ガラスの蝶 1
何卒よろしくお願いします。
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やわらかな春の陽光が、ドアのステンドグラスを透過してお店の中を、淡く照らしていた。天井には心もとないほどの光量しかない白熱灯が、ぼんやりとついていた。店の中には彼女だけ。名前をフィオと言った。
「んっんー、っと」
両腕を高く上に伸ばして、彼女は回転椅子の上で大きく仰け反った。出そうになったあくびを危うくのみ込んで、くるくると椅子を回した。ボブカットの髪が、さらりとなびく。
ひま、ですね……――とお店を見渡しながら、フィオは思った。店内には目の届く限りガラス製の小物が並べられている。いずれも彼女の先生が作った作品たちだ。
青や紫と言った寒色の、色とりどりなガラスで作られたお皿やオブジェ。一目見るだけで、うっとりと心をひかれる。いつかフィオもこのような感動される作品を作りたい、と日々思い続けている。
一方で、カウンターデスクの上には、形の悪いブックマーカーが置いてある。これはフィオの作品だ。鳥をモチーフにしたもので、くちばしらしき突起がひょっととび出ている。色はついていなかった。
それをつまみ上げ、白熱灯に透かした。表面の凸凹がはっきり見えて不格好だけれど、彼女にとっては宝物だった。
しかし、それを眺めても、なかなか手持無沙汰なのに変わりはなかった。
午後三時、日はまだ高い時分だ。お客さんも来る気配がない。眠気にのみ込まれそうだった。
もう一度店内を見回す。……と、彼女はステンドグラスの向こうに、影があるのを見つけた。ちらちらと人影も映っている。
誰かいるのかな――期待と不安の入り混じった気持ちで、彼女はそろそろとドアを開けた。ドアはガラスでできたベルを、かしゅん、と鳴らした。
唐突に、
「きゃっ」
と短い声が聞こえた。フィオが顔を出して外を見ると、そこには女の子が立っていた。驚いたふうに大きくひらかれた目と口。
十歳ほどで、深い黒の髪を二つにしばっていた。肌は白く、しかし、健康そうには見えなかった。
「驚かせちゃったなら、ごめんなさい」
あわててフィオは頭を下げた。
「い、いえ」
と少女の方も、とまどったように手をふった。その勢いで、よく手入れされた長髪が、ふわりと宙を舞った。
「ところで、何をしているんですか?」
にこりと微笑みながらフィオは尋ねた。
「このステンドグラスがきれいで。見ていたんです」
「これは私の先生の作品なんですよ。ここから少し行ったところの丘をモチーフにしたそうです」
そこからは海が見える。いくつも重なる波が、微妙に色合いの異なるガラスを使って表現されている。光の受け方によって反射が変わり、表情を変えていく。
「きらきらとしていて……、みとれてしまいます。もしかしてここって、ステンドグラスのお店、ですか?」
女の子の目も、ガラスのように色が変わった。
「そうですね、ステンドグラスも作っています。ここはガラス細工のお店なんですよ」
そう言うと、女の子はきょろきょろとお店の周りを眺めた。
「でも、看板がないですよ」
「ついでにお店の名前もありません。名前のないガラス工房です。ぜんぶ先生のポリシーなんです」
その代わり、と言うわけではないが、そこでドアのステンドグラスが目印となる。ちょうどこの少女が見つけたように。
「ポリシー……ってあなたの先生、変わっていますね」
「まあ、変わっているよね」
ふふっ、とフィオは笑った。つられて女の子も笑顔になる。
「私、ここで修行しているんです」
「修行、ですか」
「ええ、一人前のガラス細工職人になるために、日々精進しています」
と彼女は胸に手をあてて言った。フィオは先生をとても慕っている。だから、ここで修行することは彼女にとって誇りであるし、だからこそ、自信を失ってしまわないよう心掛けていた。
今はまだ半人前だけれど、いつかは先生に恥じない職人になろう、と心に決めていた。
「ここのガラス細工って、どんなものがあるんですか」
女の子はフィオの顔を見上げて訊いた。
「いろいろありますよ。小さいものだと、ペンダントとかブローチとか。大きいものだと――」
「ブローチがあるんですか!」
フィオの言葉を遮って、女の子は興奮したふうに言った。彼女が身を乗り出したせいで、思わずフィオは足をひいて、仰け反ってしまった。
「えっ、ええ、ありますよ」
「あるん、です、ね」
取り乱した自分の姿が恥ずかしくなったのか、だんだんと声は小さくなっていった。ほほはほんのりと赤く染まって、彼女はうつむいた。
「でも、ブローチがどうかしたの?」
打って変わって、女の子はもじもじとしている。言葉に出すのをためらっているようにも見えた。
やがて、意を決したように顔を上げて、彼女は、
「わたし、ガラスでできた蝶のブローチを探しているんです」
と言った。彼女の目は少しうるんでいた。
「おじゃまします」
おずおずと体をかがめて、女の子はお店に入った。壁に沿って並べられたガラス細工の数々に、彼女は圧倒された。ほの明るい白熱灯の光を受けて、透明なその奥に温かい何かを秘めているように感じられた。ため息が自然ともれる。
「すごいですね……」
と、思わず言葉が出てきた。一目でわかる、魅力のある作品たちだった。
「ぜんぶ先生の作品だよ」
「すごい先生なんですね……」
「この街でも有名な職人さんだからね。サフィーさんって、知っているかな?」
フィオは尋ねた。女の子はあごに指をあてて、思い出そうとした。けれど、結局思い当らなかったのか、「ごめんなさい、知りません」と答えた。
「でも、今日はいらっしゃらないみたいですね」
きょろきょろと店内を見回しながら言った。
「今日は用事があって出かけているんです」
「一目お会いしたかったです」
「いつか会えるよ、きっと」
ふふっ、とフィオは微笑んだ。
「そう言えば、自己紹介がまだだったね」
彼女は、女の子の方に向き直って、こほん、と咳払いを一つ。
「私はフィオって言います。ここでガラス細工の修行をしています。よろしくね」
「わたしは……アイリと言います。よろしくお願いします」
「アイリちゃん、だね。それで――」
ぱちん、とフィオは手を打った。
「蝶のブローチを探しているんだったね」
こくりとアイリはうなずく。
「わかった。ちょっと探してくるから、待っていてね」
そう言うと、フィオはお店の奥に行ってしまった。
どうやら、ここにあるもの以外にも、作品はあるらしい。
静かなお店の中に、ぽつんとアイリは残された。窓の方へ歩いていくと、そこにもステンドグラスがはまっていた。
ドアのとは異なり、これは青空をモチーフにしたものであるらしい。空と、その下に灯台と海が見える。ミルクのように甘い白色に、群青が溶け混ざっている。ぼんやりとした空の色。白い灯台がはっきりと見える。不透明なガラスを使ってありながら、透明なすがすがしさを感じる。海風が吹いてくるようだった。
きれいだな――うっとりとしたため息を彼女はもらした。
しかし同時に、彼女の心には悲しみが渦巻いていた。申し訳なく思っていた。
彼女はお店の真ん中で、ぼうっと立っていた。
これでいいのかな――と、考えていた。
「おまたせー」
ふいに、フィオの声が聞こえた。彼女は大きなかごを両腕で大切そうに抱えていた。ひょこひょこと歩く彼女の姿を見て、アイリは笑みがこぼれた。
さっきまでの考えを、彼女は心の奥に押し込めて、
「ありがとうございます!」
と言った。