第7話 新たな旅立ちの準備
王都の邸宅で荷造りをする私の手が、少し震えていた。窓から差し込む朝日はこの王国での最後の朝を告げている。幼い頃から育ったアルケミア伯爵家を離れ、異国バルトス王国へ。しかも王子の婚約者として。
「お嬢様、こちらの薬草はどうされますか?」
新たに雇われた侍女メリッサが尋ねる。エドガーに操られていたシャーロットは取り調べを受けており、彼女の代わりに王宮から派遣された侍女だ。
「それは全て持っていくわ。未知の国での薬草調合には備えが必要よ」
準備を続けながら、つい一週間前の式典を思い出す。正式な婚約を認められ、王の調合師として大広間で祝福を受けた日。父は複雑な表情でありながらも、私の手を取ってこう言った。
「お前の目が輝いている。政略結婚では決して見られなかった光だ。行きなさい、自分の道を」
涙ぐむ私を、父は照れくさそうに抱きしめてくれた。アルケミア家の次女として、何も期待されずに生きてきた私。でも今、前世からの絆と才能が、新たな運命を切り開いてくれた。
「ノックの音です」メリッサが告げると、扉が開き、カイルが入ってきた。
「準備は順調か?」
彼は私の部屋を見回し、微笑んだ。正式に王子の身分を取り戻したカイルは、より凛々しく見える。でも、彼の瞳に宿る優しさは変わらない。
「ええ、あとは重要な薬草と道具を梱包するだけよ」
「これを持っていくといい」
彼は小さな木箱を差し出した。開けてみると、中には見たこともない鮮やかな色彩の薬草が並んでいる。
「バルトス王国特有の薬草だ。王宮の庭園で育てられている希少なもの。特に青いヴェンティアは、君の得意なブルーミラクルの材料になる」
「こんな貴重なものを…」
「未来の王妃に相応しい贈り物さ」
その言葉に顔が熱くなる。王妃。まだ現実感のない称号だ。
「ミーナ、不安なのか?」
カイルが私の表情を心配そうに覗き込む。彼の前では何も隠せない。
「少し…バルトス王国で私は受け入れられるのかしら。『死の調合師』の生まれ変わりなんて」
カイルは静かに私の手を取った。「心配することはない。君の薬は命を救うためのもの。バルトス王国は内戦で疲弊している。人々は君のような天才薬師を必要としているんだ」
彼の言葉に勇気づけられるが、もう一つの不安は消えない。
「でも、あなたの叔父…レイモンド公は強大な権力を持っている。私たち二人だけで本当に立ち向かえるの?」
カイルの表情が引き締まる。「簡単ではないだろう。だが、既に内部に協力者がいる。そして何より、運命の赤い糸に選ばれた私たちには、前世からの知恵と絆がある」
彼は私の左手の小指に優しく触れた。赤い糸は通常は見えないが、時折、光の加減で微かに輝くことがある。その度に、私たちの繋がりを思い出させてくれる。
「明日の出発に備えて、今日は早めに休もう」カイルが言った。「夜明け前に出発だ。目立たないほうがいい」
「わかったわ」
彼が部屋を出た後も、その温もりが手に残っていた。
***
出発の朝、王宮の裏門には小さな送別の一行が集まっていた。国王、首席審査官、そして意外なことに父も。
「陛下、これまでのご厚意に感謝します」カイルが王に深々と頭を下げる。
「バルトス王国との同盟は我が国にとっても重要だ。正統なる王位継承者として、平和な国を築くことを願う」王は厳かな表情で言った。
「アルケミア令嬢」首席審査官が前に出た。「これを」
彼が差し出したのは、王の調合師の証である金の調合器と、古い羊皮紙の巻物。
「かつてのエリーナ・アールの調合記録の写しです。前世の知恵を、今世で活かしてください」
「ありがとうございます。必ず役立てます」
最後に父が近づいてきた。「ミーナ、お前の選んだ道だ。胸を張って歩め」
「お父様…」
「そして」父はカイルを厳しい目で見た。「王子殿、我が娘をお任せする。守ると誓ってくれ」
「命に代えても」カイルは真摯に応えた。
馬車に乗り込み、王都を後にする私たち。窓から見える景色が徐々に変わっていく。心の中には不安と期待が入り混じっているが、隣に座るカイルの存在が安心感を与えてくれる。
旅の道中、私たちは前世の記憶について多くを語り合った。戦場で命を賭して働いた日々、互いに抱いていた想い、そして叶わなかった未来。
「覚えているか?」カイルは遠い目をして言った。「初めて会った日のこと」
「ええ」私は微笑んだ。「あなたは負傷した兵士を抱えて薬局に飛び込んできた。『この兵を救えるか』って」
「そして君は一瞬で最適な薬を調合した。あの時から、君の才能に魅了されていたんだ」
頬が熱くなる。前世の記憶は、今の私たちの感情と溶け合い、より深い絆を育んでいた。
国境に近づくにつれ、景色は変わり、より険しい山々が見えてきた。サイラスが率いる護衛騎士団も緊張感を高めている。
「バルトス王国との国境です」馬車の御者が告げた。
国境の検問所では、カイルの姿を見た瞬間、衛兵たちの表情が一変した。
「カ、カイル王子!?」
彼らは驚きと喜びの表情で膝をつく。どうやら、カイルは民衆からは慕われていたようだ。
「よくぞ無事でいてくださいました」年配の衛兵長が感動的な面持ちで言った。「陛下と皇太子様の訃報の後、王子様も…と思っておりました」
「ありがとう、ベクト衛兵長」カイルは彼の肩に手を置いた。「再びバルトス王国の地を踏むことができた。現在の王都の状況はどうだ?」
衛兵長の表情が暗くなる。「レイモンド公…いえ、現国王は厳しい政策を次々と打ち出し、民は苦しんでおります。特に重税と、薬草の規制が…」
「薬草の規制?」思わず私が尋ねた。
「はい、お嬢様。レイモンド公は『毒薬の取り締まり』という名目で、あらゆる薬草の流通を王宮が管理するようにしました。民間の薬師たちは活動ができず、病に苦しむ者が増えています」
カイルの顔が険しくなった。「やはり…彼の目的はそれか」
「何かあるの?」
「話は馬車の中で」カイルは言い、衛兵たちに向かって言った。「我々の帰還は秘密にしておいてくれ。まずは王都の状況を見極めたい」
衛兵たちは忠誠を誓い、私たちの馬車は再び走り出した。
「レイモンド公の狙いが見えてきた」カイルは低い声で言った。「彼は『死の調合師』エリーナ・アールの秘薬を狙っている。前世でも彼は君の薬を奪おうとしていた。その野望は今世にまで続いているようだ」
「だから薬草を規制して…」
「ああ。自分だけが強力な薬を独占しようとしている。エドガーを使って君を手に入れようとしたのも、その一環だったのかもしれない」
バルトス王国に入ってから、山道はより険しくなり、時折霧が立ち込めるようになった。馬車の窓から見える村々は活気がなく、人々の表情も暗い。
《記憶の中のバルトス王国は、活気に満ちていた。カイル王子が率いる騎士団が通れば、民衆は彼らに花を投げ、歓声をあげた。それが今は…》
「王都まであと半日の道のりです」サイラスが馬車に近づいて報告した。「この先、レイモンド公の巡回兵がいるかもしれません。警戒を」
その言葉通り、私たちは正体を隠して旅を続けた。カイルは一般的な旅人の服装に着替え、私も質素な薬師の装いとなる。
夕暮れ時、ついに遠くに王都の姿が見えてきた。高い城壁に囲まれた白い都市。前世の記憶と重なり、懐かしさと緊張が入り混じる感情が湧き上がる。
「あれがバルトス王国の王都、セントラリア」カイルが言った。「僕たちの新たな戦いの場だ」
彼の手を握りしめる私。前世では届けられなかった想いを胸に、新たな運命に向かって歩み始める準備が整った。
「必ず、あなたの王国を取り戻すわ」
私の決意に、カイルは静かに頷いた。




