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3・人情家

 俺ぁ深紅のかぁねぇしょん。

 俗にいう造花のカーネーションでぃ!

 おっと、俺の扱いには気ぃつけな。怪我すっぞ。

 葉も茎も持たねぇが、これでも仕込み針を隠し持ってるぜぃ。

 さしずめ薔薇のとげみてぇなもんだな。

 ああ、現代風には安全ぴんともいうな。

 下にひらりとなびくのは白いりぼん。

『ご卒業おめでとうございます』っつう、たいそうな祝辞が乗っかってる。


 そんな俺は、今しがた進藤要っつう坊主の手に渡ったとこだぜ。



 3月20日木曜日、今日は桐山北小学校の卒業式でぃ。

 お天道様の光が降り注ぐ、実にいい日和じゃねぇか。

 要にしてみりゃ人生の晴れの門出に違いねぇんだが、それにしちゃあ辛気くせぇ面してやがる。

 だっからよぅ、俺ぁ小林綾羽っつう嬢ちゃんのほうがよかったんでぃ。

 どういう了見で俺を選んじまったのか知らねぇが、卒業式典が終わるまで、互いに仲良くしようじゃねぇか!

 なぁ、坊主?


 ここの卒業生は、坊主と嬢ちゃんのたったのふたりっつう話だ。

 寂しいじゃねぇか、あん?

 袖振り合うのも他生の縁、ここはひとつ俺が盛りあげてやっからな。

 そんじゃまぁ、式のまえの控え室から、中継っつうやつを入れるぜぃ。



 視聴覚室っつう白い看板に、半紙がぶら下がっている。

 毛筆でぎょうぎょうしく書かれた字は『卒業生控え室』だとさ。

 広々とした部屋んなかにいるのは、要坊主と綾羽嬢ちゃんのふたり。

 おぅおぅ、いいねぇ。

 お熱いかい、おふたりさんよぉ?


「な、なんか、寒いね」

 ……おいおい、坊主。

 修行がたりねぇぜ。

 嬢ちゃんは黙ってるじゃねぇか。見ろよ。


 嬢ちゃんは言った。

「まだ時間あるよね。あたしトイレ行ってくるっ! カイロあと1個貼ってくる! アリバイ工作頼んだよっ」

「はいはーい。……アリバイかあ。ううーん」


 ……寒い、のかもしんねぇな。

 こうして見っと、広々っつうか、物がねぇんだ。

 入ってすぐんとこに丸っこい石油すとうぶが1個あるくれえだ。

 このすとうぶも、へぇへぇここに置いたぜあとはまかせたってな具合に見てとれる。

 あとは長机がひいふうみいよういつむう……よっつだ。

 なんで減るのかって? 

 はは、勢いあまっちまったんでぃ。気にすんな。

 ここってよぅ、卒業式会場の体育館に一番近い、ってだけで選ばれた場所かもしんねぇな。

 俺ぁ別にいいけどよ。



 そのうちに、寒さでほっぺた赤く染めた綾羽嬢ちゃんが戻って来た。

「あ」

 嬢ちゃんは小っちぇえ口を開けた。

 要坊主の左胸にへばりついた俺をじいっと見てる。

 んでもって、そのまんま急接近ときたもんだ。

 黒豆みてぇな色つやをした目ん玉が、またたきもしねぇで俺ににじり寄るんだぜ。

 いっくら俺でも、へどもどしちまうじゃねぇか。


「カナメー、これ曲がってるから、直してあげようかー」

 なに? 俺がまっすぐ坊主の衣についてねぇってぇのか。

 そいつぁ大変だ。

 なにせ俺ぁ、曲がったことがでぇ嫌ぇなんでな。


「え? いいよ。自分で直す」

 嬢ちゃんの言葉に坊主は首を横に振りやがった。

 坊主てめぇ、女からの誘いを棒に振るたぁ十年早えぇよ!


 しっかしそこは現代のおなごだ。

 嬢ちゃんはみずから白魚のような指を……。

 訂正、もみじのような手を……。

 これも違う、ええっと……人形焼じゃねぇあれは……そうだっ!

 もみじ饅頭のようなふっくらとした手を俺にのばしたんでぃ。


 そんとき、俺ぁ思ったぜ。

 この坊主が綾羽嬢ちゃんに迫るのは今しかねぇってな。

 俺ぁ確かに、作りもんの花でしかねぇよ。

 けどよ、たまには人様の人生に華を添えたっていいんじゃねぇか?

 せっかくの機会でぃ、俺に運命預けてみねぇかぃ?

 なぁ、要よぅ。




 俺の企みはこうでぃ。



    綾羽嬢ちゃんのもみじ饅頭の指を俺が仕込み針で刺す。

   「痛っ」

    嬢ちゃん、悲鳴を上げて指を見る。

    ぷっくらと盛りあがる血。

    要坊主はすばやくその手を取る。

   「もし?」

    ためらいがちに問いかける嬢ちゃん。

    しかし嬢ちゃんが二の句を継ぐより早く、坊主はその指を口に含む。

   「きゃあ」

    愛らしく声を上げる嬢ちゃん。

    そのまま坊主は上目づかいに嬢ちゃんの目を見る。目で殺す!

   「静かにせんか」

   「は、はい……」

    頬を染める嬢ちゃん。

    その胸を満たすものは甘美なときめき。

    震えているのが坊主に伝わってしまうわ……。

    嬢ちゃんは自然と目を伏せてしまう。

    そんな思いを知ってか知らずか、坊主はするりと手を放す。

   「え? もう?」

    口をついて出た自分の言葉に、更に赤面する嬢ちゃん。

   「たりないと申すのか」

    坊主が聞く。

    嬢ちゃんは羞恥心のあまり、答えられない。

   「正直に申してみよ。私ではそなたに不足かと問うたのだ」 

    坊主の今度の問いには、嬢ちゃんがはっとするような切なげな響きがあった。

    嬢ちゃんは肩までの漆黒の髪を揺らした。

   「綾羽?」

    坊主は名前を呼んだ。

    しかしそれ以上のことはなかった。

    嬢ちゃんはしびれを切らし、坊主の胸に飛び込んだ。

   「堪忍してくださいな。本当に、意地悪なお人ね」

   「綾羽……」   

  



 うおお。

 これだぜ! これしかねぇ!!


 ふと周りを見ると、もう俺は坊主の衣を離れ、嬢ちゃんの手中に収まってた。

 せっかちだなぁ、嬢ちゃんは……まぁいいけどよ。

 おっしゃ、やってみるとすっか。



 綾羽嬢ちゃんのもみじ饅頭の指を俺が仕込み針で刺した。

 さぁ嬢ちゃん、ここで悲鳴だぜ。


「あうち!」


 ――なんでめりけん言葉なんでぃ。

 まぁ、いいや。進めてくれ。

 嬢ちゃんは指を見ている。

 ぷっくらと盛りあがるたぶん

 俺は嬢ちゃんの左手のなか、流血の指は右手だ。


 要坊主はすばやくその流血の手を取った。

 ――お、いいぞ。


「もし」

 言いかける、嬢ちゃん。

 ためらっているように見えなくもない。

 しかし嬢ちゃんが二の句を継ぐ速さは俺の想像以上だった!!

「もしここからあんこが出てきたら、おもしろいよねー」

「綾羽ちゃんの手って、もみじ饅頭みたいだもんねえ」

「そーそー。あはは」


 ――なぜなごむ!?

 そしてもみじ饅頭ってのは……わからねぇ……ちっともわからねぇ……。

 なんでこうなるんでぃ、こんちくしょう。


 でもって、血の出たその指を口に含んだのは嬢ちゃん自身だ。

 坊主が手を取っていられたのは、ほんのわずかな時間だった。

 もうどうでもいいやと俺が思いはじめたそんとき――。

  

「きゃあ」


 愛らしく声を上げたのは坊主――おや?

 部屋の後ろのすみっこを指差して、『あわわ、ごきぶり』と言った。

 ――ごきぶり? ああ、油虫かい。


 坊主は上目づかいに嬢ちゃんの目を見た。

 嬢ちゃんは目で『殺す!』と言った。

 動揺のあまり、なにかを口走る坊主。

「静かにせんかー」

と、嬢ちゃん。

「は、はい……」

と、坊主。

 ――待てぃ、台詞が逆じゃねぇか。



 嬢ちゃんはこれを預かっておけってなふうに、俺を坊主にびっと投げた。

 坊主は俺を――落としやがったな、こら。

 坊主は頬を染めている――ああ、嬢ちゃんはかっこいいもんなぁ。

 俺も脚本間違っちまったようだな。

 しゃあねぇから、展開を見守ってやらぁ。



 嬢ちゃんの胸を満たすものは、狩猟民族の本能!

 素手では油虫に敵わないとみたのか、武器を探している。

 坊主が震えているのは、なんといっても寒いから!

   

 嬢ちゃんは自然と目を伏せてしまう――たんに足元に潜む目標物を探っているだけ。

 そんな思いを知ってか知らずか、坊主はするりと部屋を出た。

 ――なんでおまえだけ逃げんだよ、坊主!!


「え? もう?」

 言いながら、嬢ちゃんが坊主のあとを追った。

 廊下に人がきていた。


「そっか、これから卒業式なんだっけ」


 ――おお、そういやそうだった。

 俺まで夢中になっちまった。

 はは、嬢ちゃんの言葉に助けられちまったぜぃ。

 がんばってこいよ、ふたりとも!

 俺ぁこっから応援して……って、待て、待てぇい!!

 床に落ちたまんまの俺はどうなるんだぁ!

 油虫とたわむれてろってのかぁ!?



 これっきりにされるんじゃねぇかって、さすがの俺も気が気じゃなかったぜ。


 すぐに要坊主が戻ってきた。

「忘れた忘れた」

 坊主は床の上の俺をまたいで、長机に乗っかっている背負いかばんを開けた。

「答辞を忘れるなんて、あぶないあぶない。思いだせてよかったあ」

 ひとりごとを言って、半紙の束を取りだす。

 果たし状!? ――いやいや、坊主自身が答辞っつってたかんなぁ。

 果たし状だったら、面白ぇことになるのになぁ。


「これが綾羽ちゃんだったら、校長先生の話のあたりで気づくんだろうな。それで『これから取りにいってきますー』とか言うんだ、きっと。はは」

 坊主はまたもやひとりごと。

 手にした紙を広げて見ていやがる。

 答辞にしちゃあ、やけに枚数が多いじゃねぇか。

 一体全体、そりゃなんでぃ?


「……だめかもしれないな」


 意味ありげにひとりで途方に暮れんなよ。

 俺に相談してみろよ。

 人っ子ひとりいねぇところで要坊主ぁ溜息ついてるつもりなんだろうが、俺にゃあばっちり見えてんでぃ。

 大体おめぇ、先生から俺を受けとったあんときから妙だったじゃねぇか。

 陰気な雰囲気ふりまきやがってよぉ。

 こちとら、めでてぇ看板しょってんでぃ。

 短ぇつきあいかもしんねえけっどよぅ、せめて俺に造花のお勤めくれぇさせろってんだ。

 置きざりになんかするんじゃねぇぞ。

 ――っつうか、かまってくれ! 頼む! 無視すんな!


「もう行かなきゃ」

 坊主は小走りで控え室を出ようとして俺を踏んづけて転びやがった。


 ――痛ってぇっ!

 痛ぇじゃねぇか、おいっ!!


「痛てて……」

 坊主は膝をさすりながら、周りを見て、俺に目を留めた。

 ――やっと気づきやがったか、このうすのろこんこんちきめ。



 その、うすのろこんこんちき要坊主の表情がゆるんだ。


「よかった。おれのカーネーションか。ごきぶり踏んじゃったかと思った」


 この俺を油虫と勘違いするたぁ、ふてぇ野郎だな。

 坊主は俺を拾いあげ、形を整えて、左胸にまっすぐに留めた。



うん? 待てよ……。

坊主、ひょっとしてよぉ……さっきからぶつぶつ言ってたのも、油虫にびびってたからなのかい?




 体育館の入り口には、綾羽嬢ちゃんのほかに大人が4人いた。


 まずは綾羽嬢ちゃんの親父さん。

 断言できるぜ、面立ちがそっくりでぃ。

 ちょいと見かけねぇくれぇの福耳で、ちっとばかし押しが弱そうだねぇ。

 そのへんは、どっかの誰かさんに似てるかな、へへへ。

 じゃあ隣にいるのはお袋さんかい?

 こりゃまた藤色の訪問着で……へぇ、べっぴんさんだねぇ。


 要坊主のお袋さんは、桜色の絞りの訪問着だ。短い髪で素朴な顔立ち。

 残るは坊主の親父さんなんだが……この身丈六尺もありそうなお人がそうなのかい?

 へぇ、こいつぁまた意外だねぇ。

 苦み走ったなかなかの男前じゃねぇか。

 要坊主の将来もこれで期待が持てそうだぜ、なぁ嬢ちゃん?



「こうしていると、まるで結婚式みたいだなあ」

「ホントね」


 要坊主のご両親がそう言ったもんだから、俺ぁのろけてんのかと思ったぜ。

 小林家も含めた親御さんの視線は、ばっちりとその子供らに向けられていたんでぃ。

 綾羽嬢ちゃんがきっぱり言った。


「それはないです」


 らくだ色に格子柄の入った上下を着た綾羽嬢ちゃん。

 黙っていりゃ、それなりにかわいいのによぅ。

 前途多難だなぁ、坊主。



「こら、綾羽」

「だってパパ……」

 おっ、新たな事実、ここにあり。

 なんとまぁ綾羽嬢ちゃんは、父上をぱぱと呼ぶらしい。

 嬢ちゃんは要坊主のお袋さんの着物を指差して、

「結婚式は、あたしもこういう柄のが着たいよー」

 だだっこみてぇに言った。

 なんだ着物かぁと、親同士は変な笑顔を浮かべている。

 要坊主まで、今、胸を撫で下ろさなかったかぁ? んん?



 そのとき、体育館の戸が内側から開きやがった。

「あの、CDが終わってしまうので、お早めに入場していただけませんか?」

 小嶋とかっつうご婦人の先生だった。

 この先生は洋服だ。

 感想かい? 特になしだ。

 俺ぁ気が短ぇんだ。つっこむなや、ははっ。

 早くしろっつってる先生の言うとおりにしとこうじゃねぇか。

 なぁ、みなの衆!


「あっ、すいませんっ!」

「ほら、要がのんびりしているからっ」

 綾羽嬢ちゃんの親父さんと要のお袋さんが焦ったように言ったけど、坊主のせいじゃねぇよ。

 一同は音楽そっちのけでひとかたまりになって、体育館に入っていった。

 もっちろん俺もいっしょでぃ!



 卒業証書授与式は少人数で執り行われた。

 体育館の前半分には要坊主と綾羽嬢ちゃんの席がぽつねんとあってよぉ、来賓と校長の席はすてえじ向かって右手に設えてあるんでぃ。

 在校生と父母は、後ろ半分に位置してらぁ。

 でよぉ、小嶋先生が式次第に従って、司会進行してるときたもんだ。

 あくせくと働いて、ご苦労さんです。


 式次第はこうだぜ。

体育館すてえじ脇に張ってあるんでぃ。


    開式の辞。

    国家斉唱。

    卒業証書授与。

    学校長式辞。

    来賓祝辞。

    在校生送辞。

    卒業生答辞。

    別れの言葉。

    校歌斉唱。

    閉式の辞。


 ほほぅ、なぁるほどぉ。

 要するに、これを見てあとどんくらいか見当をつけて待てってこったな。

 卒業式たぁ、一種の我慢比べだな。

 だがよ、俺ぁ負けねぇぜ。

 気は短ぇが、勝負となりゃ勝ちにいくぜぃ!


 ……ところで、敵はどいつだ!?




 名前を呼ばれた綾羽嬢ちゃんが返事をして席を立った。

 いろは歌で『小林』のほうが『進藤』より前だからだろう。

 壇上でうやうやしく卒業証書を嬢ちゃんは、くるりと振り返って、指を二本突き出した。

 そしたらよぉ、嬢ちゃんの周囲が一瞬、白光りしたんでぃ。

 俺ぁたまげたのなんのって。

 ――なんだぁ? なにかのまじないかぁ? 

 すげぇじゃねぇか、嬢ちゃん! 


 しっかしよぉ、周りの人間はだっれもおどろかねぇんだ。

 これまたどうしたこった。


「あっ、今のでフィルムがなくなってしまったぁ!」

「もう、お父さんしっかりしてちょうだい」

「あはは。すまんすまん。ええと、どこにしまったかなー?」

 なんだか後ろでごちゃごちゃと言ってるようだが、これは小林夫妻かい?

 要坊主が椅子の背もたれに手をやって、体を後ろに向けた。

 お、見える見える。

 要坊主の親父さんが両手を口元に添えて、なにやら指示を出した。

「かなめー。小林さんがカメラのフィルム入れ替えるまで、時間稼ぎするんだあっ」

 ありばい工作とか時間稼ぎとか、なぁにやってんだかねぇ。

 すてえじ正面に立っている校長先生は笑っているが、来賓席の町長さんは苦笑いしてるぜ。


 ――めでてぇ席なんだろう? 

 もっと朗らかに笑えや、じぃさん。

 だいじょうぶだって。

 差し歯も入れ歯も、そう簡単には取れねぇって。……たぶんな。



 要坊主の番がきた。

 坊主は卒業証書を普通に受け取った。

 俺ぁ正直、つまんなかったぜ。

 せっかく舞台にあがったんでぃ、なにか、でっけぇことをやりゃあいいのによ。

 おまえのそのいまいちぱっとしない十人並みの風貌も、今日だけは二割増のはずなんでぃ。

 どうしてかって? はっ、愚問だな、そりゃあ。

 俺がいるからに決まってんだろうが!


「かなめー。こっちを向きなさーい。小林さんが写真を撮ってくださるそうだぞー」

 保護者の席から上がる親父さんの声を、坊主は無視した。

 のりが悪ぃなぁ、あがってんのかい?



 そしていよいよ退屈との戦いがはじまった。

 そう、敵は退屈だったんでぃ。姿が見えないぶん、始末が悪ぃぜ。

 まずは校長の話だ。

 ……なげぇ。なげぇよ。

 校長の話とかけて『寿限無』と説く。その心は『長ぇ!!』ってなもんでぃ。

 ……まぁ長いばっかしで、俺ぁ聞いちゃいないがな。


 体育館の中は、ゆったりした西洋音楽が静かに流れている。

 俺みてぇな落ち着きのねぇやつの心にまでしみていくとは、なかなかいい曲じゃねぇか。


 坊主の隣で嬢ちゃんが揺れている。

 音楽と体の揺れがあってない。

 嬢ちゃんは、実は、りずむ感ってのがねえのか?

 俺がそう思った次の瞬間、嬢ちゃんは坊主とは逆の方向に座ったまんま倒れやがった。

 派手な音がして、要がだいじょうぶかと尋ねた。

 嬢ちゃんは気丈にも自分で椅子を起こして、頷いた。

 校長の喋りを中断させる効果があって、話は尻切れとんぼに終わった。

「作戦成功」

ぼそりとつぶやく嬢ちゃんの目に涙がきらりと光った。

 ――なかなかやるじゃねぇか。

 なちゅらるな演技だったぜ、嬢ちゃん。

 まるで本当に寝ぼけたみてぇだったよ、はは。


 ――次はおまえの番だぜ、坊主。

 おまえの猿芝居がどの程度通用するもんなのか、まずは来賓の祝辞を妨害せよ!

 ……なぁんてな。

 ま、模範的卒業生の要坊主にそんな真似ができるとは思えねぇけどよ。



 来賓祝辞、在校生の送辞ときて、次は……。

「答辞。卒業生代表、進藤要」

 小嶋先生のまいくろふぉんを使った声が響いて、要がすっくと立った。

「はい」

 おっ、いい返事だねぇ。

 要坊主がぽけっとから紙の束を出した。

 そのとき、別の紙がいっしょになって出てきたんでぃ。

 俺は見逃さなかった。


 ――おい坊主、なんか落としたぞ。

 しかし坊主は気づかず、すてえじに上がった。


 ――坊主。坊主。やい。返事しろ、こら。

 あの落としもんは、大事なもんじゃねぇのか?

 これから読む原稿の続きじゃねぇのか?

 要坊主がすてえじ真ん中の台のまえに立った。答辞の紙を開いた。


「答辞」


 発表をはじめた。



 ――だめだ。

 坊主の意識は読みあげるほうにしか向いてねぇ。

 頼みの綱は、今はからになっている要坊主の席の隣、綾羽嬢ちゃんただひとり。

 拾って届けるんでも、要坊主のあとをうけて読むんでもいい。

 どうかここぁひとつ、坊主を助けてやってくんねぇだろうか。


 俺ぁ体育館を見渡した。

 在校生も保護者も来賓席のお偉いさんも、こっちを見ていた。

 俺まであがっちまいそうだ。赤面赤面――って、これは元からか。ははは。

 気休めにもならねぇでやんの。



 あっ、嬢ちゃんが足元の紙に気づいた。膝の上で広げている。

 ふぅ、まずは一安心だな。これでなんとかなりそうでぃ。

 そう思ったのも束の間、綾羽嬢ちゃんが椅子を蹴っとばす勢いで席を離れた。

 来賓席へまっしぐらだ。俺にはわけがわからねぇ。

「あ」

 要坊主の意味のないつぶやきがまいくろふぉんに拾われた。

「綾羽ちゃん待って!」

 坊主と俺は一心、じゃねえや、一身同体。

 すてえじを飛び降りて、嬢ちゃんの元へ走った。


 そこかしこで椅子から立つ人がいた。

 保護者。在校生。それに、校長先生。

 早い話が、町長以外の全員が立ち上がっていた。

 嬢ちゃんは素早かった。


「これはなに!?」


 じいさん町長のねくたいをつかんで、要坊主の落としていった紙っきれをその鼻っ柱にあてがった。

 じいさんの老眼には、さぞやこの近距離が厳しいだろう。

「桐山北小学校撤去反対ってなに!? どゆこと?」

 嬢ちゃんはなおも畳みかけたんでぃ。

「あたしにもわかるように言ってよ。学校を壊すの? なくすの?」


 要坊主の足が止まった。

 読みかけの答辞をめくって、一番下のほっちきすで留めてある紙を上にした。

『桐山北小学校校舎撤去反対の署名のおねがい』と書いてあった。

 署名の束だ。俺の思いを汲んだように、坊主が枚数を数えた。全部で28枚。

 多いのか少ねぇのか、ちとわからねぇ。ひとつしか名前の書いてねぇのもあったし、5行ちょうどのもあったし。

 ただ言えるのは、そのなかには嬢ちゃんの署名がなかったっつうことでぃ。

 嬢ちゃんの家族のものさえ、なかったぜ。

 これってもしや……。


 町長のじいさんは、綾羽嬢ちゃんの手首をつかんだ。

 署名の紙を持っているほうの手だ。

 ――ややっ。おい坊主、嬢ちゃんのぴんちだぜ。助けねぇと!

 坊主はすてえじの際んところで立ち往生していやがる。

 まさかこの三尺ぽっちの高さを飛び降りられねぇってんじゃねぇだろうな!?

 ああ俺だけでも嬢ちゃんを助太刀してえぜ。

 なんで俺ぁ要坊主の造花でしかねぇんだ。

 こんちくしょうが。


「ママ」

 綾羽嬢ちゃんは、じいさんを無視した。

 ――いいぞいいぞ。離れている俺にゃあ応援しかできねぇ。すまねぇな、ほんっとに。

「ママの署名だよ、これ。どうしてあたしにも書かせてくれなかったの? それに、どうしてパパのはないの? パパは学校を壊してもいいって思ってるの?」

 嬢ちゃんは、保護者席に向かって声を上げた。

 嬢ちゃんのお袋さんはちらとかたわらの親父さんを見た。

 親父さんは、

「綾羽。これには事情があるんだ」

と、言った。

 その事情っつうもんが知りてぇんじゃねえか。なに言ってやがる。

 たとい嬢ちゃんの親父さんだろうが、事と次第によっちゃあ、仏の俺ぁでも容赦しねえぜ。

 するとどうでぃ、要坊主の父上が語りだしたんでぃ。


「綾羽ちゃん。小林さんの――お父さんの立場を考えてみなさい」

「立場?」

「お父さんは新聞屋さんだ。新聞社から届いたものを、みんなの家に配達するのがお仕事だ。政治とか、宗教とか、そういう要素を含む印刷物を個人の意志で朝刊に混ぜて無料配布するのは、本当はいけないことなんだよ。きちんとしたルートで、金銭契約をしなければいけなかったんだ。僕の言っていることがわかるかい?」

 嬢ちゃんは首をかしげた。

「わからないよ」

「じゃあ、言いかたを変えよう。綾羽ちゃんが学級新聞を作ったとするね。学級新聞は大きいから、折り曲げなきゃいけない。すると、手間代がかかるんだ。折り曲げたものと、そのままのものとじゃあ、値段が違うんだよ」

 嬢ちゃんは静かに聞いていた。

「今度はそれを届けることにする。街中の家だ。そうとうな距離があるから、車やバイクじゃないと、とうてい全部はまわれない。届ける人だって、それを仕事としているんだから、報酬がいる。ガソリン代もかかる。そういった手間代を、うちの要は支払っていないんだ。それでも君のお父さんは、快く引き受けてくれた。それだけでもえこひいきと言われかねないのに、そのうえ署名までしろというのは、無理な相談だよ」

 これには嬢ちゃんの親父さん本人が否定したんでぃ。

「いや、進藤さん。私はそういうつもりは……」


 じゃあどういうつもりなんでぃ! あああっ、イライラするぜ。

 あんたそれでもあのちゃきちゃきの綾羽嬢ちゃんの産みの父親かい!? 

 ……あ、産んでねえか。父親だかんな。はは。


「いいんですよ、小林さん。だいたいうちの要が悪いんです」

 坊主の父上はやたらと喋るんだなぁ。

 酔っ払いじゃあるめぇし、この良き日に説教たぁどういうもんかと思うがね。

「本決まりになった校舎撤去の計画をいまさら白紙にしようだなんて、子供の浅知恵と言いましょうか、ええ、全く。実際に一筆くださった方々には、お手をわずらわせてしまったことを申しわけなく思っております。うちの倅が大変お騒がせいたしました」

 坊主の父上は、まるで坊主の代わりみたいに頭をぺこりと下げやがった。


「お父さんやめてよ」


 坊主が言った。

「子供扱いするなよ。おれはできると思ったんだ。だから、綾羽ちゃんのお父さんにお願いしたんだ。孝之とかまいちゃんとか、みんなに手伝ってもらったけど」

 坊主頑張れと俺が内心で声援を送った矢先、坊主の父上はぴしゃりと言ってのけた。

「そういうことは、きちんと責任を取れるようになってからにしなさい」


 坊主は黙ってしまった。

 ――おい、坊主。しょげてる場合じゃねぇぜ。

 綾羽嬢ちゃんが、なにかしでかすようだ。見ろ。



「あたしは聞いてないよ。学校がなくなるなんて、一回も聞いてない」

 嬢ちゃんは居合わせた全員にそう言ったんでぃ。

 だがしかし、老いぼれ町長もだてに年食っちゃいねぇ。

「それは聞き捨てならないな。私はついさきほど、ステージ上でその件について話をさせてもらったんだがね。眠っていた君には、学校よりも夢の国のほうが大事なのかと思ったよ」

 笑いながら、言いやがった。



 正直、校長の長話のあとの町長の挨拶なんざ、この俺だって聞いちゃいなかったさ。

 この小学校がなくなっちまう話も、嬢ちゃんとおんなじで初耳さ。

 俺にとっちゃあ『そいつぁ残念』で終いになるこった。

 けどよ、嬢ちゃんも要坊主も、それにここにいる保護者の誰かだって、この学校に縁のある輩なんでぃ。

 どんな事情があって廃校になるのか俺は預かり知らねぇが、そういった皆々様の情くらいはわかるってもんでぃ。

 寂しいじゃねえか。悲しいじゃねぇか。あん?


 それをなんでぃ、じじい。てめぇそれでも町の長か?

 嬢ちゃんが寝てたのはなぁ、じじいの話が退屈だったからに決まってんだろうが。

 緊張したっておかしくねぇ生涯一度きりの小学校卒業式でぃ。

 そこで寝ちまうほどのお経じみた一本調子の語りなんざ、大安吉日にゃあお呼びでねぇんだよ。

 それを言うに事欠いて、子供のせいにするとはな。はっ。

 よく言うじゃねぇか。寝る子は育つってよぉ。

 綾羽嬢ちゃんはこれから大物になるんでぃ。ああ、俺にゃあわかるぜ。

 じじいもせいぜい長生きして、事の顛末なり、嬢ちゃんの行く末なり、その陥没した目ん玉をめいっぱい見開いて、網膜に焼きつけておけってんだ。



 町長は嬢ちゃんに引っ張られたねくたいを整えた。

 帰り支度に見えたのは、俺だけではなかったはずだ。

 隣の校長が言った。

「確かにこの子は寝ていたかもしれませんが、もし学校が大事でないというのなら、そう思わせる教育しかできなかった我々大人にも責任があるはずです。違いますか?」

 町長はそうですねと答えた。

 会話はそれきり途絶えた。



「ほんとに夢ならよかったのに……」


 嬢ちゃんは身を翻した。

 出口へ走った。



「綾羽ちゃん!?」

「綾羽」

「あやはちゃんっ」


 ほぼ全員に名前を呼ばれても、綾羽嬢ちゃんは止まらなかったんでぃ。



 要坊主がすてえじ横の階段を通って、町長の前に立った。

「あの」

 署名の束をおずおずと差しだした。

「町の人たちの声です。受けとってください」

 町長はつまらなそうな顔で坊主を見た。

 坊主は続けた。

「おれだって、綾羽ちゃんと同じ気持ちです。こういうのは嫌です。学校を壊さないでください。やりかたが間違っているなら、やり直しをします。だから……」

 町長が坊主の熱弁を中断させた。

「こんなことをしてもなにも変わらないよ。もう議会で可決されたことだ」

「それでも、お願いします」

 坊主は署名を持ったまま頭を下げた。



 坊主の胸にいる俺からは、町長がはいている『桐山北小』の字が消えかかっている西洋風上履きしか見えなかった。

 廃校になったら、この上履きも身寄りがなくなるんだなぁ。

 なのに、学校を壊そうとしている張本人の権力者がそれを使っているたぁ納得がいかん。


 ――おい上履き、てめぇの一生はそんなんでいいのか? 

 ここは正念場だぜ、根性見せてみろ。


 だいぶくたびれたそいつとは言葉は通じねぇと思ったんだが、なかなかどうして不思議や不思議、上履きから2寸ほどほつれでた糸が風もねぇのに動いたんでぃ。

 ――まかせて。鎌田行進曲なみの階段落ちを演じてもらうつもりよ。いいわよねっ?

 俺ぁもちろん言ったさ。

 ――てめぇなんて言っちまってすんません。くれぐれもよろしゅうたのんます、とな。



 坊主が体を起こした。署名は坊主の手のなかにあった。

「町のためなんだよ。それに、君たちの未来のためでもある」

 町長は態度をいくらか改めたようだ。

 坊主の誠意が通じたのならいいんだが……。

「小学校跡地には、町営の老人福祉施設が建設される。この町にはこれまで、老人ホームも交流施設さえもなかった。一人で生涯を終えるお年寄りの数なんて、君は考えたこともないだろう。考えろとは言わない。今はまだ。ただ、頭の片隅に留めておけばいいんだ」

 署名を持つ坊主の手から力が抜けていくのがわかった。

「君たちもいずれ大人になる。自分の生活だけで精一杯になる。口じゃあ人生の先輩だなんて格好のいいことを言ってみても、そのうちに年配の人間が邪魔になるものだ。認めるか認めないか、個人差が多少あったとしても、お年寄りにとっては大差ない。やがて年配者たちは安息の地を求めるだろう。そのための建物だ。言い換えるなら、老人ホームは家であり、老人たちの学校のようなものなんだよ。人が人の安息を守ろうとするのは、そんなにいけないことだろうか」


 嫌な予感がした。

 ――だまされるな、坊主。

「わかりました。おれはそこまで考えていませんでした。やっぱり子供です」

 坊主、おまえはものわかりのよさと馬鹿正直を履き違えているぜ。

「でも、それなら」

 坊主が腹の底から声を出した。

「子供の安息は誰が守ってくれるんですか?」

 町長と校長が目を見張った。俺もでぃ。

「おれはどうしても止めたかった。無理だって知ってた。けど……」

 坊主は町長の手の中に署名を丸めて握らせて、校長には答辞を渡した。

「もしうまくいったら、きっと喜んでくれたはずだから」

 要坊主は校長の顔を見た。

 校長には誰のことか、伝わったようだった。



 そのとき、

「要くん。綾羽を追いかけてやって」

綾羽嬢ちゃんの親父さんが席から歩み寄ってきた。

 坊主は頷いた。強く。

「うん」

 席に置いてある卒業証書ふたりぶんを抱えて、駆け出した。


 ――合点でぃっ!



 学校を出たところにある小高い原っぱのど真ん中に、小さくて丸っこい背中があった。

 言わずと知れた、綾羽嬢ちゃんでぃ。

 芝とも雑草ともつかねえ、まだまだこれから育っていくんだぜってな草の上にぺたんと座っていた。


「戻らないからね」

 要坊主の接近に気づいていたようで、そのまんまの姿勢で嬢ちゃんは言った。

「だろうと思った」

 そう言って、坊主は嬢ちゃんの後ろから上っ張りをかけてやった。

 ――そうなんでぃ。

 坊主ぁな、あの切羽詰ったときに控え室に寄って、自分のと嬢ちゃんのと両方の上着を取ってきたんでぃ。

 なかなか気が利くじゃねぇか。


 しかぁし、まだまだ詰めが甘いぜ。

 せっかくの機会を活かしきれてねぇよ。

 坊主、いいか? 一回しか教えねぇかんな。



    要、綾羽嬢さんの背後からそっと上着をかける。

   「姐さん、お気をつけておくんなせぇ。そんな薄着で表に出るなんて、風邪引きやす」

    嬢さんは振り向きもせずに言い放つ。

   「いいんだ。あたしのことなんて放っといてくれ」

   「いけやせん、姐さん。そんなことを言っては。亡き先代が悲しみやす」

   「お前になにがわかる、カメ」

    このときはじめて嬢さんが要を見る。 

    要は真摯な眼差しで迎え撃つ。

   「へえ。あっしは馬鹿なカメっすから、難しいこたぁわかりやせん。

    ただ、姐さんのお傍についてさしあげることしかできやせん。……ですが!」

    今日の要はいつもと違う――それはおぼろげではあったが、

    嬢さんにも伝わっていた。

    要はずいっと近寄って……。

   「姐さんの為とあらば、このカメのちっぽけな命、差し出そうとも

    なんの悔いもございやせん。へえ」

    言うだけ言うと、要は頭を垂れた。

   「カメはそれでいいかもしれないが、あたしはどうなる」

   「……姐さん?」

   「止せ。顔を上げるな。……そのままでいろ」

   「姐さん、ひょっとして……」

   「皆まで言うな!!」

    ぽたりと畳に落ちたるは、嬢さんの涙。

    要はいたたまれなくなって――。



 っかー!! 泣かせるじゃねぇかぁ、なぁおいっ!

 だだ問題なのは、綾羽嬢ちゃんの親父さんが生きてるっつうこったな。

 任侠は、綾羽嬢ちゃんなら地でいけるしな。

 さて、どうしたもんかねぇ……。



「綾羽ちゃんのことだから、きっと長期戦になると思ったよ。昔はよく家出ごっこしたよね」

「ごっこじゃなかったもん」

「……いいけどね」

 要坊主は綾羽嬢ちゃんに卒業証書の入った深緑の筒をやって、右隣に座ろうとした。

「あ。もっと離れてー。あたしが日陰になっちゃうよー」

「……」


 坊主は究極の選択をしたらしい。綾羽嬢ちゃんの左隣を選んだ。

 ――そうやっておめぇは日陰の暮らしをしていこうっつうんだな?

 泣かせるじゃねぇか、おい。


 ところで、しかとされてるようなんで聞くが、俺の寸劇はどうなるんでぃ?



「カナメー」

「なに?」

「あたしは怒ってるんだよー」

「……ごめん」


 嬢ちゃんが驚いたような顔をした。

 喋りはのんきだが、顔にはまっこと気持ちの色の出るおなごだなぁ。

「許す」

 しかも懐がでかいっつうか、頓着しねぇっつうか。

 これでいて、もうちっとばかし、坊主の情を汲んでくれれば言うことねぇのにな。



 体育館でのやりとりを見聞きしていたんで、俺ぁ大体のいきさつを知ることができた。

 嬢ちゃんは中途で抜け出したわけだが、坊主との腐れ縁は昨日や今日にはじまったこっちゃねぇ。

 付き合いの長さゆえに、さっき聞きそびれた、その欠けている部分を補えるんじゃねぇだろうか。

 嬢ちゃんは坊主に説明を求めることはなかった。

 けれども坊主は一部始終を話して聞かせたんでぃ。

 校長と町長の話のときは眠りこけちまった嬢ちゃんも、坊主の話には耳を傾けていた。


「『別れの言葉』を考えているとき、綾羽ちゃんにありきたりだって言われたよね。あれ、当たってたよ。もしかしたら卒業式で『別れの言葉』をやれないんじゃないかって、あのときなんとなく思っていたんだ。作っても無駄かなあなんて、さ」

「もういいよ。もう、決まっちゃったことなんだし、さー」

 嬢ちゃんは深く溜息をついた。

 諦めの台詞は綾羽嬢ちゃんには似合わねぇよ。


「ねえ綾羽ちゃん。お腹すいてない?」

「言われてみれば。なんとなくすいているような。そうでもないような。食べられないこともないような。詰めれば入るような」

 すいてる、のひとことでいいのによ。

 坊主は嬢ちゃんに笑いかけた。

「じゃあさ、なにか買ってくるよ。なにがいい?」

「豚まん」

「……豚まんって、肉まんとは違うの?」

 途端に嬢ちゃんは元気になった。

「カナメ知らないのー?」

 とても得意げに坊主に言った。実は俺も知らねぇ。

「豚まんっていうのはねー、豚でぎゅうぎゅうになった豚型まんじゅうのことなんだよー」

「へええ。それってどこで売ってるの?」

「横浜」

 ああ、道理で江戸っ子の俺が知らねぇはずだせ。

 利口になったよ。豚まんは豚型まんじゅう、と。

「……肉まんでいいよね?」

 要坊主の問いかけに、嬢ちゃんはこくりと頷いた。



 すっくと要坊主が立つと、嬢ちゃんはなにか思いついたように言った。


「ああでも、夕飯はきっと焼肉大会だからなー。食べらんなくなっちゃうかなー」

「そっか。綾羽ちゃん家はおめでたい日は焼肉屋さんに行くんだったね」

「カルビ。ロース。クッパ。カルビ。ウインナー」

「野菜もちゃんと食べるんだよ」

 嬢ちゃんは返事をしなかった。

 代わりに、卒業証書の蓋を開け閉めして、ぽっこんぽっこんと音を立てた。


 坊主は動くに動けなかった。

 嬢ちゃんをこのままひとりにしとくのはいけねぇ、と俺だって思うぜ。

 豚まんも肉まんも、ひとまず棚上げにしといたほうが賢明でぃ。

 坊主は綾羽嬢ちゃんと同じものをみようとした。

 それは、丘から見える町並みでぃ。


「カナメの家も、あたしん家も見えるね」

「うん」

「町長の家ってどこだろう」

「綾羽ちゃん……また危ないこと考えてないよね?」

「考えるくらい、いいじゃないのさー」

「それだけならね」


 綾羽嬢ちゃんはよいしょと掛け声をかけて立った。

 草を払い落としながら、

「帰ろう」

と言った。

 要坊主は嬢ちゃんのあとに続いた。


 こうしてふたりの卒業式は終わったんでぃ。




 進藤家の夕食の献立については、俺ぁ知らねぇ。

 帰宅そうそう、俺は坊主の胸から外されちまったかんな。

 現在地は進藤家の電話台の上だ。

 しかも、すげぇやばいことになってる。

 俺ぁ今にも台から落っこちそうで、下にはごみ箱がまんまるい口を開けて待っている。

 いらっしゃいまし、の声が聞こえる。

 ――やばいやばいやばい!


 家族の団欒ってやつを、俺は一度見てみたかったんだが、どうやらその夢は叶いそうにねえ。

 会話はあるにはあるし、聞こえるんだが、どうも双方けんか腰でいけねえよ。

 双方ってのは要坊主とその父上で、主に喋っているのは父上のほうでぃ。


「全くお前はせっかくの卒業式を台無しにするなんて、何を考えているんだか」


 坊主の父上は、大概厳しいねぇ。要坊主の穏やかな気性を考えると、意外だぜ。

 嬢ちゃんにも言いたい放題を言っているように見えたが、あれで手加減していたんだろう。

 人の親とはなかなかに大変なこった。


「卒業式くらい、どうってことないよ。学校がなくなることのほうが、おおごとなんだよ」

「諦めなさい。町にとって悪い話じゃないし、それにお前はこの春から中学校へ通うんじゃないか。新しい学校になれば、小学校どころじゃなくなる。勉強も難しくなるぞ」

「関係ないよ。そんなの」


 硬い音がした。陶器だかこっぷだかを置いた音だ。

 父上は晩酌をしているのかもしんねぇ。いやに静かで、俺ぁはらはらするぜ。


 ゆっくりと父上は言った。

「綾羽ちゃんの家だって、もしかしたらその恩恵を受けるかもしれないんだよ」

「なにが?」

「あの場所に老人ホームができたら、入居者は毎朝牛乳を飲むかもしれない。新聞だって取るかもしれない。進藤文具店だってそうだ。伝票類なんかの印刷物を引き受けられれば、結構な金額になる。それに、商店街だって潤う。見舞い客が花や菓子折りを買うだろうしな。山のうえだから、タクシーの利用客だっているだろう。町長の言っていたのは、そういう意味もある」

「……綾羽ちゃんがまえに言ってたよ。どうして自分家の商売のことしか考えないのーって。ときどき、すごく鋭いんだもんなあ」

 しばらく沈黙が落ちた。

 やがて、父上が言った。

「もう、寝なさい」



 坊主はその言葉に従ったようでぃ。反抗期とは無縁だなぁ。

 俺のそばを通り過ぎようとして、思いなおしたように止まった。

 俺じゃなく、電話に用事があったみてぇだぜ、ちっ。

 どこに掛けたんだが知んねぇけども、相手は出なかったようでぃ。

「変だな。あの綾羽ちゃんがこんな時間に寝るはずないのに」

 壁の時計は8時をまわっていた。

 焼肉大会じゃねぇのかい?


 ――いや、そんなことより、坊主。

 俺すっげえ危ない状況なんだが、もしよかったら、助けてくれねぇか?

 歩く震動や鼻息であっという間にごみ箱行きになりそうなんでぃ。


「かなめー。お父さんに通知表を見せなさーい」


 坊主の父上、急接近。しかもほろ酔い。よろめいて、その手が俺をかすった。


 ――あ。

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