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桜月夜

作者: 井上璃音

1命の楯


ルキアは王宮へ来たことに、早くも不安を感じ始めていた。

貧民街で暮らしていた頃には考えられないほど綺麗な衣装を着せられ、美しく髪を整えられて「本当に皇女様とそっくり」と誰もが口を揃えて驚くさまを見るのは悪くなかった。

だが、自分がそっくりだという皇女ノワールは、ルキアをひと目見た途端に不機嫌そうな表情を浮かべ、こう言い放ったのだ。


「見るからに品のない者を、わたくしの影武者にですって? 薄汚い匂いの染みついた、こんな子を贈り物だなんて、どういうつもりなのかしら。騎士マンスール?」


これにマンスールは、騎士らしく片膝を地に付けたまま、恭しく頭を下げ返答した。


「皇女様は、次のお誕生日で十四歳を迎えられます。皇位継承第一位の皇女様に、ご夫君をお迎えになられる話など持ち上がれば、良からぬ企てを考える輩が増えることでしょう。危険が降りかかった際の予防線、いわば命の楯とお考え頂ければよろしいかと存じます」


命の楯。その言葉が気に入ったのか、ノワール皇女は意地の悪い笑みを浮かべた。


「ま、いいわ。気に入らなかったら即、叩き出すだけだもの。それで構わないわね?」


話が違う。ルキアは慌ててマンスールを見た。


フィアスという名を持つ貧民街で宿を営む女主人の勧めで踊り子を始めてすぐに、ルキアがノワール皇女そっくりだという噂が立ち始めた。恐らく王宮に出入りしている商人あたりが言い出したのだろう。それを耳にした者たちが物知り顔で吹聴し、どうやら王宮の騎士の耳にも届いたようだった。


ある夜のステージが終わるとすぐに、騎士マンスールは、王宮へ来ないかと言葉をかけてきた。ためらうと、ルキアが共に暮らしている年上の少年トーイや、弟のように可愛がっているエオナとマーキュが、きちんと暮らしていけるだけの面倒を王宮が見ようと提案してきた。


トーイたちは皆、孤児だった。ルキア自身も、年齢さえ判らない。

子どもだけで暮らしを立てるのは容易ではない。働き口がない少年たちに出来ることと言えば、物乞いやスリくらいのもの。でも、それには危険が伴う。いつも上手くいくとは限らないし、掴まって大人たちに思い切りブン殴られて、怪我をすることもある。特に小さい子たちには、大きな悲劇になることだってあった。

だから、ルキアは条件を飲んだ。彼らを守りたくて。


ルキアに出された条件は、ただ一つ。

誰にも行き先を告げないで、ここへ来ること。

黙って姿を消せば、皆が心配することは判っていた。それでも、きちんと守った。

だがノワール皇女には、その条件が伝わっていないらしい。


「すべて皇女様の意のままに」


嘘つき。マンスールを見る自分を、蔑んだような目つきで眺める皇女が怖くて、震えた。



「パーティーになんて出たくないの。ましてや自分の誕生日会なんてまっぴら。獲物を漁る男たちの標的になるなんてイヤなのよ」

皇女の部屋へ行くようにと命じられ、ノックをしかけたとき、不機嫌そのものといったノワール皇女の声が聞こえてきた。

侍女が何か言っているらしいが、ぼそぼそとして聞き取れない。

「わたくしの魅力は、そんなことのためにあるんじゃないことくらい判るでしょっ」

ノワール皇女の十四回目の誕生日の一週間前である今日から、前夜祭が始まる。そのパーティーに向けての準備で、苛立っているらしい。


この一か月間、皇女の影武者としてふさわしい所作やマナーを身に付けるべく教育されてきたルキアも、もしかしたら一回くらいは代役を務めなければならないかもしれないと聞かされたせいで、緊張は否めなかった。

恐る恐る顔を覗かせたルキアは、パーティードレスを身にまとった皇女を見て、思わず目を見張った。

怒るさまはともかく、確かに誰もが溜め息をつきたくなるほどの美しさに溢れている。


「皇女様。今年のパーティーは、王位継承第一位であることのお披露目でもあるのです。そんな皇女様にお会いしたいと、各国の皇子様方がこぞって参加されるのでございます」

「そんなの判っているわ。誰もがこのわたくしにひと言声を掛けて貰いたいと願っているのよ。風国の王ときたら、到着早々にわたくしと会いたいなどと、どこかの国の女たちと同等に扱うなんて失礼極まりないったらないわ。顔を見るのもイヤ」

言い放つなり、ルキアを睨むように見た。

「あなた、わたくしの影武者なら、すべてのパーティーへ代わりに出なさいな」

「あたしが?」


ルキアは慌てた。座っているだけならまだしも、すべてなんて困る。


「見た目でわたくしに劣るとしても、ヴェールで顔を覆っていれば問題ないわ。サライ、そうして。この子にドレスを」

「皇女様」

「サライ」

皇女にきつく睨まれ、侍女のサライは渋々ルキアの身支度を始めながら言った。

「本当に代理を立ててよろしいのですか。月国の第二皇子エルアン様もいらっしゃると耳にしておりますが」

「エルアン皇子が?」

侍女の言葉を聞いて、少し思案気な様子を見せた皇女が顔を上げた。

「やっぱり、わたくしが出るわ」

あっさりと前言を撤回し、サライに自分の支度の続きをするよう命じた。

「エルアン皇子は気まぐれで、滅多にこのようなパーティーに参加しないことで有名よ。そのような皇子が顔を見せるなら、わたくしとて出ないわけにはいかないわ」

浮き浮きした様子で、髪をもう少し柔らかい感じにするよう指示した。

「エルアン皇子はあらゆる国の皇女たちが憧れているの。そんな皇子を夫にするのも悪くないでしょう。ただ一つ難があるとすれば、第二皇子という点だわ。わたくしの相手は見た目、財力、権力すべてが揃っていなくては、釣り合わないものね?」

サライが同意すると、満足げに頷いた。

「でも、それも問題ないでしょう。第一皇子がいなくなれば良いだけの話ですもの。誤って毒を飲んでしまうことだって珍しくないわ」


その言葉の意味するところを察し、ルキアは思わず本気で言っているのかと皇女を見つめた。だが、彼女は真剣だった。

もう決めたわ、というようにノワール皇女は鏡を覗き込み、髪の毛が理想的なふんわり感で肩にかかるのを確かめた。

「少し微笑みさえすれば、エルアン皇子はわたくしを愛するようになるわ。そうなるように、神はわたくしを美しく造ったのだもの」

ゆったりと鏡に向かって微笑むノワール皇女は本当に綺麗で、ルキアは皇女なら人気の皇子とやらを射止めるだろうと確信できた。

だが、この上なく温かく見える微笑とさっきの言葉にギャップがありすぎて、背中に走る冷たい感覚からは、なかなか逃れることができなかった。



「どういうつもりなの、エルアン皇子は!」

そんな言葉が今にも聞こえてきそうで、ルキアはそっとノワール皇女を見やった。

影武者を務める者は様々な人たちを見知っておくことも必要だというマンスールの進言によって、ひっそりと同席させられていたところで、その“事件”は起こった。


国々の中でも一番の大国を誇る陽国では、代々女性王が伝統だった。次期王と称されるノワール皇女と結婚することは、すなわち財力・権力すべてを手に入れるということ。

そればかりでなく、ノワール皇女は美しい。すべてが揃っている皇女を射止めようと、各国の男性たちが競い合うように祝辞を述べたのち、手を取り、その手にキスをする許可を求める中、唯一人、月国のエルアン皇子だけは祝いの言葉を「現国王」に向かって述べ、手に触れることを求めなかったばかりでなく、皇女のことを見ようとさえしなかった。

一週間続いた前夜祭にもエルアン皇子は参加せず、最終日の昨夜になってようやく到着。誕生日当日の今日、初めて姿を見せた結果がこれだった。


気位の高いノワール皇女の機嫌が、たちまちのうちに悪化したのは、離れているルキアにさえ感じ取ることができた。

部屋に戻れば、いつもの調子で今度はエルアン皇子をこきおろすだろう。きっと皇女は、エルアン皇子を夫にするのはやめるに違いない。だって皇女を求める皇子たちは、みな華やかで優しそうな人たちばかりだもの。


挨拶が続く中、準備のために運ばれてくる料理の香りが鼻をくすぐり、どうしても気が散って仕方がなかった。退屈極まりない、形式ばった挨拶の時間など早く終わって、この料理を食べていいと言ってくれればいいのに。

目の前に並ぶ品は見たこともないほど豪華で、良い香りで美味しそうだった。


「では乾杯」

現国王の言葉に続き、あちこちでグラスを交わす鈴のような音が響くと、教えられた通りにグラスを持っていたルキアは、少し離れた場所から見守っている騎士マンスールが僅かに頷く合図を確認して、目の前の豪勢な食事に手を伸ばした。

「美味しい!」

焼き立ての真っ白なパンは、フワフワしながらも噛みごたえが残されていて、ほど良い香ばしさとともに、自然と笑みがこぼれてしまうような甘みが口の中に広がっていく。こんなにも幸せな気分になれるパン。皆にも食べさせてあげたい。

ふと手が止まった。

エオナとマーキュは、喜んでほおばるだろう。足りないときは、トーイが自分の分をあげたりして、二人が喜ぶのを眺めるに違いない。トーイはそういう少年だ。自分は我慢して、いつだって幼い子たちの兄貴でいようと頑張る。

それを真似てルキアも自分の分をあげようとすると、トーイは必ずそれを止めた。ルキアはちゃんと食べなきゃだめだ。女の子なんだから、と言った。

そういえば、どうして女の子はきちんと食べなきゃいけないのか、結局理由を聞き損ねたわ。

そんなことを思いながら顔を上げると、誰かがこちらを見ている気配が感じられた。

月国の第二皇子エルアン。年齢は十七だか十八だと噂する声が聞こえてきていた。会釈をするべきなのだろうか。

だが、すぐに隣から話しかけた風国の王へ、エルアン皇子の注意は移っていった。


豪華な食事をたっぷりと堪能したルキアは、宴の華やかさもあって、ノワール皇女が怒っていたことなどすっかり忘れてしまっていた。

借りたドレスを返すため皇女の元を訪れると、開口一番こう命じられた。


「あなたのやるべき事が見つかったわ。花嫁テストを受けるのよ」


花嫁テスト。料理とか裁縫とか、そんなことを皇女様が自分でやるんだろうか。

すぐには理解できないでいるルキアを、信じられない言葉が襲った。


「明日から月国のエルアン皇子とともに過ごしなさい。皇子に気に入られるよう振る舞い、求婚させること。それがあなたの使命よ」


求婚させる? あの、エルアン皇子に? ルキアは驚き、目を丸くした。


「でも、あたしは礼儀も何もかもまだ勉強中で、絶対に失礼なことをしちゃうわ。気に入られるようになんて出来ない、と思う……」

皇女が美しく整えられた眉を寄せたのを見て、言葉尻がしぼんでいった。

「この一か月、何を学んでいたの? 言葉遣いがなっていないわ。訛りもある。話すと品のなさが際立って、卑しくなるのね」


腕を組み、顎に手を当て考え始めた皇女を見て、花嫁テストとやらをルキアにやらせるのをやめると言ってくれるのを期待した。


「それに、いくら似てるって言っても、近くに寄ればあたしが皇女さまじゃないことなんて、すぐにバレちゃうわ」

「わたくしは扇で顔を隠していたわ。それがレディとしてのたしなみなの。面識は今日が初めて。エルアン皇子には見た目で判断することなんてできるはずがないわ。問題は、あなたの口の利き方よ」


魔道師を呼んで。侍女サライにそう命じると、すぐに全身を茶色のマントで覆った人物が音もなく姿を顕わして、ルキアを驚かせた。


「この娘の声を封じなさい」


一礼した魔道師がルキアに向き合うと、手を開いた。手のひらに石が乗っている。

何をするつもりなのだろう。

魔道師の手が伸び、喉に触れた途端、焼けつくような痛みが走り、悲鳴を上げた。だが痛みも悲鳴も、すぐ消失するようになくなった。


…いったい何をしたの?


目の前の魔道師に問いかけたルキアは、慌てて喉に手を当てた。――声が出ない。咳払いをしようとしても、虚しく空気がぜいぜいと吐き出されるばかりだった。

こんな簡単に他人の声を封じることができるなんて。

無表情の魔道師とは対照的に、喜悦を口元に浮かべた皇女を見てぞっとした。

皇女が命じれば、魔道師は命を奪うことだって、簡単にやってのけるのだろう。そう思うと恐怖で凍りついた。

そこへ皇女が再び命じた。


「今日の態度は絶対に許せないわ。皇子から求婚させ、わたくし自身でハッキリと断ってあげるのよ。判るわね?

エルアン皇子を必ず射止めなさい。それがあなたの役目よ」


それは皇女さまの本心じゃない。そういいたくて、必死に首を横に振った。

確かに皇子に傷付けられたと思っている今は、仕返しをしたいのだろう。でもエルアン皇子が参加すると知ったときの雰囲気を思うと、そんなことをするべきではない気がした。

意思を伝えたくてすがりつくと、扇でぴしゃりと頬を叩かれた。

「わたくしに触れるのは無礼と知りなさい!」

…そんなに皇子を振り向かせたいなら、自分でやればいいじゃない! 皇女さまはそんなに綺麗なんだから!

声の出ないルキアが必死に訴えようとしている姿に、皇女は微笑みを向けた。


「失敗したら、処刑ですからね」



2花嫁テスト


「花嫁テストとは、面白いことをしたがるものよな。それで、朝早くから俺の部屋にやって来て、いったい何をしてくれるつもりだ?」


嫌味たっぷりな物言いは、明らかに他国の皇子たちとは違う。ノワール皇女を妻になど眼中にないのが明らか過ぎて、ルキアは心の中でうなだれた。


…あたしは処刑される運命なんだ。


それでもエルアン皇子は、ルキアをノワール皇女ではないと疑っている様子もなく、手荒なことをする気がなさそうなのは救いだった。

でも違うと判れば、何をされるか判らない。正体がバレないようにすることが、肝心には違いない。ただ立っているだけでは妙だ。

皇女らしく振る舞うべく、心の中ではビクビクしながらも、取りあえず手近なソファーに腰を下ろした。


「正直なところ、俺はお前に興味などない。滅多に姿を見せない皇女が皇位継承者披露を兼ねたパーティーを開くから、是非参加してくれと懇願されて来てやっただけだ。他の男たちに崇め奉られる憐れな女を眺めにな。暇潰しの、ちょっとした余興だ」


皇女が聞いたら卒倒しそうなほどの侮辱。あまりにストレート過ぎて、怒らなければならないことも忘れ、ルキアは目を丸くした。

最高級のカップに入った紅茶の香りを楽しむ皇子は、優雅で気品に溢れている。それが鏡の前で上品に微笑むノワール皇女の姿と重なった。

王族というのは、誰もがこんな物言いをするのだろうか。


「だが何ということか、陽国王自らが娘の花嫁テストを受けさせてくれと申し出てきた。断ったが、どうしてもという。月国の、しかも第二皇子という立場の俺には断れんくらいの熱心さでな。ゆえに仕方なく、この遊びを受け入れてやったのさ。だからお前も期待するなよ。適当に陽国王を納得させられるだけの時が過ぎたら、お前は花嫁失格だと告げて去るだけだ。それとも、まさか本当に俺を愛しているとは言わんだろうな?他の大勢の女のように」


ルキアは悩んだ。

エルアン皇子は、確かに見た目はいいかもしれない。でもノワール皇女を上回るほどの傲慢な性格の持ち主のようだ。それを皇女は知らないのだろう。知っていたら、好きな気持ちなど、あっさり捨て去るに違いない。

二人が一緒にいるところを想像するだけで頭が痛くなった。絶対に言い争いが絶えないだろうし、こんな皇子に気に入られたと知ったら、かえって怒りをぶつけられることだってありそうだった。


「なぜ悩む必要がある」

だって、と言いかけて声が出ないことを思い出した。どうやって伝えようかと考えていると、皇子がカタンとカップを置いた。

「つまらん。出て行け。退出を赦す」

傲慢だけでなく短気。嫌気がさしたが、逃げ出すこともできない。

ルキアは慌てて咳込むフリをした。掠れる音がそれらしく聞こえることを期待して。

「風邪で喉をやられているのか」

少しは同情してくれるかも、と頷く。

「さすがは皇女さまだ。俺に病がうつることなど、お構いなしというわけだ」

違う、そんなんじゃないと頭を振ると、ドアの開く音が聞こえた。

執事が立っている。確か皇子付きの魔道執事で、名前はホロピエッタ。取り巻きの名前だけは、事前に教えられていた。


「おはようございます。お勉強のお時間です、エルアン皇子」

それからルキアに一礼して付け加えた。

「ノワール皇女さまも、ご一緒にどうぞ」

エルアン皇子が、不機嫌な表情を浮かべた。

「俺は忙しいのだ。花嫁テストという、くだらないがやらねばならぬことがある」

「ですから皇女さまもご一緒にと申し上げたのです。他国へ来たからといって勉学を疎かにしてはなりません。常に学びは大切です」

魔道を行う者は知識が深いこともあり、教師として王族に携わることも多い。ノワール皇女は侍女と魔道師が別だが、エルアン皇子には執事の心得がある魔道師がついていた。

「ま、しゃべることができぬ女をからかっていてもつまらんか。よい。講義を始めよ」


ホロピエッタが文字の書かれた紙切れに何やら呟きかけると、どさりと本の山が現れてルキアの度肝を抜いた。そこから一冊を取り出してエルアン皇子に手渡し、百五十三頁を開くよう求めた。

ルキアには何もない。

手持ち無沙汰になったルキアは、手近な本を手に取ってみた。怒られるかと思ったが、二人とも関心がないのか何も言わない。


一枚目をめくると地図が描かれている。

大きな大陸が五つに分かれ、その中心に位置するのが、ルキアたちのいる陽国であることが示されていた。

陽国の他には月国・風国・水国・樹国・地国とあり、それら五つが陽国を囲むようにある。中心の陽国が一番大きな面積を有しており、次に月国。この二つで、すでに5分の4を占めている。そして風国と続き、水国・樹国はかろうじて土地を有しているものの、地国に至っては点ほどでしかない。世界がこの大陸一つだけだとしたら、ノワール皇女は確かに尋常ならざる支配力を持つ王族の後継者なのだと、ルキアにでさえ理解できた。


人類は一度絶滅した。


さらにもう一頁めくると、そんな記述で始まる文章が目に飛び込んできた。


正確には文明を失ったというべきであろう。かつて人類は強大な力を持っており、その文明力でもって一大繁栄期を築き上げた。だが歴史は唐突に幕を閉じる。どうやって滅びたのか、誰も記す暇もないほど突然に。ほとんどの人類はこのとき滅びたが、僅かに生き延びた者たちがいた。そこから人類の歴史は再び刻まれている。短い新たな歴史について、次章から述べることとしよう。失われた、以前の歴史については、未だ解明されていない。


貧民街で育った者としては珍しく、ルキアは文字の読み書きができた。手伝いをしていた宿を常宿としていた商人の一人が、売り物の本に興味を示したルキアを気に入り、教えてくれたからだった。

それでも本をたくさん読んだことがあるわけではない。ホロピエッタが出現させた本は、どれも難しそうなものばかりだったが、少なくとも勝手に読んでも怒られないと判って、嬉しくなった。


「午後は剣術でございます」

夢中になっていた午前は、あっという間に過ぎていた。声を掛けられ、顔を上げるとテーブルの上に昼食が並べられている。

王宮へ来てからも、テーブルマナーを学ぶとき以外は使用人と同じメニューで、忙しい彼らと同じ一日一食の生活だった。今日二度目の食事というのは贅沢なことだったが、昨夜の宴が豪勢だったせいか、思っていたより質素に感じられて驚いた。

「お口に合いませんか。皇女様」

二人の食事に付き添っている執事のホロピエッタに問いかけられ、慌てて首を横に振ってフォークを口に運んだ。

こんなに短い感覚で食事にありつけることなど初めてのこと。胃が驚いて、あまり食べることができないみたいだった。

「デザートはいかがでしょう。紅茶風味の生チョコタルトでございます」

…おいしそう。

取り分けて貰い、ひとくち口にして目を丸くした。トロリとした食感に、紅茶の香りがふわっと鼻孔をくすぐる。最高だった。

思わず微笑んだルキアを見て執事が軽く会釈し、それに気付いたエルアン皇子が怪訝そうに自分へ視線を向けたのを感じ、慌てて笑みを引っ込めた。

きっと、はしたないことだったに違いない。礼儀がないなんて、偽皇女だと不審がられてしまう。

一気に緊張が高まって、それからはほとんど喉を通らなかった。



午後、庭に出ると一人の騎士がすでに待機していた。エルアン皇子に一番の忠誠を誓うエマオだと、ルキアには彼が名乗る前から判っていた。

「では皇女。こちらをお使い下さい」

エマオに手渡された剣は、彼や皇子が持つものよりずいぶんと短い剣だった。ルキアの身長に合わせて用意されたのだろう。それなのにルキアには重く、両手で持ち上げるだけで精一杯だった。

「皇子」

「うむ」

エマオは、エルアン皇子に一礼すると剣を構えた。皇子も構えを見せる。と次の瞬間には打ち込みが始まっていた。

激しい剣戟の音に、ルキアは縮み上がった。これまでも剣で人が斬られるのを見たことがないわけではない。むしろたくさんの人が斬られるのを見た。

だが、それは常に一方的で、貧民は抵抗することもできず斬られるばかり。両者が対等に剣を振るってぶつかりあう姿は、初めてだった。

エマオの剣先を、ぎりぎりのところでかわしている皇子は真剣そのもので、これが鍛錬なのか実践なのか判らなくなってしまうほどの迫力だった。

皇子の動きが止まった。エマオの剣が喉元でピタリと狙いを定めている。

「お認めなさいませ」

エマオの言葉に、皇子が悔しそうな表情を浮かべた。

「参った」

大きく息を一つすると、エルアン皇子は迫力負けしているルキアを促した。

「次はお前だ」


見よう見まねで剣を構えて、エマオと向き合った。

「皇女。全力でかかってきて下さい。わたくしは絶対に斬られませんので、ご安心を」

判った、と頷いた。

エマオを斬るなんて絶対に無理だと判っていたから、そこは安心だった。

心配なのは自分だ。とにかく重い剣を振りかざした。振り回すように下ろすと、勢いで身体が回転して尻もちをついた。

「皇女。大丈夫ですか」

エマオが慌てて手を貸してくれた。一振りもできない上に、剣に振り回されて転ぶなんて、みっともなくて恥ずかしい。

「剣を、もっと軽いものに替えましょう」

「甘やかさなくていいぞ。エマオ」

エルアン皇子の厳しい言葉が飛んだ。

「いえ。わたくしが見誤っていたようです。昨日パーティーでお見かけした印象とは違い、かなり華奢な方のようですので」

どきっとした。皇女付きの侍女サライも同じようなことを言っていた。お顔は似ていらっしゃいますが、多少お身体つきが小さいようでございますね、と。

偽皇女だとバレてしまったかと、恐る恐るエマオを見上げると、

「失礼いたしました」

そういって別の剣を取ってきただけで、何も咎めなかった。

「こちらでいかがですか?」

渡された剣は先程のものより軽く、今度はルキアにも扱えそうだった。

大丈夫、と頷いて再び構えた。


エマオは強かった。というよりルキアが弱過ぎた。なにしろ剣を握ることすら初めてなのだから仕方ない。

でもノワール皇女ができることなら、ルキアもやるしかない。

懸命になって剣を振っていると、じきに腕が痛くなってきた。

それでもやめられない。やめたくなかった。

ずっと王宮で暮らしてきたノワール皇女よりも、貧民街で走り回って来た自分のほうが体力だけはあると信じたかった。

見た目では劣るし、身分も地位も天と地ほどに違うけど、体力だけは負けたくない。そんな、妙な意地がルキアの中に芽生えていた。


「どうした」

息が上がり、もはや腕が挙げられないほど重くなって座り込んでしまったルキアを、エルアン皇子が冷たく見下ろした。

「陽国の王族は、剣一つもまともに扱えぬか。護って貰うだけしか能がなければ、一国を護ることはできぬぞ」

…あたしは王族じゃないし。それに。

ルキアは息を整えながら皇子を見上げた。

…王が国を護ってくれるなんて嘘だってことも知ってる!

「気位の高さだけは人一倍だな」

ルキアの視線をどう受け止めたのか、エルアン皇子が鼻先で笑った。

…違う。気位なんかじゃない!

「だが、それだけで国を動かすことはできぬぞ。大きなものを動かすには絶対的な強さが必要だ」

ルキアの手から離れた剣を拾い上げると、立ち上がれないでいるルキアの目前で刃を煌めかせた。

「陽国は代々女性王。それに対し周辺国は、今や水国以外はすべて男性王が立っている。気を抜けば、あっという間に攻め込まれて陥落だ。男はとかく、獲物を狩るのが好きな生き物ゆえな」

差し出された剣を受け取ると、腕に痛みが走って顔をしかめた。

「このような程度とは情けない。俺の同情を誘い、護って貰おうとでもいう魂胆だったのなら、相手を間違えたぞ。そういった目的ならば、風国王リラクのほうが適任だ。あの男となら、お前と利害が一致しただろうさ」

…どういう意味?

怪訝そうに首を傾げるルキアに、エルアン皇子は立ち上がって背を向けた。

「忘れるな。風水樹地など、しょせん雑種。陽と月のみが聖なる血脈だ」

不遜に笑うと、今日はここまでだと言い残して立ち去った。



「今日一日の報告をなさい」

痛む腕をさすりながら自室へ戻ると、すぐにノワール皇女のお呼びがかかった。

…報告と言われても、あたし声が出せないのに。

『ホウコクといわれても、アタシこえがだせないのに』

心中の言葉が部屋に響いて驚いた。でも声が妙に無機質だ。

『ドウシテ……』

またルキアの言葉が聞こえ、ようやくそれが皇女の傍らに置かれた陶器人形から発せられていることに気がついた。きっと魔道師の造った人形なのだ。

「心配いらないことが判ったでしょう。さぁ報告なさい。朝から何をして、エルアン皇子が何と言ったのか、細部に至るまで、包み隠さず、すべてを話すのよ」

『ハイ』

観念して、朝からの出来事を順に話していった。とはいっても、午前中はテキストに没頭しすぎていたため、話すことが何もない。午後の剣術鍛錬で、上手くできずに尻もちをついてしまったくだりで、ノワール皇女の顔色が変わった。

「エルアン皇子の前で転んだですって? 何て恥さらしなの。呆れたわ」

『でも剣術は初めてで、剣も重かったし、それで……』

「そんなこと関係ないわ。殿方の前でみっともなく転ぶことが問題なのよ。それでエルアン皇子は何て言ったの?」

…特に何も言ってなかったと思うけど。

『わらってマシタ』

驚いて人形を見た。

…笑ってなかったでしょ!

『ダイバクショウでした』

…エルアン皇子は声を出して笑ったりなんか一度もしてない! 嘘つき!

「冗談じゃないわ!」

ノワール皇女がヒステリックに声を上げて立ち上がり、ルキアは殴られると身をすくめた。

「格下の皇子に笑いものにされたなんて屈辱だわ! なんてことをしてくれたのっ。罰として、今夜は夕食抜きよ!」

怒った皇女は美しすぎて怖かった。

「明日は、今日の挽回をするようにすることね。そうでなければ、本当に首をはねるわよ。いいこと?」

ルキアがおとなしくうなだれると、そのまま食事が用意されているテーブルに座った。

「退出はまだ赦さないわ。わたくしが食事を終えるまで、そこで見ていなさい。どうせ食事のマナーも判っていないんでしょうから」

お昼をあまり食べずに剣術の鍛錬をしたせいで、空腹だった。皇女のために用意された食事は、とても素晴らしい匂いがしている。

まさかこんな形で夕食を食べられないとは、想像もしていなかった。


『どうしてアタシがこんな目に遭わないとイケナイの?』


ルキアの不満を感じ取ったのか、陶器人形が勝手にしゃべり出したため慌てた。

「なにか勘違いをしているようね」

ノワール皇女がグラスを手にしながら、ルキアを睨みつけた。

「あなたの恥じゃないわ。わたくしの恥なのよ。それが判っていないなんて、愚かな娘」

グラスの液体を飲み干すと侍女に命じた。

「朝食も抜きにして。水も禁止。判ったわね、サライ。ちゃんと監視も付けるのよ」

「はい。皇女さま」

サライは目を伏せ気味にそう答えた。


結局、本当に何も与えられず、ゆっくりと時間をかけて食事を済ませた皇女から解放されたルキアは、空腹のままベッドに入ると、お腹を抱えて丸くなった。

フィアスにいた頃は、毎日が今以上に空腹だった。それを思えば我慢できる。

でも、水すら禁止されたのは辛い。水が飲めれば、少しは空腹を紛れさせることだってできるのに。

暗闇で目をつぶると、エルアン皇子の言葉が浮かんできた。


風国王とノワール皇女の利害が一致するだとか、陽と月が聖なる血脈だとか言っていた。何の事か判らないけど、血脈のことは、テキストのどこかに書かれているに違いない。明日はそれを探して読んでみよう。風国王のことは、陶器人形を使ってノワール皇女に訊いてみればいい。機嫌を損ねるようなことがなければ、少しくらい教えてくれるかもしれない。それには明日、エルアン皇子に莫迦にされないよう振る舞うことが肝心。

そう決心すると、鍛錬の疲れもあって、すぐ眠りに落ちていった。



翌朝。目が覚めると、喉が渇いて仕方がなかった。サライがこっそり飲ませてくれないかと期待してみたが、皇女に逆らうことはできないらしい。

朝食も皇女が終わるまで傍で見ているよう命じられ、空腹はピークだった。堪え切れずにお腹が鳴ると、皇女は「卑しい娘ね」とだけ言って、優雅にソーセージを小さく切り分け口に運んだ。

『ノワール皇女さま。一つ、お聞きしたいことがあるんです。いいでしょうか』

空腹を紛らわせるついでに風国王のことを尋ねようと、陶器人形にしゃべらせた。

「だめ」

皇女は拒絶するとミルクに口をつけた。

『風国の王さまのことなんですけど』

「聞こえなかったの?

わたくしは話したくないと言ったのよ。それに風国王のことは関係ないわ。余計なことを考える前に、エルアン皇子をかしずかせることに集中なさい」

ぴしゃっと言うと、デザートを寄こすよう侍女に命じた。

「物欲しそうな顔で突っ立っていられると、せっかくのスイーツが台無しだわ。さっさと皇子のところへ行きなさい」


やっと解放された。ルキアは一礼すると、そそくさと部屋を出て行った。

昨日の鍛錬のせいで、全身が筋肉痛だったが構わなかった。エルアン皇子の部屋へ行けば、きっと水の一杯くらいは飲める。そのことで頭がいっぱいだった。


エルアン皇子は、昨日と同じように紅茶を手に座っていた。そのテーブルには、水の入ったグラスも置かれている。

「おはようございます。皇女さま。お紅茶はいかがですか」

ホロピエッタが執事らしく勧めるのを頷いて受け入れると、水の入ったグラスを一気に飲み干した。

…おいしー。

ほっと息をついて顔を上げると、ルキアはさっそく自分が失敗したことに気がついた。

「お前――」

エルアン皇子が呆れたように呟いた。

…ごめんなさい!

頭を下げると、さらに失敗したことに気がついた。皇女は他人の水を飲み干したりしないし、そうしたからといって、そのことを謝ったりしないと思い至ったのだ。

…どうしよう! またやっちゃった!

顔を上げると、険しい表情のエルアン皇子と目が合った。取り返しがつかなかった。今度こそ偽皇女とバレて、首をはねられるに違いない。


「お紅茶でございます」

タイミング良くホロピエッタがカップを置き、砂糖とミルクはどうかと勧めてきた。

ルキアが答えられないでいると、

「両方ともたっぷりと入れてやれ。皇女は人のものと自分のものの区別もつかないほどに子どもらしい。子どもに紅茶は苦いだろうし、熱くて舌をやけどする恐れもあるからな」

皇子は嫌味たっぷりに言い、ゆっくりとカップに口をつけた。それだけだった。

「それで。一日経っても声はまだ出ないか」

落ち込みながらも空腹には勝てず、甘くてぬるくて、でもそれが美味しい紅茶を飲んだルキアは、まだ出ないと首を横に振った。

「陽国の医者にロクなのはいないようだな。自国の皇女の声さえ取り戻せぬとは」

原因が原因だけに、何の反応も示せなかった。もし魔道術で声が出せなくなっていると伝えたら、エルアン皇子は何とかしてくれるだろうか。

ほのかに期待をしつつ、顔を上げて皇子を見たが、すぐに無理だと悟った。


「では本日のお勉強を始めましょう」

エルアン皇子が紅茶を飲み終えたのを合図に、ホロピエッタはそう言った。

皇子はルキアのために医者を呼ぼうという素振りすら見せなかった。

声のことは諦めて、積まれた本の山から知りたいことの答えが判りそうなものを探すことにした。


ホロピエッタは、本を移動させることはできるが、整頓は苦手らしい。様々な分野の本がバラバラで、ここから探すのは大変そうだった。それでも時間はたっぷりある。相変わらず皇子もホロピエッタも、ルキアが本を触ることを咎める様子はない。

一冊一冊手に取り、中を念入りに確かめて、血脈に関する項目がないのを確認すると、それをきちんと積み重ねていった。

世界の郷土料理という本のときは、あまりに美味しそうなものばかりで、お腹が派手に鳴ってしまい、慌てて押さえて二人を見た。

「あの……、えーと、皇子?」

無視することもできないほどの大音量に、ホロピエッタがうろたえた様子でエルアン皇子に指示を仰ぐと、皇子は知るかと言ったように横を向いて頬杖をついた。

極度の恥ずかしさと、もうこれ以上お腹が鳴らないようにということで頭がいっぱいになったルキアは、結局目当ての本を見つけることができずに終わった。


…本当に最悪。

部屋の隅でうずくまるように頭を抱え込んでいると、ホロピエッタが先刻うろたえたことを打ち消すような落ちついた声で告げた。

「お食事の用意が整ってございます」

恥ずかしながらも空腹には逆らえず、下を向いたまま、そそくさと皇子の向かいに座った。

…ゆっくり落ちついて食べること。

この失敗は、ルキアが話さなくても皇女の耳に入ることだろう。そうなれば今夜も食事抜きになる可能性は高い。お昼はゆっくり、でもしっかりと食べよう。そう心に決めた。はずなのに食べ始めると止まらなかった。ただでさえ王宮の食事は美味しいのに、一日ぶりとあっては美味しさ倍増だった。

「おかわりはいかがでございますか」

繰り返されるホロピエッタの勧めをすべて受け入れ、それらもちゃんと食べきった。

「昨日とは大違いではないか。まるで別人のようだぞ」

どきっとして手が止まった。

…あ、でも昨日も今日も、あたしはあたし。別人じゃないんだから大丈夫。

出されたデザートも食べてしまうと、すかさずホロピエッタが追加を勧めた。

ルキアがすぐに頷くと、突然皇子がナプキンで口元を押さえて咳込み始めた。

食べ物を詰まらせたのだろうかとルキアが見ると、顔をしかめて、

「ホロピエッタ。勧め過ぎだ」

と叱りつけた。

「お前も、この世の終わりというわけでもあるまいし、そうがっつくな」

叱られて視線を落とすと、おかわりのデザートが目に入った。食べないほうがいいのかどうか、じっと眺めて考えを巡らせていると、皇子が再びナプキンで口元を覆った。

「少し席を外す」

そう言って隣室へと入って行った。

あまりに品のない食べっぷりで、機嫌を損ねてしまったに違いない。そう思うと、もう食べる気がしなかった。



「支度はできたか?」

皇子に問われ、頷いた。

午後は乗馬の訓練だと言われて、用意されていた乗馬服に着替えたが、ぴったりとした感じが初めてで落ちつかない。ロングブーツも背の低さが強調されるようで、しっくりこないし、昨日の筋肉痛が残っているせいで歩き方もぎこちない。


馬場に行くと、騎士のエマオが待っていた。剣術だけでなく乗馬も彼が教えてくれると知り、驚いた。


「皇女。お身体はいかがですか。全身の筋肉が痛いのでは?」

うん、と頷き笑顔を見せた。エマオのことは、昨日一日で好きになっていた。

「ひ弱な証拠だ。あの程度で筋肉痛とは」

「いいえ、皇子。皇女は頑張りました。女性にしては、なかなかの根性を見せたではありませんか」

皇子の皮肉も、エマオは笑顔でかわした。

一人だけでも認めてくれる人がいる。そう思うとホッとした。


馬はエマオが選んでくれ、基本的な姿勢の次に、こう教えてくれた。

「馬はとても利口な生き物なのです。乗り手のことは、すぐに判ります。愛情深い人か、そうでないのか。自分を莫迦にしているのか、大切に思っているのか。そういったこと、すべてが通じてしまうのです。誠意を持って接すれば、彼らは必ず応えてくれます。判りますね?」

こくりと頷いた。馬は純粋で繊細な生き物なんだ。だから些細なことに驚いて、暴れたりする。乱暴な乗り手に抵抗する馬は何度も目にしていたから、すぐに理解できた。

「では乗馬いたしましょう」

エマオの差し出された手を取る前に、ルキアは馬の首をポンポンと軽く撫でた。エルアン皇子が乗る前にそうしていたのを見ていて、真似してみたのだ。


背の低いルキアが、馬の背にまたがるのは大変だった。

エマオの差し出した手に片足を掛け、勢いをつけて跳ね上がるようにして乗らなければならない。

何度か失敗を重ねて、ようやく馬の背に乗ると、急に目の前の景色が広がって、思わず両手を広げて叫んでいた。

…うわぁ、高い! 気持ちいい!

もちろん声は出なかったが、口の動きで察したのか、エマオまでもが嬉しそうな笑みを浮かべた。

「気に入りましたか?」

…うん、すごく。風が心地いいね!

「それでは歩いてみましょう。馬に合図を送って下さい」


昨日の剣術と違い、乗馬の訓練は順調に進んだ。馬との相性も良かったのか、ルキアはすぐエマオの手助けなしに、歩かせたり立ち止まらせたり、少しなら走ることまでできるようになった。

「乗馬は、そこそこだな」

エルアン皇子がそう認めるくらいに上達が早いと褒められた。王宮へ来て初めて楽しいと思えた時間は、あっという間に過ぎた。


名残惜しげに馬を撫でていると、エルアン皇子が先に歩き出しながら言った。

「明日は街に出る。視察だ。この国の実体を確かめる」

…街に? フィアスへも行くの?

駆け寄ったルキアが見上げると、皇子がニヤリと笑った。

「馬で行く。お前もそうしろ」

…あたしも?

「皇子。皇女はまだ危険ではありませんか?」

「馬車にお前と二人、押し込められるのは堪らんからな。心配なら警護に手綱を持たせればいい」

立ち去る皇子の背を見ながら、ルキアは気分が高まるのを覚えた。


その夜の報告会は散々だった。

空腹事件で皇子の失笑を買ったことが、すでにノワール皇女の耳に入っていたばかりでなく、午後の乗馬でエルアン皇子に認められたと、嬉々として話したことが何故か気に障ったらしく、不機嫌に部屋へと追い返された。

それでもルキアは落ち込まなかった。

…明日、久し振りに皆と会える。

そのことが楽しみで仕方がなかったのだ。



翌朝、目覚めると大雨が降っていた。こんな天気で視察に行けるんだろうかというルキアの予想は当たり、視察は延期となった。

不安定な天気は、それから一ヶ月近くも続いた。その間、午前は勉強、午後は剣術や護身術、乗馬の練習などを屋内に設けられた鍛錬場や馬場で行った。

お陰でルキアの剣術も少しはマシになったが、乗馬のようにエルアン皇子が感心するまでには、ほど遠かった。

相変わらずエルアン皇子は毎日嫌味たっぷりな言葉でルキアを翻弄したし、ノワール皇女の不機嫌さも輪をかけたように酷くなるばかりだった。

もう限界。そう思いかけた頃になって、ようやく空が明るさを見せ始めた。



「ご案内致します」

ルーペと名乗った案内人は、王宮の広報担当のような仕事をしていると自己紹介した。


エルアン皇子は、月国の王族であることを示す濃紫のマントを纏い、ルキアは派手な羽根飾りと顔を覆うレースが付いた帽子を被らされていた。

この帽子に、ルキアは辟易していた。羽根が長過ぎて、少し動かすと変な方向へ頭ごと倒れてしまいそうになる。そのため自由に頭を動かせず、ただ前を向くことだけに全神経を注がなければならないのだった。

…ほんと不自由。だから身分の高い女性はツンとして見えるってわけね。


最初に案内されたのは、一番賑やかな大通りだった。ここは王宮へと繋がる街道だから、エルアン皇子にとっても別段珍しいことはない。そこから下っていき、王宮を背に左手へ曲がってしばらく行くとフィアスがあるのだ。


どよめくような歓声が湧き起こり、ルキアはちらと視線を下へ向けた。

理由はすぐに判った。エルアン皇子を見た街の女性たちが騒いでいるのだ。

…真実を知らないって怖いよね。見た目はまぁまぁかもしれないけど、性格がヒドイんだから。

やれやれと頭を振りかけて、ガクンと傾いてしまった。やっぱり羽根が重過ぎる。

慌てて神経を集中し直した。


「我が国が誇る港をご覧頂きましょう。御国はもちろんのこと、あらゆる国との取引が活発に行われている港町でございます。貴族らもエルアン皇子様にお目通り叶えばと願い、待ちかねているはずでございます」

一行はルキアの予想に反してフィアスとは別の方角へと向かって移動し始めた。見て回る順番があるのだろうと思ったが、港町へ到着した頃にはとうに昼を過ぎていた。

…これでフィアスまで回りきれるのかな。

ルキアの不安は的中した。エルアン皇子を出迎えた貴族は豪邸に一行を招くことを提案し、エルアン皇子はこれを承諾した。

…行かないの? フィアス。あたしが育った街を見てくれないと、本当にこの国を視察したことにはならないんじゃない?

そう言いたかった。

貴族たちは、自分たちの国がいかに豊かで満たされているかを自慢げに語り、エルアン皇子は陽国の充実ぶりに感心したと述べた。


ルキアは、隙をみては何度もエルアン皇子の袖を掴み、意思を伝えようとしても無視され、王宮へ戻ったのは夜中を過ぎてからだった。



「わたくしの命令を破るなんて。どういうつもりなの?」

ようやく重い帽子から解放されたと思ったのも束の間、寝ないで待っていたノワール皇女の小言が大嵐のようにルキアを襲った。


「お夕食の前、陽が暮れるまでには皇子の傍を離れるように命じたはずよ。それなのに今夜はなに?

視察だからって言い訳にはならないわ。あなただけ先に戻ればいいだけのことじゃないの。なぜ、それができないの?」

『戻ろうとしました。でも出来なかったんです』

「嘘つかないで。あなたは一度も帰ろうなんて意思表示しなかったわ。確かにあなたは何度か皇子の気を引こうとした。触れてはならないという言いつけを破って、皇子の袖に触れたわね!」


ルキアは黙り込んだ。まるで見ていたかのような言いかたが不思議で妙だった。だが。

『皇女さま。問題はそこじゃありません』

あの帽子のせいで肩が凝り、頭がガンガンと痛む。それでもルキアは、今日だけは言いたいことを伝えようと、真剣にノワール皇女の目を見つめた。

『エルアン皇子は視察の目的が、国の実体を確かめることだと言いました』

「おっしゃいました」

指摘されて言い直した。

『皇子は、そうおっしゃいました。でもルーペが案内したのは、交易が盛んな港や裕福な貴族の催すパーティーばかりでした』

「何が言いたいの?」

『なぜフィアスをお見せにならないのですか? そこを見せなければ陽国の真実の姿を知ったことにはならないのに』

「他国の皇子に我が国の恥部を見せて何になると言うの?」


…恥部? あたしたちの存在が恥ずかしいから隠すというの?


人形は反応しなかった。


…あたしたちだって好きで貧乏なわけじゃないわ。大人たちは仕事をしたくても仕事がない。子どもは学問をしていないから字も読めない子が多くて、生きて行くのに苦労しているのよ。あたしはここへ来て判ったの。勉強は大切だわ。せめて字を読むことができれば、子どもたちだって未来に希望が持てる。お願い。フィアスの人たちが学問をできる場所を作って。それができるのは王宮だわ。


人形は黙したまま、ノワール皇女は面倒そうな目つきでルキアを見ていた。


…何で話さないのよ。役立たず!

とうとうルキアはその陶器人形を掴んで叩き割ってやろうとした。その瞬間、人形がグニャリとした感触に変わった。

不気味な感触に手を離すと、人形はぽとりと床に落ち、それから陶器に戻った。

「魔道具を壊そうとするなんて!」

ノワール皇女は慌てて拾い上げると激高し、罰として食事抜きを命じた。そんなことはもう何回もあって慣れっこだったが、魔道人形の件は精神的な衝撃が大きかった。

あまりに不気味で怖かった。



…やっぱりあたし、監視されてるみたい。

皇女は、ルキアの行動をすべて把握しているようなのだ。それは昨日に限ったことではない。ちょっと報告を省くと皇女はそれを指摘し、言い直しをさせられることもしばしばだった。

魔道師が何らかの術を使っているのは明らかで、それも怖くてたまらなかった。


「皇女!」

エマオの声にはっとした。強い力で剣を叩き落とされると、衝撃で手がジンジンと痺れた。

「気持ちが入っていませんね。こんなことでは、いざという時に身を護れませんよ」

…あたしにいざって時なんてない。それに、いざって時は兵士たちが王族を護るんでしょう?

いつもなら素直に聞けるエマオの言葉に、初めて反抗の目を向けた。

「どうなさったのです? 何か不安なことでもありましたか?」

エマオは鋭い。それでも今のルキアはノワール皇女なのだ。その皇女に怯えているなどとは、口が利けても言えるはずない。

…もうイヤだ。こんなとこ。

今もどこかで監視の目が睨んでいるに違いない。そう思うと逃げ出したかった。

「あ、どこへ行かれるのですか。皇女!」

屋内に設けられた鍛錬場は天井が高く、走るルキアの足音が騒々しく響いた。

監視者に音が届くのなら、今頃はうるさくて耳を塞いでいることだろう。いい気味。

そう思いながら鍛錬場を走り出て、バルコニーへ向かった。

勝手に外へ出ることができないことは、とうに知っていた。王宮は警備が厳重なのだ。


バルコニーへの扉を開くと、強風で全身を煽られた。それでも構わず手すりに向かい、乗り出して下を覗き込んだ。

高い。ここから飛び降りて抜け出すことは不可能だ。

バルコニーと繋がる塀を目で追った。数メートル置きに兵士が立ち、警戒しているのが見えた。

やはり無理なのだ。ここから逃げ出すことは。チャンスがあるとすれば、エルアン皇子とともに王宮を出たときしかない。

チャンスは意外にも翌日、訪れた。



「湖へ行く。馬で思い切り駆けたくなった」

朝からエルアン皇子は、そう言い出した。

「午後にいたしましょう。午前はお勉強と決まっております」

「そう難しい顔をするな。久し振りに気持ちの良い朝だ。午後にはまた雨雲が広がる」

「皇子にお天気が読めましたか?」

「お前が読み方を教えたのだぞ、ホロピエッタ。外れたら、お前の教師としての能力が問われることになる」

ホロピエッタはおろおろした。

「だがまあ、午後は講義を聞いてやってもよい。午前と午後を入れ替えるだけだ。それなら構わんだろう?」

「ええ、それでしたら構いません」

時に気弱なところを見せる魔道執事は、こうして虐げられながらも、深い忠誠をエルアン皇子に捧げている。理由は皇子の言動にあることを、この一ヶ月ほどでルキアは感じ取っていた。


傲慢で嫌味なエルアン皇子は、他者に対して絶対に妥協しない。常に高圧的で支配欲が強いのだ。だがホロピエッタとエマオの二人には、時おりこうして譲ってみせたりする。そこに二人がほろりと心を掴まれてしまっているのだと理解していた。


「お前はついて来るのか、来ないのか」

エルアン皇子に問われ、慌ててルキアは後を追った。まさかこんなに早く王宮を抜け出すチャンスが訪れるなんて、思ってもいなかった。嬉しさと緊張が身を包んだ。


エマオは皇子とルキアが乗馬服を身に付けていないことに苦言を呈したが、それでも止めはしなかった。湖まではすぐそこで、エマオと三人で馬にまたがると護衛を二人伴って走り出した。

室内の馬場で訓練を重ねていたお陰で、三度目の屋外でもフロウは言うことを聞いてくれて問題はなかった。ルキアは馬にフロウと名付けて勝手に心の中で呼んでいた。

…フロウ。良い子ね。外は気持ちがいいでしょ?


湖が見えてくると、エルアン皇子は全員を置いて馬を全力疾走させた。

「皇子! 足元にはお気を付けて!」

エマオが声を掛けると、皇子は軽く手を挙げて遠ざかって行く。それを二人の護衛が離れまいと、必死で追っている姿が面白かった。

「皇女も走りますか?」

うん、と同意すると、エマオが先導するように走り出した。ルキアが順調についてくるのを確認し、前を行く皇子の姿も目で追っている。その姿が見えなくなる前に追いつきたがっているのは判っていた。

何度目かにエマオが振り返り、ルキアが笑顔で手を振って見せると、前を向いて皇子を目で追い始めた。


…今だ。フロウ、行って!

合図を送ると、指示通りフロウは左手の森を目指して進路を変更した。


「皇女!」

エマオの声がしたときには、すでにルキアは森の中へと駆けこんでいて、後ろのエマオの姿はすぐに見えなくなった。つまりはエマオのほうも、ルキアを見失ったということだ。


…やった。

達成感がこみ上げた。不安はまったくない。何しろずっと生活していた場所へ向かうだけなのだ。不安など、あろうはずがなかった。

速足で懐かしい場所へ向かうと、懐かしい街へ足を踏み入れた。


声は出ない。でもトーイたちなら理解してくれるはず。ずっと会いたくて仕方がなかったこと、皆のことを忘れたことはないこと、いつも心配していることなど、伝えたいことがたくさんある。

少しだけ不安があるとしたら、王宮から与えられているはずの金で、引っ越しをしているかもしれないということだった。でも近所の誰かに訊けば、居場所などすぐに判るだろう。


「おい!」

街に戻るとすぐに、男の一人がルキアに気付いて周囲に声を掛けた。

…トーイたち、どこにいるか知ってる?

ルキアが馬を降りると、フロウは男たちの手でどこかへ連れて行かれた。

…とっくに引っ越した? それともまだ、ここにいるの?

最初に声を掛けた男が、目の前に立った。見たことのある男だったが、相手はルキアに気が付かないようで、ドレスばかりをじろじろと見ている。

…ああ、これはちょっと訳があって――。

背後から女の手が髪飾りを奪い取った。

それが合図となったように、次々と周囲から手が伸びてきて、全てをむしり取っていく。あっという間の出来事だった。

…ちょ、ちょっと何をするの?

焦ったルキアが後ずさると、横から足が出て引っ掛けられて転んだ。最後に残っていた高級な下着も奪い去られ、ルキアは唖然とした。と同時に理解した。


ルキアは、もはやここでは異なる者の部類に入っていたのだ。


貴族の娘。自分の身なりがそう映ることに、なぜ気が付かなかったのだろうと激しく後悔した。

その後悔は、裸のルキアを見る男たちの目によって、即座に苦痛と恐怖へ取って変わった。

この男たちの目の色は知っている。男が、女を襲う時の目だ。

逃げ出そうとしたが、立ち上がれなかった。全裸だという羞恥心が動きを阻んだし、例え立ち上がることができたとしても、周囲はすでに色めきたった男たちに囲まれてしまっている。と、その中に見知った顔を見つけた。

…トーイ!

自分を見知らぬ少女のように見つめる少年に、ルキアは必死で手を伸ばして訴えた。

…トーイ! あたしよ、ルキア! 忘れてないよね? お願い、助けて。トーイ!

だがトーイは表情一つ変えることなく、この様子を眺めていた。

…トーイ。あたしのこと判らないの?

正面の男がルキアを突き倒した。

…トーイ!

必死で抵抗したが、声はまったく出ない。悲鳴も上げられない少女の代わりに、周囲の男たちが歓声らしきものをあげ盛り上がった。


…そういえばここは、こういうところだった。いつだって危険に満ち溢れている場所。


自分のうかつさに口唇を噛み締めた。僅かな王宮での暮らしが、今の状況を作り出したのだ。涙は出なかった。あのまま騎士マンスールに出会わなければ、いずれは落ちていた道だったのかもしれないのだから。

そう思ったとき、誰かが声を上げた。

「馬が来る! この女を隠せ!」

ルキアは男たちの手で一番近くの家に引きずり込まれた。四段ほど下がったところが床になっているその家は、目の高さに地面が見える。そこを馬足が通り過ぎて行った。

二頭、そして三頭と過ぎて行き、四頭目が通り過ぎた。エマオ達だとしたら、これで最後。気付いて貰える望みなど、あるはずもなかった。


「行ったか?」

「行った」

男たちは頷き合うと、改めてルキアを見た。

…もう駄目だ。

そのとき窓の外に馬の足が戻って来た。誰かが引き返して来たのだ。

…エマオ!?

その人物は馬から降りると、ルキアのいる家のドアを蹴り上げた。粗悪な造りのドアは派手な音を立てて壊れ、中にいた男の顔面を直撃した。


現れたのはエルアン皇子だった。


「ぶざまだぞ!」

ルキアに一喝すると、羽織っていたマントを放り投げてよこした。それを横取りしようとした男の手が、血飛沫とともに飛んだ。

「我がものに手を触れることはならぬ。少しでも動きを見せた者は、その意ありとみて斬る」

エルアン皇子の剣が血に濡れているのを見て、男たちが動きをぴたりと止めた。それを満足げに見やると、ルキアに命じた。

「出ろ」

急いでマントを身体に巻きつけ、通りへ出て振り返ると、トーイと目が合った。


見知らぬ女を見るような目つきが、すごく哀しくて寂しい。あたしたちは、もう家族じゃなくなったの? あたしが黙って家を出た、あの日に。


エルアン皇子は荷物を抱えるようにルキアを馬に乗せると、すぐに自分も乗馬し勢いよくフィアスを駆け抜けた。

怒っているのは、全身の気配で感じられた。いつものように言葉がないぶん、余計に強い怒りが感じられる。

何をそんなに怒っているのか、理解できない。お前になど興味はないと言っていたのだ。そんな女がぶざまな格好をさらけだしたって、エルアン皇子には何の不都合もないはずではないか。

それゆえ、なぜエルアン皇子がルキアの居場所を察知できたのだろうという疑問を持つことなどできなかった。この騒動の原因となった貴族の身なりが、ルキアの全身に皇女の香りを纏わせていたからこそ、エルアン皇子は気付くことができたのだとは、気付く余地すらなかった。

ルキアにはエルアン皇子の怒りなど、重要ではなかったのだ。あの場所で、あのトーイの目と相変わらずの姿を見て、知ったから。

王宮は、約束を守ってくれてなどいなかったのだ。トーイの暮らしぶりは何も変わってなかった。それなら――


…あたしが王宮にいる意味なんて、どこにあるんだろう。



騒動を起こしたルキアに対し、ノワール皇女は卒倒しそうなほどの怒りを見せた。

「フィアスの存在を他国の皇子に明らかにしてしまうなんて、我が国の恥をさらしたも同然よ!

つまり、わたくしが屈辱を受けたということ。そのうえ男たちの目に裸体をさらすなんて、どういうこと?

おまけにエルアン皇子にまで見られて、同じ馬に乗って帰ってくるなんて! あなたは貧民なのよ!」

『皇女さまのヒステリーにはうんざり』

人形がまた勝手なことを言い出した。

「なんですって?」

『そんなにエルアン皇子のことが気になるなら、自分で傍にいればいいじゃない』

「本当に判っていないわね。いい?

わたくしはそんなに軽々しい存在ではないの。陽国の次期王なのよ。簡単に皇子たちの欲望にさらされていいような貧民とは違うの」

『それなら貧民なんて使わずに、魔道師の力で皇子の心を操ればいいじゃない。そのほうが簡単だし、確実だわ』

「愚かな娘」

ノワール皇女が蔑んだ目を向けた。

「魔道師に操らせた心なんて、魔道師が簡単に癒せるのよ。しょせん、魔道師同士の対決になるだけ。それでは意味がないではないの。操られたものではなく、皇子が本心からわたくしを求めるよう仕向けないと、本物の痛みなんて与えられないわ」

だから、このような手間をかけているのだ。


ルキアは怒りを覚え、心の中を無にした。それなのに、人形は勝手に続けた。

『風国王とのほうが、利害が一致する』

「やはり貧民ね。陽月国の人間が、その他国の民と交わることはできないわ。陽月国は聖雅せいが、その他国は俚根ひなびね。わたくしたち聖雅は神から繋がる血筋。神と人とは交わらないというのが掟よ。これは、あなた方貧民も同じ。交わりを赦されるのは聖雅同士のみ。俚根である風国王なんて、もってのほかなの!」


ずっと知りたかった血脈の謎が、これ。今、このタイミングで皇女の口から語られるなんて。


「罰を与えるわ。全裸で一晩、バルコニーに出て過ごしなさい。今の生活が誰のおかげなのか、本来は貧民であるあなたを拾ってあげたわたくしへの感謝を、じっくりと思い出すことね。サライ。この娘の服を取り上げて」


もう、たくさん。ルキアはサライが触れる前に、自分で服を脱ぎ捨てた。


「ずいぶんと裸体がお気に召したようね。外は寒いわよ。風邪をひかないようになさいね」

バルコニーに一歩足を踏み出すと、凍えるような強い風に身をすくめた。直後、バタンとドアが閉じられ、鍵のかかる音がした。


もう王宮になど留まりたくなかった。トーイたちが約束を守ってもらえていないなら、ここに留まる理由などない。裸だって構わない。どうせフィアスに戻れば、まともな服は着られないし、王宮で与えられる服など目立つだけで、何の得にもなりはしないのだから。鍵を掛けられて部屋には戻れないなら、バルコニーから抜け出すしかない。


ルキアは手すりから身を乗り出し、目の前にある大樹に飛び移る決意を固めた。手すりによじ登り、呼吸を一つだけして冷たい空気を肺の中に取り込む。――思い切り飛んだ。

失敗するかと思ったが、思いのほか上手くいき、手は見事に枝を掴んだ。剣術の鍛錬で、少しは筋肉がついたのかもしれない。

あとは枝伝いに降りればいいだけだった。以前も別棟のバルコニーで同じことを企んだが、樹がなかった。今回は運がいい。そう思ったとき、背後に足音が近づいてきた。

「振り返らないで」

…騎士マンスール!?

ふわりと背後からマントで包み込まれた。

「やんちゃもほどほどにしないと。こんなに身体が冷えて。ホットミルクでも飲んで温まりなさい」

ルキアは観念し、マンスールに従った。


結局、上手くいかないようにできてるんだ。


マンスールは騎士たちが住まいとしている宿舎につれていくと、自分の部屋へと招き入れ、約束通り温かいミルクを出してくれた。

「噂は聞いたよ。フィアスへ行ったらしいね」

ルキアは頷きもせず、ミルクを飲んだ。じんわりと身体の芯が温かくなった。

「会ったのかな? あの少年たちに?」

答えたくなくて何も反応せずにいると、マンスールも根気よくルキアの返答を待った。

長い沈黙ののち、ようやくルキアが頷くとマンスールは意外なことを話し始めた。

「やはり。心配していたのだよ。君がトーイに会えば、誤解を招くのではないかと」

…誤解?

ルキアの視線に、マンスールが頷いた。

「トーイは相変わらずあの場所にいるからね。王宮は約束通り金品を提供しているのに、だ。彼は受け取るすべてを、周囲の人たちのために使ってしまう。だが彼に与えられる金品はフィアスすべての人間を救うには程遠い。焼け石に水なのだよ。それなのにトーイはやめようとしない。周りにいる、自分よりさらに困った人たちに、すべて与えてしまうんだ」


ルキアは目を瞑った。

…そういうところ、トーイらしい。


「正直なところ、王宮側の人間としては理解に苦しむ。トーイと幼い少年たち三人なら充分な暮らしができるというのに、それをしないとは。だが少なくとも幼い少年たちは今、餓えて死ぬことはない。トーイもそこは考えているのだろうね」


マンスールは思いやりを持って話してくれているが、同時にしたたかでもあった。このような話を聞いてしまっては、王宮から逃げ出す理由がなくなってしまう。ルキアがここにいる理由が、明確に突き付けられたのだ。

トーイはフィアスに身を置いて、自分にできる限りのことをしている。

ルキアは、自分が王宮でフィアスのためにできることがないのかと、考えずにはいられなかった。



事件の翌朝、ルキアは緊張しながらエルアン皇子の元を訪れた。

貧民街の存在を隠していたことを理由に、花嫁テストを打ち切って月国へ帰ると言い出しているところかもしれない。そう思いながら部屋へ入ると、驚いたことにエルアン皇子はいつもの朝と変わりない姿で寛ぎながら、紅茶を堪能していた。


…なんだか拍子抜けしちゃう。


フィアスのことなど、まったく意に介していない様子が窺える。咎めない代わりに、貧しい人々を助けるよう陽国王に進言する気もなさそうだった。


…国を治めるとか、臣下を束ねるとか、毎日そんなお勉強をしてても、結局、金持ちは貧乏人のことなんてどうでもいいってことなのね。


自分が皇女だったら、どういうふうにするだろう。皆に仕事があって、家があって、家族がバラバラにならなくて済んで、お腹いっぱい食べられるようになったら。


…そしたらあたし、こんなところへ来なくても済んだのに。今でもトーイや皆と一緒に暮らしてた。また皆と暮らしたいな。


昨日のことは確かに不快だった。でも恨む気にもなれず、悶々とした思いだけが色濃く残っている。

窓辺に腰掛けて外を眺めていると、自分が鳥かごに閉じ込められた小鳥にでもなったような気分になった。外へ出て、自由に羽ばたくことができたら、どんなにいいだろう。


…あたしが本物の皇女だったら――。



午後は湖の“視察”だった。

船に乗り、皇子たちが次々と魚を釣り上げる中、与えられた自分用の釣竿がピクリとも動かないのを見てから、昨日行ったばかりのフィアスの方向をぼんやりと眺めて過ごした。

「おい」

呼び掛けられたと思い振り返ると、エルアン皇子はエマオに手を差し出していた。

「ナイフを寄こせ。切れ味を確かめてやろう」

大物が釣れて上機嫌の皇子が、釣ったばかりの魚を手早く切り始めた。手つきがあまりに鮮やかで、ルキアが吸い寄せられるように見ていると、あっという間にさばき終えた。

「月国ではこうして食すこともある。食べてみろ」

陽国では魚を生で食べたりしない。首を横に振ると、意地悪くもエルアン皇子は嫌がるルキアの顔を押さえ、無理やり口の中へ放り込んだ。

…う~、んん? あれ、美味しいかも!

目を丸くしたルキアに満足したのか、皇子は自らも刺し身を口へ運んだ。

「美味いな。エマオ、どうだ?」

「はい、やはり新鮮な刺し身は最高です」

「そうだろう」

エルアン皇子が再びルキアに差し出すと、今度は素直に口を開けた。

「まるで燕の子だな。さしずめ俺が親鳥というところか」

ルキアが口を閉じると、開けろと命じた。


王宮へ帰り着くと、いつもと様子が違っていた。人が多い。大きな荷を中へいれる人もいれば、運び出している人もいる。

彼らは商人だった。よくこのような商人たちが王宮へ向かう途中で、ルキアが手伝いをしていた宿に泊まったりしていたものだ。

「これはエマオ様。月国をお留守にされていると噂では耳にしましたが、本当でしたか」

ひときわ高級そうな荷を乗せた馬車を御している男が、親しげな調子で、陽に焼けた顔に白い歯を覗かせながら笑いかけた。

「お隣にいらっしゃるのは、もしやエルアン皇子様?」

「そうです。失礼のないように……」

エマオが言い終える前に、商人はすでに御者台から飛び降り、身に付けていた袋から大切そうに何かを取り出し始めていた。

「皇子様。私は交易商のファブリと申します。実は大変に珍しいものが手に入りましてございます。深海に眠るという幻の宝石が付いた、この首飾り。数十年に一度、陸へ打ち上げられるかどうかという代物で、この輝きといったらもうこの世のものとは思えないほどの美しさ。お姫様にもきっとお似合いでございましょう」

エルアン皇子は無表情のまま、手渡されたネックレスをルキアの胸元へと当てた。

「似合わんこともないな」

ルキアが驚いて見上げると、

「貰っておいてやろう」

そう言ってルキアの手に置いた。

「ありがとうございます」

…え、まさか、タダで?

見ていると、エマオがあとで代金を取りに来るよう告げていて、ほっとした。

「気に入らんのか?」

本当に貰ってもいいのかどうか考えあぐねていると、皇子が眉根を寄せた。

「まさか自分で付けた事がないというのか」

確かに、ない。

「エマオ。付けてやれ」

はい、とエマオが指示に従った。

ルキアの胸元で輝く深海色の石は、あまりに素敵で綺麗過ぎて――、怖かった。


案の定、ノワール皇女は目をつり上げて怒り、引きちぎろうと力いっぱい引っ張った。

だがいったい何でできているのか、切れるどころかルキアの首に食い込み、そのまま床に引き倒されるはめになった。

「勘違いしないことね。それはエルアン皇子が、わたくしのために贈ったものなのよ。あなたのではないの」

そう言い、サライに命じて取り上げた。


翌日、ルキアの胸元にネックレスがないのを見たエルアン皇子は不機嫌な表情を見せ、その夜のノワール皇女はご機嫌だった。



3襲撃


報告を重ねるうち、ルキアはノワール皇女が自分に嫉妬していることに気が付き始めた。

あなたはわたくしの影武者でしかない。あなたの受ける侮辱は、わたくしに対する侮辱。

よくそう言っているのに、エルアン皇子がルキアに冷たい態度を取った夜には、皇女は機嫌が良かったし、逆にネックレスを贈ってくれたときのように優しさを見せたときは、あらゆる難クセを付け、罰を与えた。かといって皇女自らが皇子と直接話すことは、プライドとやらが邪魔をしているようで、ルキアが役目を外されることはなさそうだった。

いったい、いつまで花嫁テストは続けられるのだろう。そろそろエルアン皇子も結論を出してもよさそうな時期なのに。

そう思いながら、今朝も皇子の部屋をノックした。


「午後は狩りに行く」

最近では頭から離れることのないフィアスのことをまた考えていたルキアは、そう命じられて重い腰を上げた。

「大物を狙うぞ。装備はいつもよりしっかりと準備しておけ。いいな」

狩りが大好きだという皇子は、ルキアが脱走事件を起こして以来、一度も行っていなかった。自分のせいだと思っていただけに、今日ばかりは突然の命令にも反抗する気にはなれず、むしろ安堵の思いで素直に頷いた。


いつもの護衛二人に狩猟犬を加えた一行が狩り場へ到着すると、早速一匹の猪らしき動物が見えた。距離は少し遠い。

狩猟犬が走り出すと、皇子たちが続き、少し遅れてルキアも走り出した。

森の入口少し手前に来たところで、突然護衛の一人が落馬した。珍しい。

「皇子!」

いつになく緊張したエマオの声。反射的に顔を上げたルキアの目の前を、ヒュンっと音を立てた何かが通過していった。

…なに?

目で追うと、矢が見て取れた。

「襲撃です!」

武器を手にした黒い人影がバラバラと姿を表し、あっという間に取り囲まれた。

「皇子、ここはわたくしが。皇女を連れてお逃げください」

緊張を帯びながらも落ちついた様子で、エマオが立ちはだかる。途端に数人がエルアン皇子に襲いかかった。

…皇子!

すでに剣を手にしていたエルアン皇子は、馬を巧みに操ると襲撃者を次々と斬り捨てていった。倒れ込んだ幾人かの切られた衣服の隙間から、共通して彫り込まれたマークのようなものがチラリと見える。


蛇が何かを飲み込んでいる。何を……?


「おい!」

エルアン皇子の声が自分に向けられたものだと感じ、はっとして顔を上げた。

離れた場所にいる新たな襲撃者たちが一斉に矢をつがえ、それらはすべてルキアに向いていた。

「逃げろ!」

身動きできなかった。少しでも動いたら、一斉に矢が放たれる気がした。

「何をぼんやりしている。行け!」

皇子が乱暴にルキアの馬を蹴ると、驚いた馬が全速力で走り出した。

振り落とされそうになったルキアを、並走した皇子が掴んで元の位置に戻してくれた。剣を構えた男が二人と矢をつがえた男が一人、正面に待ち構えている。

…このまま突っ込んでもいいの!?

皇子に蹴られた馬は興奮していて、ルキアの手に余る。コントロールできない。

「できるだけ低く伏せろ」

それだけ言うと、皇子はルキアより少し前に出て、男たちを斬り捨てんと構えを見せた。

襲撃者たちに突っ込んでいく瞬間、ルキアは鞍にしがみついた。

耳にいくつか剣戟の音が響く。ちらと目を開くと、真横スレスレを男が後ろへ遠ざかる姿が映り、手にした剣に血らしき色がついているのが見て取れた。


…皇子が斬られた!?


顔を上げると、背後を確認していた皇子と目が合った。闘いで興奮しているのか、いつものクールさとは違う激しさが宿っている。その腕が赤く染まっているのを見た瞬間、さらなる緊張で息が詰まった。

「このまま走れ」

追手はすぐにかかった。二人の行く先にはフィアスしかない。

街の入口に差し掛かり、皇子が短く命じた。

「馬を降りろ」

言われた通りにすると、皇子は馬の尻を強く叩き、目立つ通りに向かって走らせた。

追手の姿が目に入る。物陰を探して角を曲がった。夜の仕事が多いこの街は、昼間はほとんどの人間が家で寝ている。静かな時間帯に動く二人の姿は目立ち過ぎている。

家と家の境目に、造りが粗雑で、人ひとりが身を隠せる程度の段差が生じている場所があった。

皇子が、崩れかけた壁の窪みにルキアごと身を押し付けた。直後、表の通りを追手の馬が通り過ぎていく音が聞こえた。

「本物の狩りが楽しめるとはな」

ちらと見上げた皇子の表情は、生き生きとしている。だが背の高い皇子の胸に押し当てられたルキアの耳に届くその鼓動は速かった。

…本当は、皇子も緊張してるんだわ。

初めてエルアン皇子の人間的な部分を見たようで、不思議な気分になった。

「馬に俺たちが乗っていないことなど、すぐに判る。じきに戻って来るだろう」

皇子が身を離したその時になって、ルキアは自分の頭と壁との間に、皇子の手が差し込まれていたことに気が付いた。

…頭を保護してくれてた?

まさか、そんなはずない、偶然だと否定したとき、興奮したような犬の吠え声とともに、数匹の痩せた犬が走り寄ってきた。

「血の匂いを嗅ぎつけたか」

来た道を戻る二人のあとを、野良犬たちがうるさく吠えたてながらついて来る。これでは周囲の注意を引いてしまう。

そう心配したとき、皇子が強く背を押した。

「この道を走って抜けろ」

指示された脇道に小走りで入り込むと、犬たちがルキア目がけて走り出した。

入口で立ち塞がった皇子は、その犬たちを斬り捨てた。だがこの町にいる餓えた犬は数限りない。

「川がありそうなほうへ行け。犬どもをまく」


ルキアは素早く記憶を辿った。

幼い頃に遊んだ滝の裏側に、洞穴があるはずだ。そこなら犬は寄って来られないはず。

皇子の腕を引っ張って合図をすると、全速力で駆け、水深が腰まである箇所を渡り、犬たちが岸辺で立ち止まって吠えるのを後ろに見ながら、目的の滝裏へ入り込んだ。


洞穴は思っていたよりずっと狭かった。だが、皇子は珍しく文句を言わなかった。

「まぁ良いだろう。ここで迎えを待つ」

怪訝そうに見たルキアに向かって、面倒そうに説明を加えた。

「ホロピエッタが魔道を使って俺を追跡し、エマオとともに現れる」

洞穴で唯一の岩に腰を下ろした皇子の濡れた袖口から、赤く染まった水滴がポタポタと落ちて地面を濡らした。

…血、止めないと。

ハンカチを取り出すと、皇子の傷口に押し当てた。みるみるうちに赤く染まる。意外と傷が深いのかもしれない。

矢筒をぶら下げるために付けていた革のベルトを外すと、皇子の肩口付近に巻きつけた。強く締めつけた瞬間、皇子が顔を背けた。

…あ、痛い?

苦痛に歪むのを見られたくないのか、しばらくの間、皇子は手で目元を覆い、顔を伏せたままでいた。

…大丈夫、かな。

しばらくして落ちついたのか顔を上げると、傷が圧迫されている様子を、おとなしく眺めていた。やがて。

「お前、なぜこの場所を知っていた?」

皇子の言葉に全身が硬直した。

「前から知っていたのであろう? このタイミングで都合良く滝の裏側に洞穴があるなど、よほどの幸運に恵まれなければ判らぬものだからな」


確かにそうだ。途中で迷うフリの一つもすればよかったのに、バカ正直にまっすぐここへ来てしまった。襲撃されたことに頭がいっぱいで、そこまでは考えが回らなかった。


「ノワールがこの状況を知れば、さぞかし怒り狂うことだろうな。これまで通りでは済まぬかもしれんぞ?」


ルキアに腕を預けたまま静かに、でも可笑しそうに言った最後の部分がようやく理解できたところで、ルキアは硬直した顔がさらに青ざめるのを感じた。

これまで通り――。つまり、今までずっとノワール皇女に虐げられてきた生活を知っているということ。


「まさか、俺が気付いていないと思っていたとは言うまいな。そうだとしたらお前は相当な傲慢か、ただの鈍いうすのろだぞ」

なぜか一呼吸、間が空く。

「ルキア」

楽し気な皇子の呼び掛けに、全身の機能が止まった。

ノワール皇女でないことばかりか、名前まで調べ上げていたなんて。きっとフィアス出身であることも、なぜこのようなことをしているのかも、何もかもすべて知っているに違いない。

…今度こそ、本当に終わり――。

皇女は今もどこかで覗き見ているはず。今度こそ本当に、処刑宣告が下ってしまう。

どうやったら捕まらずにここから逃げることができるだろう。目の前には嗜虐な皇子、外へ出れば餓えた犬と暗殺者による必死の捜索が待ち受けている。

どう考えてみても、結末にあるのは逃れようもない恐怖と絶望だった。


「どうした。寒いか」


緊張と恐れで震えが止まらない。嘲笑気味に言葉を投げかけられても、顔を上げることすらできずに、目の前の赤く染まったハンカチだけを見ていた。


「さっきの襲撃には、二つの勢力があった」

ふいに話題が逸れ、意図も判らないまま耳を傾けた。そうすることで、たった今知ったばかりの衝撃的な真実が、なかったことになるとでもいうように。

「一つは、俺を暗殺しようとした風国の刺客。俺に斬られた奴に、独特の刺青があったことが証だ。もう一つは、お前を狙った者たち。この計画を先に企てたのは、お前を狙ったほうだ。それに乗じて風国が動き、俺も狙われた」

先に狙われたのはルキア、いや、ノワール皇女。いったい、誰が……。

「面白いことをするものよな。自分で送り込んでおきながら」

含みのある、王子の言葉。

…まさか、ノワール皇女が?

皇女が自分の影武者を殺そうとするとは、考えてもいなかった。こんなにも我慢を重ねてきた上に、殺されるほど憎まれているなんて。


…違う。嫉妬なんだ。


自分はプライドとやらが邪魔をしてエルアン皇子と向き合えないのに、影武者のルキアはいつも傍にいる。そのことに対して徐々に嫉妬を募らせていた。特に最近は。

皇女は、常に皇子の傍に居るルキアを殺したいほど、エルアン皇子のことが好きなのだ。だから、ルキアを排除しようとした。自分で皇子と向き合えば済むことなのに。いったいこの無茶苦茶な理屈は何なのだろう。

次第に、どうにもならない苛立ちと、怒りがこみ上げ始める。


「間諜は、どこへでも入り込む。陽国に拒否されている風国も同様だ」


そう。エルアン皇子も同じ。だから、最初からすべてを見抜いていた。ノワール皇女じゃないと知りながら、黙って花嫁テストを続けた。心の中で嘲笑いながら。

でも……。ふと疑問が湧く。

なぜ、知らぬフリをし続けたのだろう。


「ノワールは俺をひざまずかせようと、暗殺未遂計画を思いついた。自分が怪我でも負えば、俺が心を痛めるとでも思ったのだろうが、あまりに短絡的すぎた」


暗殺ではなく、未遂。そういうこと……。

実際に怪我を負うのは皇女ではなくルキア。皇女自身は怪我をしたフリをしてベッドに潜り込み、心配した皇子の見舞いでも期待していたに違いない。

たったそれだけのために――。皇子に自分の心配をさせるだけのために、ルキアを襲撃させたのだ。何てことだろう。だが、ノワール皇女ならやりかねない。影武者の命など、何とも思っていないのだ。なにしろルキアは、命の楯に過ぎないのだから。



「未遂のはずの計画で、実際に俺が命を落とし、しかも原因がノワールとなれば、風国は陽国の弱みを握ることになる。風国王リラクは領土拡大の野心が強い男だ。嬉々としてノワールを妻にと脅しにかかるだろう。そしてお前は、またもや身代わりとしてリラクに差し出され、利用されることになる」

皇子の言葉に唾を飲み込んだ。

風国は何としてでも陽国を手に入れたいと、虎視眈々と機会を伺い、利用した。

エルアン皇子は、あの襲撃だけで、見事なまでに風国の野望とノワール皇女の計略を見抜いた。

ルキアの考えなど及びもしないところで策略が張り巡らされ、事態が一気に動いたのだ。

何も気付けなかったルキアに、反論の言葉は浮かばなかった。

きっとエルアン皇子の言う通りになる。今と同じように。なすすべもなく、言いなりになるしかないのだろう。拒否すれば、トーイたちに対する援助は打ち切られる。援助の打ち切りは、自分を犠牲にしてでも周囲を助けているトーイの行為を支えてあげたいという、微かな望みを自ら断ち切ることになるのだ。こんなの、あまりに惨めで無力すぎる。

情けなくて悔しくて、ルキアは下唇を噛み締めた。


そんなルキアを愛でるように、皇子が言葉を繋げた。

「国を乗っ取られ、好きでもない男に虐げられ続ける日々は、さぞかし辛いであろうな」

男たちに酷い目に遭った少女たちを幾人も見てきた。そんな世界が王宮にもあって、自分が放り込まれることになるなんて……。

もう、やめたかった。本当は最初から、こんなことをすべきではなかったのかもしれない。でも、トーイたちのことは助けたいと、今でも思う。例え今、時を遡って騎士マンスールに声を掛けられた瞬間に戻ったとしたら――?

やはり同じ選択をするに違いない。そう確信できる。つまり――。

これ以外の選択肢はない、ということ。貧民である無力な自分には、現在を把握することも、未来を動かす力も何も、持ち合わせていないのだ。最初から何も持たない者には、黙って従うだけの運命しか、与えられていない。

ギリッと音がして、力を入れ過ぎた口唇から流血した。でも食いしばることをやめれば泣き出してしまいそうで、止められなかった。


「だが、お前にもまだチャンスはあるぞ」

突然降って来た、希望の言葉。

すがるような思いで見上げたルキアに、皇子はこの上なく優しくて残虐な微笑を向けた。

「お前が陽国を継ぎ、王となれ」

驚愕のあまり瞠目した。いったいエルアン皇子は何を言い出すのだろう。

「お前にだって野心はあるであろう。風国の侵略に身を委ね、陽国の崩壊を赦すのが、お前の望む陽国の在り方か?」

望む陽国の姿は思い描いている。何度、本物の皇女だったらと思ったことか。でも国王までは想像すらしたことがない。第一、ノワール皇女自身が許すはずないではないか。

ふいにエルアン皇子が手を伸ばし、ルキアは反射的に身を引きかけた。

「そう不安げな顔をするな。お前一人でやれとは言わぬ」

言いながら口唇の血に触れた。優しく、柔らかい仕草で。思わず、愛されているのではないかと勘違いしてしまうくらいに。

「俺の妻になれ。俺が、お前の傍にいてやろう」

すぐには意味が理解できなかった。だが、やがて思い当る。


もしかして、これがルキアの身代わりを黙っていた、理由……?


茫然としながらも首を横に振ろうとしたルキアの顔を、皇子が掴んだ。

「厭とは言わせぬ。嫉妬に狂い、お前を殺すことなど何とも思わないノワールが手に入れたくて仕方がないものを、お前は手に入れることができるのだぞ」

エルアン皇子が、じっとルキアの瞳を見つめて微笑んだ。

「俺に愛され、俺に抱かれる妻の座だ。お前にとっては、またとない復讐ともなろう?」

復讐……。

その言葉は、なぜか魅力的な色合いを含みながら心に響いた。恐ろしい言葉なのに。それは充分に判っているのに。それなのに、エルアン皇子が口にすると、甘い言葉となって心に入り込んで来る。でも――。

復讐だけじゃない。そう思いたかった。


権力があれば、王族だったら、貧民街を救うことができる。トーイたちだけではなく、フィアス全体を救済することだって可能になるだろう。学ぶ場所を作り、教師を派遣して、皆で幸せになることだって――。そのためならば踏み出せる。トーイたちが幸せになるためなら。

ふいに不安がよぎる。

本当にできるのだろうか。フィアスの存在すら気にも留めないエルアン皇子が、この願いを聞いてくれる確証などないのに。

ルキアの心中を見抜く矢の如く、真っ直ぐ見つめるエルアン皇子が、最後の矢を放った。


「利用されるだけの日々に身を委ねるか、利用する立場になるか。お前自身で決めるがよい。覚悟ができたなら、声を取り戻す方法を教えてやろう」



4逆転


「万が一にも声を出してはならないわ。サライ、魔道師を呼んで。一時的に声を封じてもらうのよ」

ノワール皇女の声を聞きながら、ルキアは隣室に身を潜めていた。心臓が飛び出しそうに緊張している。


事態は、エルアン皇子の言う通りに進んでいた。

襲撃を受け、皇女を守り切れなかったと憔悴した様子で王宮へ戻ったエルアン皇子は、すぐに月国へ戻ると執事が宣言した。


ノワールは慌てて会いに来るだろう。あの女は俺に心底惚れているからな。

そう言って皇子は、不敵な笑みを浮かべた。

だが必ずお前のフリをして現れる。男の前に出ると言葉も出せなくなるほどの小心者だ。念のために声をいっとき封じるだろう。魔道師が術を使うその時が、お前の出番だ。呪詛返しをしろ。最後の最後、石の魔力をノワールへ送り込む瞬間に、お前自身がノワールと魔道師両方に触れればよい。魔術はぶつかり合い、暴露されたお前の中にある術が、術主と術者に還される。肝心なのは、必ずノワールと魔道師両者同時に触れることだ。失敗すれば、二度とお前の術は解けぬ。永遠にお前は声を失い、ノワールの陰となる。


そう話す皇子の言葉を、どこかで皇女が聴いているのではないかとビクビクしていた。それを伝えると、皇子が嘲笑した。


ホロピエッタは頼りないが、あれはあれで一応魔道師だ。俺の周囲にそんな術など届かぬよう結界くらい敷いているさ。お前の行動は、ノワールの仕向けた監視人が逐一報告しているだけだ。

そう断言した。


ノワール皇女に呼ばれた魔道師が何やら呟く声が聞こえてきて、そっと覗いてみた。

どの時点が最後の最後なのか、実は覚えていない。確か、喉に触れられたような気もするけど……。

そう思ったとき、魔道師が皇女のほうへ腕を伸ばし始めた。

…今!

飛び出そうと足を踏み出した瞬間、裾が絡まって足がもつれた。

派手な転びかたで床にはいつくばったルキアを見て、ノワール皇女が声を上げた。

「生きてたの!?」

…失敗しちゃった!

泣きそうになったルキアを、皇女がいつものごとく卑下したように見て声を荒げた。

「転びかたまで人をイライラさせる娘ね。エルアン皇子が帰国すると言い出したのよ。あなたの失敗でとんでもないことになったじゃない。こんなに使えない娘だとは想像以上だわ。決めたわ。あなたは処刑する」

ルキアは立ち上がると拳を握った。


…あたしも今、本当に覚悟が決まったわ。何もできずに死ぬくらいなら、一度国王になってからでも遅くないもの。


「その目つき。反抗する気? このわたくしに対して! ビエン、この娘を始末して」

命じられ、魔道師が前へと進み出た。ビエンが近付くと喉に鋭い痛みを感じた。

…何なの、これ。

我慢したままビエンを睨む。さらに一歩踏み出されると、痛みが増幅した。何かが喉の中で蠢いているような感覚がする。

…もしかしてこれって、皇子が言ってた、魔術の逆流?

もう逃げるすべもない。進むしかなかった。ビエンは術を掛けている最中だった。最後の段階まで辿りついていたのだ。それなら。

ルキアは隙を見計らって皇女に駆け寄り、腕を掴んだ。それを止めようと、魔道師がルキアに触れた。

「あ……!」


部屋中が恐ろしい勢いで歪み始めた。誰のか判らない悲鳴が上がる。足元が崩れて、水のように変化した。真っ暗なその中へ、三人で同時に沈んでいった。



「世継ぎ双子なるときは下の子を闇の民とすべし。聖雅血脈には、そういう掟がございます。世継ぎが二人では国が分裂し弱小化して、滅亡してしまう危険がありますため、それを避ける意味があるのです。闇とは陽国からみて月国を示します。本来あなた様は、月国第二皇子たるエルアン皇子の妻として、月国へ移住させられるべき皇女でした。そうすることで陽国は安定し、同じ聖雅血脈である月国との絆も深めることができます。それが昔からの習わしなのです。しかし陽国王は誰かに、闇は死を意味すると吹き込まれたようでした。自分が産んだ双子の娘の妹のほうを、殺すよう命じたのです」


これは内密なのですが、との前置きで始まった魔道執事の話を聞いていたルキアは、足元の地面が揺れるような気がした。


「だが命じられた侍女は不憫に思ったようでした。孤児が多い町へ、赤ん坊を置き去りにしたのです。それがあなた様でした」

だから皇女と似ていた。双子だとしたら、それも当然のこと。

「エルアン皇子は、幼い頃からあなた様の存在をご存知でした。ずっと探――」

「ホロピエッタ」

いつの間にか部屋へ戻って来ていたエルアン皇子が、冷徹な表情に残酷さを帯びた目つきで睨みつけていた。

「こ、婚約式の準備が整っているか、見て参りましょう」

魔道執事は慌てふためきながら、逃げるように部屋を飛び出していった。


「婚約式には、ノワールも来るよう命じておいた。歯噛みして悔しがるノワールの前で交わすキスは、さぞかし甘い蜜の味であろうな」

皇子は楽しそうに言い、バルコニーへの扉を大きく開いた。

二人きりのバルコニーから望む陽国の王都は、夕陽を受け赤く輝いて大きく見える。

それを眺めるエルアン皇子の表情は、逆光のせいで見ることができない。黒い影として浮かび上がる皇子の横顔は完璧なまでに美しい。その美しさは、周囲の心を惹きつける毒が仕込まれているからこそ際立つのかもしれない、とルキアは思った。



「そなたを永遠に愛し、守り抜くことを誓う」

陽国王の前でそう言挙げたエルアン皇子は、手にした品を恭しく捧げ持った。

「これは私がこの世に生を受けたときに授けられし月の雫と呼ばれるもの。婚約の証として、これを捧げん」

開かれた箱に宿る宝石は、見る者すべてが溜め息をついてしまうほどの高貴な輝きを放っていた。

首飾りに仕立てたそれを婚約者の胸元にくるよう首に掛けた皇子は、そっと抱き寄せ耳元で囁いた。

「国の治めかたは、すべて教えてやろう。お前は俺に従っていれば、それで良い」


それがエルアン皇子の愛情表現なのかどうか、ルキアには判断できかねた。ただ、月国の皇子といえども陽国王位継承者との婚約は前例がなく、この婚約式ののち、結婚式が挙げられた暁には、月国が初めて陽国の統治に関わることになるのは間違いないと聞かされていた。


「我が愛しき皇女」


エルアン皇子は、自身が周りからどう見えるか知っている。自分と婚約する皇女が、あらゆる女性から羨望の眼差しを受けることも理解しているのだ。

婚約式の最後に交わされるキスを、ルキアは受け入れられなかった。万人を虜にする優しい眼差しを浮かべる皇子から目を逸らして、俯いた。


「顔を上げよ。甘美な時を与えることは約束してやる」

皇子が小声で命じた。

それでも拒否し続けるルキアの視界に、燃えるような視線を向けるノワール皇女の姿が入った。これまで受けた様々な屈辱的な罰が思い出されて、苦々しい思いがこみ上げた。

「ここで受け入れなければ、またもあの女を喜ばせるだけだぞ」

このキスが行われなければ、婚約は成立しない。そう聞かされていた。でも。

…復讐のためだけに、この場にいるわけじゃない。あたしは王宮で、やるべきことがある。それを実行するためには、王子の後ろ盾が必要だ。

「フィアスを――」

勇気を振り絞って出した声は、ようやく聞きとれるかどうか程度の小さなものだった。

「ん」

「フィアスを助けて」

僅かに上げた目が、皇子の口唇に傲慢な微笑が宿るのを見て取った。

「素直に俺を受け入れろ。さすれば救ってやらんこともないぞ――ルキア」

小声とはいえ、こんなところで……。

驚いて見上げたルキアに、すかさず皇子のキスが襲いかかった。甘くとろけるような口づけは、一瞬でルキアの心を満たしていた。

…あたし、本当はこの人のことが好きだったんだ。だから――

自分を抱き締めるエルアン皇子の衣装を、ぎゅっと握った。


…ノワール皇女には、渡したくなかった――。


自分の本心を知ると、泣きたくなった。

エルアン皇子の本心は判らない。いつも恐ろしいほど冷たくて、嫌味ばかり。それなのに襲撃されたときには、身を挺して守ってくれるから、やっかいだった。

傍にいてやると言ったエルアン皇子は、こうして誓いを立ててくれているのに、いまだに不安なのはなぜだろう。ノワール皇女と入れ替わり、“利用する側”に回ることを選択したのは、ルキア自身のはずなのに。


…あたしは本当に利用する側を選んだの?


問うように見上げたルキアを、エルアン皇子は自信に満ち溢れた、ともすれば邪にも見える眼差しで見下ろした。

「ようやく理解する気になったか? 俺に従い、俺に全てを捧げるという意味を」


きっとここにも毒がある。甘い、毒が。


ルキアは頷いた。


美貌の皇子は、ただふんわりと微笑した。


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