聖女は隣でタバコを吸う
神殿の裏手にある、苔むした小さな休憩スペース。
誰も立ち入らない、石造りの簡素なベンチが一つだけ置かれたその場所は、彼女にとっての唯一の聖域だった。
カチッ、と魔導式ライターの乾いた音が響く。
「はあ、やっと一息つける」
隣に座った彼女は、紫煙を細く吐き出した。
神殿にもかかわらず、純白の聖女服が、どこか場違いで、その白い指の間には、細身のタバコが挟まれている。
聖女アリア。
世界を救うと預言された、敬虔で清らかな信仰の象徴。
そんな彼女が今、どこか寂しげな憂いを纏い、僕の隣でタバコを吸っている。
僕は神殿の雑用係で、彼女の護衛でも信者でもない。
ただ休憩時間が偶然重なるだけの、無関係な存在だ。
アリアがここでタバコを吸い始めたのは、約一年前からだった。
最初は驚いたが、誰もいないこの場所で、僕は彼女の秘密を守り続けている。
「今日も大変だったんですか?」
僕が尋ねると、アリアは小さく笑った。
「ええ。人前ではいつも、慈愛に満ちた笑顔を貼り付けなきゃいけないから。肩が凝るわ」
彼女はため息と共に、二度目の煙を吐き出す。
その煙は、神殿の塔を背に、ゆっくりと空へ昇っていった。
「信者の方々には、まさか私がこんなことをしているなんて、想像もできないでしょうね」
「まあ、そうでしょうね」
僕の素っ気ない返事にも、彼女は特に気を悪くした様子はない。
むしろ、それが心地良いようだった。
「勇者様との旅、そろそろ始まるんですよね?」
「そうね。鼻持ちならない、暑苦しい男よ。きっと道中も面倒だわ」
アリアは灰皿代わりの小瓶に吸いかけのタバコを入れて、立ち上がった。
その顔は、もう「慈愛に満ちた聖女」のそれに切り替わっている。
「行ってきます、雑用係さん。私には世界を救う使命があるので」
「はい。行ってらっしゃいませ、聖女様」
僕が形式的な挨拶を返すと、アリアは門へ向かってゆっくりと歩き出した。
勇者一行との旅は危険なものになるだろう。
これが彼女と話す最後になるかもしれない。
その背中には、世界を救う重責と、それを演じきる覚悟が張り付いているように見えた。
僕はせめて心の中で、彼女の旅の無事を祈った。
ざっ……――
だが、門をくぐる直前、彼女はぴたりと足を止め、こちらに振り返った。
「?」
その顔はもう聖女のそれではなかった。
疲れ切った、ただの年頃の女性の表情であり、そして何かを決意したような顔だった。
「ねえ、雑用係さん」
そして、アリアが戻ってくる。
「実はね、知っているのよ」
彼女がまっすぐ僕の目を見つめてくる。
その眼差しは、真実を見抜くような鋭さを持っていた。
「あなたが、別の世界から来た人間だってこと」
「!」
全身が硬直した。
心臓がドクドクと不規則な音を立てる。
それは長年隠し通してきた、僕の最大の秘密だった。
「どうして、それを……」
「言葉の端々、知識、そして何より、あなたが時折見せる、この世界に対する諦めのようなもの。私には分かる。だって、私もそうだったから」
そう告白してアリアが微笑んだ。
それは慈愛ではなく、寂しさと懐かしさと、そして同志を見つけた安堵の混ざった複雑な笑みだった。
(そうか。だから彼女は、あんな風にタバコを吸っていたのか……)
するとアリアはポケットから、吸いかけのタバコを取り出した。
「あのね、雑用係さん。私の旅の目的地は、魔王城なんかじゃないわ」
「え」
そして、彼女は僕に一歩近づき、声を潜めた。
「私の本当の目的は、元の世界へ帰ること。世界を救う? バカバカしい。私はただ、昔のようにコンビニの前で、タバコでも吸いながらぼんやりとスマホをいじりたいだけ……!」
そう言って吸い殻を地面に落とすと、アリアはそれを靴底で踏みつけた。
溜め込んだ怒りを露わにした彼女の横顔に、もはや聖女の面影はない。
「世界を救う旅なんかより……現実に戻る旅のほうがよほど大変だわ……」
そしてアリアは、真剣な眼差しで僕を見上げた。
「ねえ、雑用係さん。私の『旅』手伝ってくれない?」
目の前の聖女服の女性は、もう世界を救う希望ではない。
ただ一人の、故郷を恋しがる異邦人だった。
僕の胸の中で、長らく凍てついていた何かが、ゆっくりと溶け始める。
「……行きましょう。僕も、故郷の光景をもう一度見たい」
迷いはなかった。
秘密を共有した聖女と雑用係は"共犯者"として微笑み合う。
門の向こうで待つ勇者は、この聖女が世界を救うという大義を捨てて、密かに『故郷に帰ってタバコを吸う』という、個人的な、あまりに俗っぽい目的のために旅立とうとしていることなど、知る由もないだろう。
そして、ふたりは世界に背を向けて、神殿の門へと歩き出した。
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