第12話 血を覚える子ども
血は、忘れなかった。
クラウディオが忘れないように、血もまた忘れなかった。
指先を針で刺した時の痛み。
掌を爪で裂いた時の熱。
火刑台の前で、何もできずに握り締めた拳。
ロウェナの名を紙に書いた時、インクに混じった赤。
そして、彼女が最後に言いかけて飲み込んだ、短い呼び名。
クラウ。
その声は、もうどこにもない。
坂道の菓子屋は閉ざされたままだった。扉には教会区の封蝋が残り、丸い菓子の看板は雨と埃で少しずつ色を失っているという。街の者たちは、あの店の前を以前より足早に通るようになったらしい。
王城の中で、その話をする者はもう少なかった。
魔女は燃えた。
教会区は落ち着いた。
民の不安は鎮まった。
そういう形で、話は片づけられた。
だが、クラウディオの中では終わらなかった。
終わらせなかった。
終わらせることは、ロウェナの声を二度殺すことに近かった。
血術の訓練室は、今日も冷えていた。
北棟の石造りの部屋。壁には古い魔導紋が刻まれ、床には赤黒い円がいくつも重なっている。天井は高く、声を出せば遅れて返ってくる。
クラウディオはその中央に立っていた。
黒い訓練着の袖口から出た手は、まだ小さい。
幼い指。
細い手首。
王族の子にしては、肉付きが薄い。
だが、その白い指先をカルゼンはじっと見ていた。
血術教師カルゼンは、今日も黒い長衣をまとっていた。骨ばった白い指に手袋はない。顔色はいつも悪く、目の奥だけが鋭い。
彼は銀の小針を取り出した。
「今日は、昨日より深く呼びます」
クラウディオは顔を上げた。
「血をか」
「あなた自身を」
「その言い方は分かりにくい」
「分かりやすく言えば、血に命じるなということです」
カルゼンはクラウディオの手を取り、指先に針を当てた。
「命じれば、血は従うこともあります。ですが、命じるだけの者は、いずれ血を道具と思い始める。道具と思われた血は、持ち主を裏切ります」
「血が裏切るのか」
「人間よりは正直に」
カルゼンは針を刺した。
痛みが走る。
赤い血が一滴、指先に膨らんだ。
クラウディオはそれを見た。
小さな赤。
以前は、ただの血だった。
今は違う。
その一滴の底に、いくつもの記憶が沈んでいるように見えた。
ロウェナの白い手。
温かい水。
蜂蜜菓子。
月の欠片。
焦げた砂糖。
火刑台。
群衆の沈黙。
司祭の声。
裁かれる側にはならない、と書いた紙。
クラウディオは息を吸った。
動け、と命じそうになる。
その言葉を、飲み込む。
呼ぶ。
俺は、ここにいる。
血が震えた。
昨日よりも強く。
一滴だった赤が、細い糸のように持ち上がる。指先から離れ、空中でわずかに揺れた。細く、脆く、しかし確かに自分の意思と繋がっている。
部屋の隅で、マルタが小さく息を呑んだ。
今日は彼女だけではなかった。
壁際には、正妃付きの女官セリアもいる。さらに、王城の血術管理官が二人。表向きは記録係。実際には、妾の子の血がどこまで動くかを測りに来た者たちだった。
彼らの視線が、血の糸へ集まる。
クラウディオは、それを感じた。
遅い。
心の底で、そう思った。
今になって見ている。
今になって警戒している。
彼が食卓で屈辱を飲み込んでいた時は、誰も見ていなかった。
廊下で妾の子と嗤われた時も。
焦げた皿を出された時も。
ロウェナの店へ逃げていた時も。
火刑台の前で何もできなかった時も。
誰も見ていなかった。
なのに、血が少し動いた途端、彼らはようやく目を向ける。
遅い。
もう遅い。
クラウディオの中には、すでに残っている。
優しくされた記憶も。
奪われた記憶も。
信じてもらえなかった声も。
裁かれる側にはならないという文字も。
血の糸が、空中でさらに伸びた。
カルゼンの目が細くなる。
「止めなさい」
クラウディオは血を見ていた。
止める。
そう思った瞬間、血の糸は止まった。
落ちない。
震えたまま、空中に留まっている。
マルタの顔が青ざめた。
セリアの指が袖口を掴む。
血術管理官の一人が、小さく紙へ何かを書きつけた。
カルゼンだけが、表情を大きく変えなかった。
「戻しなさい」
クラウディオは息を吐いた。
血がゆっくり指先へ戻る。
赤い一滴は皮膚に触れ、何事もなかったように丸く収まった。
けれど、何事もなかったわけではない。
部屋の空気が、明らかに変わっていた。
今までクラウディオを見る目は、どこか薄かった。
妾の子。
王城の端に置かれた不都合。
正妃の邪魔。
王の気まぐれ。
そういう目だった。
今は違う。
危険物を見る目になっていた。
クラウディオは、その変化を静かに観察した。
セリアは唇を結んでいる。彼女は正妃へ報告するだろう。血が一滴ではなく、糸になった。空中に留まった。命じなくても動いた。戻せと言われて戻した。
マルタは怯えている。彼女はクラウディオの世話係である自分の立場を考えている。今まで雑に扱ってきた子どもが、将来何になるのかを想像し始めている。
血術管理官たちは興味を持っている。彼らにとってクラウディオは、政治ではなく素材だ。王血と妾腹。抑圧と観察。そこからどんな血術反応が出るかを見ている。
カルゼンは、別のものを見ていた。
血ではない。
クラウディオの沈黙を見ていた。
「もう一度」
カルゼンが言った。
礼法教師オルガンの「もう一度」と似た言葉。
だが、響きは違った。
オルガンのもう一度は、失敗を積ませるための言葉だった。
カルゼンのもう一度は、限界を測るための言葉だった。
どちらも優しくはない。
だが、種類が違う。
クラウディオは指先の血を見た。
また呼ぶ。
俺は、ここにいる。
血が持ち上がる。
今度は糸ではなく、細い刃のように伸びた。
赤い線が空中で薄く尖る。
部屋の空気がさらに固まった。
カルゼンが低く言う。
「形を与えるな」
「与えていない」
「なら、血が覚えている」
血が覚えている。
クラウディオは、赤い刃を見た。
細く、頼りなく、すぐに崩れそうな刃。
それでも、刃の形をしている。
彼は刃を知らないわけではない。
食卓のナイフ。
言葉の刃。
火刑台で何も切れなかった自分の手。
群衆の背中。
ロウェナを縛る縄。
切りたかった。
あの時、何もかも切りたかった。
縄を。
群衆を。
司祭の声を。
魔女という言葉を。
自分の無力を。
血はそれを覚えている。
カルゼンが一歩近づいた。
「戻せ」
クラウディオは血へ意識を向けた。
戻れ。
今度は命じた。
刃が揺らいだ。
戻らない。
カルゼンの目が鋭くなる。
「命じるなと言ったはずです」
クラウディオは歯を噛んだ。
呼ぶ。
俺は、ここにいる。
血の刃が、ふっとほどけた。
赤い糸へ戻り、指先へ落ちる。
血は皮膚へ触れ、静かに吸い込まれるように収まった。
呼吸が戻った。
クラウディオは、自分が息を止めていたことに気づいた。
カルゼンは淡々と言った。
「危うい」
血術管理官の一人が顔を上げる。
「危険という意味ですか」
「才があるという意味です」
カルゼンは冷たく答えた。
「才がある者ほど危険です。火に似ている。菓子を焼くことも、人を焼くこともできる」
その言葉が、訓練室に落ちた。
クラウディオの内側が一瞬だけ凍る。
菓子を焼く火。
人を焼く火。
カルゼンは知らないはずだ。
ロウェナのことを。
クラウディオが火刑台を見たことを。
焦げた砂糖の匂いが、まだ鼻の奥に残っていることを。
それでも、言葉は刺さった。
クラウディオは顔を上げた。
「火は悪いものか」
カルゼンは彼を見た。
「扱う者によります」
「扱う者が悪ければ」
「燃やします」
「扱う者が強ければ」
「燃やすものを選べます」
燃やすものを選ぶ。
クラウディオは、その言葉を胸の奥へ沈めた。
教会の火は、ロウェナを選んだ。
群衆は、それを止めなかった。
なら、自分が火を持つなら。
何を選ぶ。
誰を焼く。
誰を残す。
まだ答えはない。
だが、問いだけは残った。
訓練はそこで終わった。
カルゼンは記録官たちへ短く告げた。
「本日の内容は、過不足なく記録してください。余計な解釈は不要です」
血術管理官の一人が眉をひそめた。
「王と正妃殿下へ報告が必要です」
「事実だけを報告しなさい。恐怖で肉付けした報告は、血術の記録ではなく噂です」
噂。
その言葉に、クラウディオは静かにカルゼンを見た。
カルゼンは彼を見返さなかった。
だが、わざとその言葉を選んだのだと分かった。
噂は人を燃やす。
血術の報告もまた、誰かを燃やす火種になる。
カルゼンは、それを知っているのかもしれない。
訓練室を出ると、廊下の空気が違っていた。
まだ誰も詳しい報告を受けていないはずなのに、王城の空気は早い。部屋の中で誰かが息を呑めば、廊下の端ではもう噂になる。
従者がクラウディオを見る。
すぐに目を伏せる。
侍女が礼をする。
いつもより深い。
ミルゴが廊下の奥にいた。
右目の下の黒子。
左手薬指の古い傷。
かつて、クラウディオの前に足を出した従者。
彼はクラウディオを見て、いつものように笑いかけた。
だが、その笑みは途中で止まった。
クラウディオの目と合ったからだ。
何も言わない。
何もしていない。
ただ見ただけ。
それだけで、ミルゴの顔から笑いが消えた。
クラウディオは歩き続けた。
ミルゴの横を通り過ぎる。
肩が触れるほど近く。
ミルゴは足を出さなかった。
それが答えだった。
遅い。
クラウディオはまた思った。
今さら足を引いても遅い。
あの日、出した足は記録に残っている。
右目の下の黒子も、左手薬指の傷も、声も、見えませんでしたと言った嘘も。
全部、残っている。
無かったことにはならない。
自室へ戻る途中、アドリアンと出くわした。
第一王子は、廊下の窓のない壁際に立っていた。青い瞳は穏やかで、口元にはいつもの柔らかな笑みがある。
「血が動いたそうだね」
早い。
クラウディオはそう思った。
報告はまだ正式には出ていない。
だが、アドリアンの耳にはもう入っている。
「基礎です」
クラウディオは答えた。
「基礎で、血を刃にした?」
クラウディオは顔を上げた。
アドリアンは微笑んでいる。
だが目は笑っていなかった。
「耳が早いですね」
「王城で長生きするには必要だから」
「まだ十五でしょう」
「お前よりは長く生きている」
柔らかい声。
だが、その下に警戒がある。
アドリアンは、初めてクラウディオを弟としてではなく、危険の芽として見ていた。
いや、弟として見ていたことなど最初からなかったかもしれない。
彼にとってクラウディオは、盤面の端に置かれた駒だった。
今日、その駒が刃の形を見せた。
だから見に来た。
「父上が興味を持つだろう」
アドリアンは言った。
「すでに持っておられるのでは」
「もっと、だ」
それは助言か。
警告か。
脅しか。
クラウディオはアドリアンの顔を見た。
青い目。
柔らかい笑み。
その奥で、計算が動いている。
「兄上は困りますか」
クラウディオは聞いた。
アドリアンの笑みが深くなる。
「何に?」
「私が、陛下の興味を引くことに」
廊下の空気が冷えた。
通りかかった従者が、気配を消して遠ざかる。
アドリアンは少しだけ首を傾けた。
「困るほど、お前はまだ大きくない」
「では、なぜここで待っていたのです」
アドリアンは黙った。
その沈黙で十分だった。
クラウディオは頭を下げた。
「失礼いたします」
アドリアンの横を通り過ぎる。
背中に視線が刺さる。
以前なら、その視線は彼を小さくするものだった。
今は違う。
刺されているのではない。
測られている。
測られるなら、測り返せばいい。
クラウディオは歩きながら思った。
アドリアン。
血が刃になったことを知っている。
王の興味を警戒。
困るほど大きくないと言った。
嘘。
完全な嘘ではない。
だが、警戒はある。
覚えた。
自室へ戻ると、マルタはいつもより静かだった。
彼女はクラウディオの外套を受け取り、手を洗う水を用意した。
水はいつもより少し温かかった。
クラウディオは、それに気づいた。
「水が違う」
マルタの手が止まる。
「冷えが強い日ですので」
「昨日までは冷たかった」
「……申し訳ございません」
謝った。
マルタが。
クラウディオは手桶の中の水を見た。
温かい。
ロウェナの水とは違う。
ロウェナの温かさではない。
これは恐怖の温度だ。
冷たい水で顔を拭いても平気だと思っていた子どもが、血を刃にした。
だから、マルタは温度を変えた。
遅い。
クラウディオは、三度そう思った。
何もかも遅い。
マルタの手が丁寧になるのも。
ミルゴが足を引くのも。
アドリアンが警戒するのも。
王城が彼を見るのも。
全部、遅い。
彼の中には、もうロウェナが燃えた記憶がある。
温かいものを奪われた記憶がある。
救われる側ではいられないという言葉がある。
裁かれる側にはならないという誓いがある。
今さら温かい水を出されても、もう戻らない。
クラウディオは手を水に入れた。
温かい。
なのに、胸は少しも緩まなかった。
それどころか、ロウェナの店の水を思い出した。
白い布。
粉のついた手。
痛くない?
クラウディオは息を止めかけた。
すぐに吐いた。
水から手を上げる。
「もういい」
マルタは乾いた布を差し出した。
その手は丁寧だった。
クラウディオは布を受け取り、自分で手を拭いた。
マルタの手を借りなかった。
彼女は何か言いたそうにしたが、黙った。
クラウディオは机へ向かった。
「出ていろ」
「はい」
従った。
以前なら、口答えか確認があった。
今はない。
扉が閉まる。
クラウディオは引き出しを開けた。
床下ではない。
机の奥。
ロウェナの記録を置いた場所。
布に包んだ紙片を取り出す。
また来てね、クラウディオ。
ロウェナ・ミル。魔女ではない。
焦がし砂糖の匂い。火を同じにしない。
裁かれる側にはならない。
そこへ、新しい紙を加える。
血を覚える。
クラウディオは、その題のような一行を書いた。
そして続けた。
血は、優しくされたことも覚える。
奪われたことも覚える。
温かい水。
白い手。
名前を呼ぶ声。
蜂蜜菓子。
火刑台。
群衆。
誰も止めなかったこと。
王城の者が今さら警戒し始めたこと。
全部、同じ血の中にある。
どちらかだけにはしない。
ロウェナの優しさだけを覚えれば、また奪われる。
奪われた記憶だけを覚えれば、ロウェナまで火の中に消える。
両方持つ。
そのための血。
書きながら、クラウディオは自分の言葉を見ていた。
幼い字。
けれど、以前より硬い。
以前より冷たい。
以前より、戻れない場所へ向かっている。
ロウェナが見たら、何と言うだろう。
悲しむか。
怒るか。
違うよ、クラウディオ、と言うか。
そうかもしれない。
けれど、ロウェナはもういない。
彼女の声は、記憶の中にしかない。
記憶の中の声だけでは、現実の火は止まらない。
クラウディオは紙を折らず、しばらく乾かした。
その間、指先を軽く噛む。
血が滲むほどではない。
ただ、牙の先が皮膚に触れる程度。
血術の訓練で動いた血を思い出す。
一滴。
糸。
刃。
まだ小さい。
まだ弱い。
だが、確かに形を持ち始めている。
クラウディオは目を閉じた。
血の中に、ロウェナの手がある。
同じ血の中に、火刑台がある。
同じ血の中に、王城の食卓がある。
同じ血の中に、裁く側へ回るという文字がある。
矛盾している。
優しさと憎しみ。
温かさと冷たさ。
救いと復讐。
全部が同じ場所にある。
だが、それでいいと思った。
どちらかだけでは、足りない。
ロウェナの優しさだけなら、また燃やされる。
憎しみだけなら、ロウェナの菓子の味を忘れる。
どちらも持つ。
忘れないために。
失くさないために。
そして、いつか誰かを裁く時に、自分が何を奪われたのかを間違えないために。
夜になって、王城の廊下は静まった。
クラウディオは寝台に入らず、窓のない黒硝子の前に立っていた。
外は見えない。
だが、街の方角は分かる。
坂道の菓子屋。
閉ざされた店。
火刑台の広場。
その全部が、王城の向こうにある。
クラウディオは、指先を見た。
今日、血が刃になった。
小さな刃。
まだ何も切れない。
だが、周囲はようやく警戒した。
ようやく。
今さら。
彼は小さく笑った。
子どもの笑みではなかった。
声もない。
ただ、唇の端がわずかに上がっただけ。
遅い。
その言葉が、胸の奥で冷たく響く。
もう、ただの妾の子ではない。
ただの末席ではない。
ただの見下される子どもでもない。
血が覚え始めている。
そして、血が覚えたものは、いずれ形になる。
王城の誰も、まだ本当の意味では分かっていない。
彼らが警戒し始めた頃には、クラウディオの中ではもう始まっていた。
優しくされた記憶。
奪われた記憶。
信じてもらえなかった声。
裁かれる側にはならないという誓い。
血はそれらを抱えて、静かに深く沈んでいる。
幼いクラウディオは、その夜、初めて自分の血を怖いとは思わなかった。
むしろ、血だけが自分を裏切らないように思えた。
血は覚える。
ならば覚えろ。
全部。
一つも落とすな。
彼は黒硝子に映る自分の目を見た。
琥珀色の瞳。
まだ小さな身体。
だが、その奥で、何かが確かに冷たく育っていた。
王城の者たちがようやく警戒した時には、もう遅かった。
クラウディオは、すでに覚えてしまっていた。
優しさも。
火も。
血も。
全て。




