そして、キールの姉は語る
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
自分の婚約者は、こんな顔をしていただろうか。
シエラは、自分に婚約の破棄を告げるデリク・ホーバー子爵令息の顔を見つめながら、急に分からなくなったような気がしていた。
こうして彼を、正面から見たのはいつぶりだろう。
彼はいつも、どんな顔をしていたのだったろうか。
ずっと隣に居たのに。
いや、隣にいたから、見えていなかったのだ。
「夫婦は同じ方向を向く同志である」
十歳の時、デリクとシエラの婚約式で司祭様が言ってくれた言葉を、シエラはずっと大切に思っていた。
家同士が決めた婚約者である自分達にとって、その言葉は、愛の代わりになるだろうと。
だからどこかで思い込んでいたのかもしれない。
自分達は二人共、同じ方向を向いて、同じ未来に向かって進んでいるのだと。
本当はもっと隣にいる彼の顔を、互いの顔を、見なければいけなかったのに。
丁度エリオスとシエラの婚約が成った頃、エリオスから「外に出かけないか」と誘われた。
婚約が結ばれ、知り合ったばかりの者同士のように、二人でお茶をしないかと。
学院を卒業した後から、しばらくかかり切りだった婚約の準備や、エリオスの臣籍降下の為の根回しや取り決め等、そういった諸々の手続きにようやく目処が立ち、再開したシエラの当主教育も順調に進んでいる所だった。
お陰で久しぶりに伯母の所へ、淑女教育の見直しという名の花嫁修行に出掛けられるくらい、時間にも余裕が出来ていた。
エリオスが子爵家に入るとはいえ、彼は王族である。
シエラが求められるマナーも相応に、学び直す必要があった。
同時に、優秀なエリオスのお陰でシエラの負担が減った事で、以前は当主としての方に重きが置かれていた淑女教育も、家政を取り仕切る「女主人」としての面を重視したものになっていた。
オルコット家の家政は、母の亡き後、長年父を補佐している執事が取り仕切ってくれている。
彼が最近、父が当主を退いた暁には、一緒に着いて行きたいと、父とシエラに言ってくれたのだった。
以前はそのまま、シエラの元で働いてもらうつもりだったけれど、本人の希望があるなら尊重したい。
エリオスのお陰でそれが叶いそうだった。
全てが順調で、最近のオルコット家は、家中が明るい雰囲気に包まれている。
あの日、婚約破棄があったことが、嘘のように思うくらいに。
シエラがエリオスを婿に迎え、キールはそのまま、王宮の官吏になる為の勉強を続ける。
婚約破棄された時には、もう諦めかけていた未来が、こうして繋がったのだ。
これは全て、キールが繋いでくれたのだと、シエラは思っている。
どこか鬱屈していた弟が、一年前に学院に入学し、生徒会に入った頃から、水を得たように生き生きとし出した事をよく覚えている。
以前はその賢さ故か、些細なことにもよく噛み付いていたけれど、気が付けば随分と大人びていた。
そんな弟を、エリオスは、自身が生徒会長だった頃から随分と買ってくれている。
エリオスの降下先に、数多ある貴族家からこうしてオルコット家が選ばれたのも、少なからずキールの存在があったからに違いないだろう。
シエラとキールは、あまり会話が多い姉弟ではないから、中々こういう話をする場面も無い。
だから代わりに、キールの好物でもあるビスケットを焼いて置いておく。
毎年、領地の館の庭で採れる、プラムのジャムを添えて。
その所為で、父の方の体重が増えたのは、余計だったけれど。
シエラが作るのは、昔乳母から聞いた、子供でも覚えられるくらい簡単で、素朴なビスケットだ。
庶民が各々の家庭で作るようなごく普通の菓子で、客に出すようなものではない。
エリオスが屋敷に見えた時に出す菓子等は、特に料理人に用意して貰っている。
ビスケットに、はしたないほどジャムを載せて食べる姿など、王族のエリオスに見せられるはずもない。
エリオス側に、この婚姻にどのような打算があるにせよ、それはシエラだって同じことだった。
だから、キールのことを気にかけてくれる人なら、シエラの家族を思ってくれる人なら、シエラも、大切に出来るだろうと思ったのだ。
今まで生きてきた世界が違っても、見えている視座がシエラよりも高くても。
エリオスとの間に、また何も生まれなくても。
それでも、同じ方向を向いているのなら、あの言葉のように、きっと共に歩いていける。
彼は、少なくともこの数ヶ月、それを示し続けてくれていた。
なんて幸運なのだろうと思う。
再び婚約者を得て、自分はこうしてまだ、この子爵家にいられる。
大切な家族も、弟の将来も失わなかった。
望む方向へ、未来へ、また進み始めることが出来るのだ。
けれどその未来に、そこに、シエラ自身はいるのだろうか。
シエラが望んでいたものは、そういうものだっただろうか。
あの日、婚約破棄を告げるデリクに、シエラは何も言えなかった。
だって、何が言えただろう。
彼はもう、違うものを見ているのだ。
二人で過ごした全ての時間よりも、大切なものを見つけてしまったのだ。
あの時、全部、バラバラになってしまったのだと思う。
今までずっと、彼の隣でシエラが積み上げてきた、目標も、自分も、時間も、その全てが。
その後一人で、もう一度、自分の形に積み上げてみたけれど、元通りになど、戻るはずがなかった。
だってそこにはもう、デリクがいないのだから。
当主教育の合間に、子爵家の図書室で、机の上の、勉強中の資料を端に押しやって、本に囲まれながら、熱く濃い紅茶と一緒に、ジャムをたっぷりと載せたビスケットを食べる。
当主教育の忙しさの中で、それはずっとシエラの支えだった。
それを同じように隣の席で食べるデリクが。
ジャムを溢して、二人で笑い合える事が。
恋などなくても、優秀な王子様でなくても。
ただそれだけで、よかったのに。
エリオスと約束した日は、よく晴れていた。
この時期の王都では、邸宅の庭先や商店の入り口、広場の植え込みなど、街中の至る所で薔薇を見る事が出来る。
特に、街の中にいくつかある、貴族や庶民にも開放された庭園では、王宮と同じ庭師達の手による見事な薔薇を、誰でも自由に見る事が出来るのだった。
王都では貴族家の子息令嬢達も、気軽に街中のカフェや商店に出掛けて行く。
あちこちに騎士団の詰め所があり、また、警備隊が市街を巡回しているため治安が良く、使用人を連れただけの令嬢の姿もよく見られる。
貴族向けの店も益々増えており、そういう店を婚約者と回るのが、特に学院の生徒達の中で人気のデートだった。
エリオスとは三日に上げず子爵家で顔を合わせていたものの、まだ二人で出掛けたことはなかった。
もう何年も、デリク以外の異性と出掛けたことはない。
だから今日まで、ワクワクと言うよりはむしろ、些か緊張した気持ちで過ごしていたのだった。
エリオスの到着を告げる先触れに、シエラは出迎えるため、二階の自室からホールへと向かった。
子爵家の、ホールと呼ぶには些か狭い玄関の扉の前に、すでに到着していたエリオスが立っている。
シエラに気付いて微笑む金色の瞳が、ホールの日差しを受けて、いつもよりも一層眩く見えた。
「これを君に」
出迎えたシエラに渡された花束は、随分大きなものだった。
ラベンダー色の薔薇を中心に、様々な色の花がふんだんに添えられ、けれど華美になり過ぎずに上品に纏められた、見事な花束だった。
数日前、何気なく好きな色を聞かれて、ラベンダー色だと答えたのを思い出す。
「ラベンダー色の薔薇が何種類もあって選べなくて、結局全部入れてもらったんだ。この薄い桃色の花は、君に似合うと思った色で、横のこの黄色い花は、今の季節が一番見頃らしい。周りの白い小さな花は、君が気に入るような気がして。それからこっちの、」
いつも落ち着いている彼には珍しく、少しそわそわした様子でそう教えてくれる。
嗚呼、と思う。
デリクはいつも、シエラの好きなラベンダー色の花を贈ってくれていた。
誕生日にも時節の祝いにも茶会の前にも。
毎回欠かさず、時には何でもない普通の日にだって、小さな花束を贈ってくれていた。
決してシエラを、蔑ろにするようなことはなかった。
けれどこんな風に。
シエラの為に、デリクが花を選んでくれた事は、なかったのかもしれない。
もうずっと、そこに、「シエラ」はいなかったのだ。
あれはただ、シエラという「婚約者」に贈るための花だったのだと、今になって分かった。
人は変わるのだ。
そんな当たり前のことに、きっとお互い気付けていなかった。
大人になってから桃色も好きになってきたこと、明るい色の服を着てみたいと思っていること、子供っぽいと思いながら、今でも時々冒険譚を捲っていること。
もっと、そんな小さなことをちゃんと、伝えればよかった。
何か大きな感情が、自分のずっとずっと奥の方から湧き出して、その奔流に飲み込まれるように、涙が溢れ出てくる。
婚約を破棄された後、一人になっても、ほとんど涙は出なかった。
これからどうしようという焦燥と不安がただ渦巻いて、思考が止まったまま、前に、後ろに、何処にどう進んだらいいのか分からなくなってしまった。
この婚約破棄が、キールの人生をも変えてしまうかもしれない、と気付いた時に初めて、恐怖して、悔しくて、泣いた。
エリオスから婚姻を打診された時には、もうこれで、その心配をしなくていいのだと、そのことに安堵して泣けた。
けれどこの涙は全然違う。
後悔と、悲しみと、懐かしさと、悔しさと、この数年間の自分と彼と、全てがごちゃごちゃに混ざり合った強い衝動だった。
エリオスにもらった、シエラのための花を抱きしめて。
初めて、自分が泣いていると思った。
シエラの為の、シエラ自身の涙だった。
花を抱えて突然泣き出したシエラを、エリオスはそっとホールの端にある椅子に座らせ、強張った手から花を取り、横の飾り棚の上に置いてくれる。
そしてそのまま、何も言わずに、落ち着くまで隣にいてくれた。
この顔では今日はもう出かけられないだろう。
頭が痛くなる程、涙が止まらないなんて、まだ母が生きていた幼い頃以来だ。
「…申し訳ありません」
あまりの恥ずかしさと居た堪れなさに、何も言わずに立ち去ってしまいたいが、そういう訳にもいかない。
ようやく落ち着いてきた喉から絞り出した声は、酷い鼻声だった。
淑女のハンカチは、概ね身だしなみの為に持つもので、薄く小さく、上品なだけのものだ。
吸水性も悪く、今やぐしゃぐしゃで顔を隠す役にも立たない。
そっと横から差し出された淡い水色のハンカチを、ひたすら申し訳ないが、とても遠慮できる状態ではないので、素直に使わせてもらう。
「ありがとうございます」
顔は上げられないが、エリオスがこちらの顔を、あまり見ないようにしてくれているのが、何となく伝わってくる。
ふと、ハンカチを差し出したその手が、そのままシエラの顔のそばを横切り、俯いた後頭部を優しく叩いた。
優しく二回、なだめるように。
思わず、自分の顔の状態も忘れて目を上げたシエラに、ハッとしたようにエリオスが慌てる。
「申し訳ない、つい、」
くしゃりと、バツが悪そうに、情けない笑みを浮かべている。
「小さな頃、時折兄達に、こうして慰められたことがあったものだから」
目の前の完璧な王子にも、兄弟がいて、そういう時があったのだと、そんな当たり前のことを思う。
シエラもキールが小さい頃は時折そうして頭を撫でてやった。
自分がそうしてもらった記憶は、もうないけれど。
「シエラ、その」
こんな風に言い淀む姿も珍しい。
いつも緊張で言葉少なになるシエラに、気を遣わせないように、話題を振ってくれる彼らしからぬ姿だ。
「花が、何か嫌な気持ちにさせたかな?」
「いいえ!違います」
そうだ当然、そんな風に見えただろう。
否定しなければ、という気持ちが強すぎて、顔の状態も忘れて、頭を振ってしまう。
「あの…嬉しかったんです」
言葉にするのは、伝えるのは、どうしてこんなに難しいのだろう。
伝わるだろうか、シエラの言葉が、自分の伴侶となる彼に。
ちゃんと、自分の言葉は届くのだろうか。
「淡い黄色が、最近…好きに、なったので、嬉、しかった、です」
また、込み上げてきた涙につかえて、言葉が途切れ途切れになる。
顔合わせの日も今日も、彼の前では泣いてばかりだ。
淑女教育をまた見直さなければと、頭の隅でそんなことを思う。
そんなことが全部、
「そう、良かった。緊張していたんだ、これでも」
本当にホッとしたように、嬉しそうに破顔するエリオスの顔が、今までで一番同じ歳の青年に見えて。
それを見たらまた、泣けてきてしまった。
再び泣き出したシエラに、流石にエリオスが慌てている。
「とりあえず、部屋に戻ろうか」
ホールの端に控えていた、シエラが一番気心の知れた侍女を呼んでくれる。
本当に、そんなところまで、よく見てくれている。
「部屋までエスコートしてもいいかな?後で、ゆっくりお茶をしよう」
正直に言えば、手を取ってもらうのも今は勘弁してほしい。
けれどおそらく、敢えて申し出てくれたのだと思う。
気まずいシエラに気付いて、それでも、その手を取りたいと言ってくれている。
紳士としてではなく、おそらく未来の伴侶として。
差し出された腕に手を添える。
その腕が、馴染んでいたそれと違う事に、まだ慣れなくて少し戸惑う。
そのことを今日まで一度も、シエラも、エリオスも言葉にしたことはなかった。
でもきっとそんな戸惑いを、こんな姿を、これからどれだけでも見せ合うことになるのだろう。
政略とは言え、生身の人間同士、お綺麗なままではいられない。
こんな自分でいいのかと悩む時間などない。
これが自分だと、そう伝えていく方が、多分ずっと大切なのだ。
ホールを出る時にすれ違った、おそらく物陰から見ていたのだろうキールまでが赤い目をしていて。
シエラは自分の気まずさも忘れて、笑って泣いてしまった。
目を冷やしたら、この花を自室と、そして図書室の机の前にも飾ろう。
彼と二人で眺められるように。
この嬉しさを彼に伝えられるように。




