第11話 新たな命と薬学院の夢
バルトス王国の春は、例年より鮮やかだった。王宮の窓から見える王都の景色は、緑と花々の色彩に彩られ、心を明るくする。
「薬草園の設計図はこれでどうでしょうか」
王立薬学院の建設を担当する建築士が、大きな羊皮紙を広げて見せてくれた。中央に八角形の薬草園、周囲には研究室と教室が配置されている。まさに私が夢見ていた光景だ。
「素晴らしいわ」私は感動を隠せなかった。「四季それぞれの薬草に適した区画分けも完璧ね」
カイルが王位に就いてから六ヶ月。バルトス王国は急速に復興し、かつての安定と豊かさを取り戻しつつあった。レイモンドの不当な政策は廃止され、代わりに教育と医療の充実を中心とした政策が進められている。
その中心となるのが、王立薬学院の設立だ。エリーナ・アールの遺志を継ぎ、薬師の技術と知識を広めるための学び舎。
「王妃様、そろそろ休息を」レオン薬師が心配そうに言った。「お体のことを考えて」
私は思わずお腹に手を当てた。もう七ヶ月。日に日に大きくなるお腹を抱えての活動は、確かに疲れることもある。
「ありがとう、レオン。もう少しだけ」
建築士と最後の確認をした後、私は窓際の椅子に腰掛けた。王宮の中庭では、既に薬学院の第一期生となる候補者たちが、試験的な講義を受けている。その光景を見ていると、目頭が熱くなった。
《エリーナ・アールとして生きていた頃の夢。多くの薬師を育て、命を救う知識を広めること。その夢が今、実現しようとしている》
「王妃様、お茶をお持ちしました」
メリッサが薬草のお茶を運んでくる。その香りを嗅ぐだけで、体が温まるのを感じた。
「ありがとう、メリッサ。プロジェクトの進捗状況はどう?」
彼女は最近、薬草の栽培と管理を学んでおり、王立薬学院の助手候補となっていた。
「ブルーミラクルの材料となる薬草の栽培は順調です。特にヴェンティアは予想以上に生育が良く、来月には収穫できそうです」
その報告に頷きながら、窓の外に目をやると、中庭に見慣れた姿が現れた。カイルだ。彼は若い見習い騎士たちに囲まれ、剣術の指導をしていた。
王としての重責を担いながらも、彼は以前の騎士団副団長としての技術を次世代に伝えることを大切にしている。その真摯な姿勢に、私は何度も心を打たれる。
カイルが私の視線に気づき、手を振った。彼の笑顔は、どんな薬よりも効果的な心の癒しだ。
「陛下はいつも忙しそうですね」メリッサが言った。
「ええ、でも彼は幸せそうよ」私は微笑んだ。「彼にとって、国と民を守ることは使命だから」
その夜、私たちは久しぶりに二人だけの夕食を取った。王宮の小さな食堂で、ろうそくの明かりだけを頼りに。
「今日の薬学院の準備はどうだった?」カイルはワインを口に運びながら尋ねた。
「順調よ。建物の設計も決まり、教師陣も揃いつつあるわ」私は嬉しそうに報告する。「レオン薬師が中心となって、各地から優秀な薬師たちが集まってきているの」
「君の評判が広まっているからな」カイルは誇らしげに言った。「『薬師の王妃』として、多くの薬師たちの憧れになっている」
「まだ恥ずかしいわ、そんな呼び名」
会話が弾む中、私はふと動きを止めた。お腹の中で、小さな命が動いたのだ。
「どうした?」カイルが心配そうに尋ねる。
「赤ちゃんが動いたの」私は思わず微笑んだ。「とても元気よ」
カイルは椅子から立ち上がり、私の側に来て膝をついた。そっと私のお腹に手を当てる。
「本当だ…感じる」彼の表情が柔らかくなる。「こんなに鮮明に動くなんて」
「あなたの声を聞くと、特に活発になるのよ」
彼の青い瞳に涙が光る。「前世では叶わなかった奇跡だ」
カイルの言葉に、胸が熱くなる。前世では戦争で引き裂かれた私たち。叶わなかった愛、結ばれなかった絆。それが今世では新しい命という形で結実しようとしている。
「男の子かな、女の子かな」私はお腹を撫でながら言った。
「どちらでも、大切な宝だ」カイルは優しく言った。「ただ、一つだけ心配がある」
「何?」
「もし女の子なら」彼は少し照れたように言った。「君のように美しく賢ければ、将来、求婚者の対応で大変になりそうだ」
思わず笑ってしまう。「あなた、もう親バカの兆候が出ているわよ」
彼も笑い、再び席に戻った。
「薬学院の開校式の日程だが」カイルは話題を戻した。「赤ちゃんの誕生後、二ヶ月ほど空けたほうがいいんじゃないか?」
「そう思うわ」私は頷いた。「新生児の世話と開校準備の両立は難しいでしょうから」
会話の最中、突然激しい痛みが走った。思わず顔をしかめる私に、カイルが駆け寄る。
「どうした?大丈夫か?」
「ちょっと痛みが…でも、大丈夫よ」深呼吸して痛みが収まるのを待つ。「レオン薬師によると、これは正常な症状だって」
それでもカイルは心配で、その夜は医師を呼んで診察を受けることになった。幸い、赤ちゃんに異常はなく、単なる成長に伴う痛みだと言われ、二人とも胸をなでおろした。
***
翌朝、私は王宮の薬草園で静かな時間を過ごしていた。朝の光を浴びる薬草たちは、生命力に満ち溢れている。
《エリーナ・アールとして生きていた頃も、朝の薬草園が一番好きだった。皆が眠る静かな時間に、薬草たちと対話するような感覚があった》
そんな思い出に浸っていると、薬草園の入り口からレオン薬師が現れた。彼の表情には何か緊張したものがあった。
「王妃様、少しよろしいですか?」
「どうしたの、レオン?」
彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認してから静かに話し始めた。
「昨夜、旧王レイモンドから書状が届きました」
その言葉に、私は驚いて目を見開いた。レイモンドは裁判の結果、国外追放となり、隣国の修道院で余生を過ごしているはずだ。
「何て書いてあるの?」
「彼の病が再発したとのことです」レオンは静かに言った。「『王の腐敗』が再び彼を蝕んでいるようです」
胸に重い感情が広がる。レイモンドは敵だった。前世のエリーナの命を奪った原因の一人でもある。しかし、黄金霊薬の浄化を受けた彼は、心から悔い改めたように見えた。
「彼は…助けを求めているの?」
「はい」レオンは頷いた。「『最後に一度だけ、ミーナ・アルケミアの薬を飲みたい』と」
葛藤が胸の内に広がる。彼を助けるべきか。それとも、前世からの因縁を考えれば見捨てるべきか。
しばらく考えた後、私は決意を固めた。「材料を用意して。レシピを書いておくわ」
「直接会わずに?」
「ええ。カイルに心配をかけたくないの」私は静かに言った。「それに、この身体では長旅はできないわ」
レオンは理解を示し、頷いた。「では、私が届けましょう」
その日の午後、私は自室で黄金霊薬の調合法を詳細に記した。前世のエリーナ・アールとして完成させた究極の治癒薬。その知識を紙に落とし込むのは不思議な感覚だった。
《最後に治療が必要なのは敵だったとは…皮肉な運命だわ》
調合法と共に、私は短い手紙も添えた。
「前世の恨みは、今世では浄化の光の中で消えました。あなたの病も、心も癒されることを願います」
レオンが出発する前、彼は私に言った。「王妃様の優しさは、エリーナ・アールの魂そのものです」
「薬師として、命を救うのは当然のこと」私は微笑んだ。「たとえ敵だったとしても」
レオンが去った後、窓辺に立って遠くを見つめる。春の風が私の髪を優しく撫でる。
運命は時に残酷で、時に優しい。前世では敵だった者が今世では救いを求め、前世で果たせなかった夢が今世で形になる。そして何より、前世では遂げられなかった愛が、今、私のお腹の中で命として育っている。
「エリーナ・アール」私はそっと呟いた。「あなたの想いは、きちんと届いたわ」
そして、私の小指から微かな赤い光が漏れ出す。運命の赤い糸は、過去と現在、そして未来へと私たちを繋いでいくのだ。