1話「血雨の下で」
白装束の少女が、虚空を見つめていた。
背中を預ける石造りの壁は、こぞって黒くくすみ。
真白い彼女を浮き彫りにしている。
建造物の隙間に覗く、東の空には紅が差し。
朝焼けの訪れを知らせている。
もっとも、石壁が影を落とすこの街に、朝も夜もありはしないが。
そこはスラムと呼ばれていた。
屍が山を築き、死臭の波が揺蕩うここは、スラムと呼ばれる街だった。
冥府と呼ぶべきこの場所で、ひたすら精彩を放つその少女は異質であった。
混沌と呼ぶべきこの場所で、こんなにも混じり気の無い彼女は異端であった。
このような掃き溜めに生きるものなど、生来の捨て子か、あるいは時代の落伍者くらいだ。
ここに流れ着いたが最後、そのほとんどが遠くないうちに死に至る。
飢餓に殺された者。
病にかかり死んだ者。
死体漁りの帰りに強盗に遭い、自らが帰らぬ人となった者。
原因は様々だが、分け隔てなく与えられるのはきっと死だけであった。
「おや? もし、そこの方。もしや巫女様では?」
つんと響いた巫女という単語に、彼女はピクリと反応した。
声のする方へと視線が先行し、その後をゆっくりと顔が追いかける。
そこには彼女と対照的に、黒を基調としたローブに身を包んだ女性が立っていた。
フードは目深に被っており、口元には三日月のような笑みを浮かべている。
「やや! そのご尊顔は巫女最強と謳われるシロハさんでは!?」
「……さて、どうかしら」
元気溌溂とした女性の問いに、少女は少し考え、言葉を濁して返した。
視線を外し、地に落とし、それから昔の事を思い返した。
確かに歴代最高の霊力を有する少女は、最強と謳われた巫女であった。
ただし、《かつて》という前提が付けばであるが。
シロハは既に、【最強の巫女】という肩書を失っている。
「むむっ! 私の鑑定眼はごまかせませんよ! シャキーン!」
「別に、ごまかすつもりはない。ただ、勇者が魔王を倒したこの世界で、もはや巫女は必要が無いから返答に困っただけ」
「ほほう? それは一体?」
いつの間にか女性は、シロハの視線に割り込むように立っていた。深く被ったフードの前に、両手の親指と人差し指で作ったカメラのようなものを構えている。これが彼女のいう鑑定眼というものなのだろうか。
女性のシロハを仰ぐような体勢に、フードの奥の瞳が見えた。どこまでも輝く、熱い熱い赤だった。
何が琴線に触れたかは分からない。けれど確かに何かが胸の内を叩き、シロハは心の内に燻る思いを冷ますように言葉を紡ぎ出した。
「戦争には大きく二種類あってね、一つは人間と魔物が織り成すもの。これは先の勇者と魔王の戦いなんかが当てはまるわね」
右手に作ったピースに、左手の人差し指を当て、右の中指を折って、シロハはぽつりぽつりと語り出す。
「問題はもう一つの場合。つまり、人間同士の争いよ。こちらは忌避する人が多くてね、というのも人がたくさん死ぬからなんだけど、火種となりうる宗教は不要、というのが王女様の見解みたいね」
「王女様? それほど大仰なことは国王が決めるものでは?」
「……国王様は、もう二月も病床に臥しているわ。実権は王女様が握っているようなものよ」
いいながら、シロハは口を真一文字に結んだ。脳裏には、幼い頃の王女様の姿が浮かんでいる。自らを慕い、後を追いかけていた過去は、シロハが気付かないうちに幻になっていたのだった。
女性は得心いったと言わんばかりに続きを促す。
「なるほどなるほど。それで、シロハさんがこんなところにいる理由は何ですか?」
シロハの思考が停止した。
それはずっと、シロハが考えないようにしていた事だったから。背け続けていた現実だったから。
シロハの視線は、女性の瞳に吸い寄せられた。
水晶玉のような瞳は朝焼け色に、燦々と煌めいている。
だがしかし、よくよく見れば、奥底には地獄のような業火が蠢いているのが分かるだろう。
「……知らないわよ、そんなこと」
「ほほう? 当の本人であるシロハさんが、知らないと?」
「そうよ」
「ふーむ、なるほど。それでは、私の予想を一つ」
ととっと女性は後退し、人差し指を立てて推論を披露する。
「ずばり、王女様の真意は権力の一点集中、絶対王政。民の依拠する信仰を断絶し、政治から宗教を完全分離する。然る陰謀に巻き込まれ、シロハさん達は焼き討ちに遭った。……おやおや? おかしいですね。確かシロハさんにはご両親がいらっしゃったはず。はてさて、お二方はどこにいらっしゃるのでしょう? 何故シロハさんだけが――」
「もういい」
シロハは消え入りそうな声で呟いた。
「もう、やめて」
シロハは涙が零れないように空を仰いだ。
雲一つない青空が、あざ笑うように広がっている。
「ふむ。大体わかりました。けれど不可解ですね。そこまでされてシロハさんは報復をしようとは思わないんですか?」
「……殺傷行為は、戒律で禁止されてる」
「ああ、そんな欠陥品ありましたねぇ」
「欠陥品?」
生き物を殺す事、欲に溺れる事、酒に浸る事、盗む事、嘘を吐く事、諦める事。これら六つは六戒と呼ばれ、決して行ってはいけない。これを犯すことは神への冒涜であり、弓引く行為である。シロハはそう教えられてきた。
「そうですねぇ。例えば殺人鬼がいたとしましょう。彼を放っておけば10人の人が死にます。裏を返せば、殺人鬼を殺すことで10人の命を救うことができます。その時どうしますか?」
「その殺人鬼に天罰が下るわ」
「……? アッハハ、天罰!」
女性はきょとんとした後、それはもう楽しそうに笑いこけた。陰惨としたスラムに、彼女の快活な笑い声だけが木霊する。
「アハハ、いやぁ私、職業柄嘘を吐く事も多々ありますけど、未だに天罰なんて受けたことないですねぇ。私だけじゃないですよ。酒に溺れる人、欲に負ける人、今を諦める人。戒律を破る人なんて星の数ほどいて、忠実に守ってる人なんて片手で数えるほどしかいない。どうして天罰は下らないんですかねぇ?」
「……それは」
シロハは返答に困った。法も秩序もないこのスラムでは、どんなに素晴らしい教えも二束三文にもならないことを、薄々感じ取っていたからだ。
「ええ、ええ。教えてあげますよ。答えは単純で明快です」
気が付けば彼女の顔が目の前にあって。
シロハは思わずごくりと息を飲んだ。
「見捨てられてるんですよ、とっくの昔に。私も、シロハさんも」
深淵を映すかのような深紅の瞳が、煌々と怪しく光った。
シロハは思わず顔をそむけた。
そむけた先で、黒い影がゆらりと動いた。
目の前の女性とは違い、単身痩躯の男の様だ。
黒い衣装を身にまとい、目元以外を覆面で隠している。
男の腕がぶれたかと思うと、銀色の何かが煌めいた。
「危ない!」
「え?」
迫りくる閃光を、シロハは右手の甲ではじいた。
鮮血が飛び散り、銀色が放物線を描く。
シロハがようやく投げナイフで攻撃されたと気づいた時には、すべてが手遅れだった。
シロハは壁に叩きつけられていた。
「かはっ」
「シロハさん!?」
「うぐっ」
突然の出来事に、女性は思わず声を上げた。
シロハの足は地を離れ、男の腕が少女の喉元に伸びている。
男は少女の首を掴み、その細腕に血管を浮かべて壁に叩きつけ、かすれた声を響かせる。
「当代巫女、シロハ殿とお見受けする。私怨はないが、新時代の為にあなたにはここで散っていただきたい」
シロハと男の視線が交差する。
男の顔が、酷く醜く歪む。
現状をひも解くに、男は事実を闇に葬るために送られた影の刺客といったところだろう。国家の正統性を根底から覆しうる最大の脅威を、彼らがもみ消さないはずがなかった。
だからこそ、シロハには分からなかった。
(なんで、どうして私だけ)
彼女は正道を歩んできた。
それはスラムに来てからも例外ではない。
尾羽打ち枯らしても、清貧に甘んじ、倦まず弛まず生きてきた。
それなのに、それすらも。
自身には許されないのかと、少女はぎりりと歯噛みする。
シロハは知っていた。
街行く人々は、平気で嘘を吐く事を。酒に浸る事を。簡単に諦める事を。
そして、ただの一度として天罰が下っていないことを。
(神様、何故このような人を見逃すのですか。あなたは何を思って戒律を作り、何を意図して不完全な世界を生み出したのですか。こんな、こんなの――)
――不平等だ。
そんな思いを胸に、両手に力をぎゅっと籠める。
傷口が開く。
右手の甲から鮮血がどくどくと溢れる。
紅を塗るように男の細腕にツツと這わせる。
男は意に介さずといった様子で、シロハの首を絞め続ける。
(神様、ただ一度、ただの一度でいいのです。もし私たちを見守っていただけているのなら、どうかお助けください!)
猿臂を伸ばした先には男の肩がある。
その肩に、幾度となく書いてきた神代文字を刻み込む。
それから神に縋るように、ふらふらと空を掴もうとした。
至極当然、無常かな。
その手は虚しくも空を切る。
ただ大切な、何かが滑り落ちた気がした。
(……そう、なのですね)
バチリ。
シロハの右手に稲妻が走る。
その正体は霊力だ。
過剰に集められた霊力が、自然の摂理を崩壊させる。
バシュン。
霊力に反応して、神代文字が起動する。
男の腕に刻まれた血が、閃光を放ち眩く光る。
シロハは知っていた。
過剰な霊力を流せばどうなるかを。
一瞬の閃光。
男が自身の異常に気付いた時には、肩を起点にその痩躯はブクブクと膨れ上がっていた。
もがき、苦しみ、声を張り上げる。
「ウ、ウガアアアァ!!」
ズパァンと。
耳をつんざく破砕音と共に、男だった肉塊が弾けた。
飛び散る肉片は、あたり一帯に通り雨を降らせる。
赤くて熱くて、ドロリと粘つく血の雨だ。
それら一滴一滴が、シロハの白装束を血染めにする。
血雨の下で、少女は独り悟りを開く。
ずっとかかっていた朝霧が、すっと晴れ渡っていくようだ。
咽返る血の匂いに酔いながら、シロハはぽつりと呟いた。
「ああ、神様なんて、いなかったんだ」