カットグラスはきらめいて 1
よろしくお願いします。
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晩春の陽射しは、日に日に強くなっていきながら、フィオの部屋に射しこむ。さわやかな暖かさに身を包まれながら、彼女はベッドからはい出した。
天井にふれようかと言うまで背伸びをし、抜け殻となったベッドを整える。
彼女のふつうの一日はこう始まる。季節によって多少のゆらぎはあるが、たいていはこの流れをたもっていた。
明るい茶髪が、つののようにはねていた。鏡の前に立って、櫛で髪をなでつけた。寝間着の襟にさわるくらいまでのびた髪を、フィオは指先でもてあそんだ。
髪ものびてきたな……――着替えを終えて、ぼぅっと、テーブルに突っ伏す。
いっそ、サフィーさんほどにのばしてしまおうか。あまり使うことのなかった髪ゴムを、小物入れから取りだして、小さな尾っぽのように束ねた。
鏡を見ると、いつもと違う自分の髪型に、少し気恥ずかしくなった。でも、これもいいかもしれない――とも思っていた。
……と、いまは何時だろうか。鏡の上を見やると、時計は午前七時をさしていた。
「ああっ、もう行かなくちゃ」
テーブルの上にあるキーを取りあげて、ショルダーバッグを肩にかけ、フィオは部屋をとび出した。
フィオの家は、工房のすぐ裏手にあるアパートで、築四十年ほどらしい。大家は常に外出していて、ほとんど顔を合わせることはない。サフィーにすすめられ決めたけれど、顔を見たのはいままでに一度しかなかった。
すぐに来られるため、工房のカギを管理しているのはフィオだ。午前七時すぎにお店をあけるよう言われている。ちなみに開店は午前八時くらいである。日によってまちまちで、そこはサフィーのいい加減さを表している。
真面目すぎない人柄が、人をひきつけるのだ、とフィオは思っている。お店の名前について頑ななのはどうか、とも思うが。
お店の前に、一人の影を見つけた。こんな時間にお客さんだろうか――と不思議で、彼女は声をかけた。
「どうかしましたか?」
その女性は、腰あたりまでのばした、黒く、しっとりとした髪をなびかせながら、フィオに顔を向けた。サフィーと同じくらいか、もっと若いように見えた。しとやかに目を細め、その容姿を裏切らない上品な、ゆったりとした声で応えた。
「サフィーちゃんは、いる?」
外で立っているのも失礼だろうから、例によってお店の中にむかえた。危ない人ではないだろうが、フィオは、どこか見覚えがあるように思っていた。
ととっ、と女性はお店を端から端まで歩き、作品を見わたして、
「サフィーちゃんのガラスは、あいかわらず色がきれいだねぇ」
と、やけに間延びした調子で言った。基本的にのんびりした人なのだろう。動きはのったりとしていて、安心感や安定感があった。
サフィーさんの知り合いなのかな――とその様子を見て考える。口ぶりからして、結構な間柄なのかな、と。商品を手にとって、慈しむようにながめている。
「あの、お名前をうかがってもいいですか」
「いいよ」
へなっ、と笑う。この人の周りだけ時間がゆっくりになっているような、気の抜ける思いがした。丸っこい顔もそれを助けている。
「黛秋津と、申します。黛ガラス工房で、いちおう、職人をしているのよ」
「黛ガラス工房……ですか?」
「ええ、そうよ」
そこと言えば、おそらく、この街で名前を知らない人はいないほどの工房だ。確か、街の中央にある広場の近くにあったはずた。一族代々で切り盛りしているらしい。
ここが、ステンドグラスと言った、色ガラスの小物を主に作っているのに対して、黛ガラス工房はカットグラスが有名であった。
カットグラスは、ガラス器などに回転する砥石を使って彫刻する技法のことだ。直線的で幾何学的な模様がほどこされ、透明度の高いガラスでは、光を受けてきらびやかに模様を浮かべる。
また、ガラス彫刻の繊細さも評判がよく、ガラス器の表面にデッサンされたモチーフは、神秘的だ。
もっとも、フィオがこれを知ったのは、雑誌の特集を読んだからだった。冬にこの街で開催されるコンテストがあり、そこで評価されたのだ。その記事で大々的に紹介されたのは作品の方で、雪の結晶と木々が描かれていた。そうだ、フィオは作者の紹介でこの人を見たのだ。
「まっ、黛さんって、雑誌にのっていましたよね! あの作品、写真で見ました。実物が見られなかったのは残念でしたが、それでも、とても美しかったです」
気づくと身を乗り出していた。
「そう? ……ありがとう」
秋津の表情が少しくもった。
いったい、どうしたのだろう――とフィオはその顔をうかがった。何かいやなことでもあったのだろうか。
例えば――
「でも、割っちゃったの、よね。……あれ」
へへ、と秋津ははにかんだ。その表情は、心を締めつけるほど辛そうだった。
ああ、いづらくなってしまった。重たい空気がお店を取り巻く。
「そ、それは残念です」
「まあ、わたしが割ったのだけどね」
はは、と笑うしかない。事態はなかなか好転しそうになかった。フィオの肩に重石がのっているようだった。
「わたしの意志だったけれど……」
床に沈みこんでしまいたい――とフィオは考えた。私にはこの空間が重すぎる。できれば早急に、サフィーに来て欲しかった。
「と、ところで、秋津さんはどうしてここへ?」
なんとかひねり出した言葉を発した。一番最初に聞くべきだったが、もう話せれば何でもいい、と考えた結果だった。
「んー? あのね、わたし――」
……と、そのとき。
かしゅん。
ドアのベルが鳴る。ぎいとドアは音を立ててひらく。
そこには、サフィーがいた。目を丸くして、口を手でおおっていた。
「サフィーちゃん!」
呆然と立ちつくすサフィーのもとに、秋津はかけ寄った。手を取って、
「久しぶりー」
と、ぶんぶんと握手をした。驚きでサフィーはまだ固まっていた。
「あ、秋津ちゃん……どうして?」
「昨日、電話したでしょう」
こほん、と咳ばらいを一つして、いままでにない真剣な表情を、秋津は浮かべた。そこにはゆるぎない気持ちが感じられた。
「わたし、家出をしてきたの」
再び、お店に緊張がはしる。秋津のまとっていたゆるやかな雰囲気が、かちりと固まったようだった。声の調子が異なっていた。
サフィーも、フィオも、自分の耳を疑った。
家出、と言う言葉は、思ってもみない言葉だった。