Ⅰ
人体実験の始まりは第四次世界大戦時だったそうだ。人体実験の中でとりわけ優れているとされる、肉体を改造する怖の実験と脳を改造する聖の実験は第五次世界大戦中に始まったといわれている。その後数度の世界大戦の後、怖の実験が完成し、さらに数度後の世界大戦中に聖の実験が完成したらしい。伝聞系ばかりなのは、その後の大戦で多くの記録が失われたからであり、何より最近の戦争が終戦したのが二百年前だからだ。人体実験も表向きは禁止され、人体実験の被験者やその遺伝子を継ぐ者達は「前時代の遺産」と称される。
聖の実験は神を造ろうという実験だった。だが、神の言葉を我々人間が理解できるはずはない。では、神の言葉とは何か。そうして、再び戦争が起きた。
理由は単純だ。各国が自国の言葉こそ神の言葉だと主張したからだ。生まれたての赤ん坊が初めて話す言葉が神の言葉だ、という実験もあったそうだが、意志もなく口から出たならそれは言葉ではなくただの音であると結論づけられた。最古の言葉こそ神の言葉だという主張もあったらしいが、しかし神が人間を創ったとするならばその言葉は神が人間のために創った言葉であるという主張も出た。神が人間を創った、という説について誰も何も言わなかったのだろうか。
とにかく国々が主張しあい、最終的に戦争になった。これが何度目の世界大戦かは知らないが、言語戦争と呼ばれている。
結果的に当時一番力のあった国率いる連合軍が勝利した。詳細は記されていないが、当時の言語分布を見れば、その国で用いられていた言葉を母国語をする国が最も多いのが分かる。当然といえば当然の勝利である。
さすがにその言語をそのまま神語とはしなかった。その言語の起源の言語を神語とした。とはいっても本当の起源の言語は、文法も語彙も残されていなかったから、文法・語彙のどちらも残っている言語を採用した。その言葉でさえ、話せる人は当時すでにいなかったが、さらに難しく改変したらしい。神の使う言葉だから難しくて当然だという思考らしいが、神語に人の手が介入することにつっこまなかったのはなぜだ。
神語が決まると、人間の言葉は共通のはずだ、という動きがでた。もともと人間の言葉は共通だったが、神の怒りを買い違う言葉を話すようにあった、という話もあったらしい。昔の人の考えはよく分からない。
戦争で疲弊していたためか、我こそが共通語だ、という国は現れなかったようで、それ以前に創られたが普及しなかった共通語を基に各国の言語をとりいれた共通語が創られた。それが今俺達の使っている共通語であり、各国語はそのとき古語になったそうだ。勿論、普及には相当な時間がかかったが、次の世界大戦時にはすでに古語を使う人はいなくなっていたそうだ。
俺は歴史のマニアでも学者でもないのに、なぜこんなことを知っているかというと母親が言語マニアだからだ。言語を学ぶうちにその言語の歴史も知りたくなって書物を漁っていた結果がこれらしい。俺は、寝る前に絵本ではなく小難しい歴史書を子守唄にされたという悲しい子供時代を持つ。なぜ母が学者ではなく泥棒をしているのか理解しがたい。
聖の実験で産みだされた人間達は、揃って神語を覚えさせられた。だが、神になれるものは誰もいなかった。彼らは長くても二十年しか生きられなかった。神であれば、そんな易々と死ぬはずがないのだ。
聖の実験も怖の実験も禁止されたが、それは表だけの話であり、裏では綿々と続いている。特に聖の実験は、変な言い方だが盛んだ。
怖の実験は完成していたから、実験は必要なかった。何より、怖の遺産は遺伝する。アン、悪刀、沈海さんはそれだ。彼らはドミヌスと呼ばれる。ドミヌスは古語で「主人」を意味する。
一方、聖の実験は本来完成とは言えなかった。脳の改造こそは成功したが、医療によって下手すれば二百年は生きようかという時代に――実際の最高齢は百六十六だが――二十年ない寿命。俺で言ったらもう死んでるはずだ。その上、生殖能力がなかった。遺伝がどうこうのレベルではないのだ。
ドミヌスは強い肉体を持つ。異常な自己治癒能力、神経伝達速度。そしてただの人間に比べれば弱いが生殖能力がある。聖の実験と怖の遺産を組み合わせようという動きは、当然禁止される前からあった。だが、そんな強靭な肉体を持つ人間兵器が弱っちい研究員の指示に従うはずはなく、実験はついぞ成功することがなかった。アザレアはこの実験の被験者だが、ドミヌスほど強くはないから失敗作だ。俺より強いのだから、十分だと思うが。
ところが、毒さえはねかえす鉄の体のドミヌスを従わせる、いわば悪魔の薬が完成してしまった。つい最近のことである。戦犯は双子の父親である。
ドミヌスが普通の人間に交じって生きるのは難しい。ただの人間兵器ならいいが、彼らは戦闘狂であった。だから、精神安定剤であるペシミムスを常用する。もし戦闘が必要になったら、ペシミムスの対の薬、筋力活性剤(副作用は精神不安定)のオプティムスを飲む。そして、開発されたネガティウス、気体による強い神経毒だ。
これをもって、聖の遺伝子と怖の遺伝子を掛け合わせる実験はさらに活発になった。
どうやら「神の子」というのは、その完成品らしい。
部屋を借りて数日後、ヴェロニカさんがさっそく泊まりに来た。一番きれいだからと俺の部屋が使われたが、甘い展開や桃色なあれこれは勿論待ってない。最強といっても過言ではないマフィアのボスに手を出そうとは思わないし、俺は性欲や睡眠欲より圧倒的に食欲が強い。何より、彼女は沈海さんにぞっこんである。俺はソファもない居間で雑魚寝をすることになった。家主なのにこの扱いはどうなのか。
その日、ヴェロニカさんが「神の子」の話をした。ただの世間話である。「こんなのがいるんだって」「へー」「ところでさー」というノリなので聞き流していたんだが、そうはいかなくなった。
次の日、俺は母に呼ばれた。父は頻繁に晩酌のお供とかに呼ぶが、母は滅多に俺を呼ばない。子離れができている。つまり、呼ばれるということはろくでもないことだ、ということだ。
俺はヴェロニカさん、レオンカヴァルロの親戚だが、親戚なのは父の方だけだ。母は代々泥棒の家系である。格好よくいうなら怪盗だ、俺は違うけど。
怪盗といえば格好がつくものを泥棒というのは、わけがある。怪盗と言われれば宝石のように高価なものや、いわくつきのものを盗むために大冒険し、時には「あなたの心」まで盗む、という(勝手な)印象がある。だが、うちの家系は違う。盗みたいと思ったら、それが人間だろうが隣の家の何の変哲もない箒だろうが盗むし、スリもする。宝石を盗むことだってあるが、はっきりいって「怪盗」っぽくはない。ちなみに母の数代前の男は女を盗んできて妻にしたらしい。足の筋切って逃げられないようにしんたんだって、きゃーこわい。
耳がはやいのか、地獄耳なのか、母の言葉は衝撃的だった。
「あんた「神の子」って知ってる?」
俺は無表情をきどる。面倒事に巻き込まれてはかなわない。
「その顔は知ってるね」
「いや、知らないけど」
「何年お前の母親やってると思ってるのさ、あんたが嘘吐いてるかどうかくらい分かるよ」
難解な歴史書を子守唄にしたり、盗み先に囮として俺を置き去りにした母親がよくいう。
俺が失礼なことを考えているのが分かったのか、脛を蹴られた。どうして俺の周囲には暴力的な人が集まるのか。痛い。
「知ってるったって名前を聞いたことがあるくらいだけど」
「別にいいよ、何も知らなくたって関係ないんだから」
本当にこの人は俺の母親だろうか。息子のことをなんだと思ってるんだ。顔に出ていたんだろう、また脛を蹴られた。
「まさかとは思うが」
「そのまさかだよ。「神の子」を盗みたいから手伝いな」
悪い予感ほど的中する。こうなっては、理由を聞いても無駄だ。どうせ興味があるだけで理由なんてないんだ。せめて理由でもあれば、反論できたかもしれないのに。
俺の反抗が無意味なのは長年の経験で分かっている。それこそ二十五年、この人の息子をやっているのだから。
「あ、いや、止めよう」
きっと死んだ魚のようになっている目は、水を得た魚をいわんばかりに輝いているだろう。
「私の手伝いじゃないくて、あんたが盗んでおいで。アプフェルの息子だろう」
釣られたと思ったら水槽にいれられたが、水槽から出されまな板にのせされた魚の気分はこんな感じだろう。
何事も情報だよな、と沈海さんのところへ向かう。
「煙草か」
「いや、それも欲しいけど。「神の子」について聞きたくて」
「銘柄は?」
「マラドゥある?」
「いや、きらしてる。お前いつもそれだな、たまには別の吸ってみろよ」
「じゃあ、おすすめは」
「サント・イトリは」
「それ、あんたが好きな銘柄じゃん。あれ味薄いから好きじゃない」
「このヤニ中。味が薄いからたくさん吸えるんだよ」
「あんたに言われたくない。ならオスクロアモール二箱」
「ほらよ」
「で、「神の子」は」
「俺も名前くらいしか知らねえな。どうしてそんなの知りたいんだ、名前しか出回ってないぞ」
「母さんが」
「ああ、分かった」
俺がレオンカヴァルロの親戚として有名になったせいか、俺の母もわりと有名になってしまった。もっとも、母は前から沈海さんと顔見知りらしいが。
「名前からして人体実験くさいし、トカゲあたりに聞いた方が早いだろ」
トカゲは正規の医者がいるかどうか怪しいこの都市にいる闇医者だ。アンと悪刀の主治医でもある。
オプティムスは法外な薬だし、ペシミムスは法外に高い。だから裏ルートで薬を仕入れてる奴を見つけるのが、一番いい。トカゲは裏ルートで薬を仕入れてる。ついでに痛覚が麻痺しかかってる双子の診察もしてもらう。どちらも二月に一回程度で、まだ日はあるが、話ついでにやってもらう。
双子と組手をしていたアザレアもついてくることになり、四人で診療所へ向かった。
診察室でトカゲを前に三人座らせて、俺は座り心地の悪いベッドに腰掛ける。十も年が違わないのに、完全に保護者である。
「まだ、早いぞ」
「用はそっちじゃない。「神の子」について聞きに来たんだ」
「なんでまた、そんなのを」
トカゲは怪訝そうな顔をする。
「母さんが」
「ああ、それでか」
もはや「母さん」という言葉は、魔法の呪文である。「かくかくしかじか」の代名詞。
触診をしながらトカゲは続ける。
「正確な話じゃないが、いいか」
「ああ」
「ラベンダの息子のことかもしれない」
ラベンダの名前が出た瞬間、アザレアの肩がはねた。トラウマほどではないが、思い出したくないものであることは間違いない。
ラベンダはアザレアのいた研究所の所長だ。アザレアを創ったのは目の前のトカゲだが、アザレアに苦痛を強いたのはラベンダであろう。今はその研究所はない。俺達が破壊したというか、俺達がきっかけで爆発した。
「前に言ったろ、ラベンダは実の息子でさえモルモットにするって。聖の遺伝子と怖の遺伝子をかけあわせた受精卵を自分の子宮で育てて出産したらしい。試験管ベビーっちゃ試験管ベビーだが、アザレアとはまた違うやつだな」
「それが、なんで「神の子」なんだ」
「それだけなら、アザレアと一緒だし、まだモルモットにされてるとは言えないが、そいつ生まれてこのかた外に出たことがないらしいんだ。ずっとどこかに閉じ込められて、神学を筆頭に勉強漬け。その上、神語しか知らないらしい」
「それは、また、なんというか」
「アザレアとは違って結合実験としては成功体らしいしな。その時点で、怪しい話なんだが」
「どこまでが事実なんだ」
「息子をモルモットにしてるのは事実だが、その息子が遺伝子をかけあわせた受精卵からできたかどうかから怪しいな。それに関しての書類も見たことないし、多分誰も息子に会ったことないからな。巷の「神の子」がこいつを指すのか分からないし、正味「神の子」って名称だけが独り歩きしてるのが現状だな」
「どっかの宗教の教祖とかいうのは」
「それはないだろう。「神の子」の神は宗教関係なく存在してるだろうって全知全能の神を指すそうだ。こんなに宗教が氾濫してる中で、どっかの固有の宗教の神の子が有名になると思うか」
「思わないな」
「神の子」が蜃気楼も同然なことしか分からず溜息が出る。
「じゃあ所在地も不明か。寧ろ存在が不明か」
「そうなるな。さすがにこんなに不確かな話なら、お前の母親も諦めるだろ」
「あの人はそんなに潔い人じゃない。何より、俺に盗んで来いって」
そう言うと、双子が絶望的な顔をして俺の方を見た。俺が行くつまり自分達も行くことになるのを理解したらしい。どうも母は俺達三人をセットだと思っている節がある。最近はそこにアザレアも加わり四人セットになったらしいが。
「あー、頑張って?」
アザレアが言う。
「もう跡形もないかもしれんが、手掛かりがあるかもしれないから研究所行って来いよ」
トカゲが提案すると、今度はアザレアの顔が絶望的な表情になった。アザレアの予感は当たったらしい。
「アザレア、一緒に行って来い」
俺達四人がお通夜みたいな雰囲気を醸す中、トカゲは言った。
「ご愁傷様」
こいつ、楽しんでやがる。