強く答える。
「シロハさんとネバダさんが似ている事は分かりました。シロハさんの強さが、シロハさんを傷つけるかもしれないことも分かりました! その殺意が優しさである事も理解しました! でも、命を諦めるのは今じゃない!」
アリサは言う。アリサは言う。
「同じ道を歩む危険性があったとしても、違う道を征く可能性だってある! それを判断するのは今じゃない! 何にまれ、最後の最後まで生きて、生きて、生き抜いて! 可能性の芽は紡ぐもの、決して摘んではいけない!」
『ダメだ。メリットに対してリスクが大きすぎる』
「賢い生き方が正しい在り方か? 否! 損得勘定が正義か!? 否、断じて否です!!」
撃鉄を起こした銃を構えるように、龍神に向かって指をさす。
「羽を休める場所が無いのなら、私が止まり木になってみせる。大いなる闇が覆うなら、道を照らす灯りになってみせる」
これは宣誓だ。
「シロハさんをダークサイドになんか、絶対に堕とさせません」
自らに突き付けられた銃口を前に、龍神は思考を巡らせる。
龍神だって、すき好んで殺したいわけではない。
殺さずに済むなら、それに越したことはない。
だがそれと、ルミナスとの誓いは別だ。
だからこそ逡巡する。
(ネバダとよく似た破戒巫女。けれどネバダと違い、自身に寄り添う仲間がいる……か)
ルミナスとの誓いはこの世界を守る事。
その為の不穏分子は極力排除すべきだ。
そう考える一方で、あの日のIFを考えずにはいられない。
もしネバダに理解者が居れば、あのような悲劇は起きなかったのではないか。
もしネバダと歩む者が居れば、別の道が続いていたのではないか。
この数千年間、幾度となく抱いた『もしも』の先が、ここにある。
『……一つだけ、条件がある』
理性がそうじゃないと訴える。
ここで消し去るべきだと声を上げる。
だが本能が、欲望が。
それを良しとはしなかった。
『ワシはその巫女の事についてよく知らん。だが、話を聞けば聞くほどネバダそっくりだ』
「うぐぅ」
『――だから』
龍神が手を出すと、そこに光が集う。
その光は徐々に形をあらわにする。
横笛を模したそれは、龍の呼び笛という、巫女以外が龍神を呼ぶための道具だ。
『お主がこやつを支える限り、死期を先延ばしにしてやる』
「そ、それでは!」
『お主が言うような未来があるかどうか、せいぜいその目で確かめてみるがいい。だがしかし、心せよ。もしその手に負えぬと思うたならば、その時は迷わずこれを使って我を呼べ』
「これは?」
『龍の呼び笛という。それを使えば巫女でなくとも我を呼ぶことができる』
「それはつまり……」
『その時こそ、必ずこの巫女を殺す』
ふよふよと笛が龍神の手を離れ、アリサの前で浮揚する。
アリサはそれを賜り、小さく頷いた。
アリサは決して使わないと心に誓い、龍神は使う日の来ないことを星に願った。
『それと、クーデターを起こすと言っておったな』
「そうですね。飾らずに言えばそうなります」
『その際には、われも力を貸してやる。せいぜいうまくやることだな』
そう言って龍神の周辺の光が屈折し始めた。顕現したときの逆動作が行われ、後に残ったのはシロハが作った依り代だけ。
胸の内に湧き上がる恐怖を、アリサは押さえつけた。胸に手をあて、そして気付く。
「はわわ! 私、龍神様に指をさしていたのでは!?」
アリサは今日も平常運転だ。
*
宵に明星が輝く頃。
泉には暗幕が掛かったように黒が広がっていた。
しかしそれも最初の間だけ。
二つ三つと空に星が現れる度に、三つ四つと星が水面に投影されていく。
星をいくつ数えた頃だろう。
星座をいくつなぞらえた頃だろう。
ひざ元でシロハが動き、少しずつ目を開いた。
「……ぅん。アリサ姫……?」
「あ、シロハさん、目が覚めましたか?」
「ここは……!? 何をなさっているのです!?」
「あっ、そ、そんなに勢い良く飛び退かなくてもいいじゃないですか。ただの膝枕でしたのに」
「王族の膝枕って何ですか! 極刑ですか!?」
余談だが、シロハがアリサの事を殿下ではなく姫と呼ぶのは、昔の折衷案からだ。
まだ王家と宗教が対等な権力を有していた時の事。アリサにとってシロハは唯一友達になりうる存在で、それゆえシロハが殿下と呼ぶたびに不貞腐れたのである。とはいえシロハも王族相手にさん付けというのも心苦しく、長きにわたる折衝の末に姫という敬称に落ち着いたのだった。
それくらいに仲が良かったといえど、シロハの生来の気質的に姫様の膝枕は厳しかったらしい。
「そういえば、龍神様はどうなったのですか?」
「ご心配なさらずに。きちんと協力を取り付けられましたわ」
「姫様があの後を引き継いで……。だから今、こうして命拾いしたのですね……」
シロハは自らの心臓に手をあてた。
トクントクンと、生命の鼓動を響かせている。
「不思議ですね。天に弓引き、天命に背き、星の導きに感謝するなんて」
「シロハさんは、ルミナス様の事をどう考えているんですか?」
「……そうですね。あまりいい感情は抱いていないと思います。ただ、在りもしない存在に感情を向けたって、ただ虚しくなるだけと言いますか」
「そうですか」
シロハはアリサに、既にルミナスの存在を信じていないことを告げている。
今の質問に何の意味があるのか分からず、聞こうか聞くまいか考えている間に、アリサが別の話題を提供してきた。
「シロハさん、シロハさん。リフレクションが綺麗ですよ」
「……本当ですね。アリサ姫と一緒に見る日が来るなんて、思いもしませんでした」
「そうですよね。未来は分からないものですね」
アリサは星に向かって手を伸ばした。
星を掴み取るように、その手で握りこぶしを作る。
「シロハさん。一緒に運命を切り開きましょうね」
「……そうですね。でも今は、もう少しだけこのまま」
アリサが言ったのは、ネバダのようにならない未来の事で、シロハが答えたのは、国盗りに際してのことだ。話が噛み合っていないことにアリサだけが気付いたが、敢えてそれを指摘することはない。
シロハもまた、久々の心休まるひと時を大切にしたいと考えていた。
願わくは、この時間がいつまでも……。
*
爽やかな風に木々は揺れ、麗らかな陽気は木漏れ日として降り注ぐ。
遠くにせせらぎの音を感じながら、二人は山道を引き返していた。
一度通っただけの山道は、相も変わらずふわふわと足を掴む。
山道というのは、登るよりも降りる方が難しい。
二人は昨日よりゆっくりとしたペースで山を下りていた。
「アリサ姫、止まってください」
「え? シロハさん?」
山の中腹辺りで、シロハは不意にアリサの足を止めた。
耳に手をあて、索敵をするかの様。
いや、事実索敵をしていた。
しかし木々のさざめきに、先ほど感じた違和感は聞き取れない。
「あれ? そこのお二人、もしやこの先から降りていらっしゃった方で?」
気のせいかとシロハが警戒を解きかけた時。
木陰から一人の青年が現れた。
人当たりの良さそうな顔に、締まった体。
シロハの警戒度が一段と上昇する。
「さて、見ず知らずの相手に話す事ではないわ」
「ああ、申し遅れました! 私、ウォルグと申します」
「ウォルグ!? まさかあなた!」
「はい、巷では勇者などと呼ばれております」
ウォルグという名前に反応したのはアリサ。
続く勇者を名乗る行為にシロハは敵愾心をあらわにする。
「へぇ、あなたがかの有名な勇者様。で、その勇者様がこんなところに何の用?」
「いやぁ、昨日の夕方頃、突如山が禿げるという異常事態が起こりましてね。それの確認というわけです」
まったく、嫌な役割ですと勇者は言う。
「それで、お二方が見てきたのならお話を伺いたいなと」
「そうね、百聞は一見に如かずって感じよ」
「うへぇ、マジっすか。じゃあちょっと行ってきます」
そういい、シロハの横を勇者が通り過ぎる。
警戒の色は見えない。
千載一遇の好機。
見逃すシロハではない。
袖の下から取り出した札を心臓に突き付けようとした時だ。
アリサがその手を掴み、首を横に振る。
シロハの表情に驚きの色が立ち込める。
彼女の行動が、シロハには分からなかった。