6話「降臨」
木漏れ日の煌めく森の中。
シロハとアリサは、傾斜角の鋭い山道を歩いていた。
動物たちでさえ立ち入らないのだろうか。
腐葉土の堆積した斜面は、彼女達の足を引きずり込むように柔らかい。
シロハ達の目的地は、霊力豊富な粘土のある霊泉だ。
龍神様を呼び出すために必要なものは二つ。
一つはルミナス大神社の御神木の枝葉である。
そちらは既に回収し終えたため、彼女らはもう一つの素材採取に来ていたのだった。
修験者でもあったシロハはともかく、王室育ちのアリサにこの山道は厳しい。
どうにも遅々としてなかなか進まない。
それでも一歩ずつ踏みしめて行った結果、ようやく山頂に辿り着いた。
木々を掻き分け、少し開けた場所。
そこに霊泉はあった。
木漏れ日の下を抜け出し、サンサンと降り注ぐ陽の下に出る。
「アリサ姫、着きましたよ」
「ほ、本当ですか? わぁ!」
景色を見たアリサが、感嘆の声を上げる。
そこにはめくるめく情景が広がっていた。
一言で形容すれば、水の張った棚田だろうか。
シロハ達のいる山頂を一番上として、湧水がシャンパンタワーのように上から下へと流れている。
「こんなにも身近に、このような絶景があったのですね。シロハさんはよくここに?」
「そうですね。年に一度、修験の一環で」
「そう言われると、羨ましいような羨ましくないような……」
「楽しかったですよ。星降る夜を映し出す情景も、朝日に照らされる光景も。今でも私の記憶に焼き付いています」
若葉の鼻腔をくすぐる香りを感じながら、シロハは昔を思い返していた。
まだ足腰の弱く、両親の後を必死に追いかけていた頃。
あの時励ましてくれた両親はもういない。
「さて、先に目的を済ませますか」
「そうね、そうしましょう」
シロハは話題を変えるようにそう言った。
そうしなければ、どこまでも澄んだこの場所に、泥のように囚われてしまいそうだったから。
沈み込む気持ちを誤魔化すように、笑顔で今を取り繕った。
下駄を脱ぎ、足袋を脱ぎ、霊泉の水を汲んで手と足を清める。
ひねもす陽射しに照らされる泉だが、源泉に近いこともあってかひんやりと冷たかった。
それから泉に片足ずつ入れていく。
澄んだ水面に波紋が広がった。
「……昔は腰のあたりまであったのに。時は流水の如く、留まることを知らず、か」
シロハは自らの身体的発展と、精神的退転をひしひしと感じた。
時の流れは不可逆的で、この段々畑のような霊泉のように、引き返すことはできない。
あの頃はもう、戻ってこない。
そんな事実がシロハの心を苛んだ。
「……さん、……シロハさん!」
「あ、アリサ姫。どうされました?」
「ですから、粘土の方はどんな感じですか?」
「えっと、はい。問題なさそうです」
アリサの声に意識を釣り上げられたシロハは、慌てて泉に手を入れ堆積した泥を掬った。
めくれ上がった泥は水中で霧散して、鏡のような水面からシロハの顔を隠してしまう。
霊気を豊富に含んだ泥を、必要十分な量だけ持ってきた籠に入れた。
今回の目的は達成である。
「へぇ、これが龍神様の依り代に……」
「姫様! 触らないで!」
「ひゃい!?」
シロハは掬った泥に触れようとしたアリサに、声を張り上げて引き留めた。
驚いたアリサは慌てて指を引っ込める。
「アリサ姫、私がこの泉に立ち入れるのは、私に霊力が流れているからです。霊力と魔力は真逆の性質を有しています。体内に魔力を有するアリサ姫が触れるのは……」
「ど、どうなるのですか?」
「……最悪の場合、アリサ姫の魔力と反発し、弾けて爆ぜます」
「爆ぜっ!?」
基本的に、魔力のある人間に霊力からなる呪術を使っても一応は問題はない。
例えば傷ついた人を癒したり、凍える人を温めたり。
霊力は古今東西、様々な用途で活躍してきた。
しかしそれは、あくまで霊力を制限したうえでの事だ。
シロハが今朝方刺客に使った神代文字もそうだ。
あの時使ったのは、本来は【治癒】を表す文字。
だがそこに、過剰な霊力を流し込んだがゆえに、あの男の体内の魔力とシロハが注ぎ込んだ魔力が反発し合い爆発四散するという結果に繋がったのだった。
この霊泉に含まれる霊力がアリサにとって有害かどうかは分からない。
分からないからこそ、危険を冒したくなかった。
「とにかく、念のため触れないようにお願いします」
「シロハさんがそうおっしゃるなら」
「申し訳ございません」
「謝らないでくださいませ。私を思っての事だと分かりましたから」
「……ありがとうございます」
シロハは泉から抜け出し、緋袴を捲って膝のあたりに神代文字を書いた。
柔く霊力を流し込めば、気化を意味するその文字が張り付く水気を飛ばしていく。
気にならない程度に湿気を飛ばしてから足袋に足を通し、下駄を履いた。
「シロハさん、この後はどうするのですか?」
「日が落ちるまでにはまだ時間もありますし、今日中に龍神様を呼び出そうかと考えてますけど」
「え、そんなに簡単に呼び出せるんですか?」
「この山道を迷わず登り、霊気溢れる泉に立ち入ることを簡単というならば簡単なのでしょう」
極論を述べれば、巫女さえいれば呼び出せる。
それが簡単な事かどうかはその人の人脈次第だろう。
「とりあえず依り代は作っちゃいますね」
シロハは泥を掬った籠にも【気化】の文字を適用する。
適度に水気を失った泥は、ちょうどいい粘土質に変化した。
空間拡張術を使い、神社で用意した枝葉を籠の中に放り込む。
最期に枝葉で粘土に【形成】の神代文字を刻めば準備は完了だ。
シロハの手から、稲妻のような霊力が迸る。
「きゃっ」
シロハから溢れる暴力的な霊気を前に、アリサは尻もちをついた。
アリサの中の魔力が、本能的に危険と察知したのかもしれない。
「シ、シロハさん……?」
喉元まで押し掛けてきたのは、アリサらしからぬ言葉。
――誰ですか。
出かかったそんな言葉を、彼女はすんでのところで飲み込む。
シロハはシロハだと言った手前、たとえ齟齬を感じたとしてもそれを口に出すのは憚られた。
本音を言えば、アリサはシロハが、自分の知るシロハと別人に感じたと言ってもいい。
「はい、なんですか?」
ほどなくして依り代を作り終えたシロハが、アリサに微笑みかけた。
朧月のようなその笑みは、アリサもよく知るシロハだ。
先ほどの他の一切を寄せ付けないようなシロハと、引き寄せるようなシロハ。
どちらが本当の彼女なのか分からず、アリサは思わず閉口した。
「アリサ姫、その手怪我してるじゃないですか!」
「え? あ、本当ですね」
先ほど転んだ拍子に、鋭い葉っぱで切れたのだろうか。
アリサの腕からは赤い血が流れていた。
「治しますので傷口を出してください」
「あ、えと」
「……? ああ、霊力の反発なら問題ないですよ。きちんと加減すれば悪影響が出ることはありませんから」
「いえ、そうではなくて……。と、とにかく大丈夫ですから! 気にしないでください」
アリサの脳裏には、先ほどのシロハに対する畏怖がこびりついていた。
忌避感を覚え、だからこそ、そんな自分に嫌悪して。
シロハの申し出を断った。
そんなアリサに、シロハは姉のような微笑みを浮かべる。
「アリサ姫、少しこちらを見ていただけますか?」
そういい、シロハはナイフのように鋭いお札で指の腹を切った。
ぷくりと、表面張力で丸みを帯びた血玉が出来る。
それをシロハは札を握る手の甲にすりつけた。
「シロハさん、何をしていらっしゃるんですか?」
「ここに、血がありますよね?」
「……はい」
「これを拭えば、血の跡は消えます」
そう言ってシロハは何度か手の平で手の甲の血を拭う。
シロハの意図を見いだせず、アリサは一度最後まで話を聞くことにした。
血は広がった後、徐々に薄れて行く。
一見血の跡の見えなくなった手の甲をアリサに見せた。
当たり前の出来事を前に、アリサの混乱は深まるばかりだ。
「しかし、そこに付着した穢れは別です。ここにルミナス光を当てれば……」
シロハは懐からまた別の札を取り出すと、そちらに霊力を注ぐ。
札に刻まれた神代文字が起動し、青い光を放つ。
光に照らされた手の甲の、血の広がっていた部分が同様に青く光る。
「え!?」
「血が流れた跡には必ず穢れが残ります。穢れとは褻が枯れることを意味し、状態の悪化を表します。ですから、怪我は浄化する必要があるのです」
そう言ってシロハは血文字で浄化を書いた。
ルミナス光に輝く青が、あっという間に薄れゆく。
「というわけですので、傷口を見せてください」
「……やっぱり、シロハさんはお優しいですね」
「そうですかね?」
「そうですよ」
彼女の優しさに触れて、アリサはやっぱりシロハはシロハだと感じた。
治癒の文字を使ってもらうと、全身を暖かさが包んだ。
アリサは思う。
この温もりが嘘だなんて、それこそ嘘だと。
「他に怪我はありませんか?」
「ええと、はい。健康そのものです」
「それは良かった。じゃあ始めますか」
シロハはそういい、依り代を地面に置いた。
粘土と枝葉から作られたそれは、龍を模したものに整形されている。
彼女は依り代を中心に、同心円をいくつか書き、そこに神代文字をいくつか刻んでいく。
「龍神様、龍神様。神代の契りに基づいて、汝の魂我が呼びかけに応え給え!」
言うや否や。
あたりに突風が吹き荒れた。
さざめく木々が、騒めき喚く。
舞い踊る木の葉が、荒れ狂い弾け合う。
ズドンと、腹に響く音とともに。
一条の雷が、依り代に落ちる。
『――はて、次の遷宮はまだ少し後だと思ったが』
次いで依り代が、耐えがたい威圧を放ち始める。
飄々と受け流すシロハと対照的に、アリサは背筋の冷や汗を止められなかった。
それこそが神格であり、人と龍神との格の違いだった。
『答えよ巫女よ。この我に何用か』
ルミナス「誰がルミノール反応ですか!」