新しい義兄が言うことには
「君との婚約はなかったことにしてもらいたい」
その言葉が齎した顛末の、傍観者から当事者になった第四王子エリオスは思う。
随分、罪深い言葉だと。
なかったことに、なるわけなどないだろうに。
ホーバー子爵家が三男の婚約を破棄し、別の貴族家と婚約を結び直す。
冬の終わりにその情報を耳にした時、エリオスにとっては、それは一つのありふれた契約の破綻に過ぎなかった。
婚約が人的資源を伴うものであっても、紙の上では単なる契約である。
一つの契約を、正当な手続きで解消し、条件のいい方と結び直すことは、法の上では全く問題にはならない。
家同士の契約である以上、解消の理由がどういったものであっても、最終的にそれを判断したのは家ということになる。
当人同士の心変わり、素行不良、性格の不一致、それらは単に、理由の一つでしかない。
様々な利害を踏まえ、最終的にその解消を判断したのは各家、各当主達なのである。
貴族の契約は重い。
けれど、婚姻に関わる契約には、おおよそどの家も、大なり小なりその過去に、後ろ暗いものを抱えているものである。
他家の不義理を責め立てたところで、数代前の我が家の脛にも傷があるなんてことは、珍しくないのだ。
だから今回の、ホーバー子爵、オルコット子爵両家の婚約解消にしても、単に一つの家同士の契約が終わってしまった、というだけのことにすぎない。
醜聞ではあるものの、ほんの少しの間噂好きの貴族達の口を賑わせて、それで終わりである。
個人の遺恨は互いに飲み込んで、笑みを交わし合うのが貴族なのである。
ただ同時に、それはあくまでも家の話であり、貴族らしい建前なのだ。
いつの時代もその皺寄せがいくのは、立場の弱い者達に変わらない。
今回ホーバー家が賠償金を支払ったことから、どちら側の有責であるかは明らかだったが、その後すぐにホーバー子爵令息デリクの、新たな婚約が成った。
だから貴族達は思う。
元婚約者、オルコット子爵令嬢シエラの方にも、何か、問題があったのではないかと。
何が真実かどうかは関係がない。
婚約破棄の醜聞を一身に引き受けるのは、ただ一方的に破棄されただけの令嬢、けれどその事実がただ、瑕疵なのだった。
瑕疵のあるシエラに、第四王子であるエリオスが婿入りを打診したのは、憐れみや同情心からではない。
シエラの時期当主脱落と、その弟のキールが挿げ替えられるだろう内情も、貴族家にはよくあることだと、そう自然と思うくらいには、エリオスにも貴い血が流れているのである。
そして別に善意でこの身を差し出したつもりもない。
エリオスには自己犠牲趣味はないし、さほど自分は慈悲深くもないと知っている。
王族としてのスペアの役目を終える自分を、引き取ってくれる家として、ただ単に、オルコット子爵家が条件に合致したに過ぎない。
生徒会長として、学院の問題に対処する時のように、事態を解決する為の丁度いい形のピースが、たまたま今回はエリオス自身だった、というだけのことである。
我が国でのオルコット家の立ち位置、降下による他家への影響、反発があるとしたらどの辺りか、大臣達に提示できそうなメリットとデメリットをざっと計算し、そこに、いずれ国の有益な人材となるであろう、官吏を希望しているキールの存在を、スパイス程度に加味した結果である。
ただまぁそれでも、キールとは一年同じ生徒会で過ごしてきたのだ。
少なからず情もあるし、日毎に成長目まぐるしい彼を、期待し好ましくも思っている。
どうせどこかに身を寄せるのだ、役立つに越した事はない。
彼が義弟というのも悪くない。
シエラはキールとは違う髪色の、線の細い、あまり印象に残らない令嬢だった。
学院の同級生である彼女とは、この卒業の間際にもなって、初めて言葉を交わした。
キールとの事前の約束通り、“顔合わせ”ではなく、あくまでシエラの意向を確認する為に設けた席で、
「正直に言って、ほっとしております」
そう言ったシエラは泣いていた。
こちらを見つめる瞳から涙が、頬を伝うがままに静かに流れ落ちていた。
それは、自分の次期当主の立場が守られたことにではなく、弟の将来が潰えなかったことへの涙だと、エリオスにも分かった。
婚約の破棄が齎したのだろうか、学院で見かけた記憶の中の彼女より華奢な肩と、目の下の隈が痛ましい。
「お見苦しいところをお見せいたしました」
すぐにそう言って頬に残る雫をさっと払い、赤い目で、それでも貴族らしい笑みを浮かべて、シエラはエリオスの婿入りを承諾した。
その瞳がキールとよく似た灰色だということを、エリオスはその時初めて知ったのだった。
そうして将来義弟となることが決まったキールからの初めての要望が、開催まで一月を切った卒業式典での、シエラのエスコートであった。
大臣達は、未だ婚約の形も整っておらず、何の手回しもしていない状況を理由に嫌がったが、キールは猛然と、自分の父親と王宮の使者を相手に一歩も引かず、その優秀さを遺憾無く発揮してみせたのだった。
そんな未来の義弟のお陰で舞台は整い、けれどそう成ってみると、ただでさえ生徒会長として忙しいエリオスには、一秒だって無駄に出来る時間がなくなった。
卒業までの残り僅かな時間を、エリオスもシエラも、言い出しっぺのキールをも巻き込んで大わらわだった。
シエラのドレスや装飾品の手配は、今まで婚約者のいなかったエリオスでは手が回らず、急遽、成婚したばかりの王太子妃である義兄嫁の伝手を頼りにし、それが思いのほか義兄嫁や母を喜ばせたのだった。
既製の品ではあるが、エリオスの瞳の色に合わせたシャンパンカラーのタフタドレスは、華奢なシエラの身体の線を拾いすぎず、華やかでよく似合っていた。
当日のエスコート自体は、パーティーの最中は生徒会長としての職務があり、結局入場時だけになってしまった。
それでも、エリオスの色を纏って微笑むシエラは、婚約を破棄されたばかりの令嬢とは思えないほど堂々としていて。
入場した後のエスコートを引き継いだキールも、ようやく安堵したのだろう、珍しく十五歳の少年らしい顔で笑っていたのだった。
ちなみに元婚約者、デリク・ホーバー子爵令息は、成績優秀者として表彰を受けることはなかった。
これは単に、より優秀な候補者が多くあった結果である。
後で聞いた話だが、デリクの新しい婚約者の家からは、そのことに対する文句が生徒会の方に届いていたらしい。
けれどもエリオスの後を引き継いだ彼らは優秀で、問題にもならなかったようだ。
時に学園や教師達ともやり合う彼らに、そんなことに怯むほど、柔な者はいないのだ。
エリオスもパーティーで初めて、デリクとその婚約者の姿を目にした。
シエラとはまるで違う、金髪の華やかな令嬢だった。
無事に婚約者(仮)としての最初のイベントを終え、学院を卒業した頃、気がつけば世間では、ホーバー、オルコットの婚約破棄の一幕は、エリオスがシエラを見初めたが故のものである、ということにすり替わっていた。
噂の流布に、キールはエリオスの関与を疑っていたようで、事実、いずれそうしようとは思っていたのだが、そこまで手が回っていなかったというのが真相である。
忙しさがさほど苦にならないエリオスでも、流石にこの数週間は、方々への説明と説得、進めるべき手続きや整えなければならない問題が山積みだった。
そもそも諸々の発表以前に、未だ書類の一枚だって正式に交わせていないのである。
そんな状況だったから、噂は僥倖であった。
これで少しはシエラの瑕疵が払拭され、キールの溜飲が下がるだろう。
何よりなことである。
世の噂とはそんなもので、誰も真実に興味などないのだ。
卒業後は、エリオスはまずこの婚約を整えることに奔走し、シエラは止めていた当主教育を再開させた。
本来であれば、婚約者とは定期的に交流の機会を持つものだが、その機会を設けるまでもなく、諸々の手続きやシエラの補佐の為に、頻繁に子爵家で顔を合わせることになった。
そして同時にエリオス自身も学ぶことが多くあった。
どの家を選んでも、その家各にあった慣習と、その家について学び直す必要はあったし、幸いエリオスにとって学ぶことは苦ではない。
そうして学ぶエリオスをシエラも手伝った。
驚いたのは、エリオスのどんな小さな疑問にも、それが領地のことであれば、シエラは答えて見せたのだ。
打てば響くように領地について語るシエラとの時間は、思いの外楽しいものだった。
エリオスと過ごす時間が増えても、シエラの態度は初対面の時からあまり変わらず、少なからず緊張しているようだった。
それも当然である。
貴族令嬢が、使用人がいるとは言え、異性と二人きりになる機会はほぼなく、通常は家族か婚約者くらいのものだからだ。
婚約者がいたシエラはもう何年も、婚約者以外とこうして、机を並べるようなことはなかっただろう。
エリオスの存在が彼女の日常になるのには、まだまだ時間がかかるだろう。
シエラは、緊張自体はなかなか解れないものの、領地について論じ合うときなどには、王族であるエリオスに対しても臆するようなことはなかった。
その控えめだが真っ直ぐな視線からは、次期当主の片鱗が確かに感じられたのだった。
シエラは一人で立つには物足りないが、適切な支えさえあれば十分に、次期当主として伸びていくだろう。
それは丁度、子爵領の収益を担う豆の蔓草のように。
領地とそこに住まう民達は、時間をかけて根を張り、芽吹き、伸びていく苗のようなものである。
伸びない芽もあれば、生育の速さもそれぞれに違う、途中で茎が折れることもある。
けれどだからと言って簡単に、切ったり植え替えたりは出来ない。
共に根を張り、目の前の結果よりも、未来の成果を実らせる、それにはシエラが向いている。
その点、キールは聡い分見切りが早い。
領地の差配は難なくこなすだろうが、実るものは別のものになるだろう。
子爵が優秀なキールではなく、シエラを選んだ訳がわかる気がした。
キールの力は、もっと大きな問題や危機の中で、そこに飲み込まれず迅速で確実な判断が求められる、国政でこそ生きるだろうとも。
こうして周囲の諸々の問題にも目処がつき、皆収まるところに収まって、様々なものが新しく回り始めた頃。
シエラは、表面上はもう何も問題はないように見えた。
事実、以前と変わらず当主教育をこなし、家族と笑い合い、エリオスとも新たな関係を築き出していた。
デリクに恋していたわけではなかったのだと、シエラは言った。
だからエリオスとの婚約は、自分の意思だと。
今、自分と子爵家にとって必要なものは、婿に来てくれる“誰か”なのだと。
けれど、シエラが本当に欲しいものは、きっとそんなものではなかっただろう。
時々、エリオスを振り返った時の目線が、エリオスの肩上のあたりを彷徨う。
エスコートの時の手の位置、高い所にある本を代わりに取ってやった時の驚き。
エリオスの身長は、この国では高い方である。
今代の王家の息子達、自分とその兄達は皆、恵まれた体格を持っている。
元婚約者はこの国の今の若い子息として平均的な身長だった。
パーティーでは、新しい婚約者がシエラよりも小柄だったせいか、大きく見えたような気がしたけれど。
子爵家の図書室の一角には、未だ執務室のないシエラの、政務用の机が置かれていた。
その横にもう一つ並べられた机は、どちらも同じように使い込まれた跡があり、その木艶が美しかった。
少なくない時間をここで、二人は共に過ごしてきたのだろう。
買い直そうかと言ってくれたのをエリオスは辞退した。
別にそれを使うことに何の感慨もなく、不都合はなかったからだ。
でも、その時どちらも新調しておけばよかったのかもしれない。
それがエリオスとの婚姻で早まるだろう、当主交代までの僅かな時間だけだったとしても。
けれど、あの机一つ無くなったところで、それが彼女の、シエラの慰めになっただろうか。
「婚約をなかったことにしたい」
あの日告げられたのはそんな言葉だったと知った。
シエラにも勿論、キールにも、この家の使用人達にだってエリオスは聞かなかった。
学院で同じクラスの友人達に漏らしていたらしい。
生徒会の有用なところは、学院内のことに関しては、おおよそ、知れないことなどないというところである。
何もなかったことになど、なるわけがないだろう。
部外者であったエリオスですら、そんな、分かるようなことを。
恋がなかったからといって、傷つかない訳がない。
あるいは恋であった方が、嘆き悲しむことができたのかもしれない。
切り裂かれたその傷を、シエラは家のために、ずっと抱いていくしかないのだ。
そんなシエラを可哀想だなと思った。
それは昔、王宮の窓にぶつかり、首を折って儚くなった、小さな灰色の椋鳥に感じた悼ましさに似ていた。
震える手で拾い上げた椋鳥は、まだその柔らかな羽毛も、繊細な温かさも指に伝わってくるのに、その可哀想な魂はもう、疾うに失われているのだった。
この同情がいつか愛に変わるだろうか。
エリオスには、まだ分からない。
そうならなくともせめて、優しさにはなるだろうか。




