ガラスの蝶 3
よろしくお願いします。
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ガラスと言うものは、たいていしなやかに曲がらない。たたけば、こんこん、と音を立てる。落とすと粉々にくだける。ぶつけると痛い。
ガラス細工に使われるそれらも例外ではない。ガラスはよく、壊れやすいものの代名詞とされる。
けれど、それも昔の話になっていた。
いまから百五十年以上前のこと、もともとガラス産業が盛んだったこの地域で、世紀の発見がなされた。
一種のクモが見つかったのだ。
ガラス質の透明な体をもつそれは、硝子生命と名づけられた。体表はまさにガラスのようにすべらかで、硬い。けれど八本の足を、ふつうの生物のようにすらすらと動かす。
発見された当初は貴重で、持っている人は裕福だと言われた。そのため乱獲が相次いで、ただでさえ少ない個体が絶滅まで追いこまれた。
これではいけない、と動き出したのが、この街の委員会だった。街の外にグラシィを持ちだすのを禁止し、生息区域を保護した。その結果徐々にではあるが、個体数はもちかえしていった。
並行してグラシィの研究も行われていた。
それから五十年ほどのちに、驚くべき事実が明らかになった。
グラシィはふつうのガラスからも作られることがわかったのだ。もっとも、これが可能なのはごく限られた職人だけだった。原理その他はまだはっきりとしていないが、この発見により、この街のガラス産業はより盛んになっていった。
グラシィは、他の生物と違い、よほどのことがない限り活動を続けるので、主に贈答用として作られる。
フィオ自身、実物のグラシィを見たのは二度しかなかった。一度は野生のものを見つけたとき。もう一つはサフィーが作り出しだとき。
そう、サフィーもその限られた職人の一人なのだ。
フィオがあらかたグラシィについて説明を終えると、アイリは頭をかかえて縮こまっていた。
「そ、そんなに珍しいものだと知りませんでした」
語尾が少しふるえている。瞳がまたうるんでいる。
「そんなものをなくすなんて、わたしって、本当に……」
「ああっ、でも、まだ壊れちゃったわけではないから大丈夫だよ」
いまにも泣き出しそうなアイリの頭を、ぽんぽんとなでながら言った。
「えっ?」
「グラシィは自分でこの街から出られないんだよ」
「そう、なんですか?」
「もとはここで生まれたものだからね。帰巣本能、と言うか――」
ぐっ、とフィオは手のひらで胸をたたいた。
「だから、大丈夫! 探しに行けばいいんだよ」
ぽかん、としているアイリに、
「ねっ」
と、微笑みかけた。
時刻はもう四時を過ぎていた。傾き始めた紅い陽の光が、ステンドガラスを透過する。橙色に街が染め上げられていった。
「フィオさん、その用意はなんですか?」
少し待っていて、と言って、ガラス工房のすぐ裏手にある家に入ったフィオは、数分でまたアイリの目の前に登場した。あまりにも早い準備と、彼女の格好に押され、アイリは尋ねた。
「いやいや、備えあれば憂いなしってね」
右手には虫取り網、左手にはこの街の地図をもっていた。肩から斜めにさげた虫かご。リュックサックのポケットには懐中電灯がささっていた。
短めの髪に低めの身長、Tシャツにジーンズと言うラフな格好があいまって、フィオはどことなく少年のようだった。
「急ごしらえにしては用意がいいと言うか、なんと言うか」
少し、頼もしいかな――と目の前にいる女性を見つめて、アイリは思った。
「それじゃ、行こうか」
二人は、アイリが転んだと言う場所へと歩き始めた。お店のあるところから、海岸沿いを西に向かう。
この街は確かに坂が多い。と言うよりは土地全体が傾いている。山を降りて数分で海に着くような場所にあるからだ。
「そう言えば、フィオさん。網なんかをすぐに準備できるなんて、フィオさんってよく虫取りとかするんですか?」
んー、と数秒考えて、フィオは答えた。
「子供のころはよくやったね。最近はさっぱりやってないけど。……やぶれているかと思っていたけど」
手のひらで網を広げて、フィオは調べた。懐かしむような笑みを見せていた。
「でも、懐中電灯なんて、いりますかね」
アイリはポケットからそれを取り出して、かちかち、とつけたり消したりしている。
「ないよりは、あった方がいいかと思って」
――と、フィオの目がちらつく光をとらえた。
「アイリちゃん。あそこの光っているもの、なんだろう」
「行ってみましょう」
二人は走った。進むたびに大きくゆれるフィオの荷物に、アイリは気を取られて仕方がなかった。
その光る何かとの距離は、それほど多くはなかった。いや、あちらがフィオたちの方に向かって来ていたのだ。
走るのが苦手なのか、体力がないのか、息が切れ切れになっていたアンリは、ついに顔から倒れこんでしまった。
「わあっ、あ、いたっ」
石畳の道にうつ伏せになっている。やがて両手をついて起き上がったアンリの顔は、今日初めてあったよりも赤くなっていた。ただそれはぶつけたと言うよりは、恥ずかしさからくるものだった。
涙をこらえているのか、ぱちぱちと瞬きをくりかえしている。
「ほら、アイリちゃん」
フィオは手を差し出した。まるでそれが命綱であるかのように、彼女は両手で、しっかりと大事そうにつかまった。
ふるふるとふるえている両足でなんとか立ち上がって、はたはたとスカートをはたいた。
「ケガしていない?」
「はい、なんともないです。……すみません、そそっかしくて」
「いいよ。ケガがなくてよかった」
ほっ、と息を吐きだすと、ちょうどフィオの頭上を蝶がとんでいた。彼女を見上げていたアイリは、その姿をはっきりと認めた。
夕日に似た色の羽を優雅にゆらす、ガラスの蝶。胸にはピンがきらめいていた。
「あれです!」
えっ、と言う声とともにふり向いたフィオは、バランスをくずし、尻もちをついた。
「フィオさん、大丈夫ですか」
「アイリちゃん、これ」
言いながら指差したのは虫取り網だった。アイリはそれを取り上げると、ぶんぶん、と蝶めがけて振りまわした。ときにとびあがった。
しかし、蝶は悠々としてひらひらと羽ばたいて、散歩をしているのように難なくとんで行った。
「行っちゃったね」
「そうですね……」
「向こうって、確か丘の公園があったよね」
「もしかしたら、公園に行ったのでしょうか」
「とりあえず、追いかけてみよう」
網をアイリからそれを受け取ると、フィオたちは元の道を引き返していった。
すでに蝶の姿は明滅する点にしか見えないほど遠くなっていた。
今度はこけないように――二人は同じことを思いながら、東の丘へ走った。




