無口な同期に六年間恋されてた私。ひょんな事から同棲することになりました
オフィスラブなのでちょっと遅めに投稿。
水野凪咲、二十八歳。
今、私は絶賛残業中である。
午後九時を過ぎると、オフィスは急に広く感じる。
昼間なら、電話の呼び出し音やキーボードを叩く音、誰かが誰かに確認を取る声、時折聞こえてくる笑い声まで……いくつもの音が絶えず重なっているフロアなのに、この時間になるとそれらが一つずつ消えていき、広い空間だけが取り残されたような静けさに包まれていた。
窓の外には夜の街が広がっている。
そんな景色を横目に見ながら、私はパソコンの画面を睨みつけていた。
「……終わらない」
思わず、独り言が漏れる。
今日中に終わらせるつもりだった。
少なくとも、午後五時の時点では本気でそう思っていた。
ところがその後から修正依頼が入り、取引先から確認事項が届き、それに対応しているうちに別の資料にも不備が見つかり……気がつけば時計の針はとっくに九時を過ぎていた。
「……帰りたい」
今度は少しだけ大きな声が出た。
「じゃあ帰れば?」
「うわっ!」
突然、背後から声がした。
私は驚いて肩を跳ねさせ、勢いよく声がしたであろう方向を見る。
「びっくりした……」
「そんなに驚く?」
「驚くよ。急に喋るんだもん」
「普通に喋っただけだけど」
数メートル離れた席に座っていた男性が、こちらを見ていた。
黒崎蓮、二十八歳。
私と同じ年で、入社六年目の同期。
私は営業部。
黒崎くんは経理部。
部署は違うけれど、同じフロアで働いているから顔を合わせる機会は多い。
必要な時に話す。
すれ違えば挨拶をする。
たまに雑談をする。
その程度の関係だ。
ただ、六年も一緒に働いていると、それなりに相手のことは分かってくる。
黒崎くんは無口だ。
人付き合いも、あまり得意ではない。
大人数で盛り上がっている場所では、いつの間にか端の方にいる。
でも、困っている人がいれば放っておけない。
仕事について聞けば、面倒くさそうな顔もせずにきちんと教えてくれる。
そんな人だ。
「黒崎くん、まだいたんだ」
「水野さんこそ」
「私は終わってないから」
「俺も」
「珍しいね」
「そう?」
「黒崎くん、普段もっと早く帰るじゃん」
「今日は仕事多かったんだ」
「へえ」
そう言うと、黒崎くんは再びパソコンへ視線を戻した。
別に、それ以上会話が続くわけでもない。
こういうところも、いつものことだった。
でも。
不思議と気まずくはない。
「コーヒー飲む?」
しばらくして、黒崎くんが立ち上がった。
「え?」
「自販機」
「ああ……お願い」
「何がいい?」
「ブラック」
「分かった」
黒崎くんはフロアの端にある自販機へ向かっていった。
数分後。
私の机の端に缶コーヒーが置かれる。
「はい」
「ありがとう」
プシュッ、と蓋を開ける。
一口飲む。
「……生き返るぅ」
「大げさ」
「この時間のブラックコーヒーは命の水だから」
「寝られなくなるぞ」
「黒崎くんも飲んでるじゃん」
「俺はいいんだよ」
「何で?」
「慣れてるし」
「それは堂々と言う事じゃないでしょ」
そう言うと。
黒崎くんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……今、笑った?」
「笑ってない」
「笑ったよ」
「気のせい」
「絶対笑った」
「仕事しろ」
「はいはい」
私は笑いながら画面へ向き直った。
それからしばらくして、私は数字が合わない資料に頭を抱えた。
「……あれ?」
何度確認しても合わない。
「なんでー……」
「見せて」
「え?」
いつの間にか、黒崎くんが私の隣に立っていた。
「ここ」
画面を指差す。
「この数字、一桁違う」
「あ」
本当に違っていた。
「点の位置が間違ってる」
「うん」
修正する。
計算結果がぴたりと合った。
「……合った!」
「よかったね」
「黒崎くん、すごい」
「経理だからかな?数字には強いんだ」
「いや、それでもすごいよ。助かった」
「ならよかった」
それだけ言って、黒崎くんは自分の席へ戻っていった。
私はその背中を見ながら、少しだけ笑う。
こういうところは昔から変わらない。
親切なのに、それを大したことだと思っていない。
誰かが困っていたから助ける。でも見返りは求めない。
ただ、それだけ。
……そういえば。
入社したばかりの頃にも、似たようなことがあった。
六年前。
新入社員研修の最後の日。
配属先へ提出する書類をなくして困っていた黒崎くんを見つけて、私は一緒に探した。
最終的に直前まで使ってた会議室に置いてあった。
「よかったー!」
そう言って笑ったことを、なぜか今でも覚えている。
別に大したことではない。
困っている同期がいたから、一緒に探した。
ただそれだけだった。
「……何?」
「え?」
「さっきからニヤニヤ笑ってるけど」
黒崎くんがこちらを見ている。
「ああ。入社した時のこと思い出してた」
「入社した時?」
「黒崎くんが書類なくしたやつ」
黒崎くんが一瞬だけ黙った。
「……ああ」
「覚えてる?」
「覚えてる。水野さん、よく覚えてるね」
「まあね、でも見つかってよかったよね」
「……うん」
その時。
黒崎くんが、少しだけ笑った。
よく見ないと分からないぐらい、ほんの少しだけの笑顔。
私はつられて笑う。
「じゃあ、そろそろ終わらせよう」
「そうだね」
静かなオフィスに、二人分のキーボードを叩く音が響き始めた。
この時の私は、まだ知らなかった。
六年前。
あの日、一緒に書類を探したことを。
私にとっては何気ない出来事だったその時間を、黒崎蓮が一度も忘れていなかったことを。
そしてあの日から六年間。
彼が、ずっと私のことを好きだったことを。
「水野さん」
「はい」
「ちょっといい?」
翌朝。
出社してすぐ、私のスマホに着信が入る。
スマホの画面に映るのは私の住む『マンションの管理人さん』だった。
なんだろう?と思いながら共用部に移動して電話に出る。
「なぎちゃんの住んでいるマンションのことなんだけど」
管理人さんの言葉に、私は首を傾げた。
「はい」
「昨日、何度か連絡したんだけど……」
「あ!ごめん、おばちゃん!忘れてた!」
実は昨日の夜。
帰宅する途中で、マンションの管理人さんから何度も電話がかかってきていた事に気付いた。
ただ、着信の時間が仕事中だったのでどちらにせよ出られなかったのだが……。
あとでかけなおそうと思っていたのに……ついつい忘れてしまっていた。
帰宅後、結局そのまま寝てしまったのだ。
「なんでも施工不良が見つかったらしいのよ」
「……施工不良?」
「詳しいことは、まだ調査中みたいだけどね」
嫌な予感がした。
「えーっと……それで?」
「建物の一部に、安全上の問題がある可能性があるらしいの」
「……えー!?」
「しばらく住民には退去してもらう方向で話が進んでるみたい」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「退去?」
「うん」
「え?引っ越せってこと?」
「うん、そういうことになると思う」
「……急に?」
「ごめんね?私もそう言ったんだけど私じゃどうにも出来なくって……」
「おばちゃんは悪く無いよ!悪いのは施工に不良があった会社の方!連絡ありがと!また何か分かったらお願い!」
急すぎる。
昨日まで普通に住んでいた。
今朝だって、普通に家を出てきた。
なのに……今日帰ったら、
「もうここには住めません」
となる可能性があるらしい。
「ちなみに補償は?」
「そこも、まだ何も決まってないみたい」
おばちゃんが答える。
「引っ越し費用くらいは出るかもしれないけど、それ以上は現時点では何とも言えないって」
「……」
「とりあえず、今日中に直接管理会社へ連絡した方がいいと思うわ」
「分かった、連絡してみるね。ありがとう!」
そう答えたけれど。
全然、分かっていなかった。
共用部を出て、自分の席へ戻る。
とりあえずパソコンを開いて仕事を始める。
でも何も頭に入ってこない。
これから、どこで寝れば良いんだろう。
ホテル?
でも、いつまでかかるか分からない。
マンスリーマンション?
急に借りられるものなのかな。
そもそも、家具も荷物もある。
「……どうしよう」
思わず呟いた。
「何が?」
隣から声がする。
黒崎くんだった。
「え?」
「なんかあった?」
「……」
少し迷った。
でも、別に隠すようなことでもない。
「えっと、簡単に言うと……。私、家がなくなるかもしれない」
「は?」
「正確には、今住んでるマンションに住めなくなるかもしれない」
事情を説明する。
黒崎くんは黙って聞いていた。
「だから今日、帰ったら管理会社と話すんだけど」
「うん」
「多分、急いで引っ越さないといけないらしくて」
「……そう」
「困った」
「そうだね」
「ホテルに住むしかないのかな」
「長期間?」
「分からない」
「高くない?」
「高いよ」
「補償とかは?」
「分からない……。でも最悪自腹な可能性も出てくる」
「じゃあ……」
黒崎くんが、一度だけ言葉を止めた。
そして。
「うち来る?」
「……え?」
「部屋余ってるから」
一瞬。
本当に意味が分からなかった。
「黒崎くんの家?」
「うん」
「私が?」
「他に誰がいるの」
「いや」
私は思わず笑ってしまった。
「同期の男の家に住むの?」
「嫌なら別にいい」
「嫌とかじゃなくて」
「困ってるんでしょ」
「困ってるけど」
「部屋あるし」
黒崎くんは、あまりにも普通の顔をしていた。
「でも迷惑じゃない?」
「別に」
「本当に?」
「うん」
「私、結構長くいるかもしれないよ?」
「それでもいい」
「……」
「嫌なら断って」
そう言われると……。
なんだか断りづらい。
ぶっちゃけかなり助かる。
結局その日の夜。
私は管理会社から正式な説明を受けた。
やはり建物の施工不良が発覚し、安全確認と補修工事のため、住民には退去を求める方針らしい。
いつ戻れるのかも、現時点では分からない。
補償についても、明確な回答はなかった。
引っ越し費用などについては今後協議するという。
つまり、何が言いたいのかと言うと。
……私は家を失った。
「……お邪魔します!」
「どうぞ」
次の日の夜。
私はスーツケース一つを持って、黒崎くんのマンションの前に立っていた。
さすがに。
引っ越しが完了したわけではない。
荷物の整理や搬出はこれからだ。
とりあえず、今日必要なものだけを持ってきた。
「本当にいいの?」
「何回聞くの」
「だって」
「いいよ」
黒崎くんはそう言って、玄関の奥を指差した。
「こっち」
案内された部屋を見る。
「ここ使って」
「……普通に部屋じゃん」
「部屋だから」
「もっと物置みたいなところを想像してた」
「失礼だな」
「ごめん。ってかなんでこんな広いとこ住んでんの?そしてこの部屋めっちゃ女の子っぽいんですけど!?」
「あれ?言ってなかったっけ?それ全部妹のやつ。今長期留学中でアメリカいるからしばらく帰ってこないから気にしないで」
「いやいやいや、私が使っちゃって良いの!?」
「妹、そんなの全然気にしないから大丈夫。一応連絡しといたけど本人も了承済み。『好きに使って良いよー』だってさ」
「ほへー」
「ちなみに妹、まだ大学生で親も心配だから『家賃手伝う代わりに妹を蓮のとこで下宿させてくれー!』って言われてさ。俺も確かに心配だし、家賃も助かるしちょうど良かったかなって思ってる」
「そうなんだ……」
ベッド。
机。
収納。
普通に生活できる部屋だった。
「すごい」
「何が?」
「普通に住める」
「だから言ったじゃん。部屋だって」
私は笑った。
「ありがとう」
「別に」
「いや、本当に助かる」
「そう」
「お金は?」
「いらない」
「でも」
「光熱費が多少増えるくらいだし」
「それは払うよ」
「じゃあ、好きにして」
相変わらず、そっけない。
でもそれが黒崎くんらしかった。
「お風呂、先に入る?」
「水野さんからでいい」
「なんで?」
「俺、まだちょっと仕事残ってるから」
「あ、そっか」
黒崎くんはリビングに置いてあるノートパソコンを指差した。
「今日、家でも仕事するの?」
「ちょっとだけ」
「大変だね」
「水野さんほどじゃない。俺、桁間違えないし」
「この前のこと言ってる?」
「言ってない」
「絶対言ってる」
私は笑いながら自分の部屋になる場所へ荷物を置いた。
そしてその夜。
お風呂から上がった私は、リビングへ戻って。
そこで初めて。
黒崎蓮という人間を、少しだけ違う目で見た。
「……あ」
「何?」
ソファーに座っていた黒崎くんが顔を上げる。
髪を括っていた。しかもちょんまげみたいに。
「え?なんでちょんまげ?」
「あ、俺いつも家ではこんな感じ」
会社ではいつも整えている前髪も、今は頭上でゆらゆら揺れている。
そして眼鏡を外していた。
「黒崎くん」
「なに」
「コンタクトにしたら?眼鏡外すと男前じゃん」
「……は?」
「いや」
私は思ったままを口にした。
「会社ではずっと眼鏡かけてるしさ」
「そういうこと普通に言うな」
「褒めただけじゃん」
「褒め方考えて」
「え、なんで?」
「いいから」
黒崎くんが、少しだけ顔を逸らす。
私は首を傾げた。
「え?……照れてる?」
「照れてない」
「絶対照れてる」
「風呂入ってこい」
「もう入った」
「あ、そうか。じゃあ寝ろ」
「まだ十時だよ」
「早く寝ろ」
「ひどい」
私は笑った。
でもその時からだったと思う。
会社で見ている黒崎くんと、今目の前にいる黒崎くんが少しだけ違って見え始めたのは。
同居生活は思っていたよりも、ずっと普通だった。
最初の二日くらいは、お互いに少しぎこちなかった。でも三日目には。
「ただいまー」
「おかえり」
そんな会話が普通になっていた。
会社では、
「水野さん、この書類」
「ありがとう」
「これ経費申請いる?」
「うん」
と、いつも通り。
家に帰れば。
「黒崎君今日、何食べたい?」
「何でもいい」
「それが一番困るんだけど」
「じゃあ、水野さんが決めて」
「あ、人に丸投げした」
「だって俺料理できないから」
「本当に?」
「本当に」
冷蔵庫を開ける。
中にはペットボトルのお茶と卵と、いつ買ったのか分からない調味料が少しだけ入っていた。
「……黒崎くん」
「なに」
「普段、何食べてるの?」
「コンビニか惣菜屋さん……かな」
「毎日?」
「まあ」
「外食は?」
「たまーーーに」
「野菜は?」
「……」
「食べてないんだ」
「食べてる」
「いつ?」
「昨日」
「何を?」
「や……野菜ジュース」
「それは野菜じゃない」
「入ってるだろ」
「屁理屈だよ」
私はため息をついた。
「これから時間がある時は私がご飯を作りまーす!」
「え?」
「お世話になってるしね!」
「別にいいのに」
「いいのいいの。こう見えて私、結構料理上手なんだよん。よし!そうと決まればスーパーへ買い出しだ!行くぞ、黒崎隊員!」
「へーい」
近くのスーパーへ行き、二人で買い物をする。
それだけなのになんだか不思議な気分だった。
「これ安い」
「そっちの方が量多くない?」
「でも使い切れないよ」
「水野さん、ここしばらくいるんでしょ」
「……確かに」
当たり前の会話。
でも会社では絶対にしないような会話だった。
夕食を作る。
黒崎くんは、私がキッチンに立っている間、リビングでスマートフォンを触っていた。
料理ができると。
「できましたー!」
「うん、ありがと」
テーブルに並べる。
「「いただきます」」
黒崎くんが一口食べた。
「どう?」
「美味しい」
「本当に?」
「うん」
「もっとなんかないの?」
「何が?」
「……か、感想とか?」
「えーっと。美味しいです」
「それさっき聞いた」
「じゃあ、かなり美味しい」
「雑」
私は笑った。
黒崎くんも少しだけ笑う。
その瞬間、ふと思った。
この人と二人で夕食を食べるの、意外と悪くない。
いや、普通に楽しい。
一週間後。
私は会社で、営業部の先輩に声をかけられた。
「水野」
「はい?」
「佐伯くんから聞いたんだけど」
「何をですか?」
「今度、二人でご飯行くの?」
佐伯さん。営業三課の先輩だ。
一つ年上で、営業成績も良い。
見た目も悪くない。
「はい。まあ、ちょっと」
「へえ。付き合ってるの?」
「それ、セクハラですよ?ただご飯に行くだけですー」
「じゃあ脈あるじゃん」
「どうでしょう」
そんな会話をしていると。
少し離れたところから、視線を感じた。
黒崎くんだった。
しかし目が合った瞬間。
何事もなかったようにパソコンへ視線を戻した。
「……?」
その日の夜。
私は佐伯さんと食事をした。
普通に楽しかった。
仕事の話。
会社の愚痴。
趣味の話。
会話も弾んだ。
そして。
「じゃあ、また行こう」
「はい」
そんな感じで別れた。
家へ帰る。
「ただいまー」
「おかえり」
黒崎くんは、リビングにいた。
「まだ起きてたんだ」
「うん」
「仕事?」
「いや、なんとなく」
「珍しい」
「そう?」
私はバッグを置く。
「佐伯さんとご飯だったんでしょ」
「え?」
「昼間、聞こえた」
「ああ」
「楽しかった?」
「普通に」
「へえ」
「何?」
「別に」
「なんか冷たくない?」
「普通」
「絶対普通じゃない」
「普通だって」
私は黒崎くんの顔を覗き込む。
「……ははーん、もしかして」
「なに」
「拗ねてる?」
「は!?ちげぇし!」
「いや、なんか」
「拗ねてない」
「じゃあ何?」
「別に何でもない」
黒崎くんは立ち上がった。
「風呂入ってくる」
「あ、逃げた」
「逃げてない」
「逃げたじゃん」
「さっさと着替えなさい」
「はいはーい」
「まったく……」
そう言って黒崎くんは風呂場へ消えていった。
私はその背中を見ながら、首を傾げる。
「……なんだったんだろ」
その時はまだ、何も分かっていなかった。
さらに数日後。
会社で偶然、経理部の先輩と話す機会があった。
「そういえば、水野さんって黒崎と同期だよね?」
「はい」
「黒崎から何か聞いてたりする?」
「何か、とは?」
「最近あいつ、なんか様子が変なんだよ」
「え?どんな感じですか?」
「心ここに在らず、っていうかぽけーっとしてるというか。なんか浮かれてるような感じ」
「えー?そうなんですか?」
「あいつ仕事はさっさと終わらして定時に帰ってたのに最近よく残業してるんだよ」
「え?単純に終わってないだけなんじゃないんですか?」
「いや、あいつ仕事早いからそんなはずないよ」
私は少しだけ首を傾げた。
「そうなんですか?」
「うん。まぁ月末とかは別だけど」
「……」
確かに。
黒崎くん、意識してなかったけど以前は早く帰っていた気がする。
普通に早かった。
私が今日は早めに帰れそうだなーって日でも先に、
「お先に」
と言って帰ることもある。
でも最近は同じような時間になっているような……。
だから仕事が終わっているのに、わざわざ私を待っていた。
なんてことはない。
そんなことをする人じゃない。
そう思っていた。
その週の日曜日。
私は自分のマンションの荷物を整理するため、一度部屋へ戻った。
黒崎くんも手伝うと言ってくれた。
「本当にいいの?」
「荷物多いんでしょ」
「でも休みなのに」
「別に予定ないし」
「友達とか」
「いないわけじゃない」
「じゃあいるんだ」
「失礼だな」
「ごめんごめん」
二人で笑う。
部屋の中は、すでに必要な調査が終わっていた。
あとは荷物をまとめて搬出するだけ。
私は棚の奥に置いてあった書類を取り出す。
「これ何?」
「保険関係」
「こっちは?」
「分からない」
「自分の家なのに?」
「昔の書類とか……かな?」
段ボールに詰めていく。
その途中。
「……あ」
一枚の紙が落ちた。
拾い上げる。
見覚えがある。
「これ」
黒崎くんが振り返った。
「どうした?」
「六年前の研修資料」
「え?」
「見て」
書類の日付を見る。
間違いない。
入社した年。
新人研修で使った資料。
「なんでまだ持ってるの?」
「……捨て忘れたんじゃない?」
「六年間?」
「そういうこともあるでしょ」
「いや、ないと思う」
私は笑った。
そしてもう一度、その書類を見る。
ふと思い出す。
「あ」
「何?」
「これ」
私は黒崎くんを見る。
「私たちが一緒に探した書類と同じやつじゃない?」
黒崎くんの動きが止まった。
「……覚えてる?」
「うん」
「私、六年も経ったけどなんかずっと覚えてるんだー」
「うん」
研修室。
困った顔をしていた黒崎くん。
一緒に探して。
書類を見つけて。
「よかったー!」
と笑った。
本当に。
それだけのこと。
「懐かしいね」
「そうだね」
「黒崎くん、あの時すごく困ってたよね」
「……うん」
「新人初日から書類なくしたって」
「言わなくていい」
「ごめんごめん」
私は笑った。
でも黒崎くんは笑わなかった。
少しだけ、困ったような顔をしていた。
「……黒崎くん?」
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
でもその時から。
私は少しだけ気になっていた。
黒崎くんは六年前の話をした時、なんであんな表情だったんだろう。
その日の夜。
なんだか私はなかなか眠れなかった。
ベッドの上。
暗い天井を見つめる。
黒崎くん。
入社してから六年間。
私はずっと、彼をただの同期だと思っていた。
頼りになるし、優しい。
無口で少し変わっている。
でも異性として考えたことは、一度もなかった。
なのに最近、少しだけ変だ。
会社で眼鏡をかけている顔を見ると。
逆に家で眼鏡を外していた姿を思い出す。
仕事中。
ふと目が合うと。
なんだか以前より意識してしまう。
そして今日、また佐伯さんからまた連絡が来ていた。
『今度、映画でも行かない?』
悪い人じゃない。
むしろ、普通にいい人だと思う。
でも返事を書こうとして。
……なぜか黒崎くんの顔が浮かんだ。
そして。
「……何してるんだろ」
リビングから、かすかな物音がする。
私はベッドを出た。
ドアを開けるとリビングには、黒崎くんがいた。
ソファに座っている。
「黒崎くんまだ起きてたの?」
「水野さんこそ」
「なんだな寝られなくて」
「そう」
私は少し迷ってから、隣に座った。
テレビはついていない。
静かだった。
「ねえ」
「なに」
「佐伯さんから、また誘われた」
黒崎くんの表情が、一瞬だけ変わった。
本当に一瞬。
気のせいかもしれないくらい。
「そう」
「映画行こうって」
「へえ」
「行った方がいいかな」
「水野さんが行きたいなら」
「……黒崎くんは?」
「俺?」
「どう思う?」
「それ俺が決めることじゃなくない?」
「そう……なんだけど」
「佐伯さん、いい人なんでしょ?」
「うん」
「じゃあいいんじゃない」
いつもの黒崎くんだった。
淡々としている。
でもなぜだろう。
少しだけ、寂しいと思ってしまう自分がいた。
私は自分でも意味が分からなくなって。
「……そっか」
とだけ答えた。
「おやすみ」
「ん、おやすみ」
そしてそのまま自分の部屋へ戻った。
スマートフォンを見る。
佐伯さんとのトーク画面。
しばらく見つめて、私は返事を書いた。
『ごめんなさい。今はちょっと忙しくて』
送信する。
それから、なぜか少しだけ安心した。
マンションの修繕方針が決まり。
私の新しい住居も、なんとか見つかった。
突然の退去だった。
補償については、まだ何も決まっていない。
少なくとも、すべての生活費を面倒見てもらえるわけではなさそうだった。
そしてこれ以上、だらだらと黒崎くんの家に世話になるわけにもいかない。
「引っ越すの?」
「うん」
「そっか」
黒崎くんは、それだけ言った。
いつもの顔。
いつもの声。
「来週には新しい部屋に入れるから」
「分かった」
「……本当に助かったよ。ありがと」
「別に」
「黒崎くんがいなかったら、普通に詰んでた」
「大げさ」
「大げさじゃないよ」
私は笑った。
黒崎くんも、少しだけ笑う。
それから数日後。
私は荷物をまとめた。
スーツケース。
段ボール。
ここへ来た時より、少しだけ荷物が増えている。
「とりあえずこれで終わり?」
「うん」
「運ぶの手伝うよ」
「いいよ。もう十分手伝ってもらったし」
「最後くらい」
「じゃあお願いね」
二人で荷物を玄関まで運ぶ。
最後の段ボールを置く。
私は部屋を見回した。
一か月にも満たない。
それでも、毎日ここへ帰ってきた。
「ただいま」
と言って。
「おかえり」
と返される。
その生活が、今日で終わる。
「……ねえ」
「ん?」
私は玄関の前で振り返った。
「黒崎くん」
「なに」
「なんで、あの時」
「うん」
「私を家に住まわせてくれたの?」
黒崎くんが黙る。
「困ってたから」
「それだけ?」
「それだけ」
「本当に?」
「……本当に」
「じゃあ」
私は少しだけ笑った。
「なんで六年前の研修の話した時、あんな表情してたの?」
「……」
「あの時は何も聞かなかったけど、気になっちゃって」
「何でもない」
「嘘」
「なんで」
「なんとなく」
私は黒崎くんの目を見る。
「黒崎くん、嘘つく時、ちょっと黙るから」
黒崎くんが目を見開いた。
「……そんなことない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
少しだけ沈黙が落ちる。
私は続けた。
「あの日のこと」
「……」
「そんなに覚えてる?」
黒崎くんは答えなかった。
だから私は、もう一歩だけ踏み込んだ。
「私が一緒に書類探したこと」
「うん」
「そんなに大したことだった?」
長い沈黙。
そして。
「……俺には」
黒崎くんが、小さな声で言った。
「大したことだった」
心臓が一度だけ、大きく跳ねた。
「なんで?」
聞いてはいけない気がした。
でも聞かずにはいられなかった。
黒崎くんは、しばらく黙っていた。
逃げるように視線を逸らす。
そして小さく息を吐いた。
「……好きだから」
「え?」
「水野さんのこと」
一瞬。
何も聞こえなくなった。
「入社した時から」
「……六年前から?」
「うん」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
黒崎くんが笑う。
困ったような笑い方だった。
「だから、あの日のことはすごく覚えてる」
「……」
「書類探してくれたから好きになったっていうより」
少し考えて。
「最初から、気になってた」
「え?」
「でも、あの時」
黒崎くんは言った。
「誰にも助けを求められなかった俺に、水野さんが普通に声かけてくれたから」
「……」
「それが嬉しかった」
私は何も言えなかった。
「それで」
黒崎くんが続ける。
「気づいたら好きになってた」
「六年間?」
「うん」
「……長くない?」
「長いね」
「なんで言わなかったの?」
「言えるわけないだろ」
「なんで?」
「同期だから」
「……」
「水野さんは、俺のことそんなふうに見てなかったし」
黒崎くんは笑った。
「今の関係が壊れるくらいなら、これでいいと思ってた」
「……」
「だから、家に来た時も」
少しだけ言葉を止める。
「普通に嬉しかった」
その言葉で胸の奥が、ぎゅっとなった。
「でも」
黒崎くんは続けた。
「それだけ」
「……」
「水野さんに好きになってほしくて住ませたわけじゃない」
「……」
「困ってたから助けただけ。これは本心」
そう言って、黒崎くんは玄関のドアを見た。
「もう引っ越すなら」
いつものように。
何事もなかったように。
「これからも、普通に同期でいればいい」
私は少しだけ腹が立った。
「それは嫌」
「……え?」
黒崎くんが目を見開く。
「私」
顔が熱くなる。
でも、もう誤魔化したくなかった。
「もう、黒崎くんのこと、ただの同期だと思えない」
「……」
「一緒に住んで」
「……」
「毎日帰ってきて」
「……」
「黒崎くんが『おかえり』って言ってくれるの」
少しだけ笑う。
「結構好きだった」
黒崎くんが固まった。
「それに」
私は一歩近づいた。
「会社で眼鏡かけてる黒崎くんを見ると」
「……」
「家で眼鏡外してた顔、思い出すし他の人に見られたく無いって思っちゃうし」
「水野さん」
「なに?」
「それ以上言わない方がいい」
「なんで?」
「心臓に悪い」
思わず笑ってしまった。
「……黒崎くん」
「うん」
「六年間も好きだったならさ」
私は言った。
「もう少しくらい頑張ってよ」
「え?」
「私のこと」
胸が、うるさい。
でもちゃんと言う。
「これから、ちゃんと口説いて」
黒崎くんが。
完全に固まった。
「……嫌?」
恐る恐る聞く。
すると黒崎くんは、ゆっくり笑った。
今まで見たことがないくらい。
はっきりと。
「嫌じゃない」
「本当に?」
「むしろ」
一歩。
黒崎くんが近づく。
「ずっと、そうしたかった」
そして少しだけ迷ったあと。
黒崎くんの手が、私の手を握った。
「じゃあ」
「うん」
「最初に、一つ」
「なに?」
「今度、映画行かない?」
私は笑った。
「それ、佐伯さんと行く予定だったやつ?」
「……会社で佐伯さんが話してるの聞こえて」
「盗み聞きしてたんだ?」
「……ごめん」
「じゃあ、ずっと気になってた?」
「少し」
「拗ねた?」
「拗ねてない」
「絶対拗ねてた」
「行くの?」
「映画?」
「うん」
「行く」
私が答えると。
黒崎くんが、少しだけ嬉しそうに笑った。
その顔を見て思った。
六年間。
ずっと私のことを好きだったらしい。
そんなこと全然知らなかった。
でもこれからは。
少しずつ知っていけばいいと思う。
同期としてじゃない。
ただの同居人でもない。
一人の男の人として。
黒崎蓮という人を。
数か月後。
午後九時を過ぎたオフィス。
「……帰りたい」
私が呟く。
すると。
「じゃあ帰れば?」
少し離れたところから声がした。
「黒崎くんも?」
「あと少し」
「本当に?」
「本当」
「仕事終わってるのに残ってない?」
「残ってない」
「働き者ですなぁ」
「何だよそれ」
「あ、別に褒めてないよ」
「知ってる」
二人で笑う。
そしてしばらく仕事を続ける。
数十分後。
「終わった!」
「お疲れ」
「黒崎くんは?」
「終わった」
「じゃあ帰ろう」
「うん」
会社を出る。
夜の街を並んで歩く。
以前なら駅の分かれ道で、
「じゃあ、また明日」
と言っていた。
でも今は違う。
「今日、うち来る?」
私が聞く。
「凪咲の?」
「うん」
「いいの?」
「映画の続き見たいって言ってたでしょ」
「ああ」
「それとも帰る?「行く」」
「即答じゃん」
「行きたいから」
私は笑った。
「じゃあ帰ろう、蓮」
「……うん」
ただの同期だった。
六年間。
私は彼の気持ちを知らなかった。
そして彼は自分の気持ちを言えなかった。
でも少しだけ一緒に暮らしたことで。
今まで知らなかったお互いを知った。
だから。
これからは。
会社でも。
会社の外でも。
もう少しだけ。
近くにいてもいいと思う。
――六年間、私のことが好きだった同期と。
今日も私は、一緒に帰る。
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