第一部:礎の影 ― 岡崎三郎信康
徳川家康という男の人生は、忍耐という名の長い冬であった。
今川の人質として過ごした幼少期、身を切り裂くような三河一向一揆、そして武田信玄に蹂躙され、死の淵を覗いた三方ヶ原。
彼は、人の情愛がいかに脆く、甘さがどれほど致命的な毒となるかを、その骨の髄まで叩き込まれていた。
彼が築き上げようとしていた「家」とは、血の温もりで結ばれる安息の場ではない。
二百年先まで続く泰平の世という、巨大で、冷徹で、寸分の狂いも許されない楼閣であった。そして、その礎には、時に最も重い犠牲を捧げねばならなかった。
最初の犠牲は、嫡男・信康。家康が最も期待をかけ、自らの若い頃の武勇と気概を色濃く受け継いだ息子である。
しかし、その血筋と立場には、生まれながらにして危険な断層が走っていた。
母である築山殿は、滅びた今川家の出身。その彼女の周りには、徳川に吸収された旧今川家の家臣たちが集まり、一つの派閥を形成していた。彼らは、主家を滅ぼした織田信長を憎み、その信長に頭を下げる家康の現状を、屈辱と感じていた。
その派閥が希望の星と見なしたのが、若き岡崎城主・信康であり、彼らを巧みに操っていたのが、信康の側近である大岡弥四郎であった。
弥四郎は、信康の私室で、地図を指しながら熱っぽく語っていた。
「若君、ご覧くだされ。浜松の御本城は、常に武田を正面に見ておりまする。されど、それはすなわち、常に織田に背を預けているのと同じこと。信長は、我らを便利な盾としか見ておりませぬ」
「弥四郎、父上にもお考えがある」
信康はそう返しつつも、その声に力はなかった。
「父君のお考えは、あまりに慎重にござります。若君の武勇があれば、武田は、若君のような本物の武士をこそ評価いたしまする。彼らが憎むは信長。若君が当主となれば、武田と手を結び、織田の軛から解き放たれる道も…」
その言葉は、甘い毒のように信康の心に染み込んでいった。父に認められぬ鬱憤と、武人としての高いプライドが、弥四郎の言葉に真実味を与えていた。信康は明確な謀反の意思こそなかったが、父とは違うやり方があるのではないか、という危険な考えに次第に傾いていった。
その岡崎城の不穏な空気を、信康の正室・徳姫は見逃さなかった。彼女は織田信長の娘。彼女の周囲を固める侍女たちは、安土の目と耳であった。徳姫から父・信長に送られた訴状には、夫への不満と共に、大岡弥四郎ら不穏な家臣たちが、武田と通じているのではないかという疑念が、詳細に記されていた。
やがて、信長の使者が浜松城を訪れる。使者は儀礼的な挨拶を終えた後、静かな口調で本題に入った。
「信長様より、家康殿へ内々のご伝言にございます。近頃、岡崎の姫君より、心労の絶えぬ旨の文が度々届くらしく。また、それに前後し、城内に武田と内通しているものがいる、との情報も得たそうでございます。
詳しき内容は書状にございまするが……あとは万事任せる、とのこと。」
家康は、顔色一つ変えずに使者を下がらせた。部屋に一人残されると、深く、長い息を吐いた。信長からの報せは、驚きをもたらさなかった。ただ、ずっと見て見ぬふりをしてきた膿を、白日の下に晒されただけのことである。
信長も知るところとなった以上、もはや猶予はない。どうしたものか……。息子の顔が、そして岡崎の家臣たちの顔が、代わる代わる脳裏に浮かんで消える。
我が息子は、俺の武勇は受け継いだだが、俺の臆病さは受け継がなかった。俺が血を吐くような思いで学んだ、大国に挟まれた小国の生存術を、生まれながらの嫡男であるあいつは知らぬ。あのまま岡崎を継がせれば、いつか必ず弥四郎のような者たちに担がれ、家を滅ぼすだろう。
家康は、信長の言葉に従ったのではなかった。彼は、信長の警告を「口実」として使い、自らがずっと以前から下すべきだと分かっていた決断を実行したのだ。
その後、二俣城に幽閉された信康のもとへ、父からの使者が届いた。信康は、すべてを悟った。彼は父を恨んだだろうか。あるいは、自らを操った者たちを呪っただろうか。確かなことは、彼が武士として、徳川の嫡男としての誇りを失わずに、その短い生涯を自ら閉じたことだけだ。
天正七年九月十五日。家康は、信長のために息子を殺したのではない。彼が築き上げる「家」の未来、その未来に巣食う最大の危険分子を、自らの手で抉り出したのである。
こうして徳川家の礎には、最も期待をかけたはずの息子の影が、深く、暗く、塗り込められることとなったのだった。