10.夜斗の記憶(2)
「――夜斗!」
誰か……女の声が俺の名前を呼んだ。
うっすらと目を開けると……全身ずぶ濡れの女が俺を見下ろしていた。
「……」
「夜斗! 私の声が聞こえる!? ねえ!」
テスラ語だ。女がガクガクと激しく俺を揺さぶる。
……おい……非常に気分が……悪いんだが……。
「聞こえる……が……離してくれ。気持ち悪い」
「あ……ごめん……」
俺は頭を抱えると、ゆっくり起き上がった。
どうやら俺も、全身びっしょり濡れているようだった。
上半身は裸だからいいものの……いや、よくないか。
……ん? 何で俺はずぶ濡れでこんなところに寝転がっていたんだ? リオはどうした?
「……ここは……」
「横浜――って言ってもわかんないか。海の近くよ。それにしても……よかった……気がついて……」
女がホッとしたように息を漏らす。
見ると……ターゲットのはずの、朝日だった。
「えっ! 朝日!?」
「……そうだけど」
「でも、何か……違う」
「は?」
朝日が濡れた髪をかきあげながら、不思議そうな顔で俺を見た。
目の前にいる朝日は、びしょ濡れになっているせいなのか妙に色っぽくて、まるで別人だった。
俺が夢鏡で見た朝日は、もっと小さくて幼くて――いや、今目の前にいる朝日も小さいことは小さいけど――こんなに綺麗ではなかった……と、思う。
「――大人の女だ。俺が知ってる朝日は……もっとちんちくりんの……」
「はあ? 喧嘩売ってるの?」
朝日がかなりイラッとしたように俺を睨んだ。そのただならぬ気配にギョッとしたが、次の瞬間、俺はとんでもないことに気づいた。
「何で……テスラ語を喋ってるんだ?」
「えっ……」
「俺はどうしたんだ? 確か、リオと一緒に、公園に来て……」
いや……あれ?
ふと脳裏に、いろいろな光景が浮かんでは消えたが……何一つ形にはならなかった。
俺は任務のためにミュービュリに来て……そう、来たばっかりのはず。
でも……どうやら、そのあと何かいろいろあったのに――その記憶が……ない?
「夜斗……」
朝日が俺のすぐそばまで顔を近づける。少しドキリとした。
「ひょっとして……忘れちゃったの? ミュービュリに来た後のこと……全部?」
「……そうかも……」
「あれから……13年も経ってるのに?」
「――え!」
驚いて朝日の顔を見る。朝日は俺の顔をじっと見つめると、深い溜息をついた。
どうやら俺は次元の穴という、テスラとミュービュリを繋ぐ穴に落ちたらしい。
ユウから連絡を受けた朝日はゲートを越えることで俺を探し……海中に漂っている俺を見つけたんだそうだ。
ユウは――あの公園で朝日を守って闘っていた少女で、実は男で、今はテスラで暮らしているらしい。
何がなんだかさっぱり分からないが、なんとなく納得できたので、やっぱり俺が知っているはずのことなんだろう。
朝日の母親――瑠衣子さんというらしい――が着替えを持って迎えに来てくれた。
そして俺は、ミュービュリの朝日の家に連れて行かれた。
初めて来たはずだが……何だか知っている家のようだ。
『そりゃそうよ。夜斗はここで3ヶ月ぐらい暮らしていたことがあるんだもん』
『俺が?』
『そう。ユウと一緒に』
「……」
訳が分からない……。
「朝日……パラリュス語で会話されると、私にはわからないわ。夜斗くん……日本語も忘れてしまったの?」
瑠衣子さんが困ったような顔で朝日に言った。
俺はハッとして
「あ……すみません。大丈夫です。覚えてます」
と日本語で答えて頭を下げた。
瑠衣子さんはホッとしたように息をつくと
「しばらくゆっくりしていってね」
と言って微笑んだ。
ゆっくり……していていい状況なんだろうか、俺は?
13年後の俺は……何をしていたんだろう?
「パラリュス語って……テスラ語のことか?」
「そうよ。あっちの世界には、実はテスラのほかにウルスラ、ジャスラっていう国もあってね……あの世界全体のことをパラリュスっていうんだって。言葉は一緒だから、パラリュス語って呼ぶのが正しいのよ」
「ウルスラ……ジャスラ……?」
「……あ、そっか。その辺の知識もないよね」
「……」
何だかどっと疲れて、俺は目の前にあるソファーにごろんと横になった。
「そうそう!」
朝日がちょっと嬉しそうに手を叩くと、俺のすぐそばに来た。
「それでね、このソファーの独り占めがお気に入りでね、よくそうやって横になってた」
「……そうなのか?」
「そう。それで……」
朝日はそう言うと、近くの床に座り、じっと俺を見上げた。
「ここでね……こうやって、相談を聞いてもらったりしたのよ」
「相談……何の?」
「ユウのこと」
二言目にはユウの話になるな……。
――あのね。夜斗から見て、最近のユウってどう思う?
今、目の前に居る朝日より少し幼い……困り果てたような表情の朝日の顔が思い浮かんだ。
――もう少し様子を見たらどうだ?
何かそんなようなことを言ったような気がする。
それで……。
俺は手を伸ばして朝日の頭に手を乗せた。髪をぐしゃぐしゃっとする。
「……そう! それ、よくやるのよ!」
朝日はそう言うと、両手で俺の手を掴んで頭から手をどけた。
その細い手の感触に少しドキリとする。
「それでね、ユウによく怒られるの」
「ユウに……」
「むやみに触るな! ……ってね」
そう言うと、朝日は可笑しそうに肩を震わせた。
――そのとき、玄関の方から「ただいまー」という少年の声が聞こえた。
「あ、暁が帰って来た」
「アキラ?」
「私の息子!」
「は?」
驚いていると、朝日は立ち上がってリビングの扉に近寄った。扉を開けると同時に、すらっとした茶色い髪の少年が頭を掻きながら入ってくる。
「疲れたー……。先輩たちのシゴキ、キツイんだよなー」
「お帰り、暁」
「ただいま……――えっ!」
少年はソファに居る俺を見ると、驚いた表情のまま固まった。
「……お帰り」
とりあえず言ってみる。
何だろう……確かに、この少年――暁のことは、よく知っている気がする。
俺の脳裏には少女のユウしか浮かばないが、少年にしたらこんな感じなんだろうか。
……そうか、朝日とユウの息子なんだな。13年経ってるって言ってたし……。
何がどうなってそんな展開になったのかもさっぱりわからんが……あのときから、朝日はユウのことしか見えてなかった気がするし。
……何かこんなことを、前にも考えた気がする。
「何で!? 何で夜斗兄ちゃんがここにいるの!?」
「……穴に落ちて、私が助けたの」
「はあ?」
暁は間抜けな声を上げると、担いでいた荷物を下ろして俺の近くに来た。
「穴って次元の穴?」
「そうみたい。ソータさんを助ける代わりに引っ張られちゃったんだって」
「そうなんだ……。えー、でも何か嬉しいかも」
暁はそう言うと、ソファに来て俺の隣に座った。
そして
「夜斗兄ちゃん、せっかくだから明日、遊びに行こうよ!」
と嬉しそうに笑いかける。
そっか、俺はそういう風に呼ばれてたのか……。
なぜか胸が熱くなる気がしてちょっと浸っていると、朝日が「駄目よ」と怖い顔をして暁を叱った。
「暁は学校も部活もあるでしょ。しかも明日は空手の道場もある日じゃない」
「1日ぐらいサボってもいいじゃん。こんな機会ないし」
「駄目。……それに夜斗、記憶がないの。ここ13年の間の記憶」
「――えっ……」
暁は驚くと、俺の顔をまじまじと見た。
「じゃあ……オレのことも覚えてないんだ……」
かなりショックを受けたようで、みるみるうちに表情が曇る。
何だか申し訳ない気持ちになって、俺は慌てて笑顔を作り、暁の肩に手を乗せた。
「えーと、覚えてはいないけど……よく知ってる感じはする。暁は、普段通りでいいから。それで……何か思い出すきっかけになるかもしれないし」
「うん……。あ、日本語なんだね。夜斗兄ちゃんとはパラリュス語でしか話してないから、何か新鮮」
「ここはミュービュリだからな」
「そっか……」
「空手やってるのか?」
「うん。朝日が習ってる先生にオレも習ってる。……そうだ、組手してみる? テスラではよく相手してくれてた」
「……そうなんだ。でも、明日でいいか? 今日は……少し頭が痛い」
「あ、そっか。……そうだよね。交通事故に遭ったようなもんだしね」
暁は素直に頷くと、すっくと立ち上がった。
「朝日、夜斗兄ちゃん、すぐにテスラに帰る訳じゃないんだよね?」
「んー……そうね」
台所で瑠衣子さんの手伝いをしていた朝日が振り返る。
「とりあえずしばらく休んでもらって……私の時間があるときに、関係がありそうな場所を巡ってみようと思ってるの。高校とか、付近の街とか……。だからそうね、1週間ぐらいはいてもらうことになるかな……」
「そっか」
暁は安心したように頷くと、俺の方に振り返った。
「じゃあ、頭痛が治ったらオレの相手をしてよ。約束だからね」
「わかった」
暁は嬉しそうに笑うと、荷物を担いでリビングを出て行った。
「暁は……随分と夜斗くんに懐いてるのね。朝日から話は聞いてたけど……」
瑠衣子さんが不思議そうな顔をしていた。
「うん……そうね。夜斗が父親代わりみたいなものだからね」
「そうだったんだ……。ん? 父親代わり?」
ユウはどうなったんだ? テスラで暮らしているからか?
あれ、でも、俺もテスラにいたはずで……。
首を捻っていると朝日が何かを思い出したのか、ちょっと淋しそうに微笑んだ。
「13年間でね、いろいろ……あったのよ……辛いことも……たくさん。夜斗は、そんな私と暁を、ずっと支えてくれてたの」
「……」
「暁はね……」
「オレが、何?」
制服から普段着に着替えてきた暁がリビングに現れる。
「何の話?」
「この13年間の話よ。テスラの戦争とか……」
「そのときの話、オレもあんまりちゃんと知らないけど」
「……そうね」
朝日は溜息をつくと、俺と暁を見比べて微笑んだ。
「いい機会だし……何があったのか、話そうか。……ママ、いい?」
「……ええ」
瑠衣子さんがお皿の準備をしながら頷いた。
瑠衣子さんは朝日の母親で……ずっとミュービュリで生きてきた、普通の人間のはずだった。
テスラの戦争に、関係あるのか……。
俺と暁は黙ってダイニングの椅子に座った。
朝日と瑠衣子さんは、夕飯の準備をしながら――少しずつ話し始めた。
テスラの戦争の陰で……キエラで起こっていたこと。
朝日の父親――ヒールさんと、瑠衣子さんのこと。
そして……ユウとの関係。
話を聞きながら、時折いろいろな映像が俺の脳裏を掠めた。
記憶が戻る訳ではなかったけど、少しずつ頭の中が整頓されていく気がする。
しばらくしたら、朝日がいろいろな場所を案内してくれると言っていた。
その中で……蘇るかもしれない。
でも、今の俺には――一つだけ、腑に落ちないことがあった。
エルトラの兵士である俺が……どうして、国を裏切る決断をしたのか。
結果として赦されたみたいだが……当時なら一生エルトラに足を踏み入れることはできない、完全な反逆だったはずだ。
今の俺には、全く想像もできない。
俺は、いったい何を考えて――朝日やユウの傍にいたんだろう?




