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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第66話 狩人の少年



 若いハンターは、血の匂いがした。


 正確には、血を浴び慣れていない者の匂いだった。


 鉄。


 革。


 銀油。


 新しい刃に残る研磨粉。


 そして、緊張で薄く乱れた人間の血。


 クラウディオ・ルジェリウスは、その匂いだけで相手を値踏みした。


 若い。


 未熟。


 だが、完全な素人ではない。


 恐怖を知っている。


 吸血鬼を殺す訓練も受けている。


 それでもまだ、死の間合いに踏み込んだ回数が少ない。


 そういう血の匂いだった。


 外縁北路の狩人詰所は、雨に濡れていた。


 木造の壁は古く、屋根から水が滴っている。中にはハンター用の銀刃、杭、血止めの布、獣化種用の拘束鎖が並んでいた。


 ルストは詰所の入口で、年配のハンターと話していた。


 相変わらず、声は低く短い。


 必要なことしか言わない。


 外縁に出た崩れ種の数、野良吸血鬼の移動経路、村人の避難状況。


 そうした話をしている。


 クラウディオは少し離れた壁際に立っていた。


 同行者。


 そういう扱いだった。


 捕虜ではない。


 従者でもない。


 だが、自由でもない。


 それを周囲は敏感に感じ取っている。


 狩人たちの視線が、ちらちらとクラウディオへ向く。


 黒髪。


 白い肌。


 赤い瞳。


 喉元に残る牙の痕。


 美しい。


 危険。


 そして、灰銀のハンターのすぐ近くにいる。


 何者なのか、と目が問う。


 クラウディオは、その視線を楽しむほど機嫌がよくなかった。


 灰銀の血が、まだ口の奥に残っている気がする。


 前夜、器の血に混ぜられたルストの血。


 あれは飢えを鎮め、傷を塞ぎ、王血の暴れを押さえた。


 だからこそ最悪だった。


 効いてしまった。


 必要になりかけている。


 それが、クラウディオの内側を苛立たせ続けていた。


 灰銀の血など欲しくない。


 そう言った。


 事実だった。


 だが、身体はあの血で少し楽になった。


 その矛盾が、喉の奥に刺さっている。


 だから、クラウディオは血が欲しかった。


 ルストに与えられる血ではない。


 床の器でもない。


 灰銀の血が混じった管理された血でもない。


 自分で選び、自分で誘い、自分で奪う血。


 王として。


 捕食者として。


 灰銀に刻まれた印の内側で、それでもまだ自分が奪う側だと証明するために。


 その時、若いハンターが入ってきた。


 濡れた外套を肩から外し、銀刃を腰に下げている。茶色の髪は短く、頬にはまだ少年じみた線が残っていたが、身体つきは成人のものだった。目は澄んでいる。澄みすぎていて、愚かに近い。


 クラウディオは、わずかに目を細めた。


 ティボルト。


 年配のハンターがそう呼んだ。


「ティボルト、遅いぞ」


「すみません。北の沢で痕跡を見ていました」


 声も若い。


 素直で、真面目で、まだ自分の正義に傷をつけられていない声。


 クラウディオは、内心で笑った。


 美味そうだ。


 血だけではない。


 心が。


 こういう若いハンターは、吸血鬼を憎むより先に、吸血鬼を恐れる。


 恐れるより先に、吸血鬼へ惹かれる危うさを知らない。


 訓練で禁じられたものほど、見たくなる。


 近づくなと言われたものほど、形を確かめたくなる。


 人間はどうしてこうも、火傷するまで火を覗き込むのか。毎回同じ失敗をする。文化遺産に登録できる愚かさだ。


 ティボルトはルストを見つけ、表情を明るくした。


「ルストさん」


 クラウディオの眉がわずかに動く。


 ルストさん。


 その呼び方が、妙に耳についた。


 ルストは振り返る。


「無事か」


「はい。少し擦っただけです」


 ティボルトは腕を見せた。


 袖の端が裂れ、手首の近くに浅い傷がある。


 血が、ほんの少し滲んでいた。


 クラウディオの喉が、かすかに反応した。


 薄い血。


 若い血。


 訓練と緊張と正義感を含んだ血。


 さほど濃くはない。


 王が満たされるような血ではない。


 だが、今はそれでよかった。


 灰銀の血ではない。


 床の器の血でもない。


 生きた血だ。


 クラウディオは一歩、壁から離れた。


 ルストの視線が一瞬だけこちらへ動く。


 見ている。


 いつも通り。


 腹立たしいほど正確に。


 クラウディオは何もしていないという顔で、ティボルトへ視線を向けた。


「若いな」


 その声で、ティボルトが初めてクラウディオを見た。


 見てしまった。


 目が合う。


 赤い瞳。


 月光を閉じ込めたような白い肌。


 喉に残る牙の痕。


 黒い外套の奥に隠れた、美しい危険。


 ティボルトの呼吸が、一拍遅れた。


 クラウディオは微笑んだ。


「灰銀の知り合いか」


 ティボルトは少し慌てて姿勢を正す。


「はい。ティボルトといいます。ルストさんには、何度か現場で助けていただいて」


「助けられた」


 クラウディオはその言葉を舌の上で転がす。


「それで、その男に懐いているのか」


「懐いて……というか、尊敬しています」


 尊敬。


 クラウディオの赤い瞳が、わずかに冷えた。


「尊敬」


 低く繰り返す。


 「灰銀をか」


 ルストが短く言う。


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


 ティボルトの目が揺れる。


「クラウディオ……?」


 口にした瞬間、ルストの視線がティボルトへ向いた。


「呼ぶな」


 短い制止。


 ティボルトはすぐに口を閉じた。


 クラウディオは笑った。


「灰銀。貴様は本当に、我の名を独占したがるな」


「余計なことをするな」


「まだ何もしていない」


「する顔だ」


「我の顔に詳しいようで」


 ルストは答えない。


 ティボルトは二人の空気を読みきれず、困惑していた。


 若い。


 本当に若い。


 しかし成人のハンターだ。


 狩る側に立った者。


 なら、狩られる危険も知るべきだ。


 クラウディオはティボルトへ近づいた。


 ルストが一歩動く。


 だが、まだ止めない。


 見ているだけだ。


 クラウディオは、その距離を計算した。


 灰銀印が外套の下で、静かに沈んでいる。


 まだ反応していない。


 捕食しようと意識すれば焼く。


 血を奪おうとすれば焼く。


 なら、まだ奪わない。


 まず、近づくだけ。


 まず、見るだけ。


 まず、相手の中にあるものを引きずり出すだけ。


「手を見せろ」


 クラウディオが言った。


 ティボルトは戸惑う。


「え?」


「傷があるのだろう。見せろ」


「大したものでは」


「我に二度言わせるな」


 その声は王のものだった。


 ティボルトは、反射的に手を差し出した。


 ルストが低く言う。


「ティボルト」


 ティボルトの肩が跳ねる。


 だが、もう手はクラウディオの前にある。


 クラウディオはその手首を取った。


 白い指が、若いハンターの手首を包む。


 ティボルトの呼吸が止まる。


 冷たい。


 だが、その冷たさの下に異様な熱がある。


 血の熱。


 王の熱。


 クラウディオは傷を見た。


 浅い。


 小さな赤。


 だが、そこから血の匂いがする。


 彼は、指先で傷の周囲を撫でた。


 優しく。


「痛むか」


 ティボルトは喉を鳴らす。


「い、いえ」


「嘘だ」


 クラウディオは微笑む。


「痛みを隠す顔は、分かりやすい」


「そんな……」


「灰銀に褒められたいのか」


 ティボルトの目が揺れる。


「違います」


「違わない」


 クラウディオの声が、甘く沈む。


「尊敬していると言ったな。なら、弱く見られたくない。傷を隠す。痛くないと言う。若い狩人らしい、可愛げのある嘘だ」


 ティボルトの頬に、わずかに赤みが差す。


 羞恥か。


 警戒か。


 それとも、別の熱か。


 クラウディオは、それを見逃さない。


「可愛いな」


 低く囁く。


 ティボルトの肩が震えた。


 ルストの声が飛ぶ。


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「離れろ」


「命じるな」


 クラウディオは、ティボルトの手首を離さない。


 傷口に顔を近づける。


 ティボルトの血が近い。


 灰銀印が、外套の下でかすかに熱を持った。


 警告。


 クラウディオの表情が一瞬だけ歪む。


 ティボルトはそれに気づかない。


 ルストは気づく。


 もちろん気づく。


「印が反応している」


「黙れ」


 クラウディオは低く言った。


 ティボルトの手首をさらに引き寄せる。


 血の匂いが濃くなる。


 飲みたい。


 奪いたい。


 この若い狩人の血を、自分の牙で。


 灰銀の目の前で。


 ルストが助けた相手を、自分が落とす。


 その構図が、クラウディオの飢えと怒りを同時に刺激した。


 灰銀印が強く熱を持つ。


「ぐ……ッ」


 クラウディオの喉から、小さな呻きが漏れた。


 ティボルトがはっとする。


「大丈夫ですか」


 その言葉が、さらにいけなかった。


 心配。


 若い。


 無知。


 美しい危険に対して、心配などする。


 クラウディオは顔を上げ、ティボルトを見た。


 赤い瞳が深くなる。


「我を心配するのか」


「え、あ……」


「狩人が吸血鬼を?」


「あなたは……ルストさんの同行者で……」


「捕虜に見えるか」


 ティボルトは答えられない。


 クラウディオは笑う。


「従者に見えるか」


「違う、と思います」


「では何に見える」


 ティボルトの視線が揺れる。


 見てはいけない。


 答えてはいけない。


 なのに、クラウディオの声が、瞳が、血の匂いが、答えを引きずり出す。


「……王、みたいに」


 クラウディオの笑みが深くなった。


「良い子だ」


 ティボルトの顔が、はっきり赤くなる。


 その言葉に反応した。


 クラウディオは手首を撫でる。


 傷の近くを、ゆっくりと。


「なら、王に血を捧げる栄誉を知るべきだ」


 灰銀印が焼けた。


「っ……!」


 クラウディオの身体が跳ねる。


 脇腹を押さえそうになり、こらえる。


 ここで止まるわけにはいかない。


 ティボルトの前で。


 ルストの前で。


 印などに膝を折るわけにはいかない。


 彼は痛みを飲み込み、なおティボルトの手首を離さない。


 ルストの足音が近づく。


「離せ」


「嫌だ」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶなァッ!」


 怒りが血へ乗る。


 印がさらに焼ける。


 灼熱の楔が脇腹の奥で弾ける。


 クラウディオの指先が震えた。


 それでも、手首を離さない。


 ティボルトは異変に気づき、逃げようとした。


 だが、遅い。


 クラウディオの視線が彼を捉える。


「動くな」


 命令。


 血術ではない。


 王の声。


 ティボルトの身体が止まった。


 完全ではない。


 ハンターとして訓練されている。


 だが、一拍だけ止まる。


 それで十分だった。


 クラウディオはティボルトの手首を引き寄せる。


 牙が、傷口の近くへ近づく。


 ルストが動いた。


 速い。


 だが、クラウディオも止まらない。


 脇腹の印が焼ける。


 痛みが内側から食い込む。


 血を奪うな。


 許可なく捕食するな。


 そう印が命じている。


 クラウディオは、その命令を怒りで噛み砕こうとした。


「命じるな……ッ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。


 灰銀印か。


 ルストか。


 自分の血か。


 「我は、王だ……ッ!」


 牙が、ティボルトの手首へ触れる。


 ほんのわずか。


 皮膚に触れた瞬間、灰銀印が爆ぜるように熱を放った。


「ぎ、ッ……!」


 クラウディオの身体が大きく痙攣する。


 それでも牙を離さない。


 耐える。


 印の痛みを。


 内側から焼かれる苦痛を。


 血脈が制御に逆らって軋む感覚を。


 ティボルトの目が見開かれる。


 恐怖。


 困惑。


 そして、かすかな魅了の残滓。


 クラウディオはそれを見て、唇を歪めた。


 まだだ。


 まだ奪える。


 まだ落とせる。


 まだ、自分は奪う側だ。


 ルストの手が、クラウディオの肩を掴んだ。


「離せ」


「嫌だ……ッ!」


 クラウディオは牙を押し込もうとする。


 印が灼ける。


 脇腹から血脈へ、白い火が走る。


「あが、ぁ……ッ!」


 悲鳴が漏れる。


 屈辱だった。


 ティボルトの前で。


 若い狩人の前で。


 灰銀印に焼かれて、声を崩すなど。


 それでも、クラウディオは手首を離さない。


 指に力を込める。


 ティボルトが呻く。


「っ、痛……!」


 クラウディオの目が赤く燃える。


「痛むか」


 苦痛に歪みながらも、甘く囁く。


「なら、もっと良い顔をしろ」


 ルストの手が、クラウディオの顎へ伸びる。


 次の瞬間、喉の痕が押さえられた。


 クラウディオの身体が跳ねる。


「が、ッ……!」


 牙が手首から離れかける。


 だが、クラウディオはなお抵抗する。


 ルストの名は呼ばない。


 助けも乞わない。


 「灰銀……ッ、貴様……!」


「離せ」


「命じるな!」


「離せ、クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


 叫びながら、クラウディオはもう一度ティボルトの手首へ牙を寄せた。


 無理だ。


 印が焼いている。


 喉も押さえられている。


 身体が拒絶している。


 それでも、彼は襲おうとした。


 耐えて。


 焼かれて。


 痙攣しながら。


 王としての最後の意地で。


 ティボルトの血を奪おうとした。


 ルストの目が冷たくなる。


「そこまでだ」


 その声と同時に、クラウディオの脇腹の灰銀印が強く脈打った。


 ルストが何かをした。


 印に触れていない。


 だが、呼応させた。


 クラウディオの身体が大きく跳ねる。


「ぎ、ぃいいいいッ!!」


 絶叫。


 手首を掴む指が緩む。


 ルストがその隙にティボルトを引き離した。


 ティボルトは床へ倒れ込み、荒く息をしている。


 傷は深くない。


 まだ血を奪われてはいない。


 だが、目は揺れている。


 クラウディオを見ている。


 恐怖だけではない。


 あの美しい赤い瞳と、良い子だという声が、まだ残っている。


 ルストはそれを見た。


 表情は変えない。


 だが、声が低くなる。


「ティボルト。外へ出ろ。誰とも話すな。水を飲め。首筋と手首を隠せ」


 ティボルトは震えながら頷いた。


 だが、立ち上がる時も、クラウディオから目を離しきれない。


 クラウディオは、ルストに押さえられたまま、荒い息をしていた。


 脇腹が焼ける。


 喉の痕が痛む。


 それでも赤い瞳だけは、ティボルトを見ている。


「逃げるのか」


 掠れた声。


 ティボルトの足が止まりかける。


 ルストが鋭く言う。


「行け」


 ティボルトは、今度こそ外へ出た。


 扉が閉まる。


 詰所の中に、クラウディオとルストだけが残る。


 しばらく、沈黙だった。


 クラウディオは壁際へ押さえられている。


 外套は乱れ、脇腹の印が熱を持ち、白い肌の下で灰銀色に脈打っている。


 痛みはまだ強い。


 だが、彼は笑った。


 低く、掠れた笑い。


「惜しかったな」


 ルストは言う。


「お前は本当に、懲りない」


「当然だ」


 クラウディオは赤い目で睨み上げる。


「我はまだ、奪う側だ」


「奪えなかった」


「次は奪う」


「印が止める」


「印ごと喰らう」


「できるなら」


「その言葉も聞き飽きた」


 ルストは、クラウディオの脇腹へ視線を落とした。


「痛むだろう」


「貴様には関係ない」


「ある。俺が刻んだ」


「誇るな、下郎」


「反応は強かった」


「観察するな!」


「若い血に反応しすぎた」


「違う」


「ティボルトを選んだ」


「たまたまだ」


「ルストさん、と呼んだからか」


 クラウディオの表情が、一瞬止まった。


 ルストはそれを見逃さない。


 「当たりか」


「黙れ」


「俺に近づいたから、狙った」


「黙れと言っている」


「嫉妬か」


 その言葉で、クラウディオの血が沸いた。


 灰銀印が焼ける。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオは歯を食いしばる。


 ルストは続けない。


 それがまた腹立たしい。


「嫉妬などではない」


 クラウディオは低く言った。


「若い血がそこにあった。それだけだ」


「そうか」


「納得した顔をするな」


「顔は変えていない」


「存在ごと腹立たしい」


 ルストはようやく手を離した。


 クラウディオはすぐに距離を取る。


 脇腹を押さえたい。


 だが、押さえない。


 痛みを見せたくない。


 しかし、ルストはもう見ている。


「これで分かっただろう」


 ルストが言った。


「何が」


「お前は、まだ誰にでも手を出す」


「王が血を選んで何が悪い」


「許可なく奪おうとした」


「貴様の許可など必要ない」


「必要だ」


「違う!」


「印は必要だと判断した」


 クラウディオの笑みが消える。


 印。


 また印。


 身体に刻まれた灰銀の判断。


 自分より先に、血の動きを制限する制御。


「貴様が判断したのだろうが」


「刻んだのは俺だ」


「つまり貴様が我を縛っている」


「そうだ」


 即答。


 ルストは誤魔化さない。


 そこが腹立たしい。


 クラウディオは、脇腹の痛みに耐えながら笑った。


「では覚えておけ、灰銀」


 赤い瞳が妖しく光る。


「縛られた王ほど、噛み千切る牙を研ぐ」


「研ぐ前に焼ける」


「貴様は本当に、情緒がないな」


「必要ない」


「ある。貴様にはなさすぎる」


「歩けるか」


「話を変えるな!」


「歩けるか」


「命じるな」


「座るか」


「誰が」


「なら立っていろ」


「貴様……」


 クラウディオは壁から離れた。


 足元がわずかに揺れる。


 印の痛みが、まだ身体を内側から焼いている。


 それでも立つ。


 ルストの前で膝はつかない。


 ティボルトの前でもつかなかった。


 奪えなかった。


 だが、膝はついていない。


 それを、クラウディオは勝利の欠片のように抱えた。


 ルストは扉へ向かう。


「ティボルトを遠ざける」


「惜しいな」


「近づけない」


「それで守れると思うか」


「守る」


「若い狩人が、我を忘れられるとでも?」


 クラウディオは、薄く笑った。


「我の声を聞いた。目を見た。傷に触れられた。良い子だと言われた。忘れるには、あまりにも美しいだろう」


 ルストは振り返る。


「だから隔離する」


「我と同じか」


「違う」


「違わぬ」


 クラウディオは喉の痕に触れず、ただ笑う。


「灰銀。貴様はいつも隔離する。檻に入れないと言いながら、近づけない。触れさせない。見せない。血も、名も、距離も、すべて貴様が決める」


 赤い瞳が、ルストを捉える。


「管理か」


 声が甘くなる。


「それとも独占か」


 ルストは答えない。


 沈黙。


 クラウディオは笑みを深くした。


 痛みに耐えながらも。


 灰銀印に焼かれながらも。


 まだ人を堕とそうとする赤い目で。


「答えぬのなら、我が決めてやる」


「黙れ」


「命じるな」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


 ルストは低く言った。


「次にティボルトへ触れたら、今度は手を使えなくする」


 クラウディオの笑みが止まる。


「脅すか」


「警告だ」


「我の手に触れるな」


「なら触るな」


「貴様が決めるな」


「俺が決める」


「本当に殺す」


「印が焼く」


 クラウディオは歯を食いしばった。


 その通りだった。


 今、殺意を流せば焼ける。


 それを知っている。


 知っている自分が、また屈辱だった。


 彼は、低く吐き捨てた。


「灰銀」


「何だ」


「必ず、いつかその手を噛み千切る」


「その時は名前を呼べ」


「呼ばぬ!」


 ルストは扉を開けた。


 外には、ティボルトの乱れた足音が遠ざかっている。


 若いハンターは、まだ生きている。


 血は奪われなかった。


 だが、クラウディオの声と瞳と指先は、彼の中に残った。


 ルストはそれを知っている。


 クラウディオも知っている。


 だから、クラウディオは笑った。


 狩りは失敗した。


 だが、傷はつけた。


 血ではなく、心に。


 ファム・ファタールの毒は、噛む前から回る。


 クラウディオは脇腹の痛みに耐えながら、赤い瞳を細めた。


 灰銀印は邪魔をした。


 それでも彼は襲おうとした。


 耐えて。


 焼かれて。


 それでも牙を近づけた。


 その事実だけは、ルストにも消せない。


 クラウディオは、乱れた外套を整えた。


 そして、低く言った。


「まだだ」


 何が、とは言わなかった。


 ルストも聞かなかった。


 ただ、灰銀のハンターは扉の外へ出て、若い狩人を遠ざけるために歩き出す。


 クラウディオはその背を見た。


 笑っていた。


 痛みで唇の端を震わせながらも。


 まだ、奪う側であることを証明するように。


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