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2・堅物

 始まりがあるから、終わりもある。

 周知の事実――だが毎年この季節になると、私は決まって物思いに耽ってしまうのだ。


 小学校とはいえ、侮る無かれ。

 私は教室の一個の机でしか無いが、これでも日々教壇に立つ諸先生方の熱弁を拝聴してきた。

 勉学への志は共に学ぶ児童らと何ら遜色は無い筈だ。


 日本国憲法において学童に教育を受けさせる権利が保障されているのは、賞賛すべき事である。

 それは同時に、教室内に存在する万物が教育を受けられる権利でもあるのだ。

 誠に有難い事だと、私は考える。

 更には質疑応答が出来無いものかと、物足り無さすら感じているのである。


 今年もまた、私の主が卒業の時を迎える。

 彼女の名は小林綾羽。

 お世辞にも優秀とは言い難く、注意力散漫で、尚且つ悪童である。

 正直、現時点の綾羽の学力で小学校過程修了というのは如何なものかと、疑問を挟む余地がある。

 義務教育である以上、妥協も必要なのであろうか。


 何れにせよ、私個人が綾羽に対して抱いている感情は、穏やかなものばかりでは無い。

 折角の機会だから、事例の幾つかを取り上げ、検証してみる事にする。

 人はそれを『思い出に浸る』と言うらしいが、生憎私は人間では無い。

 少々堅苦しく感じられるかもしれないが、私という一固体の言わば一つのチャームポイントとして御容認願いたいものである。


 それでは始めるとしよう……。




 ≪ エピソード1:古傷 ≫


 3学期のある晴れた日の事だ。

 図工の授業で、綾羽は人物画を描いていた。

 モデルは進藤要だ。

 毎日眺めている顔を更に眺め、それを画用紙に描く――。

 人間とは実に無駄な行動の多い生物だ。

 写真という文明の機器を忘れているのであろうか。


 綾羽はやはりとでも言うべきか、作業が難航しているようだ。

 4Bの鉛筆よりも、消しゴムの方が活躍している。

 私の上には消しゴムのカスが散らばっている。


 ところで――こんな私にも古傷がある。

 コンパスの先で彫り抜かれた穴や、カッターナイフで恣意的に刻まれたカタカナ二字の中傷等だ。

 消しゴムのカスは容赦なく、そういった私の古傷に触れた。

 痛くも痒くも無いが、不快極まり無い。

 早く払って欲しいと、私は珍しく綾羽に熱を帯びた視線を送った。

 綾羽も私を見詰めていた。


 不意に――綾羽は手でカスを払い除けた。

 私には信じられなかった。

 カスを片付けて欲しいという願いが……通じたのか?

 否、それはあり得ない。

 その様な非現実的現象は、起こる筈が無いのだ。



「カナメー。そっちの消しゴムのカス、もらうよー」

「? いいけど、どうするの?」

「こうするの」

 綾羽は要の机から譲り受けた消しゴムのカスだけを、私の最も大きな古傷の中に詰め込んだ。

「できた。……バンカー!」


 バンカーでなくバカの誤りで、それは君の事だろう綾羽。

 要が物珍しげに、私の古傷(バンカーなどと呼ばせない!)を見遣っている。

 進藤要――こやつは存外まともな筈だ。


「ああ、おれのは砂消しゴムだもんねえ」

「進藤文具店のー、半永久在庫のー」

「そう。ちっとも売れないし、ちっとも消えないやつ。綾羽ちゃんもどう? 使ってみない?」

「のしつけて返すね」

「だよな」

――納得してどうする。


 まあ、綾羽の周囲の人間は概ね彼女のペースに巻き込まれているという事だ。

 かく言う私とて、少なからず影響を受けている様に思われる。

 認めたくは無いのだが、止むを得まい――次回はそういった話だ。





≪ エピソード2:伝言 ≫


 忘れもしない2月28日金曜日、放課後の事である。


 卒業生と在校生が互いに呼び掛け合う『別れの言葉』というものがある。

 卒業式の式次第に組み込まれている慣習だ。

 私は例年教室待機の為、実際に見た事は無い。


 前もって練習をしておく訳だが、言葉そのものも毎年児童が作成している。

 今年の係は、要と5年生の阿部孝之だった。

 私の後ろで顔を突き合わせて相談をしていた。


 そこへ我が主たる綾羽がやって来た。

 帰ったはずなのに、教室に戻って来た。

 私の中に空の弁当箱が置きっ放しになっていた。

 まさか綾羽に限って、忘れ物に気付くとは思えない。


「あれ? カナメ、まだ文集書いてるの?」

 綾羽は自分の文集の大半を要にまとめてもらった事など、すっかり忘れているらしい。

 私の横のフックに掛けてある体操着の入った巾着袋を取りながら(ああ、弁当箱にも気付けばいいのに!)孝之を一瞥した。

 私でさえ要がむっとしたのが判った。

 不機嫌な要は珍しい。

『別れの言葉』が煮詰まっているのか?

 或いは、綾羽が一瞬、孝之に目を留めたのに嫉妬したとか? 


「文集はとっくに終わってるよ。これは別れの言葉だよ。他人ごとじゃないよ。綾羽ちゃんもおぼえなくちゃいけないんだからね」

 真面目くさった口調で言った処で綾羽が素直に従う筈が無い。

 要と孝之の原稿用紙を覗き込んでから、顔を上げた。

「先生ー! それに、在校生のみなさん! 長い間、お世話になりましたー!」

 綾羽は自分を含めて3人(と他に私)っきりの教室で、大声を出した。

 まるでリハーサルである。

 成る程、こういった言い回しで繰り広げられるのかと、初めて見た私は妙に感慨深かった。

 ところが綾羽はこう続けた。

「ありきたりだね」


 おい綾羽、要と孝之が必死になって考えた物をそんな風に言ってはいけない。

 案の定、要の頭に血が昇って行くのが見て取れた。

 それ見たことか、である。

 私は一介の机でしかないから仲裁ができず、こんな時は非常に歯痒い思いをするのだ。


 要がゆらりと立ち上がった。

「綾羽ちゃん」

 孝之は驚いた様に一歩下がった。

 それもその筈、要が綾羽に対して怒る事は滅多に無いのだ。

 注意する事は日常茶飯事だが、大抵の場合はそれでも要が折れてしまう。

 どうなる!?


「もう、帰ってよ。……綾羽ちゃんが式の最中にど忘れしてもすぐに助けられるように、すっごく単純なのを考えておくよ」


 要はふうっと溜息を付き、言った。

 綾羽の方を見ようともしなかった。

 間に挟まれている孝之はたまったものでは無い。

 それは私とて同じ事。

 険悪な雰囲気なら、まだ騒々しい方が幾分マシである。


「あー、そー。ふーん。みーんなあたしのためなんだ? ふーん。ふーん」

 綾羽の口調の僅かな乱れに気付いたのは、この場では恐らく私だけだったのだろう。

 何かを考える隙を与えない位、素早く言い放った。

「カナメの顔なんか見たくないよ!」


 ちょっと待て綾羽。

 その発想の飛躍が私にはいまいち理解できないのだが、それは『お前の母ちゃんデベソ』の類なのか。

 言った者勝ちとは正にこの事、要が『おれだって!』と返す頃には綾羽は教室を飛び出していた。


「あーあ。いっちゃった」

 この孝之の『いっちゃった』が『言っちゃった』なのか、或いは『行っちゃった』なのか、私にはよく判らなかった。

 要は不貞腐れてしまい、この後は孝之を相手にしてさえ、ろくな返事をしなかった。

 ――綾羽はきっと、仲間にして欲しかったのだと思う。



 週明けの月曜日(雛祭りである)、綾羽は学校を休んだ。

 6年の皆勤賞を目前にして、これは尋常では無い。

 綾羽から皆勤賞を取り上げたら、教師は最後の通知表の備考欄に褒め言葉を書くのが、さぞかし大変になるだろう。

 月例の全校朝会が終わり、体育館から児童らが引き上げて来ても、綾羽の姿は教室に無かった。

 何かあったんじゃないか、と教室は騒然となった。

 この日の全校朝会では、校長から重大発表があったらしい。

 その話題でさえも、教室では一瞬にして流れてしまうのだから、綾羽の影響力は計り知れないものがある。

 要とて綾羽が今まで無欠席だった事は知っているようで、なかなか主が現れない机を不安そうに眺めていた。

 ――要、私の事は心配には及ばない。

 なあに、綾羽が悪さをしない分、授業に集中できるではないか。



 そうこうしているうちに、朝の連絡会で先生から綾羽の話があった。

 おたふく風邪、との事だった。

 なあんだ、と皆が口々に言った。

 もともとおたふくみたいな顔じゃん、等と本人を前にしたら口が裂けても言えない事を堂々と言ってのけるつわものもいた。

 平常を取り戻した教室の中、要だけが一人、黙していた。

 ――喧嘩別れとなってしまったな、要。

 綾羽が病気なのだから、せめてお前位は元気を出せ。

 例え言えたとしても、要は相変わらずだっただろう。



 疾病の性質上、綾羽はすぐには登校できなかった。

 要も自分自身が患っているかの様な憔悴振りだ。

 級友達もからかう事さえ迂闊に出来ずにいる。

 見るに見かねて、担任の小嶋敦子先生が声を掛けて来た。

「綾羽ちゃんはまだあのことを知らないの?」

 あの事とは――小嶋先生が四月から隣町の小学校へ赴任する話か。

 それは私でも知っている。

 つまり、教室で話があったという事だ。

 もっとも、綾羽が例によって夢の世界へ意識旅行をしていたのなら、通じてはいまい。

「知らないと思う。でさ、先生。頼みがあるんだけど……卒業式が終わるまで、校長先生の話を綾羽ちゃんには言わないでほしいんだ。できるかなあ」

 要は打って変わって、毅然とした態度で喋った。


 ――どうした要。

 腹に一物あるようだな。

 小嶋先生は得心がいかない様子だった。

「でもね、最後なのよ」

「綾羽ちゃん家は新聞屋さんだよ。綾羽ちゃんなら配達する新聞にマジックで反対って書くくらいのことはするよ。そしたらみんな、困るよ」

 要の意見に賛同する者は多数だった。


「あやはちゃんって、ぜったい新聞読んでないよね~」

「新聞だけならいいけど、牛乳は……」

「そうだよ。牛乳に毒を入れちゃうかもしれないじゃん」

「うそだあ~」

「だって、あのあやはちゃんだよ? 常識通じないよ」

「でもさあ……」



 綾羽の家は小林新聞販売店といって、新聞の配達と販売で生計を立てている。

 数年前から牛乳も取り扱いを始めた。

 どうせ配るんなら同じ手間だ、という合理性が感じられるのは私の気のせいか?

 児童達では無いが、あの綾羽の御両親だ――合点が行くではないか。

 給食の無い桐山北小学校ではあるが、牛乳だけは綾羽の所から紙パックの200ミリリットルが人数分、毎昼届けられていた。




「そっか、そういうことか」


 昼食の時間に、不意に要が呟いた。

 隣にいた児童にどうしたのかと尋ねられ、要は自分のランドセルから1枚のチラシを出して広げた。

 大きさはA4サイズ、弁当屋の求人広告――それを裏返した。

 近くにいた児童が、それぞれ箸や弁当箱を持ったまま近寄って来た。

「なにそれ」

「ナゾ解き?」

「しっかしすごい字だな~」

「レタリング?」

「近い」

「あやはちゃんってサインいらないね」

 チラシには、私にとっての馴染みの書体で、しかも何故か筆ペンでこう書いてあった。


    大きくなれよ。



 ――何が何やらさっぱり判らんではないか。

 精神面では元気が余っているらしいので、まずは一安心といった処か。


「おれん家に来る朝刊にはさんであったんだ。綾羽ちゃんが配達する人に頼んでいたみたい。おとといからこれがずっとわからなくってさあ」

「要くんでもわからないんじゃ、世界中の誰にもわからないよ」

 誰かにそう言われた時、要の口の端に満更でも無さそうな笑みが浮かんだ。

 私は見逃さなかった。

 判り易い奴だ。


「これってダイニングメッセージじゃん」

「まだ死んでないって!」

「しかもダイニングってなに!?」

「……食事だよ」

 要が生真面目に返答した。


「なあんだ、食事か」

「食事メッセージってことだったのか」

 皆は妙な解釈を手土産に席へ戻って行った。


「……あの、これって綾羽ちゃんの分の牛乳も飲んでいいよってことだと思うんだよね。牛乳飲むと背が高くなるから」

 要は隣の席の児童に話し掛けた。

 そういえば大元の真相は明白になっていなかった。

 隣の児童は気の無い返事をし、卵焼きをもりもり食べた。

 要は折り目正しくチラシを畳み、食事を再開した。

 綾羽が居ても居なくても、不憫な奴だ。


 綾羽はその後ウイルス性髄膜炎を併発し、次週の木曜日まで休んだ。




「おはよー」


 何事も無かったかの様な素振り(すぶりでも可)で、綾羽は14日の朝、登校して来た。

「あっ、あやはちゃん!」

「あやはちゃん、げんきだった?」

 病気で休んでいた奴に対して、何だその言い草は。

「んー。元気だったよー」

 病気で休んでいた奴が、何だその言い草は。

 ――まあ、良い。

 綾羽の笑顔には敵わない。

 かく言う私とて、これでも安堵しているのだ。


「あ、綾羽ちゃん……」


 そして感慨無量な人間がここにも約1名。

 言わずと知れた進藤要12歳。

 席を立ち、入り口付近の綾羽をじっと見ていた。

 私も綾羽に注意を向けた。

 休み前と一寸と違わぬふくよかな頬――本当に腫れは引いたのかと詰問したくなる位だ。

 しかしそれを言ってしまったら、その人物は人為的に頬を腫らす事となろう。

 それにしても要よ、じろじろと綾羽の顔に見惚れるのもどうかと思うが。

 あからさま過ぎやしないか。


「綾羽ちゃん……髪、伸びたね」

 要はモジモジしている。

 だが、離れてはいるものの、対峙している二人の周囲の雰囲気は、以前とは若干趣が異なっているようだ。

 級友が観衆と化し、経過を密やかに見守る気配があった。

 ごくりと生唾を嚥下する音が聞こえそうな沈黙。


 綾羽は少しは年頃の少女らしい反応をするのかと思いきや、

「じゃー切ろうっと」

 髪より前に、甘酸っぱいムードをばっさり切った。

 そういう事では無いと思うぞ綾羽。



 席についた綾羽が、私の中を覗き込んでいる。

 何か後ろめたい事でもあるのか、要が焦った様に声を掛けた。

「授業で使ったプリントは机にしまっといたよ。ノートはおれのを見ていいよ。学校からの連絡の紙は、おれが家に届けたので全部。ええと、あとは……」

「カナメ」

 綾羽が改まって呼んだ。

 普段の間延びした呼び方とは違った為、要の背筋が自然としゃんとした。

「は、はい」

 綾羽は身振り手振りで要を席から退かし、その机の中、更にはランドセルまで丹念に調べた。

 調べるというよりもこれは……。

「なにを探しているの?」

 おっかなびっくり要が聞くと、綾羽は判ってないわねとばかりに首を横に振った。

「ちょっとここに座んなさいよ」

 自分で退かしておいて、こういう事を言う。

 素直に従う要も要だ。

 綾羽は要の机に両手を下ろし、私に尻を向けて(この辺りが切ない所だ)言った。

「大事なことを忘れてるよ。カナメ、胸に手を当てて考えて」


 要は従った。

 考えるというよりも、迷っている様子に見て取れた。

 懺悔さながらである。

「……あの、もしかして『別れの言葉』のことでまだおれが謝っていないから怒ってんの?」

「過ぎたことはもう忘れた」

 人には思い出せと言っておきながら自分はこの調子なのだから、全くもって酷い話だ。

「じゃあ、折込チラシに書いてくれたメッセージどおりにおれが大きくならなかったから……とか?」

「カナメは今のままでいいよ」

「……ありがとう」

「……じゃなくってー!!」


 自分から話題を振ればいいのに、人に委ねるから時間が掛かるのである。

 尚且つ逆切れするとは、カルシウム不足の疑いがある。

 早弁をして牛乳を飲め。

 医者の不養生、牛乳屋の牛乳不足だ。

 ――否、待て。この場合、綾羽自身は就業していないのだから、当てはまらないのか。

 如何なものだろう。

 如何せん、私も勉強不足なのである。


「今日がなんの日か忘れたのー? バレンタインじゃないのー!!」

 綾羽は教室中に響き渡る声で言っておきながら、

「しまった。……ホワイトデーでしたー!!」

 他からツッコミが入る前に、訂正した。

 しかもこの間の『別れの言葉』リハーサル並のこれまたでかい声である。

 崩れるように要が笑った。

「廊下。おれのロッカーの中だよ。綾羽ちゃんが来るか来ないかわからなかったから……」

「それをさきに言ってよー。病みあがりなんだからー」

「わけわかんないって」

 要の返事を聞き終えるより早く、綾羽は机に腰をぶつけても痛いとも言わずに、教室を飛び出した。

 誰かに取られる訳でも無いのに、何を焦っているのやら。



 綾羽の居ない学校は、まるで戦国時代の抜けた社会科の教科書の様に面白味に欠けてしまう。

 彼女の醸し出す独特なリズムは皆にとって、また私にとって必要不可欠なものになっていた。

 居なくなると判る、寂寥感。


「カナメー。なーんか知らないけど、これ3個みんなもらっちゃっていーのー?」

「まいちゃんと先生のぶんもあるんだよ」

「えー? 聞こえなーい。あはは」

 ――しかしながら、もう何日か私が留守番していても良かったかもしれない。




≪ エピソード3:秘密 ≫


その直後の出来事である。


「あ、あぶなかった……」

ロッカーにホワイトデーのプレゼントを漁りに向かった綾羽が見えなくなると、要は机に突っ伏した。

一部始終を見ていた孝之がやって来て、可笑しげに言った。


「今、ゆいそう(言いそう)だったっしょ?」

「上あごのあたりまで出掛かっていたよ。やばかったあ~」

「要くんがゆうなってゆってるから、みんなあわせてきたんだ。全部まかしたよ」

「うん。卒業式まであと一週間か。……長いような、短いような」

「俺だってそうだよ」


5年1組の阿部孝之が窓側の席に着いた。

その隣が綾羽の席(つまり私)で、更にその右には3年1組の林原まいがいる。

因みに要の左隣は2年1組の横井卓也である。



桐山北小学校の児童数は総勢5名。

来年度の新入学児童はなし。

この春、2名の卒業生を最後に廃校の予定である。


3月3日の月曜日に発表されたこの衝撃的ニュース。

偶然と思惑が錯綜し、綾羽のみが未だに状況を把握していない。


それが更なる騒動への引き金となる事を、今はまだ誰も知らなかった。




≪ エピソード4:要 ≫


既にお聞き及びの事と思うが、綾羽は字が下手である。

いい加減な性格が文字全体に如実に現れている。

これは本人の上達したいという切なる思いと、それに基づく努力が無ければ、どうにもならない。


3月18日放課後、教室に入るなり、綾羽は後からついて来た要に呼び掛けた。


「カナメー」

「今度はなに!?」


聞きたく無くとも届く声――それ即ち騒音公害。

心なしか、今の要の返事が悲鳴の様に私には聞こえた。


「カナメも共犯者にしといたからー」

「なんの恨みがあってそんな……」

「体育館の床下に今サインしてきたけどさー。カナメの名前も書いといた。しかも漢字!」


公共施設に落書きを施した場合、法的処罰は無いのだろうか。

いやいや、綾羽に主犯の自覚がある以上、やはり犯罪なのだろう。

するとやはり罰則か。

しかし廃校という背景があるから、情状酌量の余地はある。


綾羽の施したというサインについて、要には思う所があったようだ。

黒板の前で、綾羽を振り返った。

「ちょっと待って。それここに書いてみて」

「いいよー」

白いチョークで綾羽は書いた。

力無い運びで、消えそうなタッチ。

とめ・はね・はらいは気まぐれに――それが綾羽の筆跡だ。

書いた文字は……。




 西

 女



――にしおんな。

新手の妖怪か?


「惜しいんだよなあ。あはは」

「え? どこが笑えるの? ねえ、あたしも笑いたいんだけど」







≪ エピソード5:サイン ≫


「どうしよう。明日はもう卒業式なのに!」


 綾羽にしては珍しく、動揺していた。

  昼食を取ったばかりだから、空腹の為のイライラではない。

「どうしたのー?」

 要が背後から尋ねた。

 綾羽の口調を真似たつもりだろうが、ちっとも似ていない。

 オリジナルである綾羽も全く気付かない様子。



「サイン帳を買ったのに、6人分しか書いてもらえなかった。あと44枚もある……」

「そりゃそうだよ。おれに孝之にまいちゃんに卓也に……小嶋先生と校長の6人?」

「うん」

「色紙にすればよかったのに」

「……カナメ」

「もっと早く言ってほしかった? しょうがないだろ。綾羽ちゃんがサイン帳を用意しているって、昨日わかったばかりなんだからさあ」

「違うよっ。どうしてあんたはあたしがこんなに困っているのに、自分家の商売のことしか考えないのさー」

「ヌレ衣だ……」


――何だ、綾羽は困っていたのか。

 判り難い奴だ。

 しかしここへ来て急に卒業を意識し始めるというのは、何だかんだ言っても綾羽も年相応の女子児童だったという事か。

 私がそんな風に思ってると、要も同感だったらしく、私の代わりに言葉にしてくれた。

 恩に着る……。



 綾羽はきょとんとして答えた。

「卒業? だから? どうせ中学行ったって、おなじみの顔ばっかりだよ。幼稚園がいっしょだった子たちがいるはずだから。それに去年まで桐山北小にいた先輩もいるし、孝之だってすぐに追いかけてくるでしょ?」

「え? じゃあなんで今になって、体育館に名前書いたり、サイン帳を回したりしているの?」


 要の疑問はもっともだ。

 だが、私にも思う所があった。

 綾羽が3月に入ってすぐ長期病欠した事が起因しているのではないか。

 本来ならば、残り少ない小学校生活をしみじみと振り返りつつ、その日を迎えるつもりだった。

 なのに不慮の病に冒されてしまった為に、予定を大幅に変更せざるを得なかった、とか。

 もしくは、綾羽が卒業準備らしい事を殆どやっていない所為か。


 卒業文集は大半を要が書いた(綾羽の字は小嶋先生でも読み間違える)。

 卒業アルバムは写真編集無しである(卒業生2名では、採用枚数で揉める事は無い)。

 卒業制作は廃校の話がある位だから教師からの提案は無かったし、卒業合唱もただのデュエットになってしまう。

 卒業式での答辞は要が読む事になっている。


 突き詰めると、唯一のそれらしい企画が『別れの言葉』だったのかもしれない。



 綾羽は唸っている。

 自分でやっている事の理由もすんなりと言えないのか。

 言い難い事柄なのか。

「あれ? なんていうんだっけー」


 要は助け舟を出しようが無かった。

 気長に綾羽を待った。


 1分経過――。





「あーそうそう! あたしね、本当はホワイトデーの前の日には学校に来れたんだよー」


――話が摩り替わっていた。




「13日の金曜日だと思って休んだんだろう?」

 脱力しつつも綾羽のテンポに付き合う要は、健気を遥かに通り越して変わり者なのかもしれない。

 私なら強引に話題を戻す処だ。

「ブー。ちゃあんと木曜日だったよ。あたしでもそのくらいわかるもんねー。正解は、雨が降ったからでしたー」

「南の島の大王みたいな理由で休むなよ」

「人の名前はちゃんと覚えなよー。カメハ……あれ? カメ……んー?」

「わかったわかった。わかったから」



 翌日が卒業式という事もあり、この日の授業は5時間目で終了した。

 綾羽と要にとっては小学校最後の授業だったが、特筆すべき事は何一つ無かった。

 卒業式の予行練習も、一度実施しただけだ。




 放課後、綾羽が手洗いに行った隙に、児童3人が要の席にさっと集まった。

 皆の視線が集中する中、要はなるべく短く状況説明をした。



 桐山北小学校は今春で廃校となる。

 在校生は町のスクールバスで近隣の小学校に通う事になる。

 ――ここまでは覆す事の出来ない事実である。


 老朽化の目立つ現存の校舎及び体育館はいずれは取り壊しとなる。

 小高い山の上という立地条件からして、町の施設としての再利用の可能性は極めて低い。

 人気の無くなった建物は風化の一途を辿る事だろう。


 しかし元々は子供の学び舎だったのだから、悪戯目的で出入りする子供がいるかもしれない――放置しておくのは危険を伴う。

 遅かれ早かれ壊すのならば、早い方が良い――そんな判断が裏でなされていても、別段おかしくない。

 それを可能な限り先延ばしにするべく、署名を募っていた。


 運動の発起人は何を隠そうこの要自身だ。


 署名用紙の配布は、綾羽の御両親の協力を仰いだ。

 朝刊配達時に、各家の郵便受けに投函してもらった。

 行動に移したのは、綾羽の欠席2日目だった。

 要が相談がてら小林新聞販売店を訪れた時、たまたま階段を降りて来た綾羽の姿を認めたのだが、綾羽の方が素早く奥に引っ込んだのだとか。

 綾羽の御両親の協力もあって、依然として綾羽は何も知らないままだ。



「署名は、今日の朝刊を配るときに集めてあるはずなんだ。まとめるのは、今日の夕方にするよ。それでさ、帰りに綾羽ちゃんとこのお店に寄ろうと思うんだけど……お願いがある。誰かこのあと、綾羽ちゃんの足止めをしてくれないかなあ。ここで見つかったらやばいからさ」


 要の相談事にきらりと目を光らせたのは、まいだった。

 小さく挙手した。

「体育館では校長せんせにじゃまされたじゃん? でもでも、今度はだいじょーぶ!!」

 幼いながらに名誉挽回を誓った。



「じゃあ、確かめておくよ」

 要が言った。

「やるのは明日の卒業式。おれがすきを見てステージに上がるか、お祝いを言いにきた町長の席に行くかして、署名を渡す。集まった署名が多くても少なくても、絶対にやるから」


 ――決意表明だった。



 やがて綾羽が戻って来た。

「ねーねー、あたし、思いだしたよ。いろいろ名前を書いてまわったのはね、お礼参りっていうヤツだよー。あってるよね? ね、カナメー」

「それはまた……物騒だね……」

 皮肉な響きがあった。

 小学校生活の最後、初めて要は綾羽以上の企てを実行しようとしていた。

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