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聖女は隣でタバコを吸う

作者: 古沢樹
掲載日:2026/03/11

 神殿の裏手にある、苔むした小さな休憩スペース。


 誰も立ち入らない、石造りの簡素なベンチが一つだけ置かれたその場所は、彼女にとっての唯一の聖域だった。


 カチッ、と魔導式ライターの乾いた音が響く。



「はあ、やっと一息つける」



 隣に座った彼女は、紫煙を細く吐き出した。


 神殿にもかかわらず、純白の聖女服が、どこか場違いで、その白い指の間には、細身のタバコが挟まれている。



 聖女アリア。


 世界を救うと預言された、敬虔で清らかな信仰の象徴。


 そんな彼女が今、どこか寂しげな憂いを纏い、僕の隣でタバコを吸っている。



 僕は神殿の雑用係で、彼女の護衛でも信者でもない。


 ただ休憩時間が偶然重なるだけの、無関係な存在だ。



 アリアがここでタバコを吸い始めたのは、約一年前からだった。


 最初は驚いたが、誰もいないこの場所で、僕は彼女の秘密を守り続けている。



「今日も大変だったんですか?」



 僕が尋ねると、アリアは小さく笑った。



「ええ。人前ではいつも、慈愛に満ちた笑顔を貼り付けなきゃいけないから。肩が凝るわ」



 彼女はため息と共に、二度目の煙を吐き出す。


 その煙は、神殿の塔を背に、ゆっくりと空へ昇っていった。



「信者の方々には、まさか私がこんなことをしているなんて、想像もできないでしょうね」


「まあ、そうでしょうね」



 僕の素っ気ない返事にも、彼女は特に気を悪くした様子はない。


 むしろ、それが心地良いようだった。



「勇者様との旅、そろそろ始まるんですよね?」


「そうね。鼻持ちならない、暑苦しい男よ。きっと道中も面倒だわ」



 アリアは灰皿代わりの小瓶に吸いかけのタバコを入れて、立ち上がった。


 その顔は、もう「慈愛に満ちた聖女」のそれに切り替わっている。



「行ってきます、雑用係さん。私には世界を救う使命があるので」


「はい。行ってらっしゃいませ、聖女様」



 僕が形式的な挨拶を返すと、アリアは門へ向かってゆっくりと歩き出した。



 勇者一行との旅は危険なものになるだろう。


 これが彼女と話す最後になるかもしれない。


 その背中には、世界を救う重責と、それを演じきる覚悟が張り付いているように見えた。


 僕はせめて心の中で、彼女の旅の無事を祈った。



 ざっ……――



 だが、門をくぐる直前、彼女はぴたりと足を止め、こちらに振り返った。



「?」



 その顔はもう聖女のそれではなかった。


 疲れ切った、ただの年頃の女性の表情であり、そして何かを決意したような顔だった。



「ねえ、雑用係さん」



 そして、アリアが戻ってくる。



「実はね、知っているのよ」



 彼女がまっすぐ僕の目を見つめてくる。


 その眼差しは、真実を見抜くような鋭さを持っていた。



「あなたが、別の世界から来た人間だってこと」


「!」



 全身が硬直した。


 心臓がドクドクと不規則な音を立てる。


 それは長年隠し通してきた、僕の最大の秘密だった。



「どうして、それを……」


「言葉の端々、知識、そして何より、あなたが時折見せる、この世界に対する諦めのようなもの。私には分かる。だって、私もそうだったから」



 そう告白してアリアが微笑んだ。


 それは慈愛ではなく、寂しさと懐かしさと、そして同志を見つけた安堵の混ざった複雑な笑みだった。



(そうか。だから彼女は、あんな風にタバコを吸っていたのか……)



 するとアリアはポケットから、吸いかけのタバコを取り出した。



「あのね、雑用係さん。私の旅の目的地は、魔王城なんかじゃないわ」


「え」



 そして、彼女は僕に一歩近づき、声を潜めた。



「私の本当の目的は、元の世界へ帰ること。世界を救う? バカバカしい。私はただ、昔のようにコンビニの前で、タバコでも吸いながらぼんやりとスマホをいじりたいだけ……!」



 そう言って吸い殻を地面に落とすと、アリアはそれを靴底で踏みつけた。


 溜め込んだ怒りを露わにした彼女の横顔に、もはや聖女の面影はない。



「世界を救う旅なんかより……現実に戻る旅のほうがよほど大変だわ……」



 そしてアリアは、真剣な眼差しで僕を見上げた。



「ねえ、雑用係さん。私の『旅』手伝ってくれない?」



 目の前の聖女服の女性は、もう世界を救う希望ではない。


 ただ一人の、故郷を恋しがる異邦人だった。



 僕の胸の中で、長らく凍てついていた何かが、ゆっくりと溶け始める。



「……行きましょう。僕も、故郷の光景をもう一度見たい」



 迷いはなかった。


 秘密を共有した聖女と雑用係は"共犯者"として微笑み合う。



 門の向こうで待つ勇者は、この聖女が世界を救うという大義を捨てて、密かに『故郷に帰ってタバコを吸う』という、個人的な、あまりに俗っぽい目的のために旅立とうとしていることなど、知る由もないだろう。



 そして、ふたりは世界に背を向けて、神殿の門へと歩き出した。

読んでいただき、ありがとうございました!

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