ガラスの蝶 5
よろしくお願いします。
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陽はすっかり落ちてしまっていた。街灯の少ない路地をフィオは走っていく。
アイリちゃんの家は、住宅街にあるって言っていたっけ――かけながら、彼女は思い出した。
住宅街は街の北側、特に北西側に広がっている。大半の人がそこに住み、いつも灯りが絶えない場所でもある。きちんと整えられた街路や外観は、海の方から見ると幾何学的に美しい。
フィオの両親も、そこに住んでいる。
その南側には広場がある。石畳で、半径二百メートルほどの円形をしている。街の主要施設が集まっており、催事などもここで行われる。役所、図書館、博物館と言った建物は、少し古風なレンガ造りで、壁にはツタがはっている。
昼間は市や何やらがひらかれにぎわう。その反動か、夜は人の姿がまばらだ。等間隔に並べられた街灯とベンチが、ひっそりとした広場に浮かぶ。
直角に交わる道路を曲がり、フィオは広場へと入る。住宅街に行くには、ここを通るのが手っ取り早い。主要な道路の行きつくさきがここだから、迷ったら広場に、とまで言われている。
……と、彼女は急に足を止めた。ベンチに座り、街灯に照らされながら空を見上げている女の子が目に入った。黒い髪でおさげをつくる少女。
アイリちゃんだ――確信を持ってそう思えた。フィオの姿が目に映ったのか、アイリは彼女から顔をかくすようにうつむいた。
一直線にアイリの方へ向かい、声をかける。
「ここで、何しているの?」
アイリの顔は不安ではちきれてしまいそうだった。表情を見せないようにしているが、口角が下がっているのがわかる。不自然な表情だった。組んだ指がもぞもぞと円をえがいている。
「なんだか、帰りづらいんです」
そう言って、また空を眺める。
「お母さんがブローチをくれたとき、こう言ってたんです。『大切にするのよ。――これはお母さんの思い出のものだから』って。それをなくしちゃった、なんて……」
フィオはうなずきながら聞いていた。そして、口をひらく。
「……実はね、サフィーさんから話を聞いたの。たぶん、アイリちゃんのお母さんとそのブローチの話」
しずかにアイリは聞いていた。ときおり目を袖でこする。
「そんなことがあったんですね。なのにわたしは……」
小さく丸まって、見るからに落ちこんでいる。はぁ、と大きくため息をついた。
「で、でも、まだあきらめちゃダメだよ」
とん、とフィオは自分の胸をたたき、アイリの肩に手をおいた。
「案外、近くにあるのかもしれないよ」
「えっ?」
二人は顔を見合わせて、フィオはふふっ、と微笑んだ。
横に並んで二人は歩いた。チェス盤のように、縦横に走る街路を北へ上っていく。両脇には同じに白く塗られた家の壁があり、なれていないと迷ってしまいそうだ。
「こっちです」
アイリはフィオをリードする。くねくねと曲がりながら、次第に家に近づくと、アイリの歩みはだんだんゆっくりになっていく。
「大丈夫だよ」
立ち止まろうとするたびに、フィオはこう声をかけた。「はい」とアイリは応える。
「ここ、です」
白い外壁に、黄色く塗られたドアが目印となる。内側からはぼんやりとした灯りがうかがえる。家に沿って並べられた鉢植えには、色とりどりの花々が咲いていた。
「もう、すっかり真っ暗になってしまいましたね」
頭上には細長くひかる月が浮かんでいた。
手をぴんと伸ばして、意を決したように、まっすぐフィオを見つめる。
「今日はありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。わたし、正直に話します。……本当に、ありがとうございました」
深くアイリは頭を下げた。力なく笑う。くるりとフィオに背を向けて、ドアノブに手をかけた。
「なくしてしまったことは、残念でしたが、でも、……それでもうれしいかったです。手伝っていただけて。……フィオさんと出会えて」
ドアノブをひねる、そのとき――
「まって!」
フィオの声がしんとした住宅街にひびく。
驚いてアイリはふり返る。フィオは道の向こうをずっと見やっていた。
その薄明かりの中に、きらりとひかる何かが見える。それは、
「蝶、だ」
思わずフィオの口からもれる。ひらひらと羽ばたくそれは、確かに蝶であった。近づくにつれて、はっきりと見えるようになる。
見覚えのある蝶。ガラスの羽を持っている。
「探していた蝶のブローチだよ!」
興奮してフィオの声はふるえている。アイリの目にはじんわりと涙があふれていた。
蝶は、落ち着く場所を探すように、はたはたとアイリの周りをとび、やがて彼女の手のひらの上にとまった。
「帰ってきてくれたの?」
胸に抱きしめて、彼女は涙を流した。大切なものを、ブローチにこめられた思いを包むように、彼女はしっかりと抱いていた。
「ありがとうございました」
その言葉には、よろこびがにじみ出ていた。目元は赤くはれていたが、今日一番の笑顔をたたえていた。
「よかったね。見つかって」
ふふっ、とフィオは笑う。顔を向き合わせて、互いに笑いかける。
「わたし、絶対に、絶対にこの子を大切にします。もうなくしません」
こくりと頭をさげて、アイリは黄色いドアの向こうに入っていった。
かちり、とドアが閉まるまで、フィオはずっと手をふっていた。
♦︎エピローグ
「それは、お疲れさま」
サフィーはフィオの話を聞き終わるとうなずいて、にっこりと笑った。澄んだ紅色の紅茶を口にふくんで、うっとりとした表情を浮かべた。フィオも、香りを心地よく思っていた。
昨日のできごとを思い出していた。昨日帰ってからはすでに遅くなっていて、話す時間がなかった。
ゆったりとした時間が流れる。春の陽気はそれを一段と感じさせる。
かしゅん。
ドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
ドアへかけよると、そこには黒髪の女の子が立っていた。
アイリだった。白いワンピースをきて、照れたように足元を見ている。
「フィオさん、こんにちは、です」
はにかむ彼女の胸元には、黄色い蝶がきらきらと、居心地が良さそうにかがやいていた。




