7話「逆鱗」
『答えよ巫女よ。この我に何用か』
ピリピリとした緊張感が肌を刺す。
全身の毛が逆立つような悪寒が襲い、無意識に筋収縮が起こり、痙攣のような状態になっている。
震えそうになる声で、それでもシロハは聞かなければいけないことがあった。
恭しく頭を下げたまま、声を絞り出す。
「憚りながら申し上げます。龍神様、先日、ルミナス大神社が焼き討ちに遭う事件が起きたことはご存じでしょうか」
『何……? ルミナス大神社が? それは真か?』
「はっ。首謀者は第一王女であるアリサ姫、――その影武者にございます。龍神様にはこの誅罰にお力添え願いたくお呼びさせていただきました」
『詳しく話せ』
シロハはこれまでに起きたことを事細かに申し上げた。
魔王との戦いのせいで、影武者を仕立てる必要があった事。
その影武者が本物に成り代わり、国の支配を企てていること。
ここに居るアリサ姫こそが本物の第一王女で、罪なき民に苦難を被らせないために、影の暴走を食い止めたいと考えている事。
そのために龍神様のご助力を願いたいこと。
シロハも龍神も、淡々と話し合いを進めていく。
『なるほどな。事の虚実はさておき、お前たちの主張は理解した。だがしかし、一つだけ解せんことがある』
「なんでございましょう」
『どうしてお前はルミナス様を頼らなんだ。何故ワシを頼んだ。お前が真にルミナス教の巫女であるならば、祈るべきはワシではなくルミナス様ではないのか?』
「……お言葉ですが龍神様」
シロハはゆっくりと頭を上げた。
龍神という格上の存在に対して無礼な行いであるが、次の発言に対する非礼の下準備としてはむしろ丁度いいくらいだ。
「ルミナス様がいらっしゃるのであれば、影の行いは黙認されているという事になります。けれど私には、私たちには。一介の人間が神のように振舞い、民を虐げるのが正しいことだとはどうしても思えないのです」
『しからば、狂っているのはお主らで、影の行いが正しいということであろう?』
「なればこそ、龍神様をお呼びしたのです」
シロハの瞳に鈍い光がぎらつく。
信念とも言うべきそれは、その輝きとは裏腹に深く澄んでいる。
「龍神様は遷宮の度にご加護を与えてくださりました。龍神様にとってもルミナス大神社は大切なものだったのでしょう?」
『それはつまり、ワシにルミナス様に弓を引けという事か』
「その矢が突き刺さる相手もいないでしょうに。どこに問題が?」
『……お主、破戒巫女か』
シロハは渋面を作った。
せめて交渉の間だけでも巫女の振りを通したかったが、ルミナスに対する敵愾心はどうにも抑えがたい。
パブロフの犬が洪水に遭った場合と同様だ。
これまでの無条件信仰は、たった一度の衝撃的な事件でその性質を大きく変容する。
「私からも一つ、お伺いしたいことがあります」
『論点をすり替えるな』
「一つだけです。ルミナス様も、龍神様のご加護も、本当は存在しないのではないですか?」
『それはつまり、信仰を捨てたという事だな?』
「綺麗事やお題目では、救世は成り立たないのです」
シロハの言葉を皮切りに、空気が軋んだ。
幾何学的な何かが揺らめき、水面に映る太陽が捻じ切れる。
『一つ、勘違いしておる。ワシは確かに加護を与えるが、それはルミナス大神社を守るための物ではない』
シロハの用意した依り代が宙に浮き、留め難い神気が溢れ出す。
それは龍神から零れる力の一端。
次元の歪み。
『ワシがルミナス様と交わした契は、昔も今もたった一つ。道を踏み外したものを黄泉路に送り出す事だ』
依り代がその大きさを変え、太陽すら遮る大きな影になる。
逆光が映し出す輪郭は紛れもない。
神代の生物。
靡く鬣、天を衝く角。
四肢を八つ裂くような鋭い爪、楚人の誇る矛すら通らぬだろう竜鱗。
悠久の時を生きる神話。
『来い、破戒巫女。ワシ自ら加護を与えてやる』
永遠の龍神と、最強の巫女の戦いが始まった。
*
迫りくる、攻め立てる龍の爪を防ぐ。
円形に広がった鉄より硬いお札でも、真正面から受けて無事とは限らない。侵攻方向に角度をつけて、受け流すように払い捨てる。
体を逸らしてなお紙一重の攻撃は暴風を巻き起こし、シロハの体を宙に打ち上げる。
『よく凌いだな。だがそれまでだ』
「チッ」
龍神はもう一方の手を、今度こそシロハの息の根を止めるために振り下ろす。一撃一撃が必殺のその爪を、空中にいる人間が避ける術は無い。
ただしそれが、シロハでなければの話だが。
シロハが腕を振り上げる。空に裂け目が現れる。爪は裂け目より大きくて通過してしまうが問題ない。
振り下ろしたシロハの腕には、一本の筆が握られていた。利き手でもう一方の手の甲に神代文字を刻み込み起動する。
『む?』
確かにつぶしたはずの感触がなく、龍神はその御手を見る。人が蚊を叩いた後に、本当に叩けたか確認する様なもの。
そこに広がるはずの赤い穢れが見えず、龍神は疑問の声を上げた。
「はぁ、どうしてこうなった」
『お主、どうやって回避した』
「どうって、こんな感じで」
そう言ってシロハは龍神に向けて手を翳し、霊力を放った。
龍神の爪が光り輝く。
『ぐおっ! まさかこれは、【重力付加】の……ッ!』
「流石は悠久の時を生きる龍神様。現代では私以外に使い手はいないのですがね」
『ぐ、ぐおおっ!』
シロハが空中で自らに刻んだ文字は、自身にかかる重力加速度を増強させる代物。
襲い掛かる爪を回避するために藻掻けど足搔けど、宙空では暖簾に腕押し。そこでシロハは重力という万物にかかる負荷を利用したのだった。
結果、空を切ったのは龍の爪で、シロハは回避の際に同じ文字を刻んでおいたのだ。
『こんなものっ! どうということないわ!!』
「えぇ……」
龍が思い切り腕を振る。
バチンという何かが弾ける音とともに、爪から光が消える。
まさか術が無力化されるなど思っていなかったシロハ。思わず声が零れる。
『霊力を宿すのが巫女だけだと思うたか? 依り代に霊力を使う必要性に疑問を抱かなかったか?』
「ちっ、そういう事……」
『そうだ。我もまた、魔力ではなく霊力を有している』
霊力で出来た術を破るには霊力が、魔力で出来た法を破るには魔力が必要になる。
それは相手が龍神であっても例外ではない。
龍神がレジストできたという事は彼もまた霊力使いという事だ。
『しかし、優れた巫女ほど道を踏み外すのは何故なのか』
「そうですねぇ、この世界が不完全だからって解はどうですか?」
『気にくわんな。それを完成させるのがお主らの役目だろうに』
「そんな役割、まっぴらごめんよ」
龍はこれまで、様々な生物と対峙してきた。
数合も交わせば相手の力量はおおよそ分かる。
もっとも、最初の一撃で死なないだけで相当な実力者だが。
『お主らがそんなだから――』
「そんなだから?」
『何でもない。それより、名を残すがいい』
「ふーん。まだ私を殺せる気でいるんだ?」
『……ほんの小手調べを潜り抜けただけでつけあがるな』
龍神がその腕をちょんと振るう。
シロハの頭上を何かが通り過ぎる。
驚天動地の破砕音が胸を叩く。
シロハがそちらを向けば、捻じ切られたような森林跡が広がっていた。
『言っただろう。我も霊力を有すると。本来、只人相手に使うようなものではないがな。お主の力量を認め、倒すべき志士と見なし――』
龍神の周りに渦が巻く。
吹き荒れる暴風は、人の領域を凌駕している。
『全力をもって戦うことを神に誓おう』
「んな無茶苦茶な……」
『古来より便利な言葉があってな。無理が通れば道理はすっこむのだ』
「はぁ……そんな横暴、たとえ神様仏様が見過ごそうと、この私が見逃さないわよ」
そう言い、シロハもまた札を広げる。
その中の一枚を掲げ、刻まれた文字を起動する。
するとシロハの周りにも気流が巻き上がった。
もっとも龍神の物と比べれば、薄氷と氷山ほど違う。
『その程度のそよ風で歯向かうか』
「うるさいわね。私がどうしようと、私の勝手でしょう」
『……お主ら破戒巫女は退くことを知らんな』
「立ちはだかる苦難は試練なり。試練は主なるルミナスの慈愛なり。そう教わったもんでね、敵前逃亡の二文字は無いのよ」
『それは四文字だろうがッ!』
龍神の爪が襲い掛かる。
先ほどと違い、その腕には乱気流が吹き荒れている。紙一重で避けようものなら、その暴風に切り刻まれることだろう。
だからシロハは、自らの纏う風に身を任せた。
空気の層を突き破る。
轟という音を置き去りにして、シロハは宙に躍り出た。シロハが纏う風は、いわば動滑車だ。龍神が暴風を叩きつければ叩きつけるほど、ぺんぺんゴマのようにその勢いは増していく。
『なるほど、考えたな。だがしかし、ワシの風は無尽蔵だぞ? 咲かない花が実を結ぶまで耐え凌ぐか?』
「くっ」
『ほらほら、どうした!』
龍神の、力任せの乱打が襲い掛かる。
いくら龍神の暴風を掠め取れると言っても、それは上手く受け流した場合に限る。加えて纏う風速が上がれば上がるほど、シロハの霊力コントロールは難しくなる。
敗色は色濃く、褪せることは無さそうだ。
『ふんっ』
龍の一撃が刺さり、シロハに多大なGが掛かった。
吹き荒れる下降気流に、体は大地に叩き落される。
受け身こそ取ったものの、受け流し損ねた風の刃がシロハの柔和な肌を赤く染めた。
「かはっ」
『終わりだ』
シロハが見たのは、西日に煌めく白銀の爪。
その背後に迫る、絶対の死。
そして、震え続けるアリサの姿。
(あっ……?)
龍の一撃が襲い掛かる。
せめて安らかに眠れ、そう願う龍神。
轟く破砕音。
『南無阿弥陀仏』
「……念仏唱えるには、一寸早いんじゃないかな?」
『何!?』
龍神が手をのければ、そこには隆起した岩が砕けた跡がある。
「あははっ。どうにもいい子ちゃんな戦いってのは向かないや。そういう性なのかな……? ははっ」
『お主……』
シロハは札を手首に突き付けた。
どくどくと脈打つ血液が留めなく溢れ出す。
「私の本質、見せてあげるよ」