【002】フリートホーフ辺境伯
可能な限りすぐにフリートホーフ領に来てくれ、ということだったので、出発は翌日となった。
ひとまず結婚の承諾を記した旨の手紙と、それに添えてお父様のサインが入った証書を早馬に頼み、私は数日間不自由しないだけの衣服や生活用品と共に馬車での旅となる。
我がグリンマー領は国土の南東部に位置する。小さな領地ではあるが、それほど中央に遠くないし、穏やかで人の優しい、良い風土であると自覚している。
特に際立って優れた統治ではないものの、代々、領主と領民の距離が近いために、出発当日は幾人かの領民が見送りに来てくれた。
辺境伯への嫁入りとあって、誰もが首を捻っていたがーーまあ、当然だと思う。私は見た目からして異質だし、暗くて陰気な非社交的な女である。誰よりも私自身が不思議に思っている。
我が家は急に貧乏になってしまったために、侍女は付けず、辺境伯が手配した御者と護衛とを付けての旅である。
馬車にしても、辺境伯の所有物であり、いかめしいものではあったが、黒いところは気に入った。
いつも黒い服を着ているので、黒いものは落ち着くのである。
道中は、馬車の中で一人なのを良いことに、本を読んだり、景色を見たり、居眠りしたり……。
途中、手配して貰った宿屋で眠る時には、地元の郷土料理を食べ、特産品であるという珍しいフルーツを摘み……旅を満喫した。
「一人最高では?」
御者と護衛が居るので正確には一人旅ではないのだが、面倒なところ、必要なところは全て面倒を見て貰った上で、馬車の中で一人移動というのは余りにも楽だった。
寝転がっても寝ていてもダラダラしていても誰も咎めないし、誰に気を遣うこともないのだ。
……そう、私は、自分が結婚に対して適性がないという自覚がある。
目下の悩みがそれだった。
てっきり、自分はこのまま実家であるグリンマー子爵家の邪魔になるまで独身のまま遊び暮らし、時が来たら修道院で天寿を迎えるのを待てば良いのだと思って生きてきたが、まさか結婚することになるとは。
普通なら、黒髪黒目で生まれ魔力がないことを恥じ、小さくなって生きるのだろう。
或いは、必死になって欠点を補い、どうにかしてどこかの家に嫁ごうと努力するのであろうが、私には……残念ながらその意欲が無かった。
全くなかった。
皆無である。
なんならその点に関しては、黒髪黒目って都合が良いな? とさえ思っていた。結婚しなくて良い。婚活しなくして良い。ずっと壁の花でいて良い。
何故なら当然の帰結だから。
貴族なので最低限、社交に出なくてはいけないけれど、社交には飲食がセットだ。
お茶会では美味しいお茶を飲んでボーッとしていれば良いし、夜会ではキャビアのカナッペなどを摘みながらボーッとしていれば良いのである。
私に話し掛ける人は基本的に、我が家と利害関係で敵対する人しか居ないので、何か吹っ掛けられた場合には適当に反撃しておけば良いのだし。
貴族社会のはみ出し者で居て許されるのが楽だったのだが、これからはそうもいかないだろう。
辺境伯ともなれば、権力においては軍事で圧倒的な優位を誇る。
い、いやだ。
体育会系の社会における妻というもの、どう考えても面倒でしかない。
我が家はかなり寛容でゆるゆるではあるが、軍人を排出するような家柄だと、女は本を読むな、と夫に言われることもよくある話。
読書を禁じられたら嫌だなぁ。
でも、私が嫁がないと両親が困るし、仕方がないか。
「……人生、諦めが大切だよね」
決意、もとい、諦めを新たに、ゴトゴトと馬車に揺られて約一ヶ月。
とうとう、私はフリートホーフ領に到着した。
「わぁ」
吸血鬼の屋敷かな?
口から出かけた言葉と唾を飲み込んだが、全部を一度に嚥下出来なかった。
馬車を降りて目の前に広がる光景に思わず、虚無の声を漏らしてしまった。
元から私の目は死んだ魚のようだが、今は普段よりも更に、輪をかけてハイライトが死んでいることだろう。
曇天。
黒い雲が不穏に渦巻く、湿度の高いジメジメした、禍々しい空。
天候に関しては仕方ない。こういう日もある。未だに人類が天候をコントロール出来たという話は聞かないので、自然現象なのは確実だ。
が、それに対し、誂えたかのような屋敷である。
まず、信じられない程に広いというのに、人の気配がない。
古く歴史のある建物であるのは一目瞭然ではあるのだが、周囲を針葉樹の森に囲まれているせいか、どうしても陰鬱な印象を受ける。
そこだけならまだしも、なんだか、どんどろりと、奥から謎の威圧感を感じるような……?
「ようこそいらっしゃいました、ツェツィーリア様」
「ぉわぁ」
「旦那様がお待ちです。どうぞこちらへ」
急に横から、音もなくスッ……と現れた痩身の老執事に驚いて、淑女にあるまじき声を出してしまったが華麗にスルーされた。
素晴らしい老練な執事である。
案内されるがままに応接室に通されるが、なんか、なんか……この屋敷、全体的に薄暗い。
いや別に良いんだけど。
私はどちらかというと薄暗い部屋に一人で居るのが落ち着くタイプなので、薄暗いことに対しては別に異論はないし都合が良いのだけど。
ただ、こういう年中喪服みたいな格好の女を、こういういかにもな景色の中に置いてはいけないと思う。
洒落にならない。
今なら普通の紳士淑女がここを訪れた際に、姿を目撃された瞬間に絶叫されたり気絶されたりするのが想像に難くない。
……旦那様、私を見た瞬間に化け物と思って斬り捨てたりしないだろうな?
心配で、ややドキドキしながら待っていると、廊下からドタバタと大きく騒々しい足音が聞こえてきた。
「ツェ、ツェツィーリア……!」
両開きの扉を壊すような勢いでやって来たのは、物凄く大きな生き物だった。
まず、高さがどう見ても2メートル以上ある。
加えて体が信じられない程に分厚い。腕も脚も太く、全体が筋肉で構成されているのが明らかだった。真っ黒な軍服には白と金のサッシュ。勲章を付けており、腰にはサーベル。どこからどう見ても身分が最上級に高い軍人の装いであり、辺境伯に相応しい豪華さなのだが--風貌が、まるで軍人らしくなかった。
真っ白な髪は伸ばしっぱなしといった風で、前髪は長く垂らしたままになっており、顔の半分が隠れてしまっている。その上、残りは後ろで一つに括っていたが、櫛さえ入れずに結びました、という程に絡まっていたし、髪の隙間から見える顔つきや表情が暗い。余りにも暗い。
私も陰気で暗い自覚はあるが、彼は次元が違った。大柄で不吉な幽霊のような男で、目の下の隈も濃い。
顔立ちは、手入れすれば精悍、と言って良い風貌ではあるのだが、瞳が小さい四白眼で目付きが悪い。
なにより、不健康さと陰鬱さがそれを上回る。白い髪は高貴な血筋の証だというのに、それを打ち消すほど、本人の気質が強く見た目に現れていた。墓場の怪物と言われた方がまだ納得できる。
「ああ、ほ、本当に、本物の、ツェツィーリアだ……!」
「ち、近いです」
「ツェツィーリア、とうとう結婚出来るんだねっ。う、嬉しいよ……! ぼ、僕の、僕の妻になるんだ。ツェツィーリアが……!」
「えぇ……? 真剣に面識がない」
なんだかこの旦那様、やたらと息が荒いが大丈夫なのだろうか。色んな意味で。
ハァハァ言いながら目を大きく開いて私の手を握ってさすりながら、背中を折り曲げるようにして座ったままの私に顔を近付けてくるの、純粋にやめて欲しい。
「君は僕のことなんて覚えてないよね。わかっているよ。それでも、君はもう、僕の妻だからね。逃がさないから……!」
「ええと、すみません。本当に身に覚えがないのですが、人違いでは?」
「人違いじゃないよ。離婚しようとしても許さないからね。覚悟して。逃げたら……地の果てまででも追い掛けて、捕まえるから」
「もしやパーソナルスペースという概念をご存知ない?」
「み、身持ちが堅いんだね……そうだよね。まだ夫婦になっていないから、当然だよね。はぁ……ツェリーリア、君は本当に素敵だ……。」
「お名前を伺っても?」
「そうだった。僕はアルバン。アルバン・フリートホーフ。君の夫になる男だよ。よろしくね」
「よろしくお願いします。重ねての確認で申し訳ないのですが、私で間違いないのでしょうか?」
「間違いないよ。ツェツィーリア・グリンマー嬢。僕の黒百合」
会話しながらも、彼、私の夫であるらしい、アルバン・フリートホーフは床に膝を着いて、相変わらず私の手を取って撫で回し続けている。
ゾワゾワして嫌だ。
今日は黒いレースの手袋をしていたのだが、これならもっと分厚い生地の手袋をしてくれば良かった。
基本的に、私は他人に触れられると痺れたり気絶したり体調を崩したりする関係から、布越しであろうが体に触れられるのが嫌いだ。
貴族令嬢にあるまじきことではあるが、私はいつも、入浴も着替えも全て自分一人でやっている。
それほど、他人に触れられるのが不快なのだ。
まして、それが白銀であれば尚更。
魔力が強い人と同じ空間に居るだけで私は体調を崩す。これまでは大規模なパーティーなどで気を付けて、決して黒いヴェールを取らずにいればなんとか大丈夫だったが、まさか白銀の髪を持つ人の妻に選ばれるとは。
「すみません。私は社交に疎く、事情が飲み込めていません。フリートホーフ卿、失礼ながら、高貴な血筋の方ではないかと思いますが、どのような経緯で辺境伯という立場に?」
「敬語はなくて良いよ。僕と君はふっ、夫婦、だからねっ……!」
夫婦、という言葉のところだけ物凄く息が荒くなるの、この人本当に危ない感じなんだけど、この領地、大丈夫なのかな?
ここも泥舟だったりしないよね?
と、疑念を抱いていたら、アルバンはどうでも良さそうな調子でサラッとこう言った。
「僕は血筋としては、王太子殿下と第二王子殿下の従兄弟にあたる。王妃殿下の妹が僕の母でね。生まれはアッヘンバッハ公爵家なんだけど、見ての通りでね。この髪だと王位継承権が発生してしまうし、政争の種にならないよう、辺境伯家の養子になった。身分としては妥当なところだし、ここは単純に中央から遠くて都合が良かったんだ」
「なるほど。そういう意図があったから、あえて辺境伯に」
打って変わってアルバンは無表情に近い真顔になった。が、手はあくまでも私の手を握って離さない。
間違いない。
この人、変態だ。
もう断定しても良いだろう。たぶん、理由は不明だが、この辺境伯はおそらく何らかのマニアだ。
どこが良かったのかは全くわからないが、私の持つ要素のどこかしらがクリーンヒットしてしまったということであろう。
変態に対して私は敬意を向けるのが困難なので、早速だがお言葉に甘えて敬語を使うのをやめる、まではいかないが、実家と同じくらい適当にやらせて頂くことにした。
「王太子殿下と王子殿下の仲の良さは周知の事実だからね。僕も仲が良いし、はっきり言って王位に興味は無いんだけど、ポジションが悪くてね。辺境伯なら、領地に籠ることが良しとされるし、その方が楽だったんだ。君には申し訳ないけど、都会的な生活は諦めて貰うことになる」
「理解しました。領地で過ごすことに関しては異論はありません。むしろ、社交に赴かずに済むので、楽といいますか……。」
「本当? 僕たち、気が合うね……!」
「はい。アルバン様も社交がお好きでない?」
「大嫌いだよ。ほら、まあ、僕はこういうご面相だからね」
アルバンは垂らした前髪を上げて、隠れていた顔を見せた。
傷痕が、顔の右半分を覆っていた。
かなり広範囲に及ぶ傷だ。幾つか縫合の痕があって、ひきつれた部分や、不自然に隆起した部分がある。元は白かったであろう肌にはところどころ、赤くなっているところや紫に変色しているところがあった。傷んだ果物のようで、お世辞にも美しいとは言えないだろう。
なるほど、怪物のような男、という印象はあながち間違ってはいなかったらしい。
この傷があるなら、社交界で彼がこれまで、どのような扱いを受けたのか、想像に難くない。
彼自身、己の容姿を嫌というほど自覚しているのだろう。
私に顔を見せるにあたって、ニヤリと不気味に笑っている。
驚かせて、怯えて欲しかったのだろう。
確かに、彼の狙い通りに私は驚き、まんまと怯えてしまった訳だがーー。
彼の目の中に、諦めや嘆きの色があることを、無視することは出来なかった。
「そうでしたか。私も、このような色味なので、社交はどちらかというと嫌いです」
「……怖くないの?」
「怖いですよ。理由がわからないなら。その怪我は、どうしたんですか?」
「うん、これはね、十四の時に、魔獣の討伐に行った時、火竜が出て」
「よく助かりましたね」
火竜とは、魔獣の中でも最上位に位置する存在だ。
もっと小さなワイバーンが出ても大騒ぎになるし、討伐隊が組まれるレベルだ。それが火竜ともなると、一軍を挙げて対処すべき事態となってしまう。
「生まれたばかりの幼体だったんだ。後から知ったけど、親はもう、三百年前に討伐されてしまっていて……ただ、たまたま残された卵の近くに高温の温泉があって、地熱によって孵化したんだ」
「それは……運が悪かったですね」
「うん。護衛が守ってくれたから、この程度で済んだんだけど」
「では、その護衛の方は……?」
「十五人中、十一人は死んで、三人はまともに動けない体になってそのまま退役。残った一人も片目を失った。彼はまだ、王宮で護衛官として働いているけど」
言葉が出ない。
確かに、この髪色であれば、本来ならば何事もなければ王位継承権第三位という立ち位置であったはず。むしろ、国王陛下と王妃殿下の間に二人の王子が、同じく白銀であったからこそ三位だが、もし両王子の髪色が違っていたら、問答無用でアルバンが王太子になっていただろう。
それくらい、白銀には価値がある。
同時期に生まれた三人目の白銀であっても、優秀な護衛が揃えられていたのは間違いない。近衛兵の優秀な者を選抜して組まれた編成だったろう。
だからこそ、アルバンは奇跡的に生き残ることが出来たのだ。
「十五人の命も人生も使い捨てて、なんとか生き残ったけど、この顔じゃね。王様って、ほら、人気商売な部分もあるからさ」
「なるほど。それでは、私を選んだのは、次の世代の派閥問題を考慮した、という解釈で合っていますか?」
白銀は滅多に生まれない。
その筈なのに、今代では同じ年頃に白銀の王子が三人。
そのうち一番位が低いアルバンは顔の怪我を理由として辺境伯へと格下げ。国の防衛の要なので、強い魔力を持つ彼をそこに配置するのは戦略的に正しい。
王太子殿下と第二王子殿下も兄弟仲は良好。お二人は政争の道具となることを悉く避けており、第二王子殿下こそが王太子殿下の最も忠実な腹心と称されている程で、私たちの世代においては奸臣は付け入る隙がないだろう。
憂慮すべきは次の世代だ。
王太子殿下と第二王子殿下、それぞれにお子が生まれた後のことが問題となる。
二人の白銀の王子の子供が、どのような色で生まれてくるかでまた盤面が大きく変わる。それだけで頭の痛い問題だが、そこにさらに、白銀の辺境伯の子がもし、同じく白銀で生まれてきてしまったのなら、国は混乱するだろう。
だからこその、私なのだろう。
魔力を全く持たない女であれば、白銀の辺境伯と子を成しても、恐らく白銀は生まれてこない。
貴族とは強い魔力を持った優秀な子を成すことを目的としているため、本来ならばより魔力の強い相手との縁組をと考えるものだが、今回に関してはその逆だった、ということか。
「ああ……ツェツィーリア、君はなんて聡明なんだ。その通りだよ。だけど、それは理由の半分でしかない」
「と、いいますと?」
「僕が君を望んだから。血を薄めるというのは僕が周囲を説得するために捏ね回した理由付けに過ぎない。ツェツィーリア、君が魔力を持たない黒髪であったことは、僕にとって、余りにも都合が良いんだ」
「……ええと、アルバン様、私に長所らしい長所などというものは皆無なのですが」
「ええ!? 何を言っているんだ君は! こんなにも美しくて、愛らしくて、聡明なのに。それに、僕は君のこの、黒い髪が大好きなんだ……! ずっと、触れたいと思っていたんだよ……っ!」
「い、息が荒い!」
駄目だ。またハァハァし始めてしまった。
目が血走ってるし距離が近い。
変態の趣味はわからない。とりあえず、黒髪フェチという解釈で良いのだろうか?
「ご、ごめんね。つい、興奮して……! き、き、君が、本当に僕の妻なんだと思うと……! 屋敷を案内するよ」
「手を、繋がなくてはなりませんか?」
「で、出来たら。君をエスコートしてみたい」
「変なふうに触ったりしませんか?」
「気を付けるよ。そうだよね。ごめんね。清純で無垢な君には、昼間からだと刺激が強かったよね」
「いえ、問題点はそこではないのですが……。」
むしろ、問題がひとつ増えた。
昼間からは、という発言からして、夜はどうなってしまうのだろう。不安しかない。
いや、どう考えても、嫁いだからには初夜というイベントが待っているのだ。嫌だろうがなんだろうがそれはこなさねばならない。気乗りがしなかろうが。何故ならこの婚姻は先程説明された通り、白銀の辺境伯の子供が、同じく白銀にならないようにとの目的からなのだから、私がやるしかない。
なんなら、私が無事に彼の子供を無難な髪色の無難な魔力量に産まなくては、最悪、国家存亡の危機が未来に待ち受けるのだから。
いわば国策なので、責任は重大。
個人の好悪に関係なくやらねばならない。
庶民の女性向けの恋愛ゴシップ系小説の言葉を借りるなら、まさに義務ックスである。両方の意味で。
「こっちに来て。まずは君の部屋まで案内するよ」
そっと差し出された大きな手に、おそるおそる、手を乗せる。
何故だか、今度はゾワっとしない。
いつもそうだ。原因は不明だが、手袋越しでも嫌な時と、手袋越しなら平気な時がある。
相手が同じ人物でも、その時によって変化する。わからないのが不便で仕方ない。