壊れた女
会場の中を歩く。
今日は人が多いな、と眉を寄せた。
探していると、ヘイレド様の方が気が付いてくれたようだ。
「やあアレン」
「ヘイレド様、探しました」
「ごめん。クライド様から聞いてるよ。マリーシャの事だろう?」
「……はい」
「全く、あいつは言っても聞かないんだ。困ったもんだよ」
ちょっとした悪戯を許すようにヘイレド様は笑う。
ヘイレド様は今までの二人とは違い、気が弱く婚約者であるマリーシャを心から愛している。
イネイン様とディスラト様はヴィクトルとの噂の時点で、婚約者に疑いの目を向け婚約者としての関係の継続をどうするか悩んでいたが、ヘイレド様にはそれが無い。
ヴィクトルとの噂を聞いても婚約者を信じた。
イネイン様のように、結婚したら余計な苦労がとは思わない楽観的な思考を持っている。
今回の事に関しても、しょうがないなあ、と困り顔で笑うだけだ。
「マリーシャ嬢が浮気をしていたのに、なんとも思わないのですか?」
「思うよ? 憤ってるよ」
ヘイレド様は笑顔を見せる。
とても憤っているようには見えない。
「クライド様から何と聞かされていますか?」
「マリーシャに言い寄られて困ってる、だっけかな。お灸をすえるようにお願いした。ちょっとは痛い目を見ないとね」
笑顔を絶やさないヘイレド様に、目を細める。
勘だが、もしマリーシャがステリナのように丸裸にされても彼は婚約者を見捨てないだろう。
ある意味、一番厄介な敵であると言える。
クライド様はそれに気が付いているだろうか?
「彼女にはヴィクトルとの噂があったはずですが、信じているのですか?」
「それさ、とっても良く聞かれるよ」
ヘイレド様はカラカラと笑った。
その表情に一瞬だけ悲しみとも苦しみとも取れる感情が見えた。
ああ、そうか。
「良いんだ。過程はどうあれ、俺の元に帰って来てくれるなら」
ヘイレド様はマリーシャのせいで、心を病んでいるようだ。
婚約者の良くない噂に苛まれ、壊れてしまったか。
「無事に貴族として結婚できればね」
彼の表情から、家の事情も少なからずあるのではと察する事が出来た。
マリーシャと結婚するしかない、彼女を愛するしかないと勝手に自分の選択肢を狭めている気がする。
「そうですか」
自分の状況を棚に上げて、ヘイレド様が憐れに思えた。
「マリーシャ嬢が改心すれば良いですね」
笑顔を張り付けたままのヘイレド様に笑いかける。
ヘイレド様はとても驚いた後、また微笑んだ。
「……ありがとう、アレン」
……きっと奴は改心なんかしない。
だって、改心する時間を与えないもの。
そうでしょう? クライド様。
あっという間に全てを失えばいい。
私と同じように。
「それでは行きます」
「うん。付いて行くね」
時間を確認した後、先導切って会場を横断する。
ヘイレド様が付いて来ている事を確認して、会場から廊下へ出た。
会場を出て右、そのまま突き当りを左に曲がり、数えて四つ目の扉。
「ここです」
「じゃあ、俺が開けるね」
ノックをせずにヘイレド様に開けさせろとクライド様からの指示だ。
扉に鍵はかかっていなかった。
ドアノブを回すと、するりと簡単に開いた。
その先の光景は、私には刺激が強すぎた。
「マリーシャ……?」
埃っぽい物置部屋。明かりは灯してあるけれどどこか薄暗い。
ヘイレド様が婚約者の名を疑問符付きで呼んだのも無理はない。
マリーシャは部屋の真ん中でへたり込んでいた。
その周りにはマリーシャの髪が大量に落ちており、マリーシャの髪はすっかり見る影も無くなっていた。
髪は自分で切ったのか片手にナイフを持ち、震える体でクライド様を見上げていた。
私とヘイレド様はパニックをおこしかけていた。
「彼女が髪を切って、僕と結婚してほしいって! 意味が分からない! ヘイレド、僕じゃないんだ! 彼女が勝手に!」
状況から見てクライド様がマリーシャの髪を切ったとは思えない。
ナイフはマリーシャの手元にある。
ヘイレド様はガタガタ震えだした。
「違うわ……違うの……」
ヘイレド様に気が付いたマリーシャが近付く。
「クライド様が髪を切ったら結婚してくれるって言ったの……だから」
「やめろ……やめろやめろやめろ! 近付くな!!」
「ヘイレド様っ、わたくし騙されて……」
頭を掻きむしり、ヘイレド様が叫ぶ。
「もう限界だ! もう……耐えられない!」
先程までの笑顔は無かった。
ただマリーシャを汚いものでも見るような目で見下していた。
「そんなに俺と結婚するのが嫌だったのか」
「ち……ちが……」
「君との婚約は政略的だった、認めるよ」
政略結婚は貴族の世界では当たり前。
自由に恋愛させてくれる家の方が少ない。
マリーシャもヘイレド様の家も、一般的な貴族の家に過ぎない。
「だけど俺はっ」
裏切られた男は涙を流した。
とても綺麗な涙だと、隣で見ていて思った。
「君を愛そうと努力したんだ……」
部屋の惨状を見て、ヘイレド様は悟ったのだろう。
結婚は出来ない、とても無理だ、と。
「ヘイレド様……」
ヘイレド様の気持ちを全く理解できないマリーシャが腕にすがる。
少しでも理解できていたら、こんな事にはならなかったのに。
「クライド様に騙されただけなの。逢う度に愛を囁かれて……本気になってしまったの、浅はかだったわ。本当に愛してくれているのはあなただけなのに」
マリーシャは必死にヘイレド様を引き留める。
ボロボロの髪を隠す事もせず。
「本当に愛しているのはヘイレド様だけよ」
必死すぎて、一周回って笑えてくる。
クライド様もそうだったらしく、口元を押さえていた。
「意味が分からない。もう俺は君を信じられない」
ヘイレド様はマリーシャに疑問をぶつけた。
「どうして髪を切ったんだ」
「クライド様が……切ったら結婚してくれるって、嘘を」
「愛を囁かれたって、クライド様に?」
「そうよ! 他に居ないわ!」
「婚約者が居るのに、クライド様と結婚する為に髪を切った?」
甲高い笑い声が部屋に響いた。
ヘイレド様は我慢しきれなかったのだろう。
マリーシャの証言は、正直意味不明だ。
マリーシャの髪はあの時の私以上に酷いありさまだ。
ちらりとクライド様を見遣った。
目が一瞬だけ三日月になった。
どうやら髪を刈る事は最初から予定していたらしい。
「君の言い分は分かったよ」
ひとしきり笑い、疲れたように薄ら笑いを浮かべるヘイレド様。
マリーシャは笑われた事に対して真っ赤になっている。
「クライド様は本当に君を愛していたのかい? とてもそうは思えない。君の妄想だろう?」
「なっ、本当に……」
「それに君の髪を切るメリットは? 修道院に行くつもりだったのだろう? 俺と結婚したくなくてさ」
貴族の女性が髪を短く切る、と言う行為はイコール修道院に行く事だ。
ヘイレド様はマリーシャが自分と結婚したくなくて自ら髪を切ったと解釈したようだ。
貴族として結婚できれば、と言う彼の言葉を思い出す。
こうなってしまった以上それは叶わぬ夢だ。
「悪いけど」
腕にすがりつくマリーシャを押して、力無く笑う。
「付き合いきれないよ」
ヘイレド様はそのまま部屋を出て行った。
マリーシャは何度も婚約者の名を呼ぶが、返事は無く去って行く足音だけが廊下に響いた。
「へいれど、さま……」
再びその場にへたり込むマリーシャを冷たく見下ろした。
憐れな女だ。
ヴィクトルの手足をして見限られ、婚約者にも愛想を尽かされた。
お似合いな末路だ。
「ククッ」
マリーシャの惨めな姿にクライド様が喉を鳴らした。
もうここにヘイレド様はいない。我慢できなかったようだ。
笑われた事に気が付いたマリーシャはクライド様を涙を溜めた目で睨みつけた。
「クライド様、どうして……」
「どうして? う~ん、理由を言うとするなら君が気に入らなかったから?」
アイリーンの事は言えない。クライド様は理由をそれとなくぼかした。
マリーシャは涙を流し、嗚咽を漏らし始める。
「髪を切ったら結婚してくれるって……髪の短い女性が好きだって……」
「言ったね。でもこうも言っただろ? 君、髪が短いの似合わないねって」
「わたくし自分で髪を切ったのよ……これからどうすればいいの……」
「知らないよ!」
笑い声交じりでクライド様が返すと、マリーシャはますます涙を流す。
私はその光景を冷めた目で眺める。
「これじゃもう結婚できない! 修道院に行くしか、うぅ……」
私にした事がマリーシャに返った。
彼女と同じ絶望を、私も感じた。
もう結婚できない。修道院に行って神に仕えるしかないのだ。
「ああ、あ、ああああ!!」
今までしてきた事を棚に上げ、女は慟哭した。
「嘘よ、嘘よ! こんなのぜぇんぶ、ありえない!」
クライド様が私の肩に触れた。
「あ、はははははっ! ……あああああ!!!」
人一人が壊れる瞬間を目の当たりにした。
女の目に知性は残っていなかった。ただ騒ぎ、喚き、壊れた心のままに叫び続ける。
いい気味だ。不思議と胸がすっとした。もうこいつは人ですらないのだ。
「アレン、行こう。見ていて気持ちの良いものじゃないし」
「……そうですね」
会場から遠いこの場所でも人が来て騒ぎになるのは時間の問題だろう。
本当はもう少し見ていたかったけれど、クライド様に従った。
「まってぇ、どこいくのぉ」
去ろうとする私達に女は血走った目で叫ぶ。
「結婚、するのにぃ?」
女の手には髪を切るのに使われた小ぶりのナイフが握られていた。
「クライドさまぁ、どこにいくのぉ?」
ナイフの切っ先がクライド様に向かう。
「やば、取り上げとけばよかった」
呟いたが、遅かった。
女は走り出した。
クライド様に武術の心得があるのかどうか知らないが、さして問題にしていない様子だった。
だから大丈夫だろうと、怖かったけどそう思えた。
しかし女は途中で何かに気が付いたように方向を変えた。
「えっ?」
ナイフの切っ先は、私に向かっていた。
「アイリーン!」
ナイフと私の間に、クライド様の腕が入った。
一瞬の出来事だった。
「きゃああああっ!!!」
思わず叫んだ。
ナイフがクライド様の腕を切り裂いた。
あっと言う間に服が赤く染まり、血がしたたり落ちる。
「っ!」
クライド様は無事だったもう片方の腕でナイフを叩き落とし、女を蹴り飛ばした。
女は仰向けに倒れた。打ち所が悪かったのか動きが鈍くなる。
落ちたナイフをクライド様が回収した。
「アイリーン? ははっ、アイリーンですって? あはははっ」
パニックになりながらも止血しなきゃとかろうじて頭が働き、腕に触ろうとすると拒否された。
「汚れるから」
言われて、頭に来た。
そんな事今は関係ない!
「わたくしに仕返しに来たの? でも残念! わたくしはクライド様と結婚するの。公爵夫人……うふふっ、はははっ! あなたの出る幕じゃないの!」
切られた傷を服を裂いて見えるようにして、眉を寄せた。
止血、と思うがやり方が分からず右往左往しているとクライド様がやり方を教えて下さった。
「そこ、縛って」
「ここ?」
「うん。力一杯」
「う、んっ! んんっ!」
「力弱いね。でも十分だよ、ありがとう」
手も服も血で汚れた。でもそんな事を気にしていられなかった。
痛みのせいか血を失ったせいか、クライド様の顔色が悪い気がする。
「ちょっとふざけ過ぎたかなあ?」
安心させるためか何時ものように飄々と話すクライド様を見上げる。
無事な方の手で頭を撫でられた。
「わたくしは誰にでも愛されるの! 思う通りになるのよ!」
「マリーシャ、そんな人間は何処にも居ないよ」
咎めるようにクライド様は女に話しかける。
「思った通りに生きていくなんて、無理だ。必ず壁にぶつかるよ」
「意味が分からないわ、あはは!」
「分からなくても良いよ。僕が言いたいだけ」
クライド様は変わらず私を庇うように前に立つ。
「どんな人間にも悲しみや苦しみはある。アイリーンにもヘイレドにも……他者の心が分かっていたらこんな事にはならなかったのにね?」
女は狂ってしまっていた。
クライド様が言った事を理解できず、ただひたすら笑い続ける。
ほんの数秒すると、人が集まって来た。
クライド様の怪我を見て手当てをすると連れて行かれてしまった。
加害者である女も取り押さえられ、連行された。
私も血で汚れてはいたが、怪我は無いので証人としてその場に残った。
マリーシャが狂ってナイフを振りかざし、クライド様を刺した事を証言する必要があったからだ。
後からヘイレド様が真っ青な顔で戻って来た。
クライド様が怪我をした事を知り、自分にも責任があると思ったらしい。
クライド様への傷害事件。
瞬く間に話が広がりパーティどころでは無くなってしまった。
パーティは中止。
私は証言者として周りの人間に話をし、迎えに来たお兄様と一緒に帰路についた。
関係の無いクライド様に怪我をさせてしまった。責任は重い。
何度も何度も頭を抱えた。その日はなかなか寝付けなかった。
しかし重く苦しい胸の内は誰にも明かせなかった。




