昨日と同じ、知的障がい者の明日
プロローグ
「では問題です。出口と入り口が一緒で、前にも後ろにも進まない乗り物ってなーに」
「人生」
「ブーッ。答えはエレベーターです」
第一章
僕はずっとここに漂っている。いつからここにいるのか、よくわからなけど、ずっとここにいる。僕は何のためにここにいるのか。何のために生きているのか。
第二章
山の中の古びた一軒家に二人は住んでいる。一人は三十代くらいの痩せた男。もう一人は小学生くらいの男の子。兄弟にしては年が離れている。親子って感じでもない。
男は一日中テレビを見て過ごしている。男の子はパズルやミニカーが好きで、いつもそれで遊んでいる。
二人の生活は全く同じことの繰り返しだ。
朝起きて、冷蔵庫から朝食を出して食べる。
その後は、男はテレビを見て、男の子はパズルやミニカーで遊ぶ。
十二時きっかりになると昼食を食べ、次に男はテレビを見て、男の子はパズルやミニカーで遊んで、六時きっかりに夕食とる。
ああ、今のところ、僕のスル事と言えば、ふわふわ漂いながら、この不思議な二人の生活を眺めている。それだけだ。何のために眺めているのか、、、、その答えはずっと出ないかも知れないけど、僕の姿は二人には見えないらしい。好きなだけ眺めている事はできる。
男がテレビを切った。
昼の十二時になったのだ。
男は椅子から立ち上がり、冷蔵庫の前に行く。冷蔵庫の扉を開けると、ちょっと不思議な光景だ。野菜や調味料は全く入っていない。ラップがかけられ、食事が載せられたトレイがきちんと並べられて冷やされている。右側に水色のトレイ。左側に黄緑色のトレイ。
男は一番上のトレイを一枚づつ大事そうに取り出す。水色。それから黄緑色。
次にトレイを一枚づつキッチンの電子レンジに入れて温める。ここのキッチンにはレンジ以外の物は何もない。ここで料理をする、ということはないのだ。フライパンや鍋、包丁やまな板は置いてない。
そして、レンジの軽妙なチンという音を聞きつけて男の子がキッチンにやって来る。
男が黄緑色のトレイを男の子の前に置き、ラップをはがす。湯気が目の前に広がる。
このくらいの年齢の子供なら「わーい、今日はハンバーグだ。ケチャップもかかってるよ」と可愛らしい事を言いそうだが、特に表情は変わらない。男が自分の水色のトレイのラップをはがすと、胸の前で手を合わせる。それがいただきますの合図らしい。二人は黙々と食事をし、、、、、、最後に冷蔵庫から出した麦茶を飲む。
男がもう一度、胸の前で手を合わせる。それがごちそうさまの合図。男の子はキッチンから出ていく。男は食事が終わったトレイを重ねると、シンクに持っていく。シンクには水が貯めてあり、少し塩素の臭いがする。男はその水の中にトレイを沈めると、テレビの前に座り、スイッチを入れる。
男のお気に入りの番組はNHKの子供番組だ。歌のおねーさんがテレビの中で踊りだすと男も手を奇妙なリズムでひょいひょいと動かして踊り出す。
まあ、僕もこれといってやる事はないので、男が見ているテレビを一緒に眺めている時間は多い。NHKは子供番組だけではなく、教養番組もけっこうやってる。おかげで僕はなかなかの物知りだ。NHKってやつは福祉や障がい者をテーマにする事もけっこう多くてね。色々詳しくなった。
ちなみにこの山の中の一軒家に暮らしている二人は知的障がい者ってやつだ。多分、自閉症。中程度で、簡単な身の回りの事は自分でできる。
普通なら知的障がい者は親が面倒を見るか、施設やグループホームで暮らす。彼らは誰かの世話がなければ生きていけない。「誰か」の。
そう、二人の世話をしている人物。それが「先生」だ。
先生は二日に一回、この山の中の一軒家にやって来る。
第三章
先生はいつもくたびれた軽自動車に乗ってやってくる。洗車は嫌いらしい。黒いボンネットにうっすらと埃が積もっている。
この一軒家に続く道は未舗装だ。車体を揺らしながら坂道を登って先生はやってくる。先生以外にこの道を通る人は滅多にいないようだ。生い茂った雑草が時々車体をこする。
先生は車を二人の住む一軒家の玄関に横づけすると、シートベルトを外し、車から降りてきた。
年の頃は二十代半ば。痩せていて、色が白い。ジーンズに、量販店で買いましたが、それが何か?と言いたげなシャツを無造作に着ている。
先生はポケットからじゃらじゃらといくつも鍵がついているキーホルダーを出すと、玄関の鍵を開けた。そして、軽自動車からクーラーボックスを出し、肩に担いで玄関の中に入る。
クーラーボックスの中身は二人の食事だ。毎回の事なので僕にはもうわかっている。先生は二日に一回、昼過ぎにいつもひとりでやってくる。
「おう、生きてるか」
先生はクーラーボックスを担いだまま、テレビを見ている男の背中に声をかける。男は振り向いて
「先生、」
と言う。
「俺は先生じゃない、つーの」
先生は軽く肩をすくめる。でも、男は先生の事は先生としか呼ばない。多分、これから先もずっと先生としか呼ばない。僕は僕で先生の名前を知らないからとりあえず先生と呼ばさせてもらってる。
先生はキッチンに入る前に廊下にしゃがみこんでミニカーで遊んでいる男の子を見つける。
「こっちも変わりなし、か」
先生はそう独り言を言うとクーラーボックスを冷蔵庫の前に置く。冷蔵庫には棚が六段作ってある。先生はクーラーボックスからラップのかかったトレイを出すとその棚に手際よく並べた。メニューは肉じゃがだったり八宝菜だったりと、六食がかぶらないように考えられている。一枚のトレイにご飯もおかずものっているので食べる時はトレイごと温めればいい。箸もきちんとトレイにのせてある。先生は水色と黄緑色のトレイをセットすると、次に冷蔵庫の扉の空の麦茶ポットを取り出し、クーラーボックスに入っている新しい麦茶ポットと入れ変える。
「じゃ、次は風呂だな」
先生は風呂場に行くと湯を張り始める。しかし、すぐに湯がたまるわけではないので、先生はキッチンに戻りシンクの前に立つ。シンクには二日分の洗いものがたまっているのだ。先生はゴム手袋をはめるとトレイを慣れた手つきで洗い、クーラーボックスの中に入れる。シンクの中が片付くと、栓をしてシンクに水を張る。ポケットから鍵を出し、シンクの下の収納に掛けられている南京錠を開ける。収納にはプラスチックのボトルに入った消毒液があった。先生はキャップ一杯の液をシンクの水に混ぜる。つんとした塩素の臭いがする。
僕は臭いも感じる事ができるのさ。消毒液をシンクに入れておけば洗いものをためても臭いがしたり虫がわいたりしない。いい考えだね。
先生はボトルのキャップをしっかり閉めると収納にしまい、南京錠を掛ける。
「まあ、飲まないとは思うけど、一応な」
鍵をかけながら、先生はひとりで苦笑いする。僕はこんなもの飲む人いるわけない、先生は考えすぎだよ、と苦笑する。
次に先生は風呂場に行き、湯船に手を入れて温度を確かめる。
「OK。おーい、風呂だぞ」
先生がそう言うと、男は風呂場にやってくる。男は自分で服を脱ぎ、プラスチックのかごに脱いだ服を入れる。先生は靴下を脱いで風呂場に置いてあるサンダルを履き、ズボンを膝まで折り曲げる。
男は服を全部脱いでしまうと、勢いよく湯船に飛び込む。ざぶんと水しぶきが飛び、湯船が泡立つ。
「ったく」
先生はそうなる事を予測していたらしく、湯の飛んで来ない所まで退避していた。先生は男が首まで湯船につかり気持ちよさそうにしているのを見届けると、風呂場を出る。次は男の子を呼びに行くのだ。この手順も毎回同じだ。
男の子は先生に手を引かれて風呂場に入ってきた。
「はい、バンザーイ」
そう言って先生は男の子のトレーナーとシャツを脱がせる。
「次はズボンね」
先生は男の子のパンツとズボンを膝まで下げると、脱衣場にある丸椅子に男の子を座らせる。
「足上げてー」
と言って先生は座った男の子の足を上げさせるとズボンとパンツをするりと抜き取る。そして脱いだ服をプラスチックのかごに入れると男の子を洗い場に連れて行き、プラスチックのお風呂イスに座らせる。
「シャンプーからするね。はい、シャワーかけるよ」
先生は割と細かく次に何をするのか、声に出しながらお風呂を進めていく。シャンプーとボディーソープで男の子の頭から足の裏まできれいに洗いあげる。
「OK、さっぱりしたな。」
先生は男の子の泡をシャワーで洗い流すと湯船に連れて行って、肩までつからせる。
「じゃあ、次いくよ」
先生は湯船につかっている男を手招きする。男は湯船から出てきて、さっきまで男の子が座っていたプラスチックの椅子に座る。。
先生は椅子に座った男にタオルを渡す。タオルにはたっぷり石鹸が付けてある。
男は自分で身体を洗い始めた。先生はそれを何も言わずじっと見守っている。
「んー、ちょっと背中が洗えてないなー」
先生は男の洗い残しを見つけてタオルでこする。
「よし、きれいになった」
そう言って先生は男にシャワーを渡す。男は自分で泡を洗い流すと、再び湯船に飛び込む。湯船は男の子と二人でつかっているとちょっと狭いのだが、男は気にしないようだ。
「ふう、やっぱ風呂は暑いよなー」
先生は二人が湯船につかっている間、脱衣場でひと休みする。額の汗をバスタオルでぬぐう。
五分もすると男の子が湯船から出てきた。
「はーい、濡れたままうろうろしなーい。じっとしてて」
先生はバスタオルを手に持って男の子を捕まえる。手早くタオルで体を拭くと、かごから洗濯された服を取り出し、男の子に着せる。男の子は自分で着る気はないらしい。先生にされるがままになっている。
「ちょっと髪が伸びてきたかな。次、バリカン持ってこなくちゃ」
先生はそう独り言を言う。ここに住んでいる二人は床屋に行ったりはしない。いつも先生がマルガリータ!と同じギャグを言いながら坊主頭にしている。
「服着たら、次は歯磨きね」
先生は風呂場に置いてある歯ブラシで男の子の歯を磨き始める。
「お前たちを見てくれる歯医者は少ないから、虫歯になったら大変なんだぜ。自分でもうちょっとしっかり磨けると手間がなくていいんだけどな」
先生は奥歯までしっかり磨き、うがいをさせ、タオルで顔を拭く。
「はい、終了」
そう言って先生が脱衣場のドアを開けると服を着た男の子はとことこと歩いて廊下のミニカーの所に行く。
次に先生は湯船につかっている男に
「おーい、出るよ」
と声をかける。
「はい」
男はそう言って湯船から出る。先生がバスタオルを男に渡す。男は自分で頭を拭き、顔を拭く。
「あ、待て待て。体拭けてないって」
そう言って先生は早々と服を着ようとする男の体をバスタオルでこする。
「はい、拭けた」
先生はそう言ってバスタオルをプラスチックのかごに放り込む。男が服を着ている間に、先生は洗濯物を集めて、脱衣場に置いてある洗濯機に入れる。そして、ポケットからカギの束を出し、脱衣場の戸棚につけられている南京錠を開ける。戸棚に入っているのは普通の家庭用洗濯洗剤だ。
「いたずらされたら色々面倒だからな」
先生は洗剤を洗濯機に入れると再び戸棚にカギをかける。洗濯機のスタートボタンを押すころには男はもう服を着終わっていた。
「じゃあ、歯磨きね」
先生は男の歯もしっかりと磨きあげる。
「よし、綺麗になった。うがいは自分でやって」
先生がそう言うと男は一回だけうがいをして、脱衣場を出ていき、テレビの前に戻った。
二人が風呂から出ると先生は風呂掃除を始めた。風呂掃除も慣れた手つきだ。あっさり終わらせると、先生は居間に行き、押し入れから掃除機を出す。そして、家中を掃除する。一軒家と言っても、そう大きくはない。二階は一部屋しかない。掃除機が終わると、ちょうど洗濯機が止まる。
「計算通り。無駄がないねぇ」
そう言って先生は掃除機をしまうと洗濯機の前に行く。脱水の終わった洗濯物をプラスチックのかごに入れると、足早に二階への階段を上る。
二階の部屋はかつては子供部屋だったらしい。壁にアニメのシールがいくつか残っている。今は洗濯物を干す部屋としてしか使っていない。部屋の中にロープが張ってあり、洗濯物がぶら下げてある。今ぶら下がっている洗濯物は二日前に先生が来た時に干したものだ。先生はそれを外すとかごの中の洗ったばかりの洗濯物を干す。そして、空になったかごに今外した洗濯物を入れると、階段を下り、脱衣場にかごを置く。次に来た時のお風呂の準備はこれでよし、というわけだ。
「さてと、やる事やったし、帰るか」
先生は最後に居間に行ってテレビを見ている男の背中をチラッと見て、廊下に行ってミニカーで遊んでいる男の子の頭をくしゃっとなでるとクーラーボックスを担いで玄関に行く。ガラリと引き戸を開けて外に出るともう薄暗くなっていた。先生はクーラーボックスを車に積むと、ハンドルを握り、山の中の一軒家を後にした。
第四章
こんな事はめったにない。昨日は先生が午前中に来て、庭の草刈りをしていた。そして、二日続けて来ることのない先生が今日も朝からいる。ネクタイこそしていないが、アイロンをかけたワイシャツを着て、無精ひげもきちんと剃っている。誰かお客さんが来る。そう言うことらしい。
「そろそろかな」
先生は腕時計をチラリと見る。午前十時を少し過ぎたところだ。
車が坂を上る音がする。静かな山の中だ。先生はすぐに気付く。エンジン音は徐々に近づき、家の前で止まる。
きちんと洗車された白い車のボディにはお役所くさい長々とした団体名が漢字で書いてあった。そして、その隣には二頭身のゆるキャラが愛想笑いを浮かべている。
玄関のチャイムのボタンが押された。実はそのチャイムはとっくの昔に壊れていて音は出ないのだが、先生はとびきり明るい声で
「はい、お待ちしていました」
と、言って玄関の引き戸を開ける。
白髪まじりの少しくたびれた感じの男だった。首からICチップ入りのIDカードをぶら下げている。頭は白髪まじりだが、名前は黒野だ。
「黒野様、どうぞ、お入りください」
先生は精一杯の愛想笑いを浮かべる。
「黒野さん、でいいよ。聞かれたことに答えてくれればすぐ帰る。お茶もお菓子もいらないから」
黒野はポケットから手帳を出した。
「別に悪い事してるわけじゃないし、どちらかと言うといい事だよね。ビジネスモデルとしてはちょっと前例がないってだけでさ。上の偉い人がどうなってるの、って言ったから、まーちょっと様子を見に来たってわけ。利用者さんは二人、だったよね。顔を見たいんだけど」
「はい、どうぞ」
先生は黒野を居間に案内する。男はいつものようにテレビの前に座っていた。
「こんにちは」
黒野はテレビを遮らないように男の斜め前に立ち、笑顔を浮かべて挨拶をした。ヒマワリのような笑顔だ。先生に対しては愛想笑いも返さなかったのに、、、、、少し違和感。
「こんにちは」
男は平坦な口調で黒野に挨拶を返す。しかし、客人に興味はないらしい。ちらりと黒野の方を見たが、それで終わりだった。
「会話はあまり得意じゃないんですよ」
先生はすかさずフォローする。
「そうみたいだね。健康状態は?」
「良好です。年に二回、健康診断もしています」
「虫歯は?」
「大丈夫です。年に二回歯科検診してます」
「ま、元気そうだね。もう一人は?」
「廊下で遊んでます」
先生は黒野をミニカーで遊んでいる男の子の所に案内する。
「資料では二十一歳だけど、ずいぶん若く見えるね」
「複合的な障がいを持ってますし、家庭環境も複雑でして、成長期の栄養状態も良くなかったみたいです」
「やりきれないねえ」
「二人ともここで暮らすことについての同意書は保護者から頂いてますので、」
「ここで静かに暮らしてもらった方がお互いのため、ってことか」
「まあ、そんなところで。障がい者がもらえる年金の範囲内で生活してさえいれは、特に保護者から苦情も来ません」
「そうそう、君の所はコスト削減にもかなり成功しているみたいだね。上のお偉いさんはそこの所にも興味を持っていたよ」
「別に、特別な事はしてませんよ。例えばこの家ですが、以前は廃屋だったんです。元々は老夫婦が住んでいたんですけど、奥さんがガンで亡くなったら、ご主人が急にボケ始めましてね、都会に住んでいた息子さんが慌ててご主人を老人ホームに入れた。けれども、息子さんは仕事もあるからこんな田舎に住むわけにはいかない。そんなわけで廃屋が確定。地元の自治体としては廃屋のまま放置して浮浪者や不法滞在外国人が住み着いて地域住民とトラブルになるのは避けたい。身元がはっきりしていて家の手入れをしっかりとしてくれるなら、家賃は要らないからって破格の条件を出した」
「そこに君が飛びついたってわけか」
黒野が手帳にメモしながら頷く。
「福祉目的で使うと言ったら、歓迎されましたよ。何の問題も起こりませんでした。実は、ここだけ話ですけど、知的障がい者の施設を作るってなると、反対運動が起こる事もあるんですよ。頭のおかしい人がうちの子に乱暴するんじゃないかとか、色々と、」
「障がい者の地域移行とか自立支援とか、うちも掛け声はかけてるけど、現場は苦労ばっかりだよね」
「自画自賛になりますけど、私がやってることも障がい者の地域移行と言えないわけではないかと」
「わかってるよ。二人が平穏無事に暮らしているなら、それを壊したりしない」
「ありがとうございます」
「上の方には特に問題なし、って報告しとくからさ。君も面倒は起こさないでね」
「もちろんです」
「んじゃ、帰るわ」
黒野は手帳をポケットにしまうと、山の中の一軒家を後にした。
黒野の車が山道を走る音がゆっくりと消えていく。
すっかり静かになると、先生は、ふう、と一息ついて、シャツの一番上のボタンを外した。
第五章
山の中の一軒家に住む二人の生活は続く。季節はめぐり、衣替えは何度かしたが、それ以外に二人の生活が変わることはない。同じことの繰り返し。次に何をするのか考えなくてもわかる生活。それが二人にとって何より安心らしい。
ちなみに、二人はほとんど風邪をひかない。風邪は人から人にうつる病気だ。二人が接する人は先生だけなので、先生がウイルスや細菌を持ち込まない限り、二人は風邪をひかないのだ。そして、先生はあまり風邪をひかない。健康に気を使っているのはもちろんだが、人ごみが嫌いなんだろう。NHKで初詣の中継が映っていたとき、先生が、俺はあんな人ごみは無理だな……と言っていたのを覚えてる。
とは言え、風邪以外にも病気は色々ある。ここの二人は最近調子が悪い、とか痛い所があると人に言ったりしない。
毒蛇のように致命的なそれは、毒蛇のようにゆっくりと静かに忍びよってきた。
山の中の一軒家に住む二人のうち、男の子の方が倒れた。
それは、夕食を食べ終わってしばらくしてから起きた。いつものように廊下でミニカーを並べていた男の子が突然、うーんとうなって倒れた。いつもとは違う様子に気づいた男がテレビの前から離れ、男の子のいる廊下に行く。
男の子はうなりながら床に転がっている。男は何をどうしたらいいのか分からず、男の子の回りをうろうろ歩いている。
この山の中の一軒家に電話はない。いや、あったとしても男は電話の使い方を知らないだろう。
男は玄関に行き、おーい、と叫びながら引き戸を叩いた。しかし、誰も来ない。声が届くような距離には人は住んでいないのだ。
男は引き戸を開けようとするが、開かない。鍵がかけてあるのだ。いや、今夜は月が出ていない。開けたとしても、吸い込まれるような闇が広がっているだけだろう。
そして、ふわふわと漂っているだけの僕は何もできない。声を出して助けを呼んでも、その声は誰にも聞こえない。本当に僕は何のためにここにいるのだろう。
男の子の体はだんだん動かなくなり、やがて、か細い吐息も止まった。
男は何もできず、ただ男の子の傍らに座っていた。
男の子の体が、一瞬、にじんだように二重に見えた。
男の子はふわりと空中に浮かぶ。そして、床の上に転がっている自分の体を不思議そうに見ている。何が起きているのかわからなくて不安なんだろう。漂いながらあちこち見ている。
僕と男の子の目が合った。真っ直ぐな瞳だ。男の子は僕が見えるようになったんだ。
瞬間、僕はわかった。僕はずっと何のためにここにいるのか考えていたけど、そういう事だったんだ。
「おいで」
僕は男の子に手を差し伸べた。僕の声は男の子には聞こえる。男の子は僕の手をしっかりと握った。そう、これが僕の役割だったんだ。僕は何の意味もない存在じゃなかった。
「君は独りじゃない」
僕は男の子と手をつないだまま、『上』に行った。
fin




