6・言葉の綾
昼寝から覚めたばかりのぼんやりとした意識で窓の外を見た。
3階にあるあたしの部屋からの眺めは、いつもどおり、いまいち冴えない。
都会じゃないけれど、田舎とも言い切ることのできない住宅街。
過疎とも過密とも縁のない、どっちつかずのこの町は、いちじるしい発展もない代わりに事件もなく平和そのもの。
だからこそ、あの小学校のことはずっと記憶に鮮明に残っている。
あたしがいらないと言ったから、ケーキは用意されなかった。
友達全員にすっぽかされるのがもっと早くにわかっていたら、こんなかわいそうなあたしを慰めてとばかりに、7号サイズの苺のやつを強要できたのにと少しだけ残念に思った。
だめでもともととばかりに母に言ってみたけれど、返事はNOだった。やっぱりね。
「食べたかったら自分で買ってきなさい」
「でもほら、自分のお葬式って、自分でできないでしょー? それといっしょだと思うよー」
「それってどういう理屈よ。あんたは生きてるじゃないの、綾羽」
腑に落ちないこと。納得のいかないこと。世のなかはそんなことばっかりだ。
15年も生きていれば、だんだんとわかってくる。……訂正、16年目突入だった。
ケーキもプレゼントも、今のところナシ。
せめて着るものくらいは新しくしたくって、鮮やかな黄色の半袖Tシャツのタグを取った。
見せても減るものじゃないというけれど、最低限度の恥じらいくらいは持っていたいじゃないの。着替えのためにブラインドを閉めようとして、あれっと思った。
カナメの家が見えなかった。
最高につまらない日曜午後3時15分。
要求金額の半分を受け取って、あたしは外出した。
気分は妥協混じりの営利目的犯罪者。
かっこつかないなー。
進藤文具店は健在だった。
6月に入っても『新入学おめでとうキャンペーン』の貼り紙が残っているのはどうかと思うけどね。
「あれ、綾羽ちゃん。いらっしゃい。要なら出かけているけど?」
カナメパパがレジから声をかけてきた。
あたしも笑顔でこたえた。
「そっか。ね、通りのむこうに変な建物がたってたけど、あれってなに?」
「ああ、あのビルね。個人病院や保険会社や金融関係が入っているみたいだよ。まだテナント募集中だったな。それがどうかしたの?」
「うん。そいつが邪魔して、あたしの部屋からここが見えなくなっちゃった」
「そうかあ。うーん」
カナメパパは腕組みをして、見えるはずのない通りのむこうに目をやった。
「この町の発展のためには、変わっていくことも必要なんじゃないかな。どこにでもよくあることだよ。そうはいっても、全国チェーンの大型文房具店が参入してきたら、うちも具合が悪いけどね」
あたしはあいまいに頷いた。
難しくてわからないふりをした。
ふと見たレジカウンターの一角に、おかしなものが陳列してあった。
「おじさん。これって、カナメ愛用の砂消しゴムだよね。なんでこんなとこに置くの?」
「ははは。よくぞ聞いてくれました」
カナメパパが話そうとしたそのとき、嬌声をあげながら制服の女の子3人組が入ってきた。
黒のブレザーにチェックの膝丈スカート。カナメの通っている森園高校の生徒だ。
3人はせまい店内を縫うようにして、迷うことなくレジのまえにやってきた。
「あのお……ここに砂消しゴムが売ってるって聞いたんですけどお……」
目をしばたかせた。その睫毛の主成分はマスカラ。なんか怖い。カオ怖い。
隣にいるグリーンのアイシャドーの女の子が、先に商品に気づいた。
「チカ! これこれ、これだって」
「マジ? うっそやだなにコレ~ぎゃはは!!」
3人はそれぞれ3個ずつ砂消しゴムを買っていった。
そのうちのひとりがすれちがいざまにあたしに目礼をした。
その子が店を出るとき、あの黄色い人はお姉さんだよアタシ見たことあるもんと言った。
ざけんなー。
カナメパパはおもしろいものでも見るような目をして、あたしに言った。
「口コミで売れているんだ。要も首をかしげてる。理由はわかっているようだけど、それでもおかしいよね。ははは」
つまり、カナメ人気で売れているってことか。
あたしはまじまじと砂消しゴムを見つめた。
すぐ脇には携帯電話の新機種が並んでいた。
売れ筋商品の並列とはいえ、奇妙な取り合わせだ。
あたしには両方ともいらない。便利すぎるものも、使えないものも。
「綾羽ちゃんはお化粧しないの?」
ああいう女の子たちと比べているのがまるわかりの質問。
たぶん、カナメパパに悪気はないんだと思う。
でも、うちの要に会うときくらいは化粧とまではいかなくてももうちょっと女の子らしい格好をしてくれよと言っているみたい。
あたしにはそう聞こえた。
今日はたまたまジーンズだけど、制服以外もスカートをはいているんだけどなー。
答えないあたしに、カナメパパはとどめのひとことを言った。
「売れちゃうよ?」
「カナメは商品じゃないよ」
言い捨てて、あたしは店を出た。
自分が売れ残ることよりも、人が売れてしまうことが悔しい。
それを悟られるのが、もっと悔しい。
あたしは小学校跡地へと続く坂道の手前まで来ていた。
気持ちの勢いとハイテクスニーカーの複合効果。
この調子で登りつめてしまおう。
そのまえに、電話をひとつかけた。唯一覚えている11桁の番号だ。
「もしもしカナメですかー?」
『綾羽ちゃん? 元気?』
「五月病とは縁のない日々だったよー。ところで今ヒマ?」
『おれがヒマじゃなくても呼びつけるくせに、なにご機嫌うかがいしているの?』
「それなら話が早いね。すぐ来て。今来て。早くー」
『ええと、あと少し待ってよ。……取り込み中なんだ。場所はどこ?』
「知らない。15分待つから、来てね」
ちゃんとした土地の名前を知らないんだから、しかたないじゃないのさー。
電話ボックスを出て、上り坂に立ちむかった。
途中、何度か後ろを振り返った。カナメはいなかった。当りまえだ。
そんなに早く追いつかれたくない。追い越されたくない。
あたしはカナメのまえを歩いていたい。できるのなら、ずっと。
アキレス腱がぐんぐん伸びるような急な勾配。
登校拒否の理由になってもおかしくない。それくらい、疲れる。
あの頃は幼くて、遊ぶことばかり考えていられた。だから、それだけで前に進めたのかも。
もし山のうえにあるのが高校だったら、出席率はどんどん下降の一途を辿り、学校閉鎖しちゃいそうだ。
いまはなき、学び舎。
丘で足を止めた。
小学校跡地は、ひとりでは踏み込めない。進入禁止ではなく、気持ちの問題。
校舎解体後、一度も近づこうとしなかった。
噂は、嫌でも耳に飛び込んできた。
あたしが卒業式をふいにしてまで抗議した話は、あの場に居合わせた人は勿論、面識のない人までが知っていた。カナメの草の根署名運動の影響といえた。
署名をしなかった人は大勢いた。けれど、その後どうなっていくのか、みんな気がかりだったみたい。
学校取り壊しへの消極的賛同者として後ろめたい思いを抱えつつ、山の方角を眺め、お粗末なものを建てるなよと威嚇していたらしい。
それが業者や町役場へのプレッシャーとなったのかどうかはわからない。
金銭的理由かもしれないし、あたしの想像力の範疇を超えるドラマがあったのかもしれない。
あの春から3年以上経った今も、更地のままになっている。
この目で確かめてはいないけど、そういう話だ。
丘から一望できる町並みのなか、カナメの家を発見した。グレーの鉄筋。四角くて。
ここからなら新築複合ビルの陰にならず、ちゃんとその姿を認めることができた。
うれしかった。
あたしの家も見えたけど、そっちはどうでもいい。
膝下くらいまで繁茂した雑草の大地。
身を沈めるようにして座った。
変わらないものを探すことはだんだんと困難になってきていた。
だって、まえはあんなに咲いていたたんぽぽも見つからない。
あたしが積極的に見つけようとしていないせいもある。
もしかしたら、地球温暖化とか豪雪とか、そういうのが関係しているのかもしれない。
そのときは寒いと思っても、去年と比べてどうだったかなんて、いちいち覚えていられない。
そんな余裕があるのなら、教科書に載ってる内容をより多く記憶して、カナメと同じ高校にきっと行っていた。
こんな山の植物の生態さえ変わってきているのだから、たぶん人の気持ちなんかもっと簡単に変わってしまうんだ。
前々からの約束をふいにするのと同じように。
時計を見ようと思ったら、左腕にそれはなく、自分のいい加減さに少し笑った。
これじゃ15分待ちようがない。
最後に家で見た時計の針は3時15分を差していた。
適当に切りあげよう。
時計を持っていなければ、長針が短針を追い抜く瞬間を見ずにすむ。
なんの例えかなんて、口が裂けたって言わないつもり。
大体あたしそんなに太っていないし。
「おまたせ」
カナメがいつのまにか後ろにいた。
びっくりしたあたしがその拍子に立とうとしたら、そのままそのままと制止された。
カナメは隣にどかんと座り、白い箱を差しだした。
箱の中身はシュークリームが4個。それに、コンビニの袋から緑茶のペットボトル登場。
「お誕生日おめでとう」
と、カナメは言った。
聞きたいことは山ほどあった。
ここまでの道は一本で、あたしはそっち向きに座っていたのに、なんで背後から現れたのか。
どうしてこの場所がわかったのか。
そして極めつけは、
「この、このシュークリームは西村屋だよねー!? ダブルクリームは有名だけど、なんで苺が入ってんの!? ねー、なんで!?」
ということだった。
生クリームとカスタードだと思っていたところに、苺のあの甘酸っぱい味まで口の中に広がったものだから、意表を突かれてしまった。
これは美味です。かなり美味。
あたしケーキがよかったなーなんて発言は雲散霧消です。
「あ、よろこんでくれてる。よかった」
カナメにそう言われるまで、自分がにやけてんのに気づかなかった。
もー、ほっぺたゆるみっぱなし。
あたしからの電話の直後、カナメは近くのケーキ屋さんに立ち寄った。
どういう頼みかたをしたのか詳しくは話してくれなかったけど、特注でシュークリームを作ってもらって、お茶も買って、ここを目指した。
ここにいると思ったのは、あたしが公衆電話を使ったからだという。
「街のなかの公衆電話の位置を全部知ってるわけじゃないけど、衝動的に電話するのならきっとこのふもとのタバコ屋だろうと踏んでた。読みがはずれても、他をあたるつもりだったし。って、おれのぶんまで食ったね? 人に喋らせといて3個食ったね?」
「あはは。気にすんな」
「綾羽ちゃん家はこのあと焼肉大会なんじゃないの? 胃袋だいじょうぶ?」
「甘いものはベルバラー」
「順番逆だよ。いやそのまえに別腹だろう。いいけどさあ」
ひとしきり笑って、お茶を飲んで、そこそこ積もった話をした。
小学校中学校といっしょで、高校が別。
わざわざ連絡しないとお互いになにやってんのかわからないというのは初めてで、でもそれなりに忙しくて、時間をつくれないまま丸2ヶ月経過。
カナメは帰宅部だという。
あたしは空手道部に入った。
「なんでまたそんな」
と、カナメが5ミリ腰を浮かせたのは見なかったことにした。
「先生がすごく強い人でね、学校も全国大会に何回も出ているんだって。よくわかんないけど、初心者からでもだいじょうぶらしいよ」
「よくわかんないんなら、だいじょうぶじゃないだろ」
カナメの言うことはもっともだ。
あたしがカナメの目の届かないところで無茶をするんじゃないかって、心配なんだろう。
つり綱をのぼったときも、下でハラハラしてたっけ。
「試合に勝っても負けても、あたしのパパは号外を出しそうだよ。そっちのほうが、ちっともだいじょぶじゃないね」
あたしがそう言っても、カナメの仏頂面はもとどおりにはならなかった。
あたしのほうを見ようとしない。ただ、まえを向いてた。
カナメは言った。
「おれはしょぼくれている綾羽ちゃんに豚まんを用意できるヤツになろうと思った」
「名言だねー。あたしはどっちかというとピザまんのほうが」
「おれはしょぼくれている綾羽ちゃんにピザまんを……」
「うん。ごめん。ありがと」
たぶんあたしはとてもラッキーなんだと思う。
さしあたっての願いは、ない。
あたしはすっくと立ち上がり、カナメを見下ろして聞いた。
「ねー、叫んでもいい?」
「え」
「このシュークリームのおいしさを無性に町のみなさんにお伝えしたいんだけどー」
「だ、だめだよ。なに言ってんの」
「どうしてよー? ここでおいしいシュークリームを食べて、しかもここは小高い丘のうえなんだもん。シチュエーションばっちりでしょー!? 叫びたーい。叫ぶー」
「どうせ叫ぶなら他のことにしてよ」
草を払いながら、カナメはあたしの脇に立った。
今度はカナメがあたしを見下ろす番だった。
「シチュエーションは、ばっちりだ」
カナメはあたしを黙らせるコツを知ってる。
ずるい。
仕方なく、あたしは絶叫体勢に入った。
え、ホントにやんの? というカナメの声なんか無視して叫んだ。
「あたしはここに誓いまーす」
カナメは目をぱちくりさせてる。
「あたしは将来ー」
こだまが聞こえた。
「ここにいるカナメとー」
とー? って、カナメが小さく語尾を捉えてる。
こだまの正体はカナメ。
「いっしょに老人ホームに入りまーす!!」
落胆の表情のカナメ。ザマミロ。
んでもってあたしは、ダメ押しの叫び。
「だから早く老人ホーム建てやがれー!! マジック持って、押し入ってやるー!!」
「綾羽ちゃん綾羽ちゃん」
カナメはつんつんとあたしの肩を叩いた。
手で自分の口元を覆って、目をそらしつつ、なんだか言いにくそうに言った。
「あのさ、おれそんなに待てないんだけど」
「困った人だねー」
あたしはすぐに次なる案を用意した。
さっきよりは控えめに叫んだ。
「就職難のときには職員として採用よろしくー。……これでいい?」
カナメは笑った。体を折り曲げて笑った。笑いすぎ。
口元にやった手はそのままだった。意外に大きな手のひら。あたしはふーんと思った。
カナメのその笑いすぎの涙目があたしのほうを向いた。
カナメは小さいながらもはっきりした声で告げた。
「やっぱりおれ、待てない」
カナメがあたしを抱きしめた。
あたしはじっとしていた。
カナメの肩越しに景色を見た。
見たつもりだったけど、見守られているような、不思議な感覚。
とにかく、しばらくの間、そうやっていた。
「うーん」
カナメがうなった。
「こうまで無反応だと、おれとしてもそれなりに困るんですけど」
「そう言われてもねー。あたしだってどうすりゃいいのやら」
「少しくらい動揺してくれたっていいじゃないか。バチ当たらないよ」
「カナメ怒ってんのー?」
「別に」
あたしの態度が気に入らないらしい。
しかたがないから、言ってあげた。サービスサービス。
「あー、なんだかどきどきしてきました」
「嘘くさいなあ」
「嘘じゃないですー。鼓動が激しいですー。止まれ心臓!」
「えっ!? そんな……老人ホームの誓いは?」
「そっか。……いつか止まれ心臓」
「そういうことなら……」
ようやくカナメはあたしを解放した。
あたしはしゃがんで、シュークリームの箱やペットボトルの空容器を回収した。
いつになく働くあたし。ちまちまとナイロン袋の口を結んだ。
怪しまれたかもしれない。
ああは言ったけど、そりゃーやっぱり。ね。なんだ。その。はあ。
でも、絶対言わない。口が裂けても。肉を焼こうとも。
「さっき言いそびれたことがあるんだ」
カナメはあたしが集めた空容器を受け取って、なんでもないことのように言った。
「綾羽ちゃんは知らないみたいだけどさ、ここに来る道はもうひとつあるんだよ」
「どこに!?」
たぶん、その秘密通路発言にあたしの目は輝いたんだと思う。
カナメはさもおかしそうに笑った。
「ついてきて」
雑木林だった。人ひとりがやっと通れるような、けもの道。
足場が悪くて、草ぼうぼうでよく見えないところもある。
湿っぽくて、空気も山の上より冷たい感じ。
針葉樹のした、苔やシダ植物が生い茂っている。すみれも咲いてた。
それに、しょうじょうばかま。げんのしょうこ。ゆきのした。ほとけのざ。
そういった植物の数々。昔はもっと名前を知っていたのに、これ以上は思いだせない。
半袖では少し寒かったけど、腕を抱えるほどじゃなかった。
林の向こうから差し込む光が、ときおり帯になって塵を浮かびあがらせていた。
明るい町が見え隠れしていた。
どこにつながっているんだろう。
緩やかな下り坂だから、表の道よりは遠回りになるのかもしれない。
尋ねてみたら、まえを行くカナメは振り返りもせずに否定した。
「こっちのほうが近道なんだ」
「じゃあなんで誰も知らないんだろ」
「男子はみんな知ってたよ」
「ずるいなー。男子は」
「ずるいよ。実はほかにもズルをしたんだ」
胸をよぎるものがあった。
あたしの誕生日に友達全員が約束をすっぽかすなんて、都合よすぎない?
そっと尋ねたら、カナメは声を出さずに笑った。
足場がだいぶよくなってきた。
あたしはカナメを押しのけて、先を行こうとした。
カナメが聞いてきた。
「なに? 蛇でもいた?」
「え? 集めてるの?」
「な、なんでそうなるの?」
すぐびびるくせに、かばおうとするなんて、ホントにバカなやつ。
あたしはまえに出ようして、思いとどまった。
道幅を考えた。
並ぶことは不自然ではなかった。
カナメの隣を歩くという慣れない位置関係が、やたら新鮮だった。
「なに笑ってるの?」
カナメが聞いた。
「なんでもないよ」
あたしは答えた。
カナメはあたしの譲歩に気づいているんだろうか。
あたしの髪になにかが触れた。カナメの手だった。
「なになになにー?」
うるさいくらいに騒ぐあたしに、カナメが言った。
「あ、ごめん。たんぽぽの綿毛がくっついていたから」
「嘘だね。信用不安だね」
「道は険しいな」
「山道だからねー」
「そうじゃないって。まあ見てよ、ほら」
あたしとカナメの真ん中の位置で、カナメは手を開いてみせた。
あたしは手のひらを見て、カナメを見て、もう一度手のひらを見た。
風がふいた。