19話「神と巫女」
歴史の歯車は欠け落ちる。
ネバダが破戒巫女となり、しばらく経った。
その間に彼女が殺した人数は五桁を超え、しかし救った人数は延べ三桁だった。まして実人数となればもっと少ない。
真白い装束は返り血を帯びて黒染めだ。それだけの数を殺めて、それでも正気を保っているならば、それこそ狂気の沙汰だと言える。そして、ネバダの目は未だ澄んだままだった。
(狂ってしまいたい)
ネバダは常々そう思っていた。
だが、心が弱さを見せる度、誓いを立てたあの日の自分が問いかけてくる。「それでいいの?」と。ネバダは小さく首を振るしかない。結果、正気のまま人を殺め続けるしかなかった。
殺して、斬って、殴って、それでも抱いた願望は星に。
痛くて、辛くて、叫んで、それでも掲げた信念は空に。
人を殺した。人を殺した。
真っ赤な血飛沫が上がる。鮮血を吹き零す。
人を潰した。人を捻じ切った。
肉塊が転がる。物言わぬ屍の山を築く。
人を、殺した。
――涙は流れなかった。
代わりに何か大切なものが滑り落ちて行った。
何かとは、何だっただろうか。
分からない。何もない。
――心は砕けなかった。
材質はきっとスポンジだろう。
それでも、切り傷は残り続けた。
あとに残ったのは、ボロボロになった欠片だけ。
――それでも歩みは止めなかった。
殺した人の分までなんてものじゃない。
ただ趨勢の決着を見届けなければいけない。
そんな身を焼く焦燥感に駆り立てられて、走り続けた。
あと何人殺せば救世は成る。
信念を貫くのに必要な穢れはどれほどだ。
救え、掬え、巣くえ。
「そろそろ、行かなくちゃ」
ネバダは狂ってなんかいない。だからといって正常でもない。ここで言う正常とは狂うという事で、背理法からネバダは正常ではない。異常だ。
歴史の歯車は風化した。
その頃には、巫女に逆らおうとする者は殆どいなかった。
ネバダの活動も繁忙期の後の様にまちまちだ。
それでも彼女は止まらない。
一切の遺恨を断ち切るその日まで、彼女は刃を振り翳す。
血で血を洗い流す。
不毛な争いにも、終わりが見え始めた。
(あと少し、あと少し。もう少しだけ)
無間地獄も終わりが近い。
あるいは折り返し地点と言うべきか。
どんな綺麗事や御題目を並べても、彼女は所詮殺人鬼。
犯した罪は数知れず、課される断罪も同様だろう。
決して許されることのないと知って、それでも彼女は走り続ける。退路は自ら断ち切った。自身と同じ道を歩むものが現れるのを拒んだから、道しるべは残さない。立ち戻ることも許されない。足が棒になっても、糸で操るように前に出す。傀儡は彼女で傀儡子も彼女だ。信念が心を凌駕している。
やがてすべての反乱軍が解体された。
ネバダの噂に、一人、また一人と、不満を飲み込み去って行ったからだ。そも彼らには、既に霊力の代替品がある。不満や不服は代償という防衛機制で押し込められた。
表立って巫女に逆らう存在は淘汰された。
水面下で企む者はいるかもしれないが、ネバダという象徴がある限り、堂々と事を起こすことはできないだろう。
ネバダの信念は、達成されたともいえる。
「……これが私の、天下泰平か」
彼女は断崖絶壁の丘に立つ。
平和になったというより、活力を失ったという方が適切な街並み。眼下に広がる光景に、ネバダはぽつりと呟いた。
「……驚くほど、なんにもないな」
活気づいた町が見たかった。人が手を取り合う未来が見たかった。けれど実際には生気のない世界が広がり、人は恐怖に怯えて歩み寄ることもない。
罪悪感を覚えると思った。自責の念に追われると思った。けれども現実には、負の感情どころか達成感すら湧いてこない。あの日流れ落ちた大切な何かの正体はこれだったのかと納得する。
彼女の背後に、立ち寄る影があった。
音もなく立ち、何もしない。
「はじめまして」
ネバダはその正体に気付いた。
清廉潔白、純潔清浄。
ネバダとはまるで対照的な女性。
「お待ちしておりました。ルミナス様」
『……お待たせしてしまいましたね』
それが創造神ルミナスと、原初の破戒巫女ネバダの初邂逅だった。
神々しさも神聖さもない。
かといって肌を刺す殺気も、居た堪れない空気も漂わない。
久闊を叙す古い友人同士の様に、彼女らはそこにいた。
「目的は果たしました。裁きを受ける覚悟はできています」
『……そうですか』
ネバダの瞳は、残酷に世界を映している。
ただありのままに、何の歪みもなく。
彼女に達成感があれば、こんな世界でも輝いて見えたかもしれない。だが彼女の眼は正しく真実を反映し、彼女の心は何も映さない。
『でしたら、あなたの罪を裁きましょう』
「なんなりと」
『……あなたの刑は、殺した数だけ人を助ける事です』
「……は?」
ネバダは久方ぶりに動揺という言葉を思い出した。
次いで自身の聞き間違いという考えに思い至る。思えば人の話を聞くなんてもう何年もしてない。然もあらばあれ、ルミナスに聞き返す。
しかし、返ってきたのは同じ答え。
「無理ですよ、そんなこと。人の命を助けるのは、奪うよりずっと難しい。覚悟を決めてから私は、星の数ほど人を殺しました。しかし、救えたのはわずか二桁。一つの命を助けるには、それ以上の命を殺めないといけない」
『それでも、成し遂げなさい。これはあなたの贖罪です』
「っ! だからッ! そんなのできるわけない!」
ネバダの心に怒りが蘇る。
もう何年も、忘れていた感情だ。
『問題ありません。あなたは既に人の領域を超えています。老いることも、完全なる消滅を迎えることもありません』
「……嘘」
『六戒が一つ、不妄語戒。私自ら破るわけがないでしょう』
無間地獄も終わりを見せた。
だというのに、先に待っていたのは行きより苦しい帰り道。
奈落の底まで堕ちる地獄の後に、這い上がる試練が課せられるようなもの。
「そんなの、あまりに不釣り合いです」
『もう決めたことです。あなたも言ったではありませんか。覚悟はできていると』
ネバダは思い出した。
絶望という言葉の意味を。
その言の葉の本質を。
目の前が黒く染まる。
「だったら――」
癇癪。
そんなものに心動かされたのはいつ以来だったか。
決壊した貯水池の様に、思いの丈を吐き出した。
「だったら! 私はどうすればよかったのですか! 同胞が殺され行く様を黙って見ていればよかったのですか! そもそもだ! あなたが傍観主義で何もしないから、だから私が!」
『天に代わって罰を加えた、ですか?』
ルミナスは鋭い声で遮った。
ネバダは思わず声が詰まる。
『思いあがるのもいい加減にしなさい。今はともかく、昔のあなたは人の身だったでしょう。私は禁じたはずです、生物を傷つけることを、殺す事を』
「何もしないことが、正しいことだとでもいうのですか」
『神に願う、他者に願う。皆がそうしたようにあなたもそうすればよかったのです』
「誰かって誰ですか! こんな地獄で一体だれが衆生を救ってくださるのですか! 誰かが背負う必要があった! すべての穢れを、すべての罪を!」
『それをあなたが背負ったのが、過ちだったと言っているのです』
折れる事の無かった心が、折れる音がした。
ネバダは信念を貫き通した。正しいと思う事をした。だというのに、敬愛した相手から、真正面から、悪だと謗られた。
壊れていた心が、正常に戻る。
それはすなわち、狂う事。
「は、ははっ、あははっ」
ネバダは久しぶりに笑った。
体は笑い方を忘れていて、引き攣ったようだったが、確かに笑った。可笑しかった。自分の全てが否定されたことが、おかしかった。
「私が、間違っている? ふふっ、そんなはずない。だって、私は常にこれしかないという道を選んできたもの。何回繰り返したって、同じ道を歩む。だから、最初からこの道しかなかったも同然だもの」
ネバダが札を取り出した。
彼女を中心に、札は円形に舞い踊る。
「それを過ちというのなら、それを罪だというのなら、間違っているのは私じゃない。世界の方だ!」
ネバダは札の一枚を選び、腕を振り上げた。
何千何万と繰り返した所作に無駄は無く。
その洗練された腕は見るものを魅了する。
「そして一番の過ちは、この世界を作ったあなただ、ルミナス。だから」
ネバダはゆっくり腕を下ろす。
心眼の構えを取り、霊力を循環させる。
「信念の名の下に、天誅を加える」
『それが、あなたの答えですか』
対するルミナスは無行の構え。
無手で取るそれは、余裕の表れか。
『来なさい。天の裁きを教えてあげましょう』
ネバダの体がぶれる。
互いに近間に入るその一瞬、ルミナスの貫手がネバダの体を貫く。
おおよそ肉を刺したと思えぬ無抵抗。
それもそのはず。ルミナスが刺したのは残像だ。
背後を取ったネバダが札を突き出して術を作動する。
「«斑鳩»」
衝撃波が大地を走りルミナスを狙う。
広がる衝撃波を前に、横に避ける能わず。
そこでルミナスが選んだのは上方向への回避。
膝の力を抜いて溜を作り、体を捻って宙を舞う。
そこに墜とされる«斑鳩»の追撃。
一撃目は大地を穿ち、二撃目は空を落とす。
その攻撃を躱すことは神とて不可能。
そこでルミナスは、衝撃を受け止め、そのまま受け流した。
衝撃だけが先走り、後からルミナスが悠々と降臨する。
「«極楽鳥»」
斑鳩では大したダメージを負わせられていないと判断したネバダの行動は早かった。ルミナスの着地地点を見極め、そこを中心に術式を編み込む。«極楽鳥»が起動され、色とりどりの爆発が連鎖する。
爆炎が弾け、爆風が追い越す。ネバダは煙幕の先を見つめ、再び心眼の構えを取る。まだ煙が立ち込める中、黒煙を切り裂いく閃光が弾け、ネバダの体を貫いた。よろめき膝を突く。
煙の向こうから現れたのは、無傷のルミナス。
『人の身で、よくここまでの力を得ましたね。今度はその力を、壊すのではなく守るために使いなさい』
跪くネバダに、ルミナスが手を伸ばす。
ネバダは苦悶の表情を浮かべながらも、その手を取った。
ルミナスは笑った。
……ネバダも笑った。
「つかまえた」
ネバダの顔が剥がれていく。
崩れ落ちる一枚一枚は、神代文字の刻まれた札。
『……っ!』
気づいたルミナスが飛び退こうとする。
しかし手遅れだ。
差し伸べた手を紙人形は掴んで離さない。
「«鶲»」
紙人形から閃光が迸る。
一枚一枚の札が連鎖的に爆発する。
その威力は«極楽鳥»を凌駕する。
『……流石に、今のは効きました。少しね』
「何が流石によ。あんた、最初から分かってたでしょ」
『さて、何のことでしょう』
「簡単な話よ。あんたは殺傷行為を行えない。けれど先の攻撃には、確かな殺傷力があった。偽物だと確信していなければ取れない行動よね?」
札を取り、構えるネバダ。その目に宿った光に揺らぎはなく、確固たる信念が見える。
困ったものだと手を上げるルミナス。この期に及んでその目は憐憫を孕んでいる。
『怯えて縮こまってくれればよかったんですけどね、やはり感付きますか』
「バレバレですよっと」
そういい、ネバダが札を投げた。
筆に刻まれた文字は、ただ鋭利にするだけの物。
ルミナスは首を倒すことで紙一重で避ける。
「術式付与«速贄»ッ!」
ルミナスの横を札が通り抜けるその一瞬、その刹那。
ネバダが札に術式を書き加えた。
札は針の様に姿を変える。
ルミナスのこめかみを穿つ。
ルミナスの目が、驚愕に見開かれる。
しかし、もう、手遅れだ。
――針のような札はそのままルミナスの頭を貫いた。
「……血も涙もないとはよく言ったものね」
ネバダがルミナスに歩み寄る。
頭蓋を打ち抜かれたというのに、ルミナスからは血の一滴も零れなかった。
ルミナスの体が前のめりに倒れ行く。
それをネバダは、しかと受け止めた。
『……今度は、私が捕まえましたよ』
「なっ!?」
倒れたはずのルミナス。彼女の腕はネバダの背に回され、ぎっちりと掴んだ。
「そんなっ、頭を打ち抜かれて無事なはずが」
『死という概念は、私が人に付与したものです。故に神である私を殺す事は不可能です』
「ふざけるな!」
ネバダが貫手を放つ。
上半身のばねを最大限に生かしたそれは、ゼロ距離ながら十全たる威力を出した。
あっけなくルミナスの胴を穿つ。
そして違和感に気付く。
(臓器の一つもない……!?)
ネバダの顔が驚愕に染まる。
『これが人と神の格の違いです。分かったら大人しく――』
「あぁああぁぁぁ!?」
ネバダは久々に思い出した。
この逃げ出したくなるような胸を責める観念こそが恐怖だ。
右でダメなら左でと、貫手を交互に繰り返す。
穴だらけになったルミナスの上半身と下半身が分断される。
それでもルミナスは、ネバダを掴んで離さない。
「何なのよ、何なのよあんた!」
『私はルミナス。あなた達の生みの親です』
「……っ! 育児放棄しておいて、何が親だッ!」
ネバダはゼロ距離で札を起動した。
迸る紫電が、二人の体を駆け巡る。
『今まで、苦労をかけさせましたね』
「うるさいうるさい! 今更出てきて保護者面するな! 私はあんたなんかいらない! さっさと放せ!」
『いいえ、もう決して離しません』
ネバダをしっかりと捕まえたまま。
ルミナスの体が光に包まれていく。
「あんた、一体何を」
『……言いましたよね。あなたは既に人の領域を超越していると。死ぬことはできないと』
死なない筈のルミナスが、苦しげに声を絞り出す。
『死ねないというのは、苦しいものです。誰一人傷つけなかった私ですらそうなのです。ましてあなたならなおさらでしょう。きっと、何度も懺悔し、それでも悔恨に囚われ続けるのでしょう』
「なに、を」
『……辛い役目を押し付けて、ごめんね』
ルミナスの輝きが増していく。
目を指すような光はけれど柔らかく、暖かい。
『昔も言われたの。怒るときは、心を鬼にしなさいって。でも、やっぱり私にはそんなことできないや。でも、あなたを放っておくこともできない。だから、共に眠りにつきましょう?』
「まさか……」
ルミナスの抱擁が少しだけ和らいだ。
ネバダの額に、ルミナスの額が付けられる。
『もう、苦しまなくていいの。自分を責めなくていいの。全部、私の責任だから』
「……ルミナス、様」
『私の子供に生まれてくれて、ありがとう』
『……«永劫封神»』
眩い光が二人を包み込む。
それから一際光度を増して、すぐに輝きを失った。
光が切れた先には、二度と目を覚ます事の無い少女がいた。
彼女の名前はネバダ。
後に邪神と呼ばれる存在である。




