第8話 王都の暗影
バルトス王国の王都セントラリアは、高い白亜の壁に囲まれた美しい街だった。しかし、その美しさの裏には暗い影が潜んでいる。
夜の闇に紛れて街に入った私たち一行は、カイルの幼なじみであるマーカス・ガルディアの邸宅に潜入した。彼はレイモンド公の側近を務めているが、実はカイルの密かな協力者だという。
「王子様、ご無事で何よりです」
マーカスは私たちを地下の隠し部屋に案内した。彼は細身で知的な雰囲気の青年。表情からは安堵と緊張が入り混じっているのが伝わってくる。
「マーカス、協力に感謝する」カイルが彼と握手を交わす。「状況はどうだ?」
「厳しいと言わざるを得ません」マーカスは声を落とした。「レイモンド国王は毎日のように『反逆者』の処刑を行っています。特に王子様を支持する貴族や軍人たちが標的に」
その言葉にカイルの表情が硬くなる。
「それだけではありません」マーカスは続けた。「国王は『死の調合師』の再来を探しているのです」
「私のこと?」思わず声をあげると、カイルが静かに私の肩に手を置いた。
「そのようです。エリーナ・アールの生まれ変わりが『黄金霊薬』の秘密を持っているという噂を信じ、国中の薬師たちを集めているのです」
マーカスは私をじっと見た。「あなたが噂のミーナ・アルケミア嬢ですね。運命の赤い糸で結ばれた王子様の婚約者」
「ええ。王の調合師の称号を得たばかりなの」
「それは心強い」マーカスは頷いた。「実はレイモンド国王の健康状態が優れないのです。彼は不治の病に冒されており、それが『死の調合師』を探す理由でもあるのです」
カイルが眉を寄せる。「叔父が病気?それは初耳だ」
「極秘にされています。しかし、側近として仕える私は知っています。彼の体はゆっくりと腐敗しているのです。通常の薬は全く効かず、彼は黄金霊薬だけが自分を救うと信じている」
マーカスの言葉に、私の中で何かが繋がった気がした。
《エリーナ・アールとして生きていた頃、レイモンド公は既に病に冒されていた。緩やかに進行する呪いのような症状で、彼は密かに私に解毒剤を求めていた。それを断ったことが、彼の恨みを買う原因の一つとなった…》
「思い出したわ」私は震える声で言った。「前世でレイモンド公は既にこの病を抱えていた。それが彼が権力と薬草の秘密を求める原因だったの」
カイルが驚いた表情で私を見つめる。「では、叔父の病は百年以上前から…?」
「ええ、それは『王の腐敗』と呼ばれる呪いのような疾患。バルトス王家に時折現れる遺伝病で、体が内側から腐敗していく。治療法はあるけれど…」
「それがレイモンドの野望の根源か」カイルは唸った。「彼は自分を救うために、王位さえ奪ったのだ」
マーカスはさらに状況を説明した。明日、レイモンド国王は王宮で大規模な「薬師の審判」を行うという。各地から集められた薬師たちに課題を与え、最も優れた薬を作った者を「王の薬師」として迎え入れるのだ。
「これは絶好の機会かもしれません」マーカスは言った。「王子様はまだ身分を隠し、アルケミア嬢が薬師として審判に参加する。そこで王の信頼を得れば、内側から動くことができるでしょう」
カイルは考え込む様子だったが、やがて頷いた。「危険は大きいが、他に良い案はない。ミーナ、どう思う?」
私は迷わず答えた。「私の薬の腕なら、必ず勝てるわ。それに、レイモンド公の病を治す方法も知っている」
「しかし、それは彼の命を救うことになる」カイルが懸念を示す。
「治療と引き換えに、私たちの条件を飲ませるの」私は決意を込めて言った。「薬師の使命は命を救うこと。たとえ敵であっても」
カイルは一瞬躊躇したが、やがて微笑んだ。「その優しさが、僕が君を愛する理由の一つだ」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。
***
翌朝、私は一人の無名の薬師として「薬師の審判」に参加するため、王宮へと向かった。シンプルな薬師の装いに身を包み、フードで顔を隠している。
「こんな大勢の薬師が…」
王宮の広間には、百人以上の薬師たちが集められていた。老若男女、様々な地方の衣装を身にまとった薬師たちは、不安と緊張の表情を浮かべている。
「皆さん、よく集まってくれた」
広間の上座から声が響いた。その声の主を見て、私は思わず息を呑んだ。
レイモンド公——いや、今はレイモンド国王と呼ばれる男だ。前世の記憶と重なる金色の髪と鋭い眼光。しかし、かつての壮健な姿とは違い、今の彼は明らかに病に蝕まれていた。青白い顔色、痩せ衰えた体、そして時折見せる痛みに耐える表情。
「今日集まった薬師たちには、特別な課題を与える」レイモンドは声を張り上げた。「『再生の霊薬』を作り出す者を、王の薬師として迎え入れよう」
会場がざわめく。再生の霊薬——それは黄金霊薬の別名。前世の私が完成させた究極の治癒薬だ。
「各自に調合台と基本材料を用意した。特別な材料が必要な者は申し出よ。明日の正午までに結果を提出する」
厳しい時間制限だが、私にとっては十分だ。前世の記憶と、王の調合師として磨いた技術があれば、必ず作り上げられる。
割り当てられた調合台に向かう私。周囲の薬師たちは既に慌ただしく作業を始めている。その中で、一人の老薬師が私を注視しているのに気づいた。
「あなたは…」老薬師が近づいてきた。「その目の色、その佇まい…まるで伝説の『死の調合師』のようだ」
私は驚いて振り返る。老人は穏やかな笑みを浮かべていた。
「恐れることはない。私はレオン、かつてのバルトス王国宮廷薬師だ。エリーナ・アールの伝記を書いた者でもある」
「なぜ私が…」
「薬師の目は騙せんよ」レオンは囁いた。「あなたが本物だと感じる。だが、気をつけなさい。レイモンド国王は『死の調合師』を利用するつもりだ。そして、用が済めば…」
首を横に振る老人の警告に、背筋が寒くなる。しかし、後には引けない。
調合を始めると、周囲の視線を感じなくなった。私の手は記憶を辿るように動き、材料を選び、混ぜ合わせていく。
《エリーナ・アールとして完成させた黄金霊薬。それは単なる治癒薬ではなく、命の本質に働きかける生命の薬。しかし、その力には制限も、条件もある…》
時間が経つにつれ、多くの薬師たちが諦め、休息を取るようになった。しかし、私の手は止まらない。複雑な工程を一つ一つ丁寧にこなしていく。
夜が更けると、王宮の一角に設えられた仮眠所で休むよう告げられた。しかし、私は薬の調合途中だった。
「もう少し続けさせてください」と衛兵に頼むと、
「国王陛下のご命令だ。休息を取れ」と厳しく言われる。
仕方なく調合台を離れ、仮眠所へ向かった。そこには疲れ果てた薬師たちが横たわっていた。
「ここに来なさい」
暗がりからレオンの声がする。彼は隅の方にいて、私を手招きしていた。
「警戒しているのだろう。夜中に誰かが薬を盗んだり、壊したりしないように」レオンは囁いた。「賢明だ、結果を出せそうな者だけを残したようだ」
「どういうこと?」
「今夜、残された薬師は三十人ほど。その中から王の薬師が選ばれる。しかし…」レオンは声を落とした。「過去の審判では、選ばれなかった者たちは二度と故郷に戻れなかった」
「まさか…」
「そうだ。口封じのためだ」
恐ろしい真実に言葉を失う。レイモンドの残忍さは前世から変わっていない。いや、むしろ病の進行と共に増しているのかもしれない。
「明日は慎重に」レオンは言った。「薬の効力と、条件を示すべきだ」
彼の言葉の意味をよく理解できなかったが、翌朝、調合を再開すると少しずつ理解できた。黄金霊薬は完成に近づいていたが、その色合いが前世のものと微妙に異なる。より深い金色で、中に赤い筋が入っている。
《この色の変化は…そうか、前世では気づかなかった。黄金霊薬には使う者の意思が影響する。治癒の意思が純粋でなければ、その効果は減じるか、あるいは逆効果になる》
正午近く、私の調合台の前にレイモンド国王が姿を現した。
「おお…」彼は私の薬を見て、目を見開いた。「これは…黄金に赤が混じっている。伝説では、究極の再生の霊薬はこのような色だと言われているが…」
彼の声には興奮と欲望が満ちていた。私は黄金霊薬の最後の工程を終え、小瓶に収めた。
「完成しました、陛下」私は静かに言った。
「素晴らしい」レイモンドの目が貪欲に輝く。「お前の名は?」
この瞬間だ。ゆっくりとフードを取り、顔を見せる。
「ミーナ・アルケミア。王の調合師と呼ばれる者です」
レイモンドの表情が一瞬で変わった。「アルケミア?隣国の…」
「そして、エリーナ・アールの生まれ変わりでもあります」
その言葉に、広間が静まり返った。レイモンドの顔は青ざめ、手が震えている。
「陛下、この黄金霊薬は確かにあなたの病を治せます。しかし、それには条件があります」
私は堂々と言い放った。強気に出ることでしか、この残酷な王を相手にはできない。
「条件だと?」レイモンドの声が低く危険に響く。
「この薬は使う者の『真実と心』に反応します。嘘をつき、悪意を持つ者が使えば、逆に病状を悪化させる。真実を語り、心を清めた者にのみ、治癒の力を発揮するのです」
それは半分は真実、半分は策略だった。黄金霊薬には確かにそのような性質があるが、それを強調することで、レイモンドに真実を語らせる狙いがある。
レイモンドは苦悶の表情を浮かべた。彼は欲しいものの前で立ち止まらされた犬のように焦っている。
「その…条件とやらの真偽を、どうやって信じろというのだ?」
「お試しください」私は小さな傷を自分の腕につけ、薬の一滴を塗った。すると傷が光り、跡形もなく治癒する。「私は真実を語り、心に悪意を持たない。だから薬は効くのです」
レイモンドは薬を欲しげに見つめ、やがて決断したように言った。「よかろう。お前を王の薬師に任命する。そして…」
彼は側近たちに目配せし、広間から人々を退去させた。残ったのは私とレイモンド、そして数人の側近だけ。
「実は、我が体は特殊な病に冒されている」彼は声を落とした。「先代の王から受け継いだ『王の腐敗』だ。この薬で本当に治るのか?」
「はい、ただし真実と引き換えに」
レイモンドは苦悶の表情で葛藤した後、ついに口を開いた。「よかろう。実は三年前、我が兄と甥を殺害し、王位を奪ったのは私だ。だが、それは自分の命を救うためだった。この病は時間との戦いなのだ」
彼の告白に、側近たちも驚いた様子だ。彼らも知らなかったのだろうか。
「そして、もう一つ」レイモンドは続けた。「カイル王子も同様に処断するつもりだったが、彼は逃げ延びた。今も彼を追っている」
「本当にすべてをお話しになるのですね」私は震える声を抑えながら言った。
「そうだ。この薬のためなら…」レイモンドは黄金霊薬を見つめた。「だが、もう一つ気になることがある。お前はカイル王子の婚約者と噂されているが、それは真か?」
その質問に、私の心臓が高鳴った。危険な質問だが、嘘をつけば薬の効果に疑いを持たれる。
「はい、その通りです」
レイモンドの顔に怒りの色が浮かんだが、すぐに不敵な笑みに変わった。「そうか。ならば、彼はきっとお前を助けに来るだろう。素晴らしい。一石二鳥だ」
「薬をお渡しする前に、もう一つ」私は勇気を振り絞って言った。「この薬は飲むだけでなく、誓いも必要です。『正義と真実のために力を使う』と」
「ふん、子供じみた条件だな」レイモンドは嘲笑したが、薬への欲望に負け、「わかった。誓おう。正義と真実のために…」と言いかけたその時。
「その言葉、忘れませんよ、叔父上」
広間の扉が開き、カイルが堂々と入ってきた。彼の後ろにはマーカスと数人の忠誠を誓う騎士たち。
「カイル!」レイモンドの顔が恐怖で歪んだ。「お前は死んだはずだ!」
「残念ながら、生きていますよ」カイルは冷静に言った。「そして今、叔父上の口から真実を聞きました。父と兄を殺したのはあなたなのですね」
レイモンドは狂ったように叫んだ。「衛兵!衛兵を呼べ!」
しかし、側近たちは動かない。彼らの多くは、今の告白で忠誠心に亀裂が入ったようだ。
「無駄です」カイルは前に進み出た。「この場にいる全員が、あなたの告白を聞きました」
レイモンドは絶望的な表情で私を見た。「薬を…薬を寄越せ!」
「まずは正式に王位を明け渡してください」私は毅然と言った。「そして、カイル王子の前で、悪事を償う誓いを立てるのです」
「笑わせる!」レイモンドは突然、隠し持っていた短剣を抜き、私に向かって飛びかかった。「薬を渡さぬなら、力ずくでも…!」
「ミーナ!」
カイルの叫び声が響く中、一瞬の判断で私は黄金霊薬をレイモンドに投げつけた。瓶が割れ、薬が彼の体にかかる。
予想外の行動に一同が息を呑む中、レイモンドの体が金色に輝き始めた。彼は悲鳴を上げながら床に倒れ込む。
「何が…起きている…」レイモンドは苦しそうに呻いた。
私はカイルの支えを受けながら、静かに答えた。「黄金霊薬は真実と心に反応すると言いました。純粋な治癒の意思ではなく、権力と復讐の野望に満ちた心で接すれば…薬は『浄化』を始めるのです」
レイモンドの体は光に包まれ続け、彼は悲痛な叫び声を上げる。その光景に、広間にいた全ての者が畏怖の念を抱いた。
バルトス王国の運命が大きく変わる瞬間。私とカイルが前世から背負ってきた因縁が、ついに新たな局面を迎えようとしていた。




