16話「盈虚」
幾千の星。
人世に等しく降り注ぐ。
一見いつまでも変わらない。
同じ顔など、ただの一つもありはしないのに。
「姫様」
全一の夜。
満天に漫然と立ちつくす。
先見星霜そこに広がっている。
実体なんて、ハナからありはしないのに。
「一つ、聞きたいことがあります」
ナッツが逃げ、王の間に残ったはアリサにシロハ、龍神のみ。
自身の影に何を思うか。
アリサはしばらく影武者の前に膝突いていた。
シロハに声を掛けられて、振り返った瞳には涙が流れていた。
「わた、し。私の、せいで」
その雫に、シロハも思うところがなかったわけではない。目の遣り場を求めて黒目を泳がせ、結局アリサの元に帰ってきた。今聞くべきではないかもしれない。けれども、今聞かなければ一生聞くタイミングを逃してしまいそうで、シロハは一つ息を吸い込み、言葉と共に吐き出した。
「姫様。姫様は、ネバダの存在を聞いていましたね?」
シロハは自身の身勝手さを改めて知った。それでも曖昧のままにしておくことはできなかった。
不鮮明のままにしておけば、必ず不信感が募る。いや、少し前からその芽は芽吹いていた。国盗りを試みつつも、勇者を見逃した時から、シロハの中には猜疑心が根付いていた。
花が開いたのは、ネバダの存在を知った時。あとに残った道は二つ。実を結んで朽ちるか、実を結ばずに朽ちるかだ。
進退窮まった。往くは奈落、退くは地獄。
道を切り開くしかなかった。
未知に切り込むしかなかった。
「シ、シロハさん」
「……」
「その、私は、シロハさんを思って」
「……」
アリサの声が遠くなっていく。小さくではない。遠のく。
実際にはそんなはずないのに、途中からその声はシロハに届いていなかった。
代わりにシロハの脳内に響くは、彼女の声。
――悪意で動いても、善意で働いても、導かれる結果に変わりはないじゃないですか――
ああ、そうだ。シロハは思う。
悪意を持てば人を傷つけ、善意を持てば心を引き裂く。正義も悪もありはしない。
まずもって、人を思う心が過ちだった。
心を持ったのが失敗だった。
畢竟、人というのは不完全な生き物だった。
シロハは頭を掻きむしった。
引っ掛かりの無い艶やかな髪が気持ち悪い。
脳裏にこびりついたその真理を、その手で抉ってしまいたかった。
「違うッ! そんな残酷な優しさ、誰も、……願ってない」
「シロハさ――」
「えぇ、そうでしょうね。姫様は信じられなかったんでしょう? ふっ、ははっ。いいんじゃないですかね? 未だ手を汚さずの無垢なる貴方と違って、私は人殺しなんですから」
「そんなつもりはッ――」
「ねぇ、姫様。……住む世界が違うって、こういうことを言うんですかね?」
アリサはシロハの目が揺らいでいるのを見た。
しかと目を凝らせば、唇や肩が震えているのも分かる。
シロハは怖かった。
母と父を亡くしたあの日、全てを失ったと思った。
一度はアリサを疑った。けれど、いや、だからこそ。アリサが主犯じゃないと分かった時、シロハの心は救われた。空っぽの心はアリサに巣くわれた。
シロハがオアシスと思ったそれが、蜃気楼でしかなかったのだとしたら、光と思ったそれが、決して届かぬ場所にしかないというのなら。
シロハには、最初から何もなかったというわけだ。
『まぁ待て。お主がワシと戦ったあの日、確かにワシはこの娘に打ち明けた。お前を殺す理由としてな。だが、お主は知らんだろう? ワシがお主を殺めると言った時、この娘が何と言ったかなど』
「……」
『「羽を休める場所が無いのなら、私が止まり木になってみせる。大いなる闇が覆うなら、道を照らす灯りになってみせる」お主は残酷な優しさなんていらないと言ったな。それは違う。この娘はともに背負うつもりだったのだ。お前の傷を、お前の苦しみを。共に生きるつもりだったのだ』
龍神が、諭すように語り掛ける。
叱るのでも、正すのでもなく。
あくまでシロハ自身が答えに辿り着けるように。
その道筋を、指し示す。
「それが、何?」
だが、もはやその言葉はシロハに届かない。
「母を失い、父を見捨て、ルミナス様に見捨てられ、戒律を破った私には、アリサ姫しかいなかった。アリサ姫だけは信じることができた。たとえどんな意図があったとしても一緒くたなんですよ」
シロハの黒目が、一段と黒く塗りつぶされる。
墨で塗りつぶしたような瞳は、もはや何も映さない。深淵を映す暗闇は、重力を帯びるかのように視線を吸い寄せる。
「裏切られた」
その事実は、覆しようがない。
たとえ真実を闇に葬っても、虚構で光を覆っても、消えない爪痕の様にシロハの心に残り続ける。
「いままで、ありがとうございました」
そう言い、シロハはふらふらと歩み出した。
地に足をつけているのかいないのか。
風が吹けば倒れてしまいそう。
そんな危うさを孕んでいる。
「ま、待ってくだ――」
『まぁ、待て』
呼び止める声に、シロハは足を止めた。
足を止めたのは、アリサの声か、龍神の声か。そこまで考えたところで、煩わしくなって思考を止めた。
今は何も、考えたくなかった。
シロハは少しだけ首を捻り、横目にアリサと龍神の姿を収めた。駆けだそうとするアリサを制止する龍神の姿が目に入る。
アリサとシロハが近づくことを拒む龍神。
制止を振り切らず、立ちつくすだけのアリサ。
その二つが、心を掻き乱す。
シロハは心臓に手を伸ばした。
脈々と打ち付ける鼓動は、どこか不規則だった。
その理由を見出すことも億劫だった。
『ワシはこの娘に龍の呼び笛を貸し与えた。無論無条件にそうしたわけではない。この娘は、ワシと一つの契りを結んだのだ』
「りゅ、龍神様?」
「……そうですか」
そんな言葉すら、今のシロハは現実味を見いだせなかった。
まるで三人称でなぞる小説の様に、この世界が虚構の作り物のように見えて、この世界の出来事が不出来なイベントに思えて、まるで自分が傍観者のように感じられ、どこか冷めた様子で、いつまでも覚めない夢を見ているようで。
要するに、今のシロハに、自分の価値を見出すなんて、できっこなかった。
『ワシがこの笛の音に応えるときはただ一つ、ワシがお主を殺すときだ』
「龍神様! それはあくまで――」
『そう、あくまでこの巫女が道を踏み外した場合だ。この巫女が正道を歩むというのであれば、今回は見逃してやるつもりだった。だがしかし、進んで外道に堕ちるというなら話は別だ。すべてが手遅れになる前に、ワシがここに終止符を打ってやる』
「……蛇ごときが、敵うと思うたか」
龍神の言葉に背中を向けていたシロハが振り返る。
その身に薄く瘴気が漂っていることに、シロハだけが気付いていなかった。
アリサは目を見開き、声を零した。
変わってしまった自分が悪いのか。
変わった自分を見捨てたアリサが悪いのか。
シロハには分からなかった。
分かることは一つだけだった。
もう、全て、手遅れだった。
『たわけが。つい数日前ワシに敗れたことを忘れたか。それとも、思い出させてほしいのか?』
「手加減してもらっておいて威張るな。仮にも冠する神の名が廃る。それに、男子三日合わざれば刮目せよという。まして女子ならなおさらよ」
『……確かにまるで別人だな。どうにも瞠目せざるをえまい』
たちこめるは、血の匂い。
猫にマタタビ、馬にアセビを与えるように、その匂いはシロハの思考を塗りたくる。赤く、黒く、霧が脳みそを支配する。
邪魔者を排除する。
その一点のみに集中し、その他一切を気にせず生きる。それが出来れば、この結論も命題もない、仮定と前提を繰り返す思考も楽になるのではないか。そんな考えがよぎったときには、塗りつぶされていた。
『お主を送り出すわけにはいかん。ワシが引導を渡してやろう』
「……勘違いするな」
シロハが扇子を開くように札を広げた。
逆動作をすれば、扇子をたたむように、大半の札が人差し指と中指の間に収められ、残った数枚の札のみが親指と人差し指で挟まれている。
シロハが手を振り上げると、その数枚の札は宙を舞った。ふらふらと、しかし意志を持つかのように咲き誇る。四方八方に広がったところで効果が表れる。室内を凍てつく波動が駆け抜けた。
「闘いになんてなると思うな」
『ふん、小賢しい。たかが冷気でワシの風の鎧を止めたつもりか? 風がなければ何もできないワシではないぞ』
「そうね、牙の抜けたハイエナ程度の活躍は期待しているわ」
冷気漂う状況で風を纏うことは、自身の体温を下げることに繋がる。冬に運動をしようとしても、体は硬い。低温というのは筋肉を硬くし、場合によっては痙攣をおこす。ただの冷気で、龍神の風を纏う術は封じられた。
『格の違いを教えてやる』
龍がその爪をシロハに向ける。
軌道上の空気を風で飛ばすと、抵抗を生み出す粒子の無い真空は、龍の貫手の威力を爆発的に上昇させる。確殺する予感を龍は覚えた。
「馬鹿の一つ覚えみたいに爪、爪、爪。だから言ったでしょう、牙の抜けたハイエナって」
『なっ! 止めただとっ!?』
シロハの手に握られた一枚の札が、光を放っていた。龍神が目を凝らせばそこに記されているのは【空間固定】の文字。龍の鉤爪を含めた周囲の空間軸が、時間軸と切り替わる。
もはや龍は指一本動かすことは能わない。
「格付けは終わりよ」
龍神が見たのは、とびかかるシロハの姿。先ほどまで持っていた札の代わりに、今度は筆を持っていて。
いつしかの邪神ネバダを想起させた。
侮ったつもりは無かった。
見通しが甘かったと分かるのは、いつだって結果を見てからだ。自身の死を自覚し、龍神は目を伏せた。輪廻の輪を拒む彼には、死というのは長期の眠りでしかない。シロハの持つ筆が自身の鱗を撫でるのを感じた。
(申し訳ございません。ルミナス様。私は、歴史を繰り返してしまったようです)
シロハは霊力を発動した。
龍神の鱗が光り輝き、神代文字が起動する。
安らかな眠りにつこうとして、龍神は違和感に気付いた。
「死んでも生き返る。そんな甘い事考えてた?」
『な、何を!?』
「龍神様、あなた、最初から魂だけの存在なんだってね。殺しても消滅しない、そういう事でしょ? だからさ」
龍神が目を開けば、シロハの肩に【封印】の文字が書いてあるのが見えた。慌てて自身の体を見れば、自身に書かれた文字も同じく【封印】の文字。
「魂ごと、失せろ」
『ま、待て! そんな馬鹿な事あって――』
大きな龍の体躯が、シロハの肩に飲み込まれる。氾濫した河口で、岸を目指すように抗うが、龍では些か力不足だ。シロハの肩に書かれた神代文字に、龍のような模様が浮かび上がる。
「絶対王者という驕り……、悔い改める事ね」
彼女の名前はシロハ。
肩書きなんてない、ただのシロハだ。




