ボイルド・エッグ 1
それは、いつものように俺たちがたまり場にしていた場末のバーで、ポーカーをしていた時の事だった。
突然、まあこの街で突然に起こらない事なんて何もないんだけど、突然腹を刺された筋骨隆々としたガタイの良い安物のスーツを着込んだ頭に白髪が混じり始めたおっさんが、雨の中でずぶぬれになった姿でバーのドアを乱暴にこじ開けて倒れ込んできた。
俺たちのボスである我妻さんは、バーの入り口に倒れたそのおっさんを軽く見やって煙草の煙を吐くと、俺を見て軽く顎をしゃくった。
正直、面倒くさい上にまた俺がこいつの面倒を見るのかよ。って、気がしたが、それこそガキの頃から厄介になっているクサレ縁を放りだしておくわけにもかねえ。
俺は溜息を吐きつつ、折角スリーカードの揃った手札をテーブルの上に放り捨てて入り口に倒れ込んだおっさんを担ぎ出すと、バーカウンターの奥にいたバーテンで、我妻さんの幼馴染の秋武さんに断りを入れてバーの奥にある部屋にその知り合いのおっさん、刑事の井之頭を連れて行く。
俺の仲間達も心得たもので、俺が店の奥に井之頭を連れて行くと同時に全員が動き始め、井之頭が倒れ込んだせいでびちゃびちゃに濡れまくった入り口前を掃除して、手当てに必要な薬箱を用意すると、今さっき起こったことが何もなかったかのように軽く口裏合わせをする。
俺はそんな皆の心づかいに心の中で頭を下げつつ、従業員の控室に押し込んだ井之頭、『棟京』の池小路署勤務の警部、井之頭・幸円を見下ろしながら悪態をつく。
「おい、禿げ。今度は何しやがったんだ。正直、こうしょっちゅう顔を出されたら迷惑なんだけど?」
「……禿げてねえよ、見りゃわかんだろう。それに、俺たち警察が、テメエらみたいなゴミの迷惑を考えると思ってんのか?」
「言うじゃねえか。そのゴミに命を助けられてる情けない警察はどこの誰なんですかー?」
相変わらずの悪態ぶりに、俺は苛立ちながら薬箱の中から包帯と消毒液、それに縫合用の針と糸を取り出すと、井之頭のシャツを脱がして患部を露出させた。
するとそこには、血にまみれた弾痕と思しき丸い穴が開いており、時おり鮮血が井之頭の呼吸に合わせて、流れ出していた。
どうやら弾丸は貫通し、おまけに内臓にも傷は無いようだが、どうやら相当血を失ってしまったらしく、井之頭は立っているのもやっとの様だった。
俺は、包帯を用意して縫合用の針に糸を通して危惧を防ぐ準備をすると、サマーコートのポケットからタバコの箱を取り出してその中から一本だけ取り出して口に咥える。
その瞬間、目の前で床の上に転がっているおっさんが死にかけとは思えない早さで立ち上がり、俺の頭をぶん殴って口元のタバコをひったくった。
「ああ!テメエ何するんだ!」
「ガキが煙草吸ってんじゃねえよ。警察が目の前で法律を犯されて、注意しただけで済ませる訳ねぇだろうが、バカが!」
言いつつ、井之頭は俺から奪ったタバコを咥えて、指を鳴らしてタバコの先に火をつける。
井の頭が最も得意とする魔法、下級火炎魔法『火花』だ。
ライター要らずのイノさんっつー、意味不明な二つ名の元になった魔法は、井之頭と出会ってからのこの十年間で、腐る程見飽きた手品だ。
俺はそんな井之頭の代わらない様子を見て溜息を吐くと、わざと乱暴に井之頭の腹に開いた穴に触れながら傷口を縫い合わせていくと、苛立ち混じりに目の前のタコに抗議する。
「ああ?もう高校卒業してんだから、関係ねえだろうがよ!つーか、誰がタバコ吸ってようが、自己責任だろうが!」
「ぬが!?クソガキが……!それでも十八の青いケツしたガキが吸っていいわけねえだろう。煙草ってのはなあ、本音を隠して生きていくやつが、テメエの過去を煙に巻く為に吸うんだよ。二十年も生きてねえ奴が吸うには、早すぎるんだよ」
俺をぶん殴った井之頭のタコは、そう言って煙草を咥えた唇の端から煙を吐くと、痛みに震えながら俺に向かって無造作に右手を突き出した。
「何だよ、その手は?」
「残りのタバコだ。出せ。持ってんだろ?」
「マジ面倒クセェ。つーか、何でオレにそこまで構うんだよ。ストーカーかよ、気持ち悪い」
俺は、ぼやきながら残り少ない数の煙草が入った紙の箱を取り出すと、井之頭はそれを受け取りながら俺を軽く睨みつけると、包帯は自分で腹に巻きながら嘲笑混じりにとても刑事とは思えないようなことを軽口を叩いて見せる。
「そんなに俺が鬱陶しいんだったらよ、もうちっとクソになれ。女を見たらヤク漬けにして風俗で稼がせて、ガキを孕むまで犯して、それを餌に奴隷にしろ。ガキが産まれたら犯罪を仕込んで、金を稼がせてその上前をはねて、足が付きそうになったら鉄砲玉にして見殺せ!息を吸う様に他人を騙して、使え無くなったら道具の様に切り捨てろ!そうすりゃ、俺だって喜んでお前の眉間に銃弾をぶち込んで、コッチから綺麗サッパリ縁を切ってやらあ!」
「フザケンナ!仮にも我妻さんの舎弟名乗ってる俺が、そんなクソみたいな真似ができるかよ!冗談でも言って良い事と悪い事があんぞ!クソ刑事!」
「そういうクソじゃなきゃ、生きてけねぇんだよ!この街は!」
余りの外道ぶりに、咄嗟に声を荒げて井之頭に食って掛かると、井之頭は、俺の言葉を遮る様に怒鳴り声を上げて、俺の反論を力づくで封じた。
「テメエにゃあ、いや、テメエらにゃギャングスターなんて似合わねえんだよ。此処はクソの掃き溜めだ。ゴミの溜まり場だ。はっきり言って、まともな奴が望んで住むところじゃねえんだよ!」
大声を出して所為で痛んだ腹を押さえながら、井之頭はまるで諦めたように言い捨てると、俺の眼を見据えて、懇願するような口調で言う。
「おめえらは、まだまともだ。まともでいられてるんだ!とっととくだらねぇ遊びなんて辞めて、どっか適当な田舎にでも引っ込んでろよ。テメエにゃあ、頼ることのできる家族なんか居なくても、まだ信じられる仲間がいるんだ。そいつらの為にも、先ずはテメエが真っ当な幸せって奴を掴んでやれよ」
井之頭はすがるような口調で言うと、一拍置いて俺の肩に手を置いて、言い聞かせる様に深々と言う。
「それともお前の仲間は、仲間の幸せを祝えもしねぇほど、情の薄いやつらなのかよ?」
俺はその言葉に鋭く舌打ちを返すと、肩に置かれた井之頭の手を強く振り払って、井之頭を睨みつけた。
「……仲間の幸せを心底から祝える奴らだから、見捨てられねえんじゃねえかよ」
俺のその言葉に、井之頭は深々と溜息を吐くと、手の中に握りしめた煙草を懐の中にしまい込んだ。
「……相変わらず、テメエとは相いれねえわ」
「こっちのセリフだぜ、タコ」
井之頭は俺の言葉に呆れたような、諦めた様な溜息を吐くと、包帯を巻いたばかりの腹を押さえながらバーの裏口に向かい始め、そこでふと足を止めて、思い出したように一つだけ質問した。
「俺はお前がクソに墜ちたら眉間を銃弾でぶち抜く気だがよ、お前は俺がクソに墜ちたらどうするか、考えたことあるか?」
振り返り際にされたその質問は、思い出したというには何処か沈鬱な思いが漂っており、俺は何となく井之頭に何かがあったのだろうことは察したが、例え慰めと言えども軽い言葉を口にすることが憚られ、俺は少しの沈黙の後に頭に浮かんだことを率直に伝える事にした。
「…………お前がクソに墜ちる所なんか、考えたこともねえよ」
「……そうか。悪いな……。ありがとよ……」
俺の返事に何を思ったのか、井之頭はただそれだけを言って前を向くと、バーの裏口から雨の降る『棟京』の街へと再び歩み出し、出て行った
俺は何となく嫌な予感がして、その後ろ姿に声を掛けようとしたが、何故だかかけるべく言葉が見つからず、ただ灰色の雨の中に消えて行くその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
ーーーーーーそれが井之頭・幸円の生きている最期の姿だった。