20話「上への写像」
「シ、シロハさん……?」
現代、王の間。
急に足を止めたシロハに、アリサは声を掛けた。
「なんですか」
「シロハさん、それ……」
「え……? あれ……?」
アリサが感じた違和感は二つ。
一つ、シロハがアリサの方に振り返った事。
一つ、振り返ったシロハの顔に、涙が流れていたこと。
「あれ、……おかしいな?」
シロハはシロハで、驚きを隠せない。
ただ歴史を追体験しただけで、どうしてこうも涙が止まらないのか。
拭っても拭っても、雫は滴り落ちてくる。
「なんで、なんで」
自分はネバダとは違う、その筈だ。
だというのに、他人の話なのに。
胸が切ない。
ルミナスなんて、不要だと感じていた。
どうでもいいはずなのに。
心が苦しい。
自身でも御しきれない感情が、シロハの心を駆け巡る。
(他人事だと思っていたのに、なんで)
シロハは、最初は物語を眺めているような感覚だった。
自分のいない世界の話で、全ては架空で空虚な出来事で、ただ傍観していただけだったのに。
ルミナスの思いに触れ、ネバダの心に触れ、いつの間にか感情移入していたようだ。
ネバダの心が、シロハに残っている。
「違う、違うっ! これは私の感情じゃない! 紛い物だ! 偽物だ! 消えろ、消えろッ!」
折角固めた臍が、揺らいでしまう。
振り払った恐怖心が追いかけて来る。
「違う、私はネバダじゃない! 私は、私はァ!」
頭を抱える。
嫌な音が脳内に反響している。
ガンガン、ガンガンと、扉を叩くように、鳴り響いている。
耳を防いでも遮れない。鳴りやまない。
「私は私だから! 私だから、何?」
ネバダの代わりに自分があの場にいたらどうしただろうと、シロハは考えた。
同胞が傷つけられる事を、仲間の笑顔が失われることを是としただろうか。
否。そんなこと出来るはずがない。
きっとシロハもネバダと同じ道を選んだ。
「私とネバダ、何が違う?」
ネバダは最後になるまで狂えなかった。
シロハは自分なら狂えたかと考える。
導いた結論は狂えなかっただろうという事。
狂ってしまえば、殺めた人の事も忘れてしまうだろう。
それに何より、ネバダが人を殺める一部始終を見てきたのだ。
正常な人間であれば目をそむけたくなるような出来事を見てきたのだ。
最期まで見届けた時点で、シロハも正常ではない。
「違う、同じ、違う、同じ」
指を口に当て、ぶつぶつと思案に余る。
違うと否定しようとすれば、違わないという結論が導出される。
自分とネバダの排他的論理和を求めると、空集合になる。
容姿も思考も信念も。
全てがまるで写し鏡――
「シロハさん!」
シロハの胸に衝撃が加わる。
ハッと意識を引き上げれば、アリサが飛び込んでいた。
前にもこんなことがあった。
あの時も、今回も。
シロハが閉路に囚われる度、アリサは連れだしてくれる。
「申し訳ありません! 本当の事を知った時、シロハさんが傷付くって、本当は気付いていました。その上で黙ってました」
「……知ってます」
「シロハさんが傷付くとしても、自分の言葉で傷つけるのは怖かったんです。そんなこともできないくらい私は臆病なのです」
「……それも、知ってます」
穢れを知り、本質がぐにゃりと変容してしまった自分とは違う。
アリサはアリサで成長しているが、生来の気質は変わらない。
「だから、お願いします。必ず、帰ってきてください」
「……え?」
行かないでくれと言われても断るつもりだった。
ナッツを放置することはできない。
加えてネバダの事情も知ってしまった。
眠れる彼女を起こすことも忍びない。
手早くナッツを殺すつもりだった。
成し遂げた後は気ままな旅にでも出て、目に見える人を助けて行こうと思っていた。ルミナスがいない今、救世は自らの手で為さなければいけないと思ったから。帰る場所なんて、ここにはないと思ったから。それだけにアリサの提案は予想外でしかなかった。
「私にはシロハさんが必要です。私はいつまでも待っています。ですから、いつか必ず帰ってきてください」
「……ぁ」
アリサの思いに触れて、優しさに包まれて。
シロハはようやく見つけ出した。
自分と、ネバダの決定的な差異を。
(私には、私の帰りを待ってくれる人がいる……)
修羅になることを選んだネバダには、帰りを待つ人なんていなかった。
最初からいなかったのか、外道に堕ちる際に縁を切ったのか。
それは分からないが、ネバダには帰る場所も、帰りを待つ人もいなかった。
その点で自分はネバダとは違う。
同時に、本当にそうかと悪魔が問い掛ける。
既に自分は人殺しだ。
加えてこれからさらに罪を重ねる。
本当にそんな存在を必要としているのか。
アリサの言葉は本心か。
卑屈な自分が顔を覗かせる。
「アリサ姫……私は、人を殺しました」
「……はい。分かっていました」
「これから、情報屋を殺す事になるかもしれません」
「……はい、存じております」
「それでも、私を必要と言ってくれますか?」
言っていて、自分で自分が嫌になった。
ついさっき「私の事を信用できなかったんですね」とアリサを謗っておきながら、アリサを信じられない自身を嫌悪した。
そんなシロハの手を、アリサの手が優しく包む。
「はい。私にはシロハさんが必要です」
曇りなき瞳が、シロハの双眸を覗き込んでいた。
「信じられなければ、真偽を確かめる術を使っていただいても構いません」
心は決まった。
「もう二度と、シロハさんを一人になんかしません。第一王女アリサの名に懸けて」
シロハは懐から筆を取り出した。
アリサの手を取り、手の甲に神代文字を刻む。
最期の一画まで一筆入魂し、アリサに問いかける。
「アリサ姫。私の帰りを待っていてくれますか?」
「はい。いつまでも」
シロハの問いに、アリサは何の躊躇いもなく答えた。
嘘だという判定が出る可能性なんて、微塵も考えていない。
つまりこれは、アリサの本心だ。
(アリサ姫、あなたに出会えたことは、私の生涯における最大の幸運です)
だからシロハは、神代文字を起動した。
アリサの手の甲から光があふれる。
文字が反応するなんて思ってなかったアリサの目が見開かれる。
何かを言おうとして、口が開きかけた。
「アリサ姫、こんな私を必要としてくれて、ありがとうございます。嬉しかったです」
「シ、ロハ……さん」
「必ず、馳せ参じます。ルミナス様の名に懸けて、必ず」
アリサの意識がプツンと途切れた。
シロハが書いたのは真偽を確かめる文字ではない。
【昏倒】の文字だ。
意識を失ったアリサを、抱きかかえる。
そしてそのまま床に降ろして寝かせた。
顎を開き、指を突っ込み舌を引っ張った。
ただの夢なら舌が喉につっかえれば苦しさで起きる。
しかし呪術で無理やり寝かした場合は別だ。
睡眠中に無呼吸になっても目を覚ますことは無く、眠り続ける。
アリサを横向けに寝かせ、回復体位を取らせた。
睡眠中にうっかり死んでしまうなんてことはないだろう。
とは言えそれはあくまで呼吸によるものだ。
襲撃を受けた場合なんかは話は別だ。
シロハは懐から五枚の札を取り出すと、五角形を描くようにアリサの周りに配置した。
その後に筆を取り出し、一つ飛ばしに頂点を結ぶ。
すると出来上がったのは星型の陣。
「ですから今は、安心して眠っていてください」
シロハは陣に触れ、霊力を籠めた。
すると五芒星が輝き、結界を成した。
「あぁ、そうか。ネバダ、あなたは、この思いを抱くこともなかったのね」
ネバダが敵陣に赴くときに、口癖のように言っていた言葉があった。
――そろそろ行かなくちゃ――
ネバダは最初から帰るつもりなんかなかったという事を、シロハは遅まきながら理解した。
だからシロハはこう言った。
「行ってきます」
いつか帰る。その思いを胸に秘めて。




