エピローグ
真夏の暑さが王宮を包み込む八月の夜、私は激しい陣痛に目を覚ました。
「カイル…」か細い声で夫を呼ぶ。彼は瞬時に目を覚まし、私の状態を理解すると、すぐに侍医を呼んだ。
宮廷医師と産婆たちが急いで集められ、分娩室の準備が整えられた。カイルが私の手を握り、励まし続けてくれる中、陣痛の波は次第に強くなっていった。
「大丈夫、君は強い」カイルが私の汗ばんだ額に触れる。「エリーナ・アールの魂を持つ君なら、必ず乗り越えられる」
彼の言葉が支えになる。しかし、時間が経つにつれ、何かがおかしいと感じ始めた。産婆たちの顔に浮かぶ心配の色。医師たちの小声での相談。
「何かあるの?」苦しみの中で尋ねる。
彼らは一瞬ためらい、やがて主治医が静かに言った。「赤ちゃんの向きが少し難しい状態です。そして、王妃様の体力も心配です」
その言葉にカイルの顔が青ざめる。「何とかならないのか?」
「最善を尽くします」医師は言ったが、その声に自信はなかった。
そのとき、私の脳裏に鮮明な記憶が蘇った。
《エリーナ・アールとして戦場の医療テントで難産の女性を助けた時のこと。特別な薬草と技術を使い、母子共に救った記憶》
「レオン薬師を」私は息を切らせながら言った。「そして、薬草庫から青いヴェンティアと月光草を」
カイルは即座に私の言葉を伝え、レオンが駆けつけた。私は彼に前世の記憶から蘇った特殊な調合法を指示した。
「これは…」レオンの目が輝く。「伝説の産婦薬ですね」
彼が急いで調合する間、カイルは終始私の手を握り続けていた。この危機的状況で、私たちの小指から赤い光が漏れ始めたのに二人とも気づいた。
「運命の赤い糸が…」カイルが驚きの表情を浮かべる。
「私たちを、そして新しい命を守ろうとしているのね」
レオンが戻ってきて、調合した薬を私に飲ませた。その薬は体の中で熱となり、力となって広がっていく。痛みは依然としてあるが、不思議と身体に力が湧いてくる感覚があった。
「さあ、王妃様、もう一度力を入れて」産婆が促す。
私は全身の力を振り絞り、赤ちゃんを押し出した。するとその瞬間、部屋全体が赤い光に包まれた。運命の赤い糸が物理的に現れ、私とカイルを結びつけるだけでなく、生まれてくる赤ちゃんにも繋がっていくのが見えた。
その光の中で、ついに赤ちゃんが誕生した。
「女の子です!」産婆が感動の声を上げる。「とても健康な女の子です!」
小さな産声が部屋に響く。疲労困憊ながらも、その声は私の心に深い喜びをもたらした。
カイルが涙を流しながら赤ちゃんを受け取り、そっと私の隣に置いてくれた。小さな命、私たちの愛の結晶を初めて見た瞬間、言葉では表現できない感動が胸を満たした。
「彼女は美しい」カイルは感極まった声で言った。「君に似て」
赤ちゃんは小さな手を伸ばし、私の指をぎゅっと握った。その瞬間、再び赤い光が私たちを包み込む。今度は穏やかで優しい光だった。
「エリナ」私は小さく呟いた。「彼女の名前はエリナにしましょう」
「エリナ…」カイルは頷いた。「エリーナとカイルの魂を継ぐにふさわしい名前だ」
その夜、バルトス王国に皇女誕生の知らせが広がった。喜びの鐘の音が王都全体に響き、人々は祝福の言葉を交わした。
***
エリナ・バルトレイ皇女の命名式は、彼女の誕生から一ヶ月後に盛大に執り行われた。王国中から貴族や市民の代表が集まり、新たな命の誕生を祝福した。
式典の最中、私の目は自然と会場の一角に立つレオン薬師に向けられた。彼が隣国から戻ったのは、私が出産する直前だった。レイモンドへの薬の届け方について、彼はまだ詳しく話していなかったが、無事に任務を果たしたことだけは伝えてくれていた。
命名式の後、私たちは王宮の薬草園で小さな茶会を開いた。最も親しい人々だけを招いた穏やかな集まりだ。
「レオン、ようやくゆっくり話せるわね」私はエリナを腕に抱きながら言った。「レイモンドのことを聞かせてくれる?」
レオンは少し困ったような表情を見せた後、静かに話し始めた。
「旧王は…王妃様の薬を受け取り、大変感謝していました」彼は慎重に言葉を選んでいる。「そして、これをお渡しするようにと」
彼は小さな木箱を差し出した。中には美しい水晶のペンダントが入っていた。
「彼からの謝罪と感謝の印だそうです」レオンは続けた。「そして…彼は薬を飲んだ後、静かに息を引き取りました」
「え?」私は驚いて目を見開いた。「でも、薬は正しく…」
「はい、薬に問題はありませんでした」レオンは穏やかに言った。「彼自身が望んだのです。『最後に一度、心身共に完全に癒された状態で神の前に立ちたい』と」
カイルが私の横に立ち、肩に手を置いた。「叔父は自分の意思で旅立ったのだな」
「そのようです」レオンは頷いた。「彼は最後に、『前世の恨みを今世では許しと共に終わらせることができて幸せだ』と言っていました」
胸に複雑な感情が広がる。敵だったレイモンド。しかし最後は、前世からの因縁に決着をつけ、穏やかに旅立ったのだ。
「魂の浄化…」私はペンダントを見つめながら呟いた。「彼もまた、前世からの呪縛から解放されたのね」
カイルは静かに頷き、エリナの小さな頬に触れた。「新しい命の誕生と共に、古い因縁が完全に終わる。何という巡り合わせだろう」
レオンは立ち上がり、別の話題を切り出した。「王立薬学院の準備は着々と進んでいます。来月には建物も完成し、秋の開校に間に合いそうです」
「ありがとう」私は微笑んだ。「ようやく夢が形になるわね」
「皇女様も将来は優秀な薬師になられるでしょう」レオンは愛情を込めてエリナを見た。「エリーナ・アールとカイル・バルトレイの血を引く方ですから」
茶会の後、私とカイルはエリナを連れて王宮の最上階にある塔へと上った。そこからは王都全体を見渡すことができる。夕暮れ時の街並みは、オレンジ色の光に包まれ、静かな美しさを放っていた。
「見て、エリナ」私は赤ちゃんに語りかけた。「これがあなたの国よ。薬の知識が広まり、多くの命が救われる国になるわ」
カイルが私たちを抱き寄せた。「君のおかげで、この国は新たな時代を迎えている。『薬師の王妃』の知恵が、国中に広がっていくんだ」
私たちの視線の先に、建設中の王立薬学院が見えた。広大な敷地に、美しい建物が日に日に形を成していく。かつてのエリーナ・アールの夢が、今、現実となりつつあった。
「前世では届けられなかった薬も、伝えられなかった想いも、今度は確かに届いたわね」私はしみじみと言った。
「ああ」カイルは頷いた。「そして、それらは次の世代へと受け継がれていく」
彼がエリナの小さな手を取ると、驚くべきことに、赤ちゃんの小指から微かな赤い光が漏れた。運命の赤い糸は、私たちから娘へと繋がり、未来へと伸びていく。
「見て!」私は感動で息を呑んだ。「運命の赤い糸が…」
「彼女も特別な運命を持っているのかもしれないな」カイルは優しく微笑んだ。
夕陽が完全に沈み、星空が広がり始めた。私たちの上には無数の星が瞬き、まるで前世と今世、そして未来を見守るかのようだった。
「カイル」私は静かに呼びかけた。「あなたに出会えて、本当に幸せよ」
「僕こそ」彼は私の手を取った。「前世でも今世でも、君を愛している」
エリナが小さな声で笑った。その無邪気な笑い声が、塔の上の静寂に響く。
運命の赤い糸に導かれた騎士と薬師の物語。前世の悲劇が、今世では幸福な結末を迎えた。そしてその物語は、エリナという新たな命へと繋がり、さらに先の未来へと紡がれていく。
ラピスラズリのペンダントが月明かりに静かに輝く中、私たちは満天の星空の下、新たな人生の一歩を踏み出した。
前世では届けられなかった薬が、今世では多くの命を救い、伝えられなかった想いが、今は深い愛として実を結んだ。
運命の赤い糸は、時を超えて魂を繋ぎ、新たな奇跡を生み出す——その真実を胸に、私たちの旅は続いていく。
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