「匂い」
世の中には、いろいろな匂いや、香りが、交錯しています。その香りで、その人柄や生活ぶりを知ることの出来る特殊能力を持っていたら……。
果たして幸せは、掴めるのか、その序章的な、内容を楽しんでいただけば幸いです。
優香利には、子供の頃から妙な癖が有った。それは、ついつい匂いを鼻で追ってしまう事である。
『優しく香りを利く』という名前が、災いしたのね。と、母親は、良く口にしては、タメ息をついていた。
八百屋の前を通れば、季節の果物の匂いを楽しみ、公園を歩けば咲き誇る花の甘い香りを追った。それで済んだ頃はまだ良かったのだが、その内、食事の席で口に運ぶ食べ物に鼻を動かすようになると、「はしたない」と母は嗜めたが、到頭その癖は直る事はなく成長してしまった。
それでも大人に成るとあからさまに鼻を動かす事はなくなり、落ち着いては来たが、それは誤魔化すスキルを身に付けただけであって、嗅覚はより研ぎ澄まされていったようだった。
やがて都心のオフィスへと電車で通うようになると、車内のラッシュアワーの人混みの中でその鼻を利かせては周囲の匂いを嗅ぎ分け楽しんでいた。
歩く街、或いは同じ街であっても通り一つ違うだけで、漂う匂いは其々変わってしまう。人であっても、一人ひとりの匂いは違うので無数の匂いが存在するわけで、それらを混じり合うことなく、嗅ぎ分ける事ができるのは、ある意味特殊能力ともいえたのだ。
毎日乗る電車でも、路線や時間帯が違うとすっかり匂いは変わる。通勤時間の東横線は、沿線に大学が多い上に、乗り入れる地下鉄が霞ヶ関へと向かうせいか、不潔な臭いはあまりしない。朝の車内には、外国の洗剤や柔軟剤の、強い残香が立ち籠り、そのなかにその人が朝食で食した、コーヒーや、バター、味噌汁といった食材の持つ残香が、嗅ぎ取れる。
近頃では、男性でもコロンを付けるようになったのか、本来なら爽やかな汗の臭いがする筈の男子高校生でさえ、ブランド品の香りが漂ってくる。それが、帰りの車内では一変し、脂臭い中に煙草や焼肉屋の残香が混ざり、更に遅くなれば、安酒の酸えた臭いや、風俗帰りと思われるチープなボディーソープに代わっていく。
職場の同僚にも、それぞれに独特な匂いがあって、誉れ高い美人の先輩からは、誰も気付いていない下品な香りが漂ってくる。それから暮らしぶりが伺いしれ、幻滅さえ覚えた。いくら高級なフレグランスで、誤魔化しても、私には通用しない。皆が憧れるイケメン上司も、その人から放たれる匂いが好きになれず、全く興味が湧かなかった。会社で仲良くなれたのは、好感もてる香りがする僅な人達だけだった。
そんな日々のなかで、私の前に突然、独特な香りを放つ男性が現れた。それが親会社の営業課の「健」だった。それまでに嗅いだことの無い上品で清潔な香り…決してフレグランスにはない…。それに明るく気取らない性格とウィットな話し方。そして、発する声の響きと、クールな笑顔と。私はついつい惹かれてしまい、自分の気持ちを制御出来ずにいた。…初めての恋だった。上司の何気無い話から、彼は既に結婚もしていて、生まれたばかりの赤ちゃんが居ると判ってからも、職場で顔を会わせると気持ちが浮かれ、収まらない。そしてまもなく…深い関係へと陥った。
健の躯の中に居ると、全身が悦びに充たされた。堪なく心地好い香りに包まれて、初めて『絶頂』も知った。一生、この人とは離れられない、離れたくないという気持ちに支配されていくなかで、私の両腕は、彼の背中を彷徨し続けた。
その彼が、或る休日の午後に突然自宅にやって来た。「我慢出来なくてさ。」と、言う初めて見る私服姿の彼は新鮮に見えて嬉しかった。でも、抱かれている時に私は、彼の匂いの中に、違和感を覚えた。いつもの躯の匂いの中に、微かに混ざるノイズの様な甘いミルクの香りを私は、嗅ぎ取ってしまったのだ。私の脳裏には、休日の彼の姿が浮かんだ。子供と戯れるパパの彼の姿が。私は大きな悲しみに包まれた。その日、私はイカなかった。解っていた筈だったのに。後には惨めでどん底の気分だけが残った。
その後、私が彼から二度目に、その匂いを嗅ぎ捕った時に、別れる事を決めた。突然の別れに彼は『何故?』と詰め寄ったが、私は「不倫が、嫌になったの」とだけ伝えた。私はまもなく会社を辞め、電話番号も変えて自宅も引っ越し、彼の前から姿を消した。
別の会社に移って暫く経った頃、仕事帰りの電車で座り、つい眠っていた私は、夢の中で、懐かしい彼の香りを嗅いだと思い、ハッと目を醒ました。混雑した車内には、確かにその香りは、漂っていた。その匂いを辿っていくと、吊革を掴んで前に立つ青年からだった。
「世の中には同じ匂いの人って居るのね!」と、驚きと安堵の気持ちで、その青年を見上げてみた。大学生だろうか?背が高くて、でも決してイケメンじゃ無いけど眼鏡が似合う知的な純朴な顔立ち。全身から、清潔感も漂ってくる。その漠然とした魅力に、私はつい、見入ってしまった。
彼がそれに気付いて目が合うと、彼は顔を少し赤らめ視線をそらした。私はまもなく席を立ち上がり、到着した駅のホームへと降りた。電車のドアが閉まると、その匂いは突然と消え、ホーム上には、都会の味気無い埃の臭いが立ち込めた。それからというもの、通勤の車内では、ついついその匂いを追いかけて探す様になった。時折、微かに香る事があり、その元を探してみるが、混み合っている中に、その姿は見付けられずに数日が過ぎていった。
その日も、帰りの電車は、凄く混み合っていた。その中で、強い香りを感じた私は、その方向に振り返ると、反対側のドアにもたれ立つあの青年が居た。私の胸は、高まったが、彼がそんな気持ちを知るよしもない筈ねと、顔を背けたままその心地好い香りを1人楽しんでいた。
まもなく降りる駅に到着すると、大勢の乗客と伴に私はホームへと押し出され、階段へと向かいかけた。すると、後ろから「すみません。あの!」と呼び止める声がした。振り返って見ると、あの青年が立っていた。
直立不動の姿勢で立つ彼の指先はピンと伸びて、緊張の所為か、小刻みに震えていた。暫く無言の時間が続いて、その間に人混みは、吸い込まれる様に改札へと向かう階段へと消え、ホームには私と彼だけが取り残された。私の周りをあの心地好い匂いが包んでいく。私は鼻が動き出すのを誤魔化すかの様に思わず「クスッ」と笑った。すると彼もくったくのない笑顔になった。眼鏡の奥の瞳からは、人柄の良さが、充分に伝わってきて、私は新しい恋が始まった事を知った。
自分にとって、初投稿作品、と言っても作品と言えるかどうか。
実は、この先、2人は結婚して、旦那さんは警視庁の刑事になり、優花利は、その嗅覚を駆使して、旦那の捜査に協力して事件を解決するみたいな構想はあるのですが……一向に取組が進んではいません^_^
この先、いろんな題材に取り組んで行きたいと思ってます。応援宜しくお願いします。
でわでわ。




