第二部:二つの柱 ― 結城秀康と徳川秀忠
家康には、もう一人、信康に勝るとも劣らない武勇を持つ息子がいた。次男・於義丸、後の結城秀康である。しかし、彼もまた、父の築く楼閣の、正規の階段を上ることを許されなかった。彼が背負わされた宿命は、信康が「武田に近い」とされたそれと、表裏一体の危険性を帯びていたからだ。
彼が物心ついた頃、徳川家はまだ天下の覇者・豊臣秀吉の前に膝を屈する一介の大名に過ぎなかった。秀吉は、家康の忠誠の証として、その息子を人質として要求した。家康は躊躇なく、於義丸を差し出した。彼は、父の野望のための「生きた供物」となったのである。
大坂の空気は、三河のそれとは全く違った。黄金の茶室、南蛮渡来の珍品、そして何より、人を惹きつけてやまない太閤秀吉その人の存在。秀康は、その豪放磊落な性格から、秀吉本人にも大層気に入られた。「貴様はわしの息子じゃ」と、秀吉は何度も彼の肩を叩いた。秀康もまた、実の父からは感じたことのない、直接的で分かりやすい愛情を注いでくれるこの天下人に、次第に心を開いていった。
しかし、その寵愛こそが、彼の未来に深い影を落とす。彼は「豊臣の養子」という、決して消すことのできない烙印を押されたのだ。
やがて秀吉が世を去り、父・家康が天下獲りへ向けて動き出した時、秀康の立場はあまりにも微妙であった。徳川家中には、いまだ豊臣への恩顧を感じる者も少なくない。そして、多くの譜代の家臣たちは、秀康を「大坂に染まりすぎた若君」として、警戒の目で見ていた。彼が徳川を継げば、いずれ豊臣恩顧の大名たちと結びつき、家康の築いた秩序を覆しかねない――その疑念は、口に出さずとも、重い空気となって江戸城に漂っていた。
家康が後継者として選んだのは、凡庸とさえ言われた三男・秀忠であった。その報せが越前の北ノ庄城に届いた夜、筆頭家老の大越景純は、秀康の私室を訪れた。
「――御本家よりの報せ、まことに、まことに…」
景純は、言葉を続けられなかった。その目には、主君への同情と、徳川本家への隠しきれない不満が滲んでいる。
「治部少輔(秀忠)様が、跡を継がれる。それでよいのだ、景純」
秀康の声は、驚くほど穏やかだった。彼は、窓の外に広がる越前の暗い平野を見つめている。
「しかし! 殿の武勇、お人柄、どれをとっても治部少輔様の上でござる! 関ヶ原の折も、殿がこの北の庄で上杉を抑えていなければ、父君の勝利はございませんでした。それを…それを、この仕打ちはあまりに…!」
「景純」秀康は静かに家老を制した。「わしが跡を継げば、どうなると思う?」
「はっ…?」
「わしの周りには、太閤殿下に恩を受けた者たちが集まろう。福島正則、加藤清正…彼らはわしを担ぎ、治部少輔と江戸の者たちを軽んじるやもしれぬ。そうなれば、徳川は内から割れる。父上が最も恐れておられるのは、それよ」
秀康は、初めて家老の方を振り返った。その瞳は、諦念とは違う、すべてを理解し尽くした者の静けさを湛えていた。
「兄上(信康)は、武田に近すぎた故に、家を危うくした。そして、このわしは、豊臣に近すぎた。父上は、徳川の家を、織田でも、豊臣でも、武田でもない、ただ徳川の家として残したいのだ。そのためには、わずかな色の混じりさえも許されぬ。治部少輔には、色がない。それこそが、次の世を治める者に、最も必要な資質なのよ」
彼は、父の非情なまでの合理性を、完全に受け入れていた。自らが、徳川の天下という巨大な楼閣の礎石となる運命を、「是」として引き受けたのだ。
「わしの役目は、この北の国から、西に睨みを利かせ、江戸の安泰を守ること。徳川の天下の長城となることよ。それ以上の望みはない」
その言葉に、景純はもはや何も言えなかった。ただ深く頭を垂れる。
その頃からである。強靭であったはずの体に、病の影が差し始めたのは。越前六十八万石の大大名として君臨しながらも、壮年にさしかかる頃には床に伏すことが増え、政務に支障をきたすようになっていった。
「我が身がもう少し健やかであれば……」
嘆息は洩れるも、声高に不満を述べることはなかった。徳川の家という巨大な秩序の中で、自らの居場所を見極めたからであろうか、それとも病のため気弱になっていたのであろうか?今となってはそれは知ることは出来ない。
やがて彼は三十五歳の若さで早世。
勇猛にして豪胆、秀吉に見出された男は、徳川の本流からはついに異端として扱われたまま、その生涯を閉じた。もし病に倒れず健やかであったならば、後継争いの行方すら変えたかもしれぬ。だがその可能性もまた、徳川という冷徹な家に呑み込まれていったのである。
秀康は最高の剣であったが、自ら鞘に収まることを選んだ。父が心血を注いで築き上げる「家」の秩序を守るため、彼は己の武人としての本能と、天下への道を、結果的に封印したのである。