その足で進めよ
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「……」
金属製の冷たいドアノブを捻り、温度差もたいしてない外へと出た。僕は制服の手にポケットを入れて歩き出した。
関東地方のほうではもう、桜の花びらが暖かい風に揺られているというのに、こっちでは二酸化炭素が冷たい風に揺らいでいるぐらいだ。今、見ている風景にピンク色なんてもちろん、存在していない。いや、少しだけあったか。
ショッキングピンクのカーディガン。あいつは確か、同じ学年の後藤亜美だったか。まぁ、それが後藤だろうと後藤でなかろうと、僕には関係ない。話したこともないのだ。
僕は足を速めた。
今僕がすることは片道三十分もかけて学校に向かうことだった。だが、それももう終わった。速歩きで歩いていたせいか、予想より早く学校に着いた。
左右に開かれた門の間を、黒い制服を着た人間達がぶつかりあうこともなく歩く。この学校に一つしかない昇降口を目指して。その様は渋谷のスクランブル交差点を連想させた。いや、あれは四方八方から人が歩いてきてぶつからないからすごいらしいのだ。こんな小さい学校で、四方八方なんてありえない。皆、一方通行だ。ぶつからないのも当然なのか。
そんなことを考えながらも、僕は上履きを履き、教室に向かった。
教室に入っても、自分の席が分からない。恥らいながらも近くにいた男子に聞く。
「あの、僕の席どこ?」
「え、ないよ……。先生に言えば、持ってきてもらえるんじゃないかな」
「そう……、ありがと」
僕は教室を出た。職員室に向かって歩いていると先ほど見かけた、ショッキングピンクが視界の端に映った。後藤だった。何か考え事をしてるかのように渋い顔をしながら歩いている。
本来そんなに整った顔立ちはしていないのだろうか。厚い化粧で誤魔化された顔が妙に浮いている。そんなことなんてどうでもいい。僕は職員室に入ってからの第一声を考えていた。「失礼します、二年五組の萩ですけど僕のクラスの担任の先生はどなたでしょうか?」まぁ、そんなことあたりを言っておけばなんとかなるかもしれない。
職員室の前まで来て、ドアを開けようとノブを握ったとき、そのノブは僕が思っていた回転とは違い、逆方向に回った。
思わず手を離した。手首が変な違和感を覚えた。ドアが引かれて、姿を現したのは太った中年のおじさんだった。風格から言ってきっとこの学校の教師だろう。
「ん? なんだ、萩くんじゃないか」
無視して通り過ぎようとした僕に、そんな太く低い声が届く。振り返ると、教師は手帳を眺めて「今日来るっていう連絡は入ってないがな、どうしたんだい」と言った。
正直、誰か分からなかった。だが、教師が右手に抱えている生徒手帳の表紙を見て、僕は「あぁ」と唸った。
「すいません、連絡なんて入れなくていいものかと」
「いやいや、ちょっと困るよ。机だって出してなかったんだから」
教師、いや確か鈴木という名前だった気がした。鈴木先生は当たり前のように鼻で笑った。
「そうなんです。机のことで職員室に来たんです。どうすればいいでしょうか」
「どうすればって。たぶん教室の横の準備室にあるから、それをどこでも好きな席に」
「ふん」と僕は鼻で笑った。さっき鈴木先生がしたように、僕も真似してみた。どうやらこの教師は、不登校生徒が嫌いなようだ。いや、不登校だけじゃない。きっと何かと手にかかる生徒が嫌いなんだろう。成績優秀で真面目な生徒だけしか自分の眼中にないのだろう。僕はそう思った。だから、歩き出した。「分かりました。わざわざありがとうございます。この学校にも鈴木先生みたいな親切な人間もいるんですね」と虚言を吐きながら。鈴木先生はにっこり笑っていた。「やっぱり、不登校なんて馬鹿だ」なんて思ってるのだろうか。
僕は教室に向かう渡り廊下とは反対に、昇降口へと向かっていた。それまでの僕のやる気が失せた。自分で机を運べ? 無理に決まってるだろ、目立つに決まってる。周りから変な目で見られるに決まってる。「あいつ机ないからって、自分で持ってきたぜ? あはは、ウケる」なんて、思うに……決まってる。
靴を履いて、外へ出る。校庭には誰もいなかった。生徒は皆、教室に入っているのだろうか。僕が校門に向かって歩いていると、後ろから足音がする。鈴木先生が僕に気づいて追いかけてきたのかもしれない。そう思って僕は歩き続ける。だけど「何してんの、萩」と声をかけられたとき、僕は振り返った。
本日三度目の、ショッキングピンクだった。本日三度目の後藤だった。
「帰るの?」
「ああ」
僕は面倒くさそうに返事をした。実際、めんどくさかったからだ。この風景はもう何度目だろう。こういう良心的な心を持った人間が僕を引き止めるのを、見てきた。その度、僕は「じゃあね」と返してきた。だから今も「じゃあね」と返そうと思っていた。だけど、後藤が言った言葉は以外だった。
「明日は来いよ。あたしが机準備しといてやるから。あと、八時ぐらいにくればあたしの友達も紹介あげる。ちょっと柄は悪いけど、皆いい奴だからさ。お前を知らねぇ奴もいるけどさ、あたし達は知ってるよ。お前、案外優しいんだってな。このまえ、母親に聞い」
僕は、後藤の言葉を切った。
「ありがとう、行くかどうかは……、分からない」
「それでもいいよ。三年も同じクラスだったらいいんだけどな。じゃあね」
僕は何も言わなかった。後藤も返事を待ってる様子もなかった。
しばらく、後藤の後姿を見ていた。案外……、いやこれはまだ言わなくてもいい。
昇降口に消えていく、ショッキングピンク。僕は、自分にも聞こえないような声で独り言を言った。
「なんだ、もう咲いてんじゃん」