1・乙女
どうしてわたしは『体育館』って呼ばれているのでしょう……。
学校の体育の授業で使うから? ――はい、それはわかる気がします。
でも、全校朝会も始業式もPTA総会も、わたしという建物のなかで行われているんです。
……名前、このままでいいんでしょうか。
そのあたりのこと、だれも疑問に思わないのでしょうか。
ちょっと不思議です……。
人間って、物に名前をつけるクセがあるようです。
頭がやわらかいですからね。
わたしの体の一部である屋根のはりを一本落としたら、われてしまうくらいです。
そうとうなやわらかさです。
……え? そういう意味じゃないんですか?
わたしはずっと勘違いをしていたみたいですね、うふふ……。
わたしって、頭も体もかたくて古いんです……。
雨にも風にも負けないくらい、地盤にしっかり根づいています。
地域密着型です……だれがなんと言おうと、これだけはゆずれません。
世のなかの流れは、わたしに出入りする人間から伝わります。
だからどうしても、流行遅れになっちゃいますね……。
シックハウス症候群なんて、わたしついこのあいだ聞いたばかりです。
なんなのでしょう……。
横文字の名前を言われても、レトロな体育館でしかないわたしは困ってしまいます。
できるだけいろんな物の名前をおぼえて、使っていきたいです。
人生80年、わたしは築45年です。
これからこれから……。
そうそう、その、名前の話です。
赤いトレーナーにプリーツスカートの女の子が、つり綱をよじのぼっています。
6年1組のあやはちゃんです。
活発なあやはちゃんには、青系統のチェックのスカートがよく似合っています。
まるでチアガールのようです。
でも、体育館にしつらえてある、綱引きにでも使えそうな太さのそれにのぼるチアガールなんていませんし、きょうび 男の子でもそんなことしません。
猛者と呼んでもいいのでしょうね……もさ!
呼んでみましたが、こういうのってなんだか照れちゃいます……。
「綾羽ちゃん」
今のはわたしではありません。
あやはちゃんと同じクラスの、かなめくんです。
彼女いない歴12年ですが、人生80年ですから、45年目のわたしから見たら、なんにあたるのでしょうね。
いちばん近いのは……………………………………孫でしょうか。
「なにー?」
地上10メートルから、あやはちゃんは返事をしました。
かなめくんは、あやはちゃんの落下点になるかもしれない位置にいました。
体を張って、あやはちゃんの身の安全を守ろうだなんて、素敵です……。
わたしは9年前屋根の補修をしてもらったときとおなじくらい、心ときめきました。
がんばれ、かなめくん。
がんばれ、あやはちゃん。
――ガンバです!
は、はずかしいです。
『ガンバ』なんていう今どきの言葉、わたしには使いこなせませんっ……。
「カナメ? なにー? 今、手が離せないんだけどー」
「危ないよ」
「じゃあカナメ、そこをどきなよー。そんなふうに下を向いてたら、あたしが落ちても逃げらんないよー」
「だって綾羽ちゃん、パンツ……」
「はいてるよー」
「違うって!」
「え? じゃ、前後ろが逆ってこと? 大変!」
「そうじゃないよ……」
すったもんだがありましたが、あやはちゃんは無事、つり綱を降りました。
かなめくんは、ものすごく困ったような顔をして言いました。
「綾羽ちゃん、こんな危ないことしちゃだめだよ。卒業式はもうすぐなのに、綾羽ちゃんにもしものことがあったら、おれ、悲しいよ」
「……そうだね」
神妙な面持ちで、あやはちゃんは答えました。
「あたしのお葬式とカナメの卒業式か。とりあえず泣いといたら?」
「……なんでそんなひょうひょうと言えるんだろう」
「え? あたしなにか間違ったこと言った?」
「そうでもない。いつもどおり」
「だよねー」
あやはちゃんは満足げに笑いました。
こうなると、あやはちゃんの勝ちです。
倉庫にしまってあるほこりっぽいエバーマットくらい、ぐんにゃりとしてしまいます。
なんのことかって? ――かなめくんですよ。
骨抜きにされてます。
だれの目から見ても明らかです。
しかし、かんじんのあやはちゃんがちっとも気づいていないというのが、笑えます。
そうですね……体育の授業で、かなめくんのへっぽこな側転を目の当たりにしたときも、このくらい笑えました。
なつかしいです……。
あやはちゃんは油性マジックをポケットに隠していました。
「あたしたち、このままだと卒業しちゃうよね?」
「そのほうがいいよ。頼むから、おかしなこと考えないで」
「別におかしなことなんかじゃないよ。あのね、記念に名前を書こうと思ったんだー」
「綱に? じゃあ、そのマジックのふた、どうやって取るつもりだったの? 手が離せないって言わなかった?」
あやはちゃんは、たっぷりと考えました。
真顔で言いました。
「気合」
かなめくんはあやはちゃんを言い含めました。
「それなら場所を変えよう。おれ、もっといいところを知っているよ」
あやはちゃんの興味をひくには、じゅうぶんな言葉でした。
いいところ、ですって……。
わたしもまた、その秘密めいた響きにうっとりしちゃいました。
気持ちはおとめ座です。
体のパーツを丹念に調べたら、材料のひとつくらい、8月末から9月後半に製造されたものがあったって、おかしくないでしょう。
おとめ座なんです……問いつめないでください……お願いします……。
ふたりはわたしの出入り口付近にある、床板をはずしました。
1メートル四方のそれは、回転式の金具がついていて、高学年児童なら取り外しができるくらいの重さです。
体育館内もそれなりに寒いのでしょうが、その床下ともなると、さらに冷えています。
3月とはいえ、外の林には雪が残っていると、なじみのキセキレイがわたしにさえずっていました。
「寒い」
腕を抱えて、かなめくんがつぶやきました。
すかさずあやはちゃんが言いました。
「カナメは見張りね」
「えっ」
「寒いんなら、来なくていいよ」
「い、行くよ」
「見張り。先生が来ないか、見張っててー」
「え、だって……」
あやはちゃんはぽっかりとあいた正方形の穴のなかに降りました。
床板の高さが、ちょうど腰のあたりになります。
「じゃー行ってくるね」
あやはちゃんは意気揚揚と、床下にもぐって行ってしまいました。
ぽつんと取り残されたかなめくんは、しぶしぶといったおももちで、出入り口の戸を細く開けました。
廊下の向こうまで眺めたようです。
そこへ、とてとてと軽い足音が急接近してきました。
「かまめ。なにしてんの? かくれんぼ?」
かなめくんを『かまめ』と呼ぶのは、校内広しといえども、3年1組のまいちゃんだけです。
あやはちゃんの発音が悪かったのか、『かなめ』を『かまめ』と聞き取ってしまい、入学以来、ずーっとこうです。
かなめくんは優しい男の子だから、怒ることも注意することもなく、そのまま認めてしまいました。
「かくれんぼじゃないよ。だれか来ないか、見張ってたんだ」
かなめくん、見張りのくせに、簡単にばらしちゃってます……。
「なんで見張るの? あやはちゃんも体育館のなかにいるの?」
まいちゃんはいろいろ聞きたいお年頃。
5・8・5。
字余りです……。
かなめくんはなにやら考えているふうでした。
わたしのなかから廊下のほうに顔を出しているので、わたしからはその表情は読み取れません。
わたしはガラスに『の』の字を書いちゃいそうでした。
指がないから、それさえできないんですけどね。
「まいちゃん。実はこの体育館のなかに、綾羽ちゃんがひとりでいるんだ。おれは、綾羽ちゃんを誘い出すのに成功した」
「そっかあ! やったね!!」
まいちゃんは飲み込みが早いです。
「とうとう告白するの?」
なんということでしょう……。
小学校3年生といえば、9歳です。
わたしが屋根をリメイクしてもらっていた頃に生まれたひとつの命です。
それが、こんなにも、さとい少女に成長しているなんて……感動です。
それにひきかえ、わたしは……。
「うん。だから、まいちゃんにここを任せてもいいかな」
「邪魔が入らないようにすればいいんだね。わかった。かまめがんばれ!」
「うん。ありがとう。行ってくる」
――思いおこせば、わたしは44期にわたって卒業生を見送ってきました。
「綾羽ちゃん、お待たせ」
「遅いよ。カナメー」
「あれ? 待っててくれたの?」
「待ってあげたの。カナメは怖がりだからね。体育館にひとりぼっちは嫌でしょ」
「……うん。そうだね。ありがとう」
「どーいたしまして! さ、行こー」
入学式もまた、わたしのなかで執り行われる学校行事です。
わたしは子供たちを迎え入れ、送り出す舞台なんです。
ほかには真似のできないことです。
わたしはそれを、とても誇らしく、そしてうれしく思っています……。
「うわ。ホコリっぽいね」
「でしょー? あたしひとりじゃガマンできなくって、早くカナメ来てくれないかなーって思ってたんだー」
「……」
あやはちゃんとかなめくんがこの桐山北小学校に入学した日のことも、おぼえています。
あの日はお天気に恵まれていましたね。
午後から行われた入学式では、ふたりの椅子は隣りあっていました。
まるで結婚式みたいだと、ご両親はささやいていたんです。
わたしもそう思いました……。
「あっ、カナメ! すごいのがあるよ、ここ。『田中君と結婚したい』ってさ」
「うん。なんかね、この学校に代々伝わっているらしいんだ。卒業生がここに書き込みをしていくんだよ」
「ご利益あるの?」
「神社じゃないからね」
「お賽銭もないんじゃ、神様もお願いを聞きたくないんだー。ケチだね」
「神社じゃないってば」
あの日のかなめくんは、緊張と寒さで、かたくなっていました。
いくら好天でも、桜のつぼみがちらほら見えはじめたくらいの、遅い春です。
暖房をたいていましたが、広々としたわたしのなかは、そうそう暖まりませんでした。
半ズボンの上でこぶしをぎゅっと握っていたかなめくんに、あやはちゃんは持っていた簡易カイロをそっと差し出したんです。
あげるねと言ってほほえんだあやはちゃんは、わたしにもとてもかわいらしくみえました。
かなめくんは幼かったから、もう忘れちゃったかもしれませんね……。
「そういえば、おれたちの入学式のとき、綾羽ちゃんてばおれにぬるいカイロをくれたよね」
「そーそー。ゴミ箱がなくってさー」
「……そうじゃないかと思っていたよ」
「早く言ってよー」
「なんでおれが謝んなきゃいけないの」
「おかしーね。あはは」
もうあれから6年もたつんですね。
あやはちゃんたちがいなくなったら、わたしも淋しくなります。
「よし! ばっちり書きましたー」
「なんて書いたの?」
「カナメの想像を絶するようなー」
「きたない字だって知ってるよ」
「なんてこと言うの。あたしこれでも気にしてるんだからー」
「はいはい」
「さ、バックバック!」
「あ。はぐらかしたね。いいよ、あとでこっそり見てやる」
「やーめーてーよーーっ!!」
「しっ! 外に聞こえる」
ところで、その卒業式っていつでしょうか。
確か、体育館に入ってすぐの移動式連絡黒板に、今月の予定が書いてありました。
わたしのためにそこまでしてくれるなんて、人間はなんて親切なんでしょう……。
もしかしたら、この声が聞こえているのかもしれませんね。
「わあ、校長先生! まだ入っちゃだめえっ!」
「まいちゃん? どうしたの? まだっていうのは、なんのことかね?」
「わああああ」
ええと、黒板によると、卒業式は3月20日の木曜日です。
校長先生が黄色いチョークでバツ印をつけたのを見ると、今日の日付は3月3日ですね。
ひなまつり……?
――おかしいですね。
ひなまつりはもっとまえだった気がします。
校長先生が月はじめの全校朝会で必ずする長話のなかに、ひなまつりネタがあったと思うんですけど……。
あれって、去年だったのかしら……。
考えごとをしているうちに、あやはちゃんが床下から姿を現しました。
床下探険はもうおしまいのようです。
かなめくんもつづいて出てきました。
床板をもとどおりにしたところで、入り口の戸が開きました。
「あれ、校長先生。なにしに来たの?」
なにげない口調で、あやはちゃんは言いました。
校長先生はかすかに傷ついた顔になりました。
「来ちゃいけなかったのかね。まいちゃんにも入り口で待ったをかけられたんだが」
「んー。いいよ」
なんにもわかっていないあやはちゃんが、えらそうに答えました。
「それじゃあ、入るからね」
「もう入ってるじゃん」
校長先生の背後から、まいちゃんがあげあしを取りました。
校長先生は……前と後ろからの攻撃ならぬ口撃で、その髪の毛とおなじくらい気の毒なありさまです。
力なく黒板の前に立ち、豆粒くらいのチョークを拾って、日付の下のマス目にペケを書きはじめました。
ペケペケペケペケペケペケペケペケペケペケペケ。
「今日の分も消しておくか」
もうひとつペケ。
――ということは、平日合計12日経過。
今日は3月18日。
卒業式はあさってです。
校長先生……あんまりです……。
わたしだって、心の準備とか、あるんですよ……。
わたしの非難から逃げるように、校長先生はすたこらさっさと行ってしまいました。
あやはちゃんがまず黒板に近づきました。
なでるように視線を走らせましたが、たいしておもしろいことも書いてなかったようです。
小さなタイヤのついた移動黒板の足を、ひょいとまたぎました。
壁にそっと左手をつきました。
右手には油性マジック……。
かなめくんとまいちゃんが、黒板に身を隠すようにして、ひそひそ話をしました。
「言えたの?」
と、まいちゃん。
「だめだった」
と、かなめくん。
「だめじゃん。かまめだめじゃん」
「そうだね。でもさ、中学もいっしょなんだし」
「中学でもだめかまめかもしれないじゃん」
かなめくんはにこっと笑いました。
まいちゃんは小首をかしげました。
「おれはいいんだよ。いつでも。それより、まいちゃん……」
ここから先の10秒は、わたしにも聞こえませんでした。
かなめくんは、まいちゃんの耳に手をあてて、なにかを喋りました。
まいちゃんも、神妙に頷きました。
「わかった。内緒ね」
内緒? それは、わたしにも言えないことですか……?
「カナメー。まいちゃーん。ちょっと!」
たった5メートルの距離でも、あやはちゃんはひるむことなく大声で人を呼びます。
呼ばれたふたりのほうがびっくりしています。
「は、はいっ」
かなめくんが返事をして、まいちゃんをうながしました。
隅っこにひざまずいたあやはちゃんが、キャップを閉めたままの油性マジックで、壁の一部分をさしました。
昭和参拾参年九月壱拾五日竣工――筆書きで、そんなふうに記されています。
「これ、この体育館ができた日かな? 9月15日ナントカだって」
9月15日生まれは、おとめ座です。
やっぱり、本当だったんですね。
うれしいです……。
「それ、しゅんこうって読むんだよ。9月15日か……敬老の日だね」
敬老……シャレになりません……。
かなめくんのその博識なところ、わたし今日から嫌いになっちゃいます……。
「しゅんこう、ねー。そんなの読めるの、カナメくらいだよ」
そう言いながら、あやはちゃんはマジックのキャップを取りました。
「え? なにをする気? よしなよ」
口ではそんなふうに言っていますが、なにかを思いたったあやはちゃんを完全停止させるにはそれ相応の理由がいると、かなめくんは最初からあきらめているようでした。
わたしも同感です……。
まいちゃんがあやはちゃんのすぐ隣にしゃがみました。
「ふりがな書くの?」
「うん」
わたしは覚悟を決めました。
さあどうぞ……。
あやはちゃんは竣の字の脇に『し』と書きました。
前評判どおりの、お世辞にも上手とはいえない文字でした。
だけど、ひらがなたった一文字でこれほど味があるというのも、考えようによっては評価に値するのかもしれませんよ。
芸術みたいにね……。
『しゅんこ』まで書いたそのときです。
あやはちゃんがくしゃみをしました。
勢いあまって、ペン先で壁を2回ノックしました。
「あーー!!」
ノックは濁点となりました。
じゅんこ。
もう、なんでもいいです。
体育館と呼ばれようが、じゅんこと呼ばれようが……。