カットグラスはきらめいて 2
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昨日のことだった。
「それでは、また明日」
と言って、フィオは礼をした。にこやかにサフィーが微笑んで、二人は別れて帰路についた。時刻は午後七時を過ぎ、三日月のきれいな夜だった。
サフィーの家はお店から遠い。彼女も住宅街に住んでいる、と言っても外れの方で、山のふもとにぽつんと一軒あるだけらしい。ふだんは徒歩でお店まで来ている。
そのため、家に着くころには八時半を越えていた。
もうすぐ家に着こうと言うところで、彼女は妙な音を聞いた。電話の音だ。ずっと鳴り続いていて、少し怖いな――とサフィーは思った。
「私の家から、かしら」
気をまぎらわすようにぽつとつぶやいて、早足で家に入った。
予想通り、家の電話が鳴っていた。おそるおそる受話器を手に取り、耳にあてた。
「も……もしもし?」
「もしもし。サフィーちゃんですかー?」
ゆったりとした、語尾をひっぱるような話し方。聞き覚えのある声を聞いて、サフィーはほっと息をはいた。
「秋津ちゃん?」
「そうだよー、秋津だよ。こんばんは」
「こんばんは。でも、こんな時間にどうしたの? 電話なんて」
「んー、わたし、サフィーちゃんにお願いがあるんだ」
「お願い? どうしたの、あらたまって」
「だけど、電話話しにくいな。だから、明日お店に行って、話す」
「ずいぶん急ね。……わかった、明日ね」
「うん、また明日」
受話器を置くと、かちゃりと鳴った。
サフィーは電話の相手を思いやった。久しぶりに話したけれど、変わりなさそうね――自然と頬がゆるんでいた。
しかし、何か重大なことがあったのだろうか。心当たりがあるとすれば、博物館のことだろう。
フィオに店番を頼んだあの日、彼女は博物館に行っていた。サフィーの他に秋津と、サフィーの友人で、同じくガラス細工職人のナギがいた。彼女たちが呼ばれた理由は一つ、グラシィを扱えるからだった。グラシィを作れる職人は、この街に六人しかいない。そのうちの三人が彼女らだった。
ただ、秋津は最近になって扱えるようになった。
不安なことでもあるのかしら――とサフィーは考えていた。
「家出って……」
かろうじてサフィーの口をついた言葉は、それだけだった。予想だにしない回答。秋津の後ろではフィオがおろおろとしていた。
「そう、家出をしたの。だから――」
ぺこりと頭を下げる。つややかな黒髪がさらりと肩からこぼれ落ちた。
「私を、かくまってください」
「かくま……う?」
いつもは冷静なサフィーでさえ、この状況にとまどうしかなかった。
親友のお願い、それが何であれ彼女は聞こうとしていた。だが、かくまえ、とは。理由があるにしろ、彼女には信じられなかった。
秋津ちゃんと、彼女の家族は仲が良かったはずなのに――。
「ちょっとまって。どうしたの秋津ちゃん。何があったか、理由を教えてくれる?」
急に秋津はうつむいた。言おうか否か迷っているようだ。
「私、お母さんとけんかしたの。ううん、一方的に私が悪いんだけど……」
歯切れの悪い彼女の顔を、サフィーはのぞき込んだ。心底心配しているように見えた。いつもにこやかなサフィーは、いまばかりは笑っていなかった。
「お母さんが、引退するって言ったの。私はとめた。ずっと私のあこがれだったから。お母さんために、お母さんみたいになりたくて職人になったから、私は驚いて、わけを聞いた。でもお母さんは『もうあなたも一人前なんだから』って言うだけだった」
ばっと顔を上げる。秋津の耳は赤くなっていた。
「だから私、『引退するんだったら、私はここを出ていく』って言って、ここに来たの。昨日の夜のこと。サフィーちゃんに電話したのは、そのあと」
そう言って、また顔を下に向ける。
彼女は後悔をしているのだろう。落ち込んでいるのだろう。どちらにしても、家出して良かった、と思っているように、フィオには思えなかった。彼女は、丸くなった背中を見ていた。
「お母さんは、お母さんだけど、私にとって師匠でもあった。だから、引退なんて、して欲しくなかった。……やっぱり私、勝手だよね」
長くため息をついた。サフィーはうなずきながら聞いていた。その姿が、サフィーのやさしさをうつしているように思えた。
「そうね、私も、先代が引退すると言ったとき、悲しかったわ。残念だった。……でも、それはしかたがないことじゃないかな」
さとすような口調だった。包まれるような暖かさを帯びていた。
「帰ろうよ、秋津ちゃん」
うぅ、と秋津はうなるのみだった。やがてほろほろと涙がほほをつたった。
家出をしてしまった手前、帰るに帰れないのだろう。けんかをしても、何も良くならない。のちに残るのは、苦々しい苦しみだけ。しめつけられるような後悔だけ。
にわかにフィオは思った。いつかサフィーも引退するのか。いやそれとも自分が独立するのか。いずれにしろ別れるときが来るのだと、いやでも考えなければならない。
そんなとき、私はどうするのだろう――。
ふつうにあるようなものが、いつかはなくなる。それを受け入れるのは、簡単ではない。まさにいまの秋津の苦悩そのものだった。
「でも……帰りづらいと言うか、何と言うか」
もじもじとする秋津。
そんなときだった。
こんこん、と言うドアをたたく音のあと、ベルが鳴りドアがひらかれた。
そこには、見間違えてしまいそうなほど秋津に似た少女がいた。フィオよりも若い、ミドルスクールに通うくらいの歳だろう。肩と腰のあいだまで伸びた黒髪は、初々しさを示すようにつやつやとしていた。
「やっぱりー」
気の強そうな、しっかりしていると感じさせる声は、次にこう言った。
「ここにいたのね、お姉ちゃん」
腰に手をあて、そるように凛と立っていた。