第5話 宮殿の密会と毒の影
宮殿の裏門から潜入した私たちは、薄暗い廊下を進んでいく。サイラスが警備の隙を見計らいながら先導し、私はまだ睡眠薬の影響で重い足取りで後を追った。
「王子との待ち合わせ場所は庭園の東側、薔薇の回廊です」サイラスが囁く。「あと少しです」
月明かりだけが頼りの庭園へと出ると、ふわりと夜風が私の頬を撫でた。体に染み込んだ冷気が薬の眠気を少し和らげてくれる。でも、胸の奥がどこか熱い。ルシエン——いや、カイルに会えると思うと、心が高鳴って止まらない。
「あそこです」
薔薇の香りが漂う回廊に、一人の男性が立っていた。闇の中にも、彼の凛とした佇まいが浮かび上がる。月の光に照らされた彼の横顔は、騎士団副団長としてのルシエンよりも、どこか気高さを感じさせた。
「カイル…王子」
その名を呼んだ瞬間、私の中で記憶の糸が一本繋がった気がした。彼は振り返り、私を見つけると大きく目を見開いた。
「エリーナ!無事だったか」
彼が駆け寄り、私の両肩を掴む。その温かい手の感触に、安堵の涙が溢れそうになる。
「ええ、サイラスが助けてくれたわ。でも…あなたが王子だなんて」
「説明する時間がない」彼の表情は真剣だった。「バルトス王国の使者団が私を連れ戻そうとしている。そして…君の婚約者エドガー・フォーレスが、その使者団と接触しているんだ」
「エドガー?でも、どうして?」
カイルは私を薔薇の回廊の奥、誰にも見られない場所へと導いた。そこで、彼は静かに語り始めた。
「バルトス王国では三年前、クーデターが起きた。兄である第一王子と父王が殺害され、叔父のレイモンド公が王位を簡単に。私は命からがら逃げ出し、この国に身を隠していたんだ」
私の頭の中で、前世の記憶と現在の状況が徐々に繋がっていく。
「そして、あなたを追ってきた使者団と、エドガーが関わっている?」
「ああ。エドガー・フォーレスはレイモンド公の密使なんだ。彼は前世でも、今世でも——裏切り者だ」
その言葉に、私の心臓が痛むように鼓動した。
「前世で、私の薬があなたに届かなかったのは…エドガーのせい?」
カイルの表情が暗く沈む。「全てを思い出したわけではないが、そのようだ。だからこそ、今世では彼を信用できない。君を彼から守りたい」
彼の言葉に胸が熱くなる。でも同時に、頭がまた重く感じ始めた。体の震えが止まらない。
「どうした?具合が悪いのか?」
カイルが心配そうに私を支える。
「大丈夫…ただ、少し…」
言葉を最後まで紡げないまま、膝から力が抜けた。カイルの腕の中に倒れ込む。
「エリーナ!」
彼の焦りの声が遠くに聞こえる。視界がぼやけてくる中、彼が私の顔を覗き込み、額に手を当てた。
「熱い…これは単なる睡眠薬の副作用ではない」
カイルの声が震えている。
「サイラス!彼女は毒されている!」
毒?そんな…シャーロットが与えたのは睡眠薬だと思っていたのに。
「毒か?」サイラスが駆け寄り、私の脈を取る。「ゆっくりと効く種類のようだな。おそらく数日前から少しずつ摂取していたのでは?」
数日前から?頭の中を必死に巡らせる。紅茶。毎日シャーロットが持ってきてくれた紅茶。その苦味は…
「紅茶に…毒が…」
カイルの顔が青ざめる。「エドガーの仕業か!君と私を引き離すための…」
「王子様、彼女をすぐに安全な場所へ移さねば」サイラスが促す。
「いいえ…」私は弱々しい声を絞り出した。「薬術祭…最終日…私は…出場しなければ…」
「無茶だ!こんな状態で…」
「でも…王の調合師に…なれば…婚約を…解消できる可能性が…」
カイルは苦悩に満ちた表情で私を見つめ、やがて決意を固めたように頷いた。
「わかった。だが、その前に解毒剤を作らなければ」
彼は私を抱き上げ、宮殿の奥へと運んでいく。意識が朦朧とする中で、彼の腕の温もりだけが頼りだった。
***
目を覚ますと、そこは宮殿の一室だった。香草の香りが漂い、暖炉の火が温かく部屋を照らしている。
「目を覚ましたか」
サイラスが私のベッドサイドに座っていた。
「ここは…?」
「王宮の薬術師の作業室です。カイル王子が手配されました」
ゆっくりと上体を起こすと、部屋の隅でカイルが何かを調合している姿が見えた。彼は真剣な表情で薬草を混ぜ、火にかけている。
「ルシエン…いえ、カイル王子」
彼は振り返り、安堵の表情を浮かべた。「エリーナ、意識が戻ったか」
「ええ…でも、まだ体が重い…」
「当然だ。君の体には複合毒が回っている」彼は調合台に戻りながら言った。「エドガーの使った毒は巧妙だ。少しずつ体力を奪い、最終的には意識を失わせる。でも致死量には至らない。君を自分の支配下に置きたいのだろう」
「解毒剤は…?」
「作っている」カイルは真剣な眼差しで薬草を見つめていた。「前世の記憶が少しずつ戻ってきている。でも、完全な解毒剤を作るには…」
彼はためらいながら言葉を続けた。「僕の血液が必要なんだ」
「血液…?」
「ああ。前世では、特殊な血液を持つ者の血が、最強の解毒剤の材料になると言われていた。バルトス王家の血には、毒を浄化する力があるんだ」
そして、彼は自分の指を小さなナイフで切り、滴る血を小瓶に落としていった。その光景に、突如として鮮明な記憶が蘇る。
《「エリーナ、この血液を使って解毒剤を作れ」カイル団長が腕から血を取り、私に手渡す。「君にしかできない」》
「私も…手伝わせて」
ベッドから這うように起き上がる私を、サイラスが慌てて支える。
「無理です!今は安静に」
「いいえ…これは、私にしかできない調合なの」
よろめきながらも調合台へ向かい、カイルの横に立つ。彼は驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み、場所を譲ってくれた。
「君の手を信じている」
彼の血が入った小瓶を受け取り、私は残りの材料を見る。瞬時に前世の記憶が呼び覚まされ、手が自然と動き始めた。アンティダール根、月光草の葉、そして覚醒石の粉末。それらを混ぜ合わせ、カイルの血液と融合させていく。
調合に集中する私の意識は、徐々に前世へと引き戻されていく。
《戦場の野営テント。重傷を負った兵士たちが次々と運ばれてくる。私は必死に治療薬を調合し、カイルは私を守るために剣を振るう。「エリーナ、もっと多くの命を救える薬を作れないか?」彼の切実な願いに、私は応えようとしていた…》
記憶が鮮明になるにつれ、体の痛みも増していく。毒が全身を回り、呼吸が苦しくなる。でも、手を止めるわけにはいかない。
「もう少し…あとほんの少しで…」
最後の一滴を混ぜ合わせた瞬間、小瓶の中の液体が青く輝き始めた。完成だ。しかし同時に、私の視界が暗転し始める。
「エリーナ!」
カイルの叫び声が遠くに聞こえる。倒れそうになる私を彼が抱き止め、完成した解毒剤を唇に運んでくれた。
「飲むんだ、頼む…」
彼の懇願に応え、私は解毒剤を飲み干した。渋い味が喉を通り過ぎ、体の中心へと広がっていく。
そして、驚くべきことが起こった。
私とカイルの間に、赤い光の糸が浮かび上がったのだ。細く、けれど強靭に見える赤い光の糸が、私の小指とカイルの小指を繋いでいる。
「これは…」カイルが息を呑む。
「運命の赤い糸…」サイラスが畏怖の声で言った。「伝説では、前世からの縁を持つ魂同士が危機的状況で結ばれると現れるという…」
私たちは言葉を失い、その不思議な光景を見つめていた。赤い糸は次第に強く輝き、部屋全体が赤い光に包まれていく。
その光の中で、私の体から毒が抜けていくのを感じた。そして同時に、前世の記憶が洪水のように流れ込んできた。
全ての記憶。全ての感情。そして、届けられなかった想い。
危機は去り、新たな紐帯が生まれた夜。私たちの運命は、今、大きく動き始めていた。




