15.暁の不安(1)
「ただいまー! 夜斗兄ちゃん、いるー?」
オレは玄関のドアを開けると、急いでリビングに駆け込んだ。
「そんなに慌てなくても……」
ソファに寝そべっていた夜斗兄ちゃんが、面倒くさそうに顔だけこちらに向けた。
「勝手に帰ったりしないぞ」
「そうかも、しれない、けどさ……」
学校から走って帰って来たから、息が切れている。
鞄や道具を床に下ろすと、オレは冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。
その場で蓋を開けて、ゴクゴクと飲む。
「ゲートを越えるのが危険ってだけで、越えられるかもしれないんでしょ? そしたら、何かテスラで緊急事態があったとかで勝手に……」
「ないない。越えたら消滅するかもしれないのに、そんな……」
そう答えると、夜斗兄ちゃんは再び寝そべって、テレビの方に向き直った。
夜斗兄ちゃんがミュービュリに落ちて来てから、三日が経った。
一昨日、夜斗兄ちゃんは朝日と一緒に出かけて……ちょっとだけ記憶を取り戻したらしい。
でも、取り戻せたのはミュービュリにいた――朝日とユウと一緒に高校に通っていた間のことだけで、その後のテスラでのこととか、再びミュービュリにやってきた時のこととかは全く思い出せないそうだ。
これ以上はここにいても無理のようだし……そろそろテスラに帰した方がいいかもしれない、と朝日は言っていた。
「それか、オレがいない間にトーマさんの掘削で……」
「いや、ミュービュリの記憶は取り戻したと言っても、俺はさすがに一人でそんな遠いところまで行けないぞ」
夜斗兄ちゃんが呆れたように言った。
「確か、電車を乗り換えたりしないと駄目なんじゃなかったか?」
「朝日が急に思い立って連れて行くかもしれないじゃん」
「はははっ」
夜斗兄ちゃんが大声で笑った。
「確かに。いきなり突拍子もないことしそうだからなー」
「今の夜斗兄ちゃんがそう言うってことは、13年前から変わらないってことだね」
「そりゃ……あ、でも……いやいや」
夜斗兄ちゃんは何か言いかけたけど、慌てて首を横に振った。
「ただ……まぁ、老けたかな? 俺も自分の顔を見て驚いたけど」
「だ、れ、が、だ……」
急に声が聞こえ、朝日がオレの背後に現れた。
「うわあ! 何! まだ会社の時間なのに……」
「有休を取ってテスラに行ってきたの。ミリヤ女王に謁見できるって話だったから」
朝日がちょっと怒りながら言う。
「無理に休みをとったから、今週末は休日出勤する羽目になったけど」
「ふうん……」
「それで、どうだったんだ?」
夜斗兄ちゃんがソファから起き上がって朝日の方を見た。
朝日は溜息をつきながらドサッとソファに腰掛けた。
「テスラの治療師に診せた方がいいから……早く帰って来いって」
「はぁ、なるほど……」
「治療師って……怪我を治す人じゃないの?」
不思議に思って聞くと、朝日は「それだけじゃないのよ」と言いながら肩をコキコキ鳴らした。
……かなり疲れているらしい。
「倒れたりしたときに、精神状態がどうなっているか診ることもできるの。多分……夜斗の記憶の状態を視ようとしてるのね」
「ふうん……」
「ただ……次元の穴に落ちて記憶を失ったわけだから、もう一度穴を通っても大丈夫なのか、心配なんだけどな……」
「ま、どうにかなるだろ」
「んー……なるかな……」
「気にすんな」
夜斗兄ちゃんは朝日の頭に手を乗せると、髪をぐしゃぐしゃっとした。
「だから、それやめて……」
「何で」
「もう子供じゃないんだから……」
こういうたわいない会話をしているところを見ると……何て言うか、夜斗兄ちゃんと朝日って本当に仲良いんだな、と思う。
よく考えれば、テスラでは夜斗兄ちゃんはずっと忙しそうにしていて、朝日とも闇の話とかユウの話とか、すごく真面目な話をしているところしか見たことなかった。
学校での記憶を取り戻したってことだから……夜斗兄ちゃんはその頃の気持ちになっているのかもしれない。
でも……そのときって、夜斗兄ちゃんはエルトラの兵士で、朝日を誘拐しようとしている――いわば、敵同士なんじゃなかったっけ?
「暁、早く着替えてきたら? 夕飯まで夜斗と組手するんでしょ?」
「あ……うん」
オレは何だか違和感を覚えながらも、リビングを出て二階に上がった。
自分の部屋に入って鞄と道具を適当に投げる。
……ふと、机の隅に置いていた紙飛行機が目に入った。
そうだった……シャロットから手紙が来てたんだよな……。それもエラくヒステリックな……。
もう一度開く。シャロットの殴り書きのような最後の一行が目に飛び込んだ。
《アキラ、とにかくトーマ兄ちゃんに会ってきてよ。オレ、不安なんだ!》
会って来いって簡単に言うけど、こっちにはウルスラの扉みたいな便利なものはないんだから……T県までそうそう会いに行けないよ。
でも……それほど、シルヴァーナ女王の様子が変なのかな……。
朝日に相談してみようかな……。
トーマさんの記憶が戻ってるって、本当かな。
だとしたら……どうして隠してるのかな。
もう、好きじゃないのかな。
……でも、多分それはないんだろうな。
オレは骨折して入院したから行けなかったけど、ウルスラの水祭りで二人は会ってる。
シャロットはそのときの様子を見て、気持ちが離れた訳じゃないって確信してるんだろうな。
「あー、もう、面倒臭いな……」
呟いてはみたものの、放っておく気にはなれなかった。
「暁ー、まだかー?」
一階から夜斗兄ちゃんの声が聞こえた。
「今行くー!」
オレは慌てて返事をすると、とりあえずシャロットの手紙を机の上に置いて、急いで着替え始めた。
「ん……はっ!」
「よっ」
「く……せや!」
「おっと……」
突きや蹴り、いろいろやってみるが夜斗兄ちゃんにはかすりもしない。
「う……たぁー!」
焦れてきて思い切り突っ込むと、夜斗兄ちゃんはあっさり受け止めた。
「あー、やっぱり左の防御が甘いかな」
「うわっ……」
空いていた右手で攻撃される。
もちろん手加減してくれてるけど、オレは躱すことも受け止めることもできずよろめいてしまった。
「暁はやっぱり、我慢が足りないな」
「我慢……」
「すぐ一撃で決めようとするからさ。……ちょっと休憩するか」
夜斗兄ちゃんはそう言うと、庭のテーブルの上に置いてあったペットボトルのお茶を渡してくれた。
「……そういうところ、やっぱり朝日に似てるかもな。すぐに結果を出そうとする」
「結果……」
オレはふと、シャロットのことを思い出した。
そうだよな。シャロットも、結論を急ぎ過ぎなんだよ。
だけど……。
「夜斗兄ちゃんは……何か、我慢強そうだよね……」
「……かもな」
「あのさ……好きなのに、その人に気持ちを伝えないってどういう状況?」
「はあっ!?」
夜斗兄ちゃんが素っ頓狂な声を上げてオレを見た。
「今、組手の話をしていたはずなんだが……」
「ちょっと……こっちの事情でさ。あ、オレのことじゃないよ」
「はあ……」
夜斗兄ちゃんは頭をポリポリ掻くと
「言ってもどうしようもないときは、言わないんじゃないか?」
と答えた。
「どうしようもないってどういうこと?」
「んー……フラレるのがわかってる、とか、気持ちを押し付けるだけになる、とか、責任が取れない、とか……」
「責任……」
シルヴァーナ女王が言えないのは、やっぱり女王の立場があるからで……トーマさんが言えないのは、言ったところで傍にいてあげられる訳でもないし責任もてない、ってことなのかな。
「一体、何の話だ。好きな子でもいるのか?」
「いない。だからオレの話じゃないって。……それに、こっちの女子は無理」
「ふうん……。じゃ、テスラでは?」
「普通の友達。……それより、夜斗兄ちゃんこそどうなの?」
何気なく聞いたけど、今の夜斗兄ちゃんに聞いてもどうしようもないな、とすぐに思った。
だって、記憶がないんだし。
……だけど、夜斗兄ちゃんは一瞬黙ったあと
「……俺も無理だな。どっちも……誰も」
と呟いた。
それは、前に「結婚しないの?」と聞いたときよりも、ずっと深刻そうで――オレはそれ以上、何も言えなかった。




