もう一つの義姉と弟の話
エリオスに王太子妃である義兄嫁から茶会の誘いがあったのは、エリオスとシエラの婚約がようやく整った頃だった。
以前の婚約がそのままであれば、シエラが結婚するはずだった、王国中の薔薇が咲く美しい季節。
エリオス達の結婚は来年に決まった。
貴族の婚約としては短い婚約期間となるが、もう共に学院も卒業した身である。
当主交代の時期はまだ未定だが、以前より早まりそうだと、義父となるオルコット子爵が喜んでいた。
王太子宮の、見事な薔薇が咲き誇る中庭での茶会は、王太子夫妻とエリオスだけのごく内輪のものだった。
おそらく、あと僅かで王家から籍が抜けるエリオスへの、兄夫婦からの餞なのだろう。
「王太子殿下、王太子妃殿下にご挨拶申し上げます」
出会った頃はほんの少女だった同い年の義兄嫁は、その容姿こそ大人びたものの、今日もあの頃と同じように兄の横で嫋やかに微笑んでいる。
白薔薇の様な白い額も、意志の強そうな、夫とエリオスと同じ金の瞳も、あの頃と何も変わらない。
エリオスは突然、それがどんなにか眩しく、かけがえの無いものであるかを、強い衝撃と共に感じた。
あんなにも小さかった頃から想い合い、時を経て、しかし離れることなく、今目の前に座っている一組の夫婦を見て、そのことがどれだけ貴重で、奇跡のようなものなのかを、初めて強く感じたのだった。
それは多分、一つの関係の終わりに打ちのめされた少女の姿が、心にあったからだろうと思う。
そんなエリオスの胸の裡を知らず、目の前で笑い合う二人は、成婚から間もなく一年、新婚も関係なく変わらずに仲睦まじい。
互いの髪色を取り入れた装いなのは、瞳の色で揃えると、王族は皆同じ色になってしまうからだろう。
そう思うと、いずれシエラに贈る夜会のドレスは、その辺りを考慮する必要がある。
その都度、事前に王家の色を確認しなければと、心に留めておく。
「エリオス様、今日は私たちしかおりませんし、気楽にしてくださって結構ですわ」
繊細なレースの施された扇を揺らし、義兄嫁がそう告げてくる。
やはり今日は彼女の方に、エリオスへの用事があるらしい。
普段は何くれとなくエリオスに話しかけてくる兄が、譲るつもりなのだろう、楽しそうに茶を飲んでいる。
「ありがとうございます、けれど、今の内から慣れておきたいと思っております」
「あら、エリオス様のことですから、その時になれば卒なくなさりますわ」
「まぁ…そうだね。お気遣い感謝するよ、殿下」
成婚前は呼んでいた名は、兄とはいえ夫の前なので、そこは固辞させてもらう。
ふと進み出た侍従から何事かを告げられ、兄が断りを入れ庭園を去って行く。
もしかしたら、最初からそのつもりだったのかもしれない。
「結婚の日取りが決まられたと伺いました。おめでたいことですわ」
「ありがとう存じます」
「エリオス様の事ですから、きっと恙なく運ばれるでしょうね」
にこりと微笑む顔は、婚姻してもなお、妖精姫の名の通り。
「今日は婚約者様についてお伺いしたいと思っておりましたの。結局、式典でのドレス姿も、遠くからしか拝見できませんでしたから」
「そうだったね。シエラも気にしていたから、いずれ二人でお目にかかれるよう頑張るよ」
子爵家として王宮に上がるのは、夜会か、或いは何か功績を上げた時くらいになるだろう。
臣籍に降るエリオスが、この中庭の薔薇を眺る機会を得ることも、きっとなくなる。
「あら、エリオス様が降下されても、殿下の弟君で、私の友人であることには変わりませんわ。ご招待いたしますし、どうぞご一緒に里帰りなされませ」
「確かに妹の様子も気になるし、呼んでくれたら嬉しいかな、ありがとう」
先月、正妃の元に生まれたのは、エリオス達兄弟にとって初めての妹で、その成長をそばで見られないのは唯一の心残りかもしれなかった。
それに、いずれ生まれる甥姪達の存在も。
「婚約者様はどうなさっておいでですか?前の、ご婚約が長かったでしょう?」
何となく、これが本題だという気がした。
卒業式典でのドレスの手配を頼んだ時に、シエラについて大まかな事情は話していた。
勿論その時点で既に、子爵家の婚約破棄について、義兄嫁の方でとうに把握していたし、エリオスはただ、長らく不在だった自身の婚約者が決まり、急遽ドレスが必要になった、ということだけを伝えた。
その後、ドレスの採寸と試着のために王宮に呼ばれたのが、あの怒涛の数週間の中で、シエラにとっては一番の難事だったかもしれない。
側妃である母と目の前の義兄嫁が、ドレス選びの場で何を話したのか、帰ってきて疲労困憊していたシエラには、そう言えば聞けていないままだった。
義兄嫁が聞きたいと思っていることは何だろうか。
ただのシエラの近況であれば、人をやって調べさせるだろう。
エリオスは今朝会ったばかりの、自身の婚約者の姿を思い浮かべる。
以前贈った明るい黄色のドレス、それを身に纏っても、灰色の瞳があの憐れな椋鳥を思い起こさせるシエラ。
「今日は伯母上と淑女教育を見直すと言っていたかな。ようやく色々と、余裕が出来てきたと思うよ」
義兄嫁は、エリオスの言葉に宿る感情を、正確に読み取ったようだった。
「彼の方を可哀想に思っていらっしゃるのね?」
「…そうだね、だからせめて優しくしたいと思っている」
「そうですの」
ピシャリと扇の閉じた音が、穏やかな空気の終わりを告げる。
「エリオス様、そんな憐れみなど、どうぞこの庭に埋めていかれるのがよろしいわ」
眇められた金色の光に射抜かれる。
その瞳の思わぬ強さに、口の中で次の言葉を飲み込んだ。
「これから長い年月を共に歩む伴侶に憐れまれるなど…彼女をずっと、“可哀想な女”にしてしまうおつもりかしら」
けぶる睫毛からこちらを見据える金の瞳が「それは許さない」と言外に、そう告げている。
(ホーバー家の今代は、もう駄目だな)
そのいつもと同じはずの声音から、ふと、義兄嫁とシエラには以前から面識があったのか、と思い至った。
公爵令嬢である義兄嫁と、子爵令嬢であるシエラが知り合う機会といえば…義兄嫁には確か、侍女として仕えている、学生時代の友人である子爵令嬢がいたはずだ。
シエラが義兄嫁について語ったことはないから、おそらくは、その子爵令嬢が知り合いなのだろう。
「憐れみなど無用なものは捨てて、看護人のように、職務として労わって差し上げるとよろしいわ。それで十分ですわ」
そう、シエラへの優しさが憐れみからでもいいと、確かにエリオスは思っていた。
それを今、見透かされたのだ。
憐れみであるくらいなら、その優しさなどいらないのだと。
その言葉は、王太子妃でも義兄嫁としてでもない、きっと貴族令嬢としての言葉なのだ。
王子の婚姻といえど、それだって一つの政略で、だからエリオスは条件の合う家でさえあれば、自分の相手は誰だってよかった。
けれどそうして、誰でもいいとシエラを選んだ自分も、あの元婚約者と変わりないのかもしれない。
少なくともデリクは、恋や爵位に溺れたにしろ、ちゃんとシエラ自身を見て判断し、別れを告げたのだ。
エリオスは子爵家の窮状を救ったかもしれないが、シエラの方を見てはいなかったのだから。
そうして近付いて、たまたま目にした、涙と、打ちひしがれている様を見て。
誰もが持つような、ありふれた憐れみを持っただけに過ぎない。
シエラのことを“可哀想に”と言えるのは、それが他人事であるからだろう。
あの日の椋鳥のように、ただ目の前にあるだけの、エリオスには何の責任もない憐れなものとして。
少し浮かれていたのかもしれない。
キールを救うことで国益を守ったと、そしてそれに安堵するシエラの様子に満足して。
義兄嫁にはそれが分かっているのだろう。
そういう高位の、王族の、持つ者の傲慢さを。
義兄嫁は、この国で最も選ばれた者だ。
そしてその為に多くのものを、自身が、その周囲が、蹴落としてきたかを知っている。
落ちていった数多の女性達の、その先に待つ運命を知っている。
彼女達を憐れな存在にたらしめているものは、しきたり、伝統、家、王家、そしてこの国そのもの。
彼女達の哀しみを、矜持を、運命を、他人事として憐れんでいる自分の傲慢ささえも、義兄嫁は従えて行くのだろう。
この国の王妃として。
今回の発端である婚約破棄のような、ありふれた貴族家同士の問題には、基本的には他家も、王家であっても不干渉である。
けれどそれもまた貴族の建前で。
お互いの脛の傷を飲み込んで笑い合うのが貴族でも、その事を互いに忘れることはない。
貴族の契約は重い。
笑いかけていても、決して許しはしないのだ。
未来の王妃が、ホーバー子爵家とその息子に微笑むことはもうないだろう。
これも一つの、義兄嫁なりの婚約祝いなのかもしれない。
けれど、どうしたらいいだろう。
そういう意味ではエリオスも、傲慢な王家の血を引く王子なのである。
エリオスから、ちょっと途方に暮れた気配が漂っていたに違いない。
決して公式の場では見せない少女のように笑われる。
「エリオス様、まだお二人は出会ったばかりですのよ」
楽しそうに、歌うように。
「物語では、そうね、主人公達が出会う、一幕目のプロローグかしら」
義兄嫁はそう言えば昔から物語が好きだった。
エリオスにもよくお勧めを強請っては、ハッピーエンドではないと、文句を言って兄を困らせていた。
「ここから始めたら良いではありませんか。丁度婚約が成ったところですもの。出会って、互いを知るために仲を深めて。いいですわね、少し羨ましいくらい」
兄夫婦の、市井で歌われるほどの恋愛譚を知っている身としては、思わず苦笑が漏れてしまう。
そんな話を聞いたら、義兄嫁のことになるとネジが外れる兄のことだ、出会いの再現くらいはするかもしれない。
やめて欲しい、当時一緒にいたエリオスも巻き込まれるのが目に見えている。
「私達はまだ始まっていないと、そう言いたいんだねリリアーヌ」
「ええ、だってそうでしょう?」
もしこれが、貴族の多くがそうであるように、学院に入る前に結ばれていたような、ありふれた婚約だったら自分はどうしただろう。
(花を贈る…定番すぎるか、いや好きな色を聞くのが先か…カードを添えて、手紙を贈るのもいいかもしれない)
ドレスを先に贈ってしまったが、まだ花も手紙も贈ったことはない。
彼女はどんな反応をするだろう。
図書室に並んでいた本の中に、エリオスが幼少期、気に入りだった冒険譚があった。
読み込んだ跡がわかる、くたびれた古い本だった。
あれはシエラも読んだのだろうか。
キールにいつか自慢された、領地にある子爵家の庭に昔から植っているというプラム、その実で作るジャムを乗せた、手作りのビスケットが食べてみたいと、強請ってもいいだろうか。
ずっと羨ましいと、実は思っている。
結婚まで後一年、初めて出来た婚約者に、最初は何をするだろう。
一人思案し始めたエリオスの様子に、すかさず釘を刺される。
「エリオス様くれぐれも、お二人でお考えくださいましね。二人の物語ですわよ」
丁度戻ってきた兄とエリオスに、義兄嫁が金の目を眇めて、呆れたような顔をしている。
それも昔から変わらない。
兄のよく分からない思いつきに付き合わされて、それは大体目の前の義兄嫁を喜ばせようとしたものだったけれど、上手くいった試しはなかったのだ。
「色々と考えるのがお好きなところは、ご兄弟揃って本当によく似ていらっしゃること。頭が良すぎるのも困りものですわ」
こんな風に、シエラにも呆れられるくらいの関係を、作っていけるだろうか。
キールの前で見る気安いシエラを思い出す。
憐れな、婚約破棄された令嬢などではない、暖かな灰色の瞳をした少女の顔を。
それは楽しみだと、素直にそう思った。
今のは憐れみからではない、エリオスの本音だ。
「ええ、肝に銘じます。義姉上」
子爵家のあちこちには、綺麗に色を保ったままのドライフラワーが飾ってある。
夫人のいない子爵家だから、あれはおそらくシエラの趣味だろう。
エリオスの母が、国王である父から贈られた花を、新しい花が届いてもなお、色褪せるまで大事に眺めていたのを思い出す。
あのドライフラワーは、シエラが過去に贈られた花なのかもしれない。
そしてきっと、あれがシエラの、彼への想いだったのだ。
あの男が望んでいた通りにしてやろう。
あふれる花で、全て塗り替えて、なかったことにしてしまおう。
あの机の上に飾る花を。
シエラが喜ぶ花を。
彼女のことを想って、選んでみようと思う。




